弘法大師ご誓願の秘密
令和5年9月15日
あさか大師ではこのたび、弘法大師(お大師さま)のご誓願である不動愛染両明王像(お不動さまと愛染さまのご尊像)を安置しました(写真)。私にとっても長い間の悲願でありましたが、5年目にしてその悲願が叶ったわけです。これであさか大師の霊験がますます広まることを信じて疑いません
では弘法大師のご誓願とは、いったい何でありましょうか。お大師さまは十八歳で奈良の大学に入りましたが、やがて中退して修験者となりました。そこで虚空蔵菩薩の真言を百万遍お唱えする荒行に挑み、ついに悟りの神秘体験を得ました。それはこの自然界と自分が、本来は一体であるという境地に到達したからです。
そして、自然界は胎蔵界と金剛界の陰陽が融合した如意宝珠であることも体得し、この世の道理を達観しました。真言密教の奥義は、実はこの如意宝珠にあります。私がお大師さまや金運宝珠のお護摩を奉修して、不思議な霊験がたくさん寄せられるのは、この如意宝珠のお力によるからです。
その胎蔵界を象徴するのがお大師さま左手の念珠(お不動さま左手の縄)であり、金剛界を象徴するのが右手の五鈷杵(愛染さま右手の五鈷杵)であります(写真)。またご自身の頭の形をして如意宝珠と意味づけました(頭の先端が尖っています。詳しくは私の『弘法大師御影の秘密』を参照)。
つまり、お大師さまはご自身が胎蔵界と金剛界が融合した如意宝珠であることを達観し、ご自身に縁ある者にかぎりない福徳を与えようというご誓願を、不動愛染両明王によって示しました。これが弘法大師ご誓願の秘密です。両明王の開眼法要は11月19日(日)午前11時半の〈金運宝珠護摩〉によって奉修されます。多くの皆様が、この勝縁に浴されますことを祈ってやみません。
心を一つにする方法
令和5年4月17日
人の心を一つにするには、何が必要でしょうか。言葉をもって、よく説き聞かせることでしょうか。あるいは規則を設けて、これを守らせることでしょうか。もちろん複数の人が集まって何かをする時、いずれも必要なことです。しかし一方、言葉への反感や規則への反論が生ずることもまた否めません。
ではいったい、ほかにどんな方法があるのでしょうか。大胆なお話をすれば、私はずばり、〈お祭り〉をすることではないかと思っています。つまり、言葉を超越した儀式が必要だという意味です。お寺でも神社でもお祭りで心を寄せ合い、お供えのお下がりをみんなでいただく直会(宴会)をすれば、黙っていても人は仲よくなります。だから、お祭りには人を夢中にさせる何かがあるのです。〈政〉とは〈まつりごと〉だというではありませんか。
しかし、お祭りは年に一度か二度しかありません。どうすればよいのでしょう。実は、お寺にも神社にも〈ご祈祷〉があるのは、そのためなのです。みんなで集まってご祈祷を受けることもまた、お祭りだということです。特に、会社の社長さんはこのことをしっかりと認識していただきたいと思います。
一昨日、ある土建業社の方々30人以上があさか大師に寄り合い、一同で工事安全と商売繁昌のご祈祷を受けました(写真)。
私は土建業社とはご縁が多く、このようなご祈祷をどれほど経験してきたか数知れません。そして、いずれの会社も事故がなく、あっても小難に留まり、つつがなく業務をまっとうしています。それは取りも直さず、ご祈祷というお祭りによって、みんなの心が一つにまとまるからなのです。
一昨日の方々も、最初から最後まで合掌を止めることなく、とても真剣でした。そして、皆様がすがすがしい気持ちでお帰りになりました。チームワークもよく、私は「この会社は必ず発展するだろう」と思いました。これは社長さんがどんなに言葉で説いても、決して成し遂げられることではありません。
お正月の初詣以来、これほどに本堂が埋まったことはなかっただけに、私もまた満ち足りた一日になりました。この気持がお寺の力となり、その力がまた、次の力を呼ぶのです。以心伝心は人もお寺も同じです。そして、心を一つにする方法でもあるのです。
人生の達人とは
令和5年4月3日
一昨日は、第三回目の〈桜まつり〉を開催しました。いつもの〈八丈太鼓まごめ会〉の皆様、イングランドポニーの〈はなちゃん〉のほか、当山僧侶からもシチリキ演奏が加わり、大いに盛り上がりました(写真)。
もちろん、今年は桜の開花がことのほか早く、満開を過ぎていたことは否めません。しかし、風が吹くたびに桜吹雪となり、その様相は格別のものがありました。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るかな」とは、『徒然草』の名言です。桜は満開の時、満月は曇りのない時ばかりがいいのだろうかという意味です。つまり、散りかけた桜や、雲のかかった名月もいいではないかと、発想を逆転させました。これは不完全をさえ美しいと見ることのできる、日本人の英知です。
完璧であることは、もちろんいいことです。しかし、少し足りないくらいが、また親しみがあるの事実です。人もまた完璧であったなら、どれほど息苦しいかわかりません。しかし、欠けたところもまた、魅力の一つとなりましょう。何もかもそろっているより、アレがあったらいいと思うくらいが、ちょうどよいのかも知れません。そのために労を惜しまず、そのために働く時こそが、人は生きがいを感じるのではないでしょうか。
一昨日の桜は、その不完全の美そのものでした。雨が続いたのに花が残っていただけでも、よしとせねばなりません。「去年は満開でしたね」「来年が楽しみですね」などとお話ができたのも、不完全がゆえのことです。それがまた、楽しいひと時となりました。
人生は思うようにはなりません。しかし、何ごともいいように受け止める人ほど、実は思うようになるのです。つまり、いい時はいいなりによく、悪い時は悪いなりによくと思える人こそが人生の達人です。思うようにならない時、皆様は愚痴をいって嘆きますか。このくらいでよかったと、考えを改めますか。人生の達人は、ご自身の中にもいるのです。
明日まで待てません
令和5年3月28日
あさか大師の桜が満開となりました(写真)。今日、明日が見ごろでしょうか。皆様には、ぜひお花見にお越しいただきたいと思います。
ところで、桜というと私は、親鸞聖人が詠んだとされる歌が憶念されてなりません。
「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
これは親鸞聖人が九歳の折、仏門に入ろうと決心して比叡山の天台座主・慈円さまを訪ねた折の作とされています。ところが、すでに夜だったので、慈円さまは「明日になったら得度式(仏門に入る儀式)をあげましょう」と語りました。しかし、聖人は「明日まで待てません」として、この歌を詠まれたのでした。
すなわち、「美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと油断していいものでしょうか。夜半に嵐が吹いて散ってしまうかも知れませんよ」という意味になります。つまり、自分の命を桜に喩え、明日はどうなるかわからないから、今すぐ自分の願いを叶えてほしいと懇願したのでした。慈円さまが、「この子はただ者ではないな」と思ったのも無理はありません。とうとう、その日の夜のうちに得度式を済ませたというのです。
ちょっと、でき過ぎたお話とは思いますが、心に残る道歌として忘れることができません。子供の頃、「今日できることを明日にのばすな」などと教えられましたが、桜に喩えられると、情感がこもります。たしかに、明日に延ばしてホゾをかんだ覚えが、ないはずはありません。このところ風雨が続き、満開の桜もこの歌のとおりです。
境内にて4月1日午後2時より、第三回〈桜まつり〉を開催します。少しでも〝仇桜〟とならぬことを願っていますが、この歌を肝に銘じて、葉桜でもよしとせねばなりません。私も皆様も、明日はわが身です。すべては縁のなすままです。
金運護摩で何が変わるのか
令和5年3月20日
あさか大師では昨日の午前11時半より、毎月恒例の金運護摩を修しました。そして桜が開花を始める中、皆様が熱心にお参りをされました(写真)。
ところで、金運護摩にお参りすると、何が変わるのでしょうか。金運を祈れば、一万円札が天からパラパラと降って来るのでしょうか。もちろんそんなことは、絶対にあり得ません。では、何が変わるのか。これはとても大切なことです。
私はいつも、「真剣に祈れば、必ず何かが変わりますよ。ただし、アンテナをはって注意することですよ」とお話をしています。なぜなら、霊験は間接的にやって来ることが多いからです。病気なら、その病気に対する〝情報〟としてやって来るということです。適切な医者や病院を知らされたり、効能のある食事法や民間療法が知らされることでしょう。ただし、どこから知らされるかはわかりません。テレビで知らされることもあれば、友人から知らされることもあります。手にした本や雑誌で知らされることもあります。それを注意して、アンテナをはることです。
金運なら、仕入れのこと、応対のこと、技術のこと、商品のこと、雇用のこと、従業員のこと、融資のこと、運営のことなど、さまざまなヒントがさまざまな情報としてやって来ます。金運はそれに気づき、それを受け入れるところから始まるのです。それを受け入れ、努力を重ねなければ、金運は決して上がりません。つまり、すべては心がけなのです。その心がけさえしっかりしていれば、霊験は必ずやって来ます。
信仰は心の支えです。勇気がいただけます。背中を押していただけます。そして、心がけが変われば生き方が変わります。生き方が変われば、金運も変わり、新しい未来に向かいます。
金運護摩のツボ
令和5年2月20日
あさか大師では昨日、第三日曜日恒例の金運宝珠護摩を奉修しました(写真)。
金運において、皆様の関心は物価の高騰にありましょう。特に食品への出費は、どのご家庭でも頭を抱えていらっしゃるはずです。買い物をするたびにおサイフの中を気にする日常は、どなたも同じではないかと思います。
金運へのお護摩は如意宝珠を祈ります。如意宝珠は諸宝を吐く真言密教の球体で、上部が突起し、そこからパワーが上昇します。私はお護摩の中に如意宝珠を観じ、パワーが参詣者に遍満するよう祈念するのです。その瞬間、堂内は金色に輝き、パワーが参詣者の百会(頭のてっぺんのツボ)より注入していくことでしょう。
百会はいろいろなツボが交わる身体の要所ですが、下がった内臓を「引き上げる」という働きもあります。私は同時に、金運をも引き上げると観じるのです。ここがこのお護摩の肝心であり、極意もここにあることはいうまでもありません。参詣者は体が「軽くなりました」ともいい、また「熱くなりました」ともいいます。
最近はこのブログを読んで金運宝珠護摩を知り、遠くからもお越しになる方が増えました。皆様もぜひお越しになってください。毎月第三日曜日の午前11時半からです。
お地蔵さんの顔が変わる
令和5年2月15日
あさか大師の入口には六地蔵さんが祀られています。その由来は隣りにタクシー会社があり、その社長さんが交通安全のためという願いで購入したものでした。ところが、管理する人がいないためか、大変に無残な姿で放置されていました。そこで私が、「これではお地蔵さんがかわいそうですよ」とお話をしたところ、「お寺で引き取っていただけませんか」ということになり、お堂を建てて安置したわけです(写真)。
ところで、あさか大師にお参りされる方がよく、「お地蔵さんの顔が変わりましたね」とか、「とてもやさしい顔になりましたね」などとおっしゃいます。たしかに、この六地蔵さんを当山に運んだ頃は、非常にきびしく、何かに耐え忍んでいるような顔であったことを、私も記憶しています。もちろん今は、皆様のお祈りを受けてとてもやさしく、心なごむ表情になりました。近所の方にも親しまれ、おさい銭もたくさんあがります。
ではいったい、お地蔵さんの顔が変わるとは、どういうことなのでしょうか。もちろん、石に彫られたお地蔵さんは、花崗岩という単なる物質に過ぎません。つまり、物質的な変化などおこるはずはありません。ところが、物質的にはあり得ないはずなのに、祈る人から見ると不思議な変化を遂げるのも確かです。
これは、物質世界を超えた祈りの異次元世界が加わるという以外には、説明がつきません。私はこれを「仏だから祈るのではなく、祈るから仏になるのです」とお話をしています。つまり、物質としての石像に、祈りというパワーが加わることにより、〝本当の〟生きた仏になるからです。
お寺の本尊さまを見ればわかります。本当に祈られている本尊さまは慈顔に満ち、生き生きとして衆生と共に歩んでいるはずです。特にお護摩によって祈られた本尊さまには、強いパワーがみなぎっています。しかし、昔は祈られていたのに今は眠っていらっしゃる本尊さま、単なる置き物として飾られているだけの本尊さまからは、パワーが感じられません。
皆様が仏像をお持ちなら、ぜひ祈りを捧げてください。しだいに表情が変わりますよ、きっと。仏だから祈るのではなく、祈るから本当の仏になるのです。
星祭り大護摩の金粉
令和5年2月13日
あさか大師では昨日、恒例の星祭り大護摩を奉修しました(写真)。先日もお話をしましたが、厄除は厄年の人だけがご祈願をすればよいわけですが、星祭りはご家族全員でご祈願していただきたいと思っています。なぜなら、盛運の人も衰運の人も、いっしょに仲よくご祈願するのが星供曼荼羅の教えであるからです。星祭り札はたくさん開眼しましたので、ご希望の方はこれからでもお申込みください。
星祭りはその星供曼荼羅を本尊として、幡や幣を安置し、紙銭(神仙界のお金)・茶葉(仙薬)・ナツメ(仙菓)・交飯(小豆めし)など、めずらしいお供えをなし、作法もかなり特殊です。また神仙界の神さまは、大変に光を好みます。キラキラしたものを好み、お護摩の間にも、その象徴として金粉が降り注ぐことがあります。
昨日はご参詣の方々には特にお話はしませんでしたが、お護摩の後に、自分の手のひらに金粉が付いていました。このような現象はこれまでに何度も体験しています。はじめは僧侶が振る錫杖(金属製の仏具)の真鍮が粉末となって飛んだものかと思ったものでした。しかし、錫杖を振らずに星祭りのお護摩を修しても、結果は同じでした。
これは神仙界の神さまがお喜びになっているものと解釈し、吉祥の現象としてありがたく受け止めています。また、昨日の祈願札をお受けになった皆様が、厄難を転じて吉祥となりますことを念じてやみません。これで年頭行事が終了しました。来月は21日(お大師さまご入定日)に正御影供(午前11時半)と春彼岸会(午後1時)を奉修いたします。
続・開運星祭りのおすすめ
令和5年2月8日
〈開運星祭り〉では九種類の当年星(今年に回座した星)を表記した星祭り札が祈願されます。あさか大師では皆様が携帯できるよう、カード式のお札にしています(写真)。なぜなら、現代の住宅事情はお札を祀るスペースが少なく、初詣のお札といっしょに並べられない方が多いからです。カード式なら財布やカバンに入れて、常に持ち歩けます。
一般の星祭り札は金紙製の大きなものですが、私はかなり以前からカード式に切り替えました。また、全国各地で星祭りの伝授をしましたが、このカード式をご披露すると、受者である僧侶の方々がいっせいにスマホを向けて撮影をしたものでした。それだけに、私は自信をもっておすすめできるのです。
住宅事情といえば、もう一つ問題があります。それは現代の建て売り住宅やマンションに、理想の家相など求めようがないということです。特に玄間やトイレが鬼門(家相でよくない方位)に配置されている家など、ざらにあります。こうした場合は、八方除札(写真)を祀るようおすすめしています。昔は「家の中心の柱に」などといいましたが、現代はそんな柱もありません。場所はあまり気にせずとも、「力強い風水になりますよ」とお話をしています。
また同じように、不浄除札・盗難除札・虫封札(写真)もいっしょにご祈願をしています。ことに不浄除札は〈トイレの神さま〉に喜ばれます。トイレは居住する中で最も不浄とされるだけに、気配りが必要です。だから、トイレに気配りをしてよくお掃除をする方は、必ず開運します。
ちなみに、〈リーブ21〉の岡村勝正社長は毎朝40分、一人でトイレ掃除を実行しています。私は大変に敬服し、自分でも掃除はもちろん、お香を献じてトイレの神さまに感謝をしています。皆様も不浄除札をお祀りして、しっかりとトイレ掃除をしていただきたいと思います。盗難除札・虫封札については、特に説明の必要はないと思います。
上記のお札(それぞれ一体1000円)をご希望の方は、あさか大師ホームページ〈お問い合わせ〉よりご連絡ください。〈開運星祭り〉は今月12日(日)午後1時からですが、当日以後でもお申込を受付けています。
開運星祭りのおすすめ
令和5年2月7日
私は昨日より、今月12日(日)午後1時から挙行される〈開運星祭り〉の前行に入りました。7日間にわたって修しますが、その7日目が結願の大護摩供となります。
星祭りは〈星供〉ともいいますが、要するに皆様それぞれの当年星(今年に回座した星)を供養して、善星の人はさらに開運を、悪星の人は厄難が除かれるよう祈願するものです。つまり、厄除は厄年に該当するする方だけが祈願をすればよいのですが、星祭りはご家族全員で祈願してほしいということです。大変にユニークな作法をしますし、善星悪星という占いの要素もあるため、たくさんの方々が興味をいだき、またお問い合わせの多い行事でもあります。
星祭りは星供曼荼羅(写真上)を本尊となし、星供壇(写真下)を荘厳します。この星供曼荼羅は京都の仏画師・兼島聖司先生に依頼した肉質原画です。写真での複製品が出版社から販売されていますが、この原画を見たいという僧侶の方が多いのは当然でしょう。
星供壇の荘厳でユニークなお供えの一つに、ナツメがあります。私は日頃からおやつとして食べていますが、中医学で「毎日食すれば老いない」といわれるだけに、健胃・強壮・造血・鎮静等に効能があります。仙菓(神仙界のお菓子)とも呼ばれ、まさに不老長寿の妙薬であり、特に貧血の女性にとっては救世主となりましょう。
また、抹茶もしくは茶葉のまま湯を注いだお茶を供えます。おわかりでしょうが、それだけカテキンの多い状態で供えるということです。最近はお湯を注ぐだけの茶葉サプリメントがいろいろ販売されていますが、星祭りの神さまが好む供物として昔から伝承されて来ました。神さまが好む以上、人間の健康にもよいことは納得ができます。
私が『当年星供秘要』(青山社)というお次第(聖教)を刊行して以来、星祭りをするお寺が増えて来たことは喜ばしいかぎりです。あさか大師はいうなれば、そのご本家ともなりますので、しっかり修さねばなりません。皆様のお申込をお待ちしています。なお、お申込書をご希望の方は、ホームページの〈お問い合わせ〉にてご連絡ください。