山路天酬法話ブログ

月始めの総回向

カテゴリー
あさか大師

令和2年10月4日

 

昨日と今日は月初めの総回向で、光明真言の法要を修しました。コロナ禍かの中、ちょっとさびしい集まりでしたが、皆様が意を決してお越しくださいました。また、僧侶の方は行法ぎょうぼうの伝授やお護摩の勉強にお集りいただきました(写真)

毎日、光明真言法こうみょうしんごんぼう(土砂加持法どしゃかじほう)を修し、月に二度ほど行事を挙行していますが、いのちの根がご先祖にあることをいつもお話しています。また皆様、読経にとても熱心です。『般若心経』の意味を質問される方もいらっしゃいますが、私は「このお経全体が真言なのです」とお答えしています。つまり、意味を論じるよりも、読経そのものに大きなパワーがあるということです。あさか大師では太鼓も入りますので、さらにパワーが増します。

真言はまた〈振言しんごん〉でもあります。振動であり、波動であり、エネルギーなのです。お大師さまも『般若心経秘鍵ひけん』で、そのようにおっしゃっておられます。読経をすると体温が上昇し、代謝を向上し、ストレスを解消させます。体のためにも、心のためにも、魂のためにもなります。功徳を生み、自分のためにも、ご先祖のためにも、社会のためにもなるのです。こんなにいいことは、世の中にそうそうありません。

だから、お母さんのお腹にいる時から読経を聞いて産まれたお子さんは、素直に育ちます。小さい時からお寺で読経を聞いた子供さんが、非行に走ることはありません。大人が読経をすれば、老いても大きなやすらぎとなります。老いて読経をすれば、あの世(!)へ往いっても役立ちます。もちろん写経も同じで、まったく、いいことづくしです。そして、それを教えてくれるお寺ほどいいところはありません。そう思いませんか、皆様。

中秋名月

カテゴリー
文化

令和2年10月1日

 

今夜は中秋名月で、これほどきれいな満月を観るのも久しぶりです。さっきから何度も庭に出て、満月にむかってグラスを掲かかげ、乾杯(ただしノンアルコール)をしました。あさか大師の桜並木から写真を撮りましたが、「こんなカメラで申し訳ありません」と謝ったくらいです(写真)。

現代人はもちろん、月にはウサギがいて餅もちをついているなどと思っている人はいません。ススキや団子だんごを供える方も少なくなったことでしょう。観測データも進んで、一般の方でもかなりの知識を持っています。月面は昼の正午の温度が110度、夜はマイナス170度です。昼にウサギがいても丸焼けになりますし、夜なら凍結とうけつして餅つきどころではありません。

ところが現代の幼稚園や保育園でも、月見の由来を子供さんたちにお話し、月見団子を作ってススキと共にお供えします。家に持ち帰れば、窓際まどぎわやベランダにお供えするかも知れません。日本人はそれほど、月見というものを大事にしているのです。平安時代は秋の収穫を感謝して里芋や豆類をお供えしましたが、それが月の形をした丸い団子になったのです。

いつも思うのですが、今日は旧暦の八月十五日で、つまり〝十五日の夜〟なのです。〈十五夜〉が十五日の夜にならない今の新暦は、どう考えも日本人の風習に合いません。〈新春〉とはいいながら、新暦の元旦では春の兆きざしもありません。七草だって生えません。三月三日といっても、新暦では桃の花など咲きません。今の桃の花は温室で育てられたものです。七月七日の七夕も、新暦ではまだ梅雨も明けません。だから、天の川など見えません。

日本人は旧暦によって、その文化を維持して来ました。真言密教で日の吉凶を調べる『宿曜経』も、旧暦を用います。旧暦の毎月一日から次の月が始まりますので、これを「月が立つ」という意味で〈月立つきたち〉と呼び、〈ついたち〉へと変じました。同じように終りの三十日を「月隠つきこもり」と呼び、〈つごもり〉へと変じました。美しい日本語です。

そして、明日の十六日の夜が〈十六夜いざよい〉です。今夜の満月に比べると、輪郭りんかくがゆるみ、はにかみ、ためらいがちに現われます。明後日の十七日の夜が〈立待月たちまちづき〉です。月がまるで躊躇ちゅうちょしていたかのように忽然こつぜんと現れる様子を、立ちながら待つのです。たった一つの月を、これほどいとおしむ国はありません。美しい日本語です。

腹七分目の幸せ

カテゴリー
人生

令和2年10月1日

 

「腹八分目」といいますが、なかな出来ることではありません。ご馳走を前にすれば、腹いっぱい食べたくなるのは人の常です。だから、満腹になるまで食べ尽くしてしまうはずです。そして、そのことは物ごとに対しても同じです。

人は望んだことを百パーセント満足させようとします。その傾向は、マジメな人ほど強く出ます。何でも完璧でないと満足せず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込み、その思いが極端に進むとうつ病に陥おちいります。

いったい、この世の中はうまくいくことといかないことと、どちらが多いでしょうか。それはもちろん、うまくいかないことが多いと知らねばなりません。「三度目の正直」といいますが、三度ことをなして、三度目にうまくいけばかなりの成功率です。それは野球で三割バッターともなれば、一流選手であることを見てもわかるはずです。イチロー選手だって四割は打てません。つまり、十回挑戦して、三回成功すれば一流選手だという意味です。

私は若い頃に自己啓発や成功法則の勉強をしましたし、いろいろなセミナーにも参加しました。自律訓練法、プラス思考、マインドコントロールも学びました。それでも百パーセント成功することはありませんでした。今では成功への最善を尽しても、失敗したり最悪の状況に備えておいた方が、うまくいくということを確信しています。

成功をイメージすることは大切です。同時に、失敗を想定することはさらに大切なのです。そうでないと、いざ失敗した時に何の対応も出来ません。そして失敗とは、まさに成功しない方法を学ぶことであると知るべきです。失敗から何も学べないとしたならば、それこそ本当の失敗だと知るべきです。

私もかつては一種の完全主義者でした。望んだことを百パーセント叶えないと満足しませんでした。それによって神経をすり減らし、自分の無力を恥じたものでした。周囲の人に迷惑もかけました。しかし、ある時期から望んだことの七十パーセントが成功すれば上出来じょうできだと考えるようになり、とても楽になりました。これは始めから妥協するという意味ではありません。最善を尽して、その結果が七十パーセントなら、それで充分ということです。三割バッターどころか、七割バッターです。上出来ではありませんか。私はこれを「腹七分目の幸せ」と呼んで、自分への戒めにしています。

成功が続くようなことがあったら、あぶないと思うべきです。必ず慢心まんしんが生じます。慢心こそは自らを滅ぼす刃やいばなのです。そして「腹七分目の幸せ」を忘れぬことです。ちょうどいい腹かげんです。「満八分目」でもゼイタクですよ。

七転び八起き

カテゴリー
人生

令和2年9月29日

 

中学生の時、柔道の稽古中に「七転ななころび八起やおきき」とはおかしいじゃないかと演説をしたことがありました。理屈の多い子供であった私は、受け身(投げられ方)をやって説明しながら得意になっていたものでした。今となっては冷や汗ものですが、聞いていた仲間たちも「なるほど」と思ったようです。田舎者がのん気なことをして遊んでいたということです。

皆様もお気づきと思いますが、七回転んだら、七回しか起き上がれません。どうしてこれを「八起き」と言うのでしょうか。これについては、また妙な理屈を言う人がいるのです。たとえば最初に起きている状態から数えて「八起き」とする説。あるいは朝に起床した時を加えるとするとの説があります。では、前の晩に就寝した時をどうするのかとなりますが、これはもうやめておきましょう(笑)。

また、七回転んで七回起きて、次の八回目に転んでもまた起き上がる勇気を強調して「八起き」とする説があり、いくらか説得力があります。さらに「七転八しちてんばっ倒とう」が変化して「八起き」になったという説もあります。正しいような気もします。

思うに、これは言葉の勢いと調子ではないかと私は考えています。「七転び七起き」では当りまえ過ぎます。また、これでは意味をなしません。前向きな生き方を言葉にするなら、やはり「七転び八起き」となり、語呂もいいからです。つまり、わざわざ理屈を重ねるほどのことではないということです。

「七転び八起き」はよく色紙やダルマに書かれて来ました。寿司屋さんの茶碗でも見かけましたが、今では何とも陳腐ちんぷさをぬぐえません。特に現代の若者たちが好む名言とは思えません。しかし、何度転んでも立ち上がる気骨は、いつの時代にも讃えられるべきもので、特に歴史上の偉人がそれを示しています。

偉人とは単に、生まれながらの才能や努力が花開いた結果ではないからです。偉人はみな患難辛苦かんなんしんくを何度も味わい、そしてそれを乗り越えたがゆえの結果であるからです。偉人は生死をさまようほどの大病たいびょうを経験します。二度と立ち上がれぬほどの貧困を経験します。あるいは大事故、戦争、投獄など、およそ人間としての〝どん底〟を経験して、そこからはい上がって行ったのです。だから偉人なのであって、これをなめ尽くさぬかぎり、偉人にはなれません。偉人ではない私たちは、せいぜいその伝記を読んで何かを汲み取れればよいのです。

偉人には患難辛苦を、あえて避さけぬところがあります。患難を背負い、辛苦に倒れ、何度でも立ち上がって行くからです。これを避ければ楽な人生であったかも知れません。しかし、それが許されぬところに偉人の運命があるのです。人生の栄冠は患難に耐え、辛苦を乗り越えねば手にすることは出来ません。私たちでさえ、それは同じです。ただ、その度量が違うということなのです。

花に語り、花が語る

カテゴリー
挿花

令和2年9月26日

 

お彼岸中のためか、いつもにも増して忙しい日が続きました。

身近な花でも挿さしてみようと思っても、この夏の猛暑でかなり枯れました。それでも道端をよく見ると、たくさんの野の花があります。私が花に語りかけ、花がまた私に語りかけます。まるで「自分を選んでほしい」と、望んでいるかのようでした。とりあえず二種、そっと摘つみました。どこででも見る花ですが、誰も注目しません。それでも、私には花屋さんの商品より美しいと感じました。

まず、キクイモ。いくらでも群生しますが、こうして挿すとなかなかのものです。もうすぐ開花期を終えますが、縁あってお寺に来ました。「立派だね」と褒ほめてあげたくらいです。

もう一つが野生のニラ。臭においも少ないので、トイレに飾りました。ただ挿しただけで、流儀も技術もありません。それでも古民家づくりのトイレにはぴったりです。そう思いませんか、皆様。

女性なら仕事や買い物のついでに、花屋さんをのぞくでしょう。気に入った花があれば買うでしょう。それは、女性が美しいものによって得られる気持のよさを買うからです。男性には、そういう感性がありません。男性はいつも社会的な価値観を追いかけながら生きているからです。それは男性が花を買って部屋に飾ることなど、きわめて少ないことからもわかります。男性が花に興味を持つとすれば、多くは人生の辛苦しんくを味わった後のことなのです。

ましてや名も知らない〝雑草〟に興味を持つ男性など、ほとんどいません。私がこのような花に興味を持つのは、実はお大師さまの教えを学んでいるからなのです。

お大師さまは人がただの雑草と思っていても、仏さまが見ればそれが薬草になるとおっしゃっています。あるいは刈り取られ、あるいは除草剤で消え失せる雑草も、薬になるほどなら挿花そうかにもなりましょう。私はそれを学んでいるに過ぎません。

皆様もいかがでしょう。道端のエノコログサ(猫じゃらし)でもよいのです。何かの空き瓶びんにそっと挿してみてください。やがて霜が降りて枯草になっても、その美しさに見ほれるはずです。人生の宝も幸せも、智慧も悟りも、それはいつも足もとにあるからです。

秋分の日

カテゴリー
あさか大師

令和2年9月22日

 

今日は秋分の日で、恒例の秋彼岸会を挙行しました。

まず、午前11時半より、毎日のお護摩を修し、午後1時より秋彼岸会の法要となりました。コロナ禍の中、少しさびしい集まりのように思われましたが、それでも久しぶりにお見えになった方もおり、いっしょに読経をしました。僧侶の皆様も声明しょうみょう(お経や真言の節)に慣れ、すばらしい法楽ほうらくを披露してくださいました(写真)。法要後はみんなでオハギをいただき、楽しいひと時を過ごしました。

また、法要の後は水子供養会となり、食事も菓子も飲み物も供えて、あの世の〝子供たち〟を励ましました。水子さんたちは大人のように人生の喜怒哀楽や感情の曲折が少ないためか、素直に供養を受けてくれます。新たな生縁せいえんを授かり、私たちの未来を担になっていただけることを願っています。

さらにその後は私が先達となり、11名にて滝修行に向いました。初めての方が多かったので、まず作法の説明をしました。そして本尊のお不動さまをお迎えし、結けっ界かいし、気合を入れて滝の中に身を投じました。このような荒行あらぎょうを続けると、迫力のある声になることはよくわかっています。瞑想のような静かな修行もよいのですが、時には荒行を実践すると声がよく響き、呪力しゅりきが高まります(写真)。

また、このような荒行によって隠れた意識を共有し、強い団結力が生まれることも確かです。つまり強烈な異次元体験によって、不思議な友情や思いやりが生まれるということです。決して肉体を傷いためることを目的とする〝苦行くぎょう〟ではありません。心が澄んで晴れやかな気持ちになります。参加者の皆様は、また行きたいと思っていることでしょう。

食べるためか、生きるためか

カテゴリー
人生

令和2年9月20日

 

私が高校二年生の時です。そろそろ進路を決めねばならなくなった頃、父から「おまえは何をして食べて行くのだ」と問われました。将来の目標など定まらず、まだ世間を何ひとつ知らず、理屈ばかり多い年代でしたから、「食べるために生きるより、生きるために食べるんのだと思っている」と答えました。その答えが、父にはよほど青臭く感じたのでしょう。「そんなこと言っていたら、今に食べられなくなるぞ」と言い返されました。

さほどに裕福ではありませんでしたが、まずまず食べることに不自由を経験しなかった私は、食べていくという人生の基本的な意味すら理解していなかったのです。また、いくらか本を読んで、人生を考える習慣を覚えた頃でもありました。父は自分の息子が、よもやこんなことを言うとは思いもよらなかったのでしょう。以後、私にこのような問いかけをすることは二度とありませんでした。いうなれば、私と父との唯一の人生問答であったのです。

あれから五十年が過ぎ去りました。今ここで、改めて考えてみようと思います。人は食べるために生きるのでしょうか。それとも生きるために食べるのでしょうか。食べるために生きるとは、もちろん食べるために働くという意味です。それによって自分や家族を養うという意味です。コロナ禍で職を失い、職を求めている方なら、当然この答えを選ぶはずです。

一方、「人はパンのみにて生いくるにあらず(聖書)」という言葉があります。これは精神的な修養の大切さを教える聖句と思われがちですが、人は神の言葉によって養われるというのが本来の意味です。たぶん、父と問答した頃、私も生半可なまはんかな知識を持っていたのでしょう。しかし、一般的な意味として考えてみても、共感する方は多いはずです。ただ、食べるために働くのでは、何とも味気がありません。今の私でも、そう思うのです。

人が生きて生活し、自分や家族を養うためには食べていかねばなりません。食べるためには働かねばなりません。働いても、いつ職を失うとも限りません。まさに〈職〉こそが〈食〉なのです。だから、「衣食いしょく足りて礼節れいせつを知る」のです。人は食べるために生きねばなりませんが、食べるに足りた時こそ礼節を知ることが必要なはずです。

宗教はややもすると、精神的な教えに片寄る傾向があります。お大師さまはそのことをよくご存知でした。たから物も心も、豊かになることも悟りに達することも一つに考えられたのです。人は食べるために生きねばなりません。しかし、価値あるもののために生きることも同時に必要なのです。それが人生という旅路なのです。

わかっちゃいるけどやめられない

カテゴリー
仏教

令和2年9月15日

 

人はよく「悪いことは何もしていません」とか、「他人に迷惑をかけるようなことはしていません」などと言います。もっともな言い分で、たいていは特に考えることもなくこれを聞き流しています。皆様はどうでしょうか。

もちろん、悪いことをしてはいけません。それは当然のことです。もっとも、何が善で何が悪かという奥深い問題がありますが、ここでは一般的な意味でお話をいたします。また、他人に迷惑をかけることもいけないことです。だから、私たちは悪いことをしない、迷惑をかけないという強い意志を持たねばなりません。これは人としての大切な道徳であるからです。

ところが、人というものは悪いことはしない、迷惑はかけないと思いつつ、少しずつ過あやまちを犯します。誰も見ていなければゴミを捨てるかも知れませんし、飼っている愛犬が他人の家に粗相そそうをするかも知れません。それでいて困っている友人がいれば、何とか手助けをしようとし、無断駐車を見ればこれをののしります。

つまり、人は善いことをしながら悪いことをしているし、悪いことをしながら善いことをしているのです。他人に好かれたいと思いながら、嫌われることをしますし。親を傷つけまいと思いながら、心配ばかりかけています。

さらに極端な例が犯罪者です。彼らや彼女らは始めからそんな人生を望んだわけではありません。何かの拍子ひょうしに小さな悪事をすると、それを隠そうとしてまた悪事を重ね、さらにそれを隠そうとして犯罪の道に入ってしまうのです。私たちは、もちろん自分が犯罪者になるなどとは思っていません。しかし、その縁が寄よれば何がおこるともかぎりません。これが、仏教でいう〈業ごう〉なのです。避けることのできない運命のようなものです。よく「あの人は業が深い」などと言いますが、私たちだって同じです。ただ、業のはたらく縁が寄らねば、まずまず平穏な人生を歩んでいるに過ぎないということなのです。

その昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という唄が流行はやりました。おもしろい唄でしたが、業の本質をよく表しています。そうではありませんか。お酒もたばこも、パチンコもギャンブルも、何ごとも、わかっちゃいるけどやめられないのです。それが業なのです。だから、人は悪いことをしない、迷惑をかけないという道徳的な意志と、悪いことをせずには生きられない、迷惑をかけずには生きられないという仏教的な自覚が共に必要なのです。

わかっちゃいるけどやめられない皆様、苦しく、切せつなく、時には愛いとしい業と、どう向き合いますか。それとも・・・。

お護摩の伝授②

カテゴリー
真言密教

令和2年9月13日

 

今日は毎日のお護摩と昼休みをはさんで、午前も午後も不動護摩の伝授をしました。

真言密教の加行(入門の行法修行)は、お不動さま(不動明王)を本尊とする「五段護摩」です。つすなわち、第一火天段・第二部主ぶしゅ段・第三本尊段・第四諸尊しょそん段・第五世天せてん段の五部門に分けて修します。第一火天段はお護摩で最も大切な火天さま(大日如来の智慧の火)を、第二部主段では降三世ごうざんぜ明王さまを、第三本尊段では本尊のお不動さまを、第四諸尊段ではたくさんの仏菩薩さまを、最後の第五世天段では諸天の神さまを供養して、諸願の成就を祈ります。

もちろん、この五段護摩を習得するのは大変で、お弟子さんたちも真剣でした(写真)。しかも、ハイスピードで伝授をしましたので、かなり疲れたことでしょう。よく復習をしていただきたいと思います。

お護摩は大変にありがたい行法です。なぜなら、炎の勢いがそのまま祈りに感応するからです。この自然界は地ち・水すい・火か・風ふう・空くうという五大によって構成されています。それぞれが私たちの心に感応しますが、もっとも強力なのが火の力だからです。心の様相がすぐに感応します。それだけに、修する行者は身を慎まねばなりません。

水害も台風の被害もありますが、日常の生活で最も注意すべきが火なのです。昔は「火の用心」ではなく、「火之要慎ひのようじん」と書きました。〝慎みを要する〟からです。それだけに、私たちは、身近にあっても火を粗末にしてはなりません。仏さまそのもの、神さまそのものだからです。現代人にはその心が薄れています。

私はお弟子さんたちがあさか大師に気軽に集まり、それぞれがお護摩を修して、ご自分はもとより、人々の祈願を成就してくださることを楽しみにしています。そして、その炎の力で社会を浄化してくださることを念じています。

炎天下の布施行②

カテゴリー
あさか大師

令和2年9月11日

 

昨日から僧侶志願ということで、札幌から男性の方がお越しになりました。面会しましたところ、大変に決意が固いので、受け入れようと思っています。札幌から月に一度通って来るとの言葉に、私の方が頭が下がりました。

また、十八道加行じゅうはちどうけぎょう(最初の行法修行)を二人のお弟子さんが結願けちがん(行法の成満じょうまん)しました。仕事を持ちながら自宅で励み、今日の結願を迎えました。自宅に帰れば疲れてもおりましょうに、大変なご精進です。

また以前に書きました土木工事にも、三名の方がご奉仕くださいました。炎天下でなかなか進みませんが、ブロック工事も最終段階に入りました(写真)。片づけをして土を入れれば、立派な花壇になります。

いつも思うのですが、修行らしいことも大切ですが、このような布施行こそお大師さまはお喜びになるはずです。法衣を脱いでの作務さむ(寺での作業)も大事な修行だからです。私もこの恩に報いねばなりません。とてもありがたいことです。

また、お弟子さんたちが滝修行を熱望しています。最初は私が先達を勤めることで、計画を進めています。私はお弟子さんたちを励ましますが、私もまたお弟子さんたちに励まされています。「持ちつ持たれつ」ということです。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ