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まずは聞くことからです

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令和4年12月1日

 

私は毎月ごとに、境内の一角で掲示伝道をしています。今日から12月に入りましたので、また書きえました。今月は、

大事なことは

何度も聞くことです。

初めて聞くつもりで

何度も聞くことです。

と書きました(写真)。いつも書体には苦心します。活字のような楷書では味がありません。かといって、古筆のようにくずして書くと、現代人は読めません。また、三行か四行で字数をまとめるのも大変です。目立つように、いつも朱墨で書いています。

どのお経も常に、「このように私は聞いた」という文句で始まります。つまり、お釈迦さまから、このように私はその説法を聞いたと前置きして始まります。また仏教には〈多聞たもん〉という言葉があります。どれだけ多くを聞いたかが、いかに重要かという意味です。修行の始まりは、まずお話をよく聞くことからという意味がわかりますでしょうか。

このことは、仏教の修行ばかりにかぎりません。何を学ぶにも、まずは先生のお話を聞くことからなのです。それも、大事なことは、初めて聞くつもりで何度も聞くことです。何度も聞くことで、記憶に留まり、意識の底に蓄積され、体で覚え、自分のものとなるからです。〈体得たいとく〉というではありませんか。体が得るまで、くり返しなさいということです。

私も若い頃は、大事なことは何度も聞きました。そして、紙に書きました。そして、壁にはりました。私たちは天才ではありませんから、それでも身につくまでには時間がかかります。こうして覚えた言葉は、今になっても忘れません。人生の宝です。宝は簡単には手に入りません。まずは、先生のお話を聞きましょう。何度も何度も聞きましょう。多聞を第一と心がけましょう。

インドのお粥はなぜ甘い?

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令和4年11月16日

 

釈迦しゃかさまは出家して後、6年間の苦行を続けました。苦行中の尊像も残っていますが、まさに骨と皮です。しかし、苦行ばかりでは悟りには至らないと考え、ネーランジャラー河で沐浴して瞑想に入ろうとしました。しかし、体力は極限に達して動くこともできません。

その姿を見て、滋養のある乳粥にゅうがゆ(インドのお粥)を供養したのがスジャータという娘でした。おわかりでしょうが、コーヒーフレッシュのあの「スジャータ」はこの娘の名前をとった商品です。生い立ちのよい娘であったそうです。お釈迦さまはその乳粥の供養を受けて体力を回復し、菩提樹ぼだいじゅの下で瞑想し、ついに悟りを開きました。仏陀の誕生です。したがって、仏陀を誕生させたスジャータの功徳は、絶大なものといっても過言ではありません。

ところで、スジャータが供養した乳粥とは何でしょうか。これをヨーグルトと書いている本もありますが、それは間違いです。インドのお粥はお米を牛乳で煮つめ、砂糖か蜂蜜はちみつを加えた甘い味で「キール」といい、ナッツやレーズンを添える場合もあります(写真は私が作ったキール)。私も若い頃には、よく断食して荒行にいどみました。ヘトヘトになってもお粥をスプーン一杯口にすれば、たちまちに体力が回復することは体験で知っています。お米はそれほどに偉大(!)なのです。

なぜ甘くするのかといいますと、甘味にはお祝いの意味があるからです。インドではお祝いがあると、キールを作って食卓に並べます。日本では赤飯ですが、東北や北海道の赤飯が甘いのも同じ意味です。

真言密教ではお護摩の油にも蜂蜜と〈〉を加えます。また、神さまにお粥を供養する場合も同じです。喜びの供養するわけですから、これもお祝いですよね。酥とは牛乳を煮つめた濃厚な状態で、今の食品でいうならエバミルクが妥当でしょう。

余談ですが、現在のコーヒーフレッシュは乳製品ではありません。だから、冷蔵庫に入れる必要がないのです。本当の乳製品なら、冷蔵庫に入れますよね。ネットで検索してみてください。あれは植物油を科学反応で白く見せ、添加物を加えただけの商品です。だから、お客さんがいくらでも使えるようにしているのです。私はコーヒーはブラックか牛乳を入れて飲んでいますが、皆様にもコーヒーフレッシュはおすすめできません。よくお調べください。

さらに余談ですが、日本のインド料理店では、どうしたことかメニューの中にキールがありません。私が知っているかぎりでは、銀座の〈ナタラジ〉という店がデザートとして出していました。めったに外食しないのに、一度だけ出向いた思い出があります。インドでは生米のまま牛乳で煮つめますが、炊いたご飯からでもよいでしょう。キールがどんな味か、皆様もぜひ試食してみてください。

お寺の奥さん

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令和3年8月27日

 

皆様は〝お寺の奥さん〟を何と呼ぶのか、ご存知でしょうか。近年では「寺庭婦人じていふじん」などという洒落しゃれた呼び方がありますが、これは必ずしも住職の奥様個人を指すとはかぎりません。つまり、お寺で働く老若の女性を総称し、その中でも特に住職夫人を代表しての呼称なのです。

また、特殊な呼び方として、そのお名前の後に「〇〇〇〇刀自とじ」などと尊称する場合があります。「とうじ」ではなく、「とじ」と読みます。ちょっと違和感があると思いますが、これも住職夫人にのみ使われるのではなく、特に年輩女性に敬意を表しての尊称です。〈戸主とぬし〉の略語とも言われますが、要するにかたな、すなわち包丁ほうちょうをつかさどる人の意味から、家事を引き受ける貴婦人という意味に転じました。

では、昔から住職夫人を一般には何と呼んできたかというと、「お大黒さん」がその代表です。お大黒さんはもちろん、七福神の中のあの大黒天のことで、いつも大きな袋を背負ってにこやかに笑い、いかにも福を呼ぶ面相をしています。大黒天は台所の神さまであり、食物と財福の神さまですから、なるほどと思えるはずです。住職の食事を調え、身のまわりを世話するわけですから、「お大黒さん」はふさわしい呼称でしょう。

私は住職の品格も地位も収入も、福の神さまである「お大黒さん」次第であるとさえ思っています。やはり内助の功なくして、お寺は発展しませんし、お檀家やご信徒からの人気も高まりません。その証拠に、ずいぶん流行はやっているなと思う寺は、決まって「お大黒さん」が明るくて愛嬌あいきょうがあり、世話好きで親切です。間違いはありません。これから住職になる若い僧侶は、何としてでも「お大黒さん」にふさわしい女性を射止いとめることです。

ちなみに、豊臣秀吉が天下人になり得たのは、日本一の良妻とされる寧々ねね三面さんめん大黒天(大黒天・弁財天・毘沙門天が合体した尊像)との出会いがあったからだという説があります。京都東山の高台寺圓徳院えんとくいんにはその三面大黒天が祀られていますので、新型コロナが落ち着きましたらお参りするとよいでしょう。

続・逆説の真理

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令和3年6月13日

 

「健康で長生きをしたければ、病気になることだ」と、お話をしました。冗談でお話をしたのではありません。マジメなお話です。仏教はこのように、「逆説の真理」を説くことが多いのです。おわかりいただけましたでしょうか。

普通の常識からすれば〝常識はずれ〟と思うことでも、よく考えれば、当りまえのことであることがわかるはずです。決して〈非常識〉ではありません。強いて申し上げれば、〈超常識〉でしょうか。仏教にはこの超常識がたくさん出てきます。

病気ばかりではありません。人はみな、苦しみや悩みを味わうからこそ、目覚めるのです。腹を立ててケンカをしたり、悪口を言ってヤケをおこしたりするのは、どこかで世の中のルールに合わないからです。その分の苦しみも悩みも味わいます。しかし、そのルールに合わない自分に目覚めねば、何も変わりません。痛い目にあわねば、何も変わりません。だから、変わるためのチャンスを与えられているということです。苦しみも悩みもチャンスだということです。

私も若い頃はそれがわからず、さんざんに苦しみ、さんざんに悩みました。自分の意に反すれば腹を立て、気に入らない意見を聞けば反論をしました。腹を立てて声を荒げたところで、何もえきすることはありません。反論(議論ではなく)をして相手を攻略したところで、何も益することはありまん。あと味の悪さが残るに過ぎません。そして、そういう自分の煩悩ぼんのうに苦しみ、悩んでいたものでした。

今でも、煩悩は相変わらず消えません。でも、仏教に触れ、お大師さまの教えに出会ったおかげで、少しだけ変わりました。そして、変わるチャンスは誰でも平等に与えられていることを知りました。皆様が苦しんでいること、悩んでいることがご自分の真実です。そして、変わるためのチャンスなのです。

もうすぐ、蓮の花が咲きましょう。きたない煩悩のどろから、清らかな悟りの花が咲きましょう。お釈迦さまやお大師さまがこの世に出現されたのは、この世に蓮の花があるからです。ぜひ、ご覧になってください。そして、その声を聞いてください。「苦しみなさい、悩みなさい、そしてこのように咲きなさい」と。

チャンスはどこにでもあります。足もとにあります。それに目覚めましょう。仏さまの教えですよ。

逆説の真理

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令和3年6月11日

 

二十代の頃、坂口安吾さかぐちあんごという作家の作品をよく読みました。全集まで買い求め、小説や評論はもとより、日記や書翰まで読みました。代表作の一つに『堕落論だらくろん』という評論があり、何度もくり返し読みました。終戦直後の荒廃していた日本人に対し、「生きよちよ」という衝撃しょうげきの一言は、何かと話題を呼びました。思い出の多い作家の一人です。

『堕落論』の中でこの作家が主張していることは、「堕落しなければ人は目覚めない」と一言に尽きましょう。つまり、痛い目にあわなければ、人は自分のことが見えてこないのだということです。初めて読んだ当時はショックを受けましたが、しかし、考えてみれば当たり前のことです。人はみな、痛い目にあってこそ自分を反省し、生き方を正すからです。

この論法で考えると、仏教はみな〈逆説の真理〉を説いていることがわかります。普通の常識では悪いこと、不安なこと、困ったことも、それがかえってよい結果をもたらすという意味です。

『般若心経』ではこれを、〈くう〉と表現しています。まなこを開けば、それも救いだということです。かたよらない、とらわれない、こだわらない心が〈空〉です。〈空〉の心で見れば、そのことがわかります。

私は最近、「健康で長生きをしたければ、病気になることだ」と思うようになりました。体に異変を感じ、病院で診察を受ければ、何らかの病名がわかりましょう。その原因もわかりましょう。そこで人は目覚め、反省し、生活を変えるのです。お酒をやめ、タバコをやめ、生活習慣を変えるのです。健康へのチャンスを与えられるのです。これ以外に、長生きの秘訣はありません。

病気は本来、健康を守ろうとする尊い働きです。熱が出るのは害菌を減らし、汗によって毒素を排泄しようとする働きです。痛みが出るのは、血液をさらに集め、病根を壊滅かいめつさせようとする働きです。吐気はきけ下痢げりも、それは同じなのです。もし、このような症状が何ひとつ現れないとするなら、人は体の異常を感じ取り、自分の健康を守ることなど出来るはずがありません。人は病気をしながら健康を保つことが出来るのであり、病気をするからこそ健康で暮らせるのです。

熱や痛みで苦しみ、医者にきびしく注意されなければ、人は変わりません。〈空〉の眼で見れば、それがわかるはずです。まさに〈逆説の真理〉です。病気とは仲よくつき合いましょう。高血圧とも、糖尿病とも、そしてがんとも仲よくつき合いましょう。病気もまた健康の秘訣です。これも仏さまの教えですよ。

パラパラしっとり

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令和3年4月30日

 

今日は長崎から僧侶の方がお見えになりました。せっかくなので、私が昼食にチャーハンを作り、いっしょにいただきました(写真)。私は外食はめったにしないので、ほとんど自炊じすいして生活しています。

チャーハンは私がこだわる料理の一つです。簡単でありながら、なかなかにむずかしい料理だとも思っています。簡単でむずかしいといえば、和食ならおにぎり、イタリアンならペペロンチーノ、そして中華ならチャーハンでしょう。最高のご飯を炊き上げることがむずかしいように、誰にでも作れますが、決してたどり着けない料理がチャーハンなのです。

よく「パラパラチャーハンの作り方」などと言いますが、パラパラのチャーハンが本当においしいでしょうか。私はパラパラの中にも〝しっとり〟感がなければダメだといつも思っています。つまり、私にとっては「パラパラしっとりチャーハン」こそ、「夢のチャーハン」なのです。

そもそも物ごとを極めるということは、相反する二つの条件を兼ね、そのいずれにも属しながらいずれにも属さぬ境地を目ざさねばなりません。強からず弱からず、かたからずやわらかからず、甘からず辛からず、いずれでもありなからいずれでもない境地を目ざさねばなりません。仏教ではこれを「中道」などと言いますが、説明することは困難です。

また「パラパラチャーハンの作り方」として、いためる先にご飯と卵を混ぜ合わせておく方法がありますが、あれは「卵ピラフ」ではあっても、チャーハンではありません。チャーハンはやはり、卵を入れて瞬時の後に熱いご飯を入れ、その絶妙のバランスにこそ秘訣があるのです。また「家庭の火力ではうまくいかない」などと言う主婦の方もいますが、家庭で中華料理店のような炎を上げたら、どうなるでしょうか。家庭には必ず家庭での作り方があることも、知らねばなりません。

かなり以前でしたが、周富徳しゅうとみとくさんがテレビで「卵とネギだけが周家のチャーハンです」と語っていました。めったにテレビを見ないのに、偶然に視聴するのも因縁なのでしょうか。私はこのシンプルなチャーハンがすっかり気に入ってしまいました。しかし、お客様がいる場合は、さらにキノコなどを加えるようにしています。また、色を鮮やかにするために京都の九条ネギ(青ネギ)を用いるとよいのですが、関東で売られているそれは、どうも硬くてあやしい気がします。

講釈が過ぎました。しかし、今日のお話は、実は仏教の哲理を語っていることがおわかりでしょうか。

終活としての遺影

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令和3年4月16日

 

最近は〈終活〉が盛んです。身辺を整理したり、エイディングノートを記入したりする方が増えました。さらには死のシュミュレーションとして納棺のうかん体験(ひつぎに入る)をしてお経を聞いたり、ご自分への弔辞を読んだりできるサロンもあります。もちろんご自分の葬儀に用いる遺影の準備も勧めていて、タレント並みに修正撮影をして、若い姿で額に入れてくれます。

人生を考えることは、同時に死を考えることです。つまり、どのように生きるかは、どのような死を迎えるかということです。まさに「生をあからしめ、死を明からしめるは仏家一大事ぶっけいちだいじの因縁なり(道元どうげん禅師)」と言えましょう。したがって、一般の方々も死に関心をいだき、死に対して明るく前向きな発想を持つことは、とてもよいことだと私は思います。しかし、納棺体験や遺影の準備までする人は、まだまだまれであることは否定できません。

特に現代はスマホのスナップはたくさんあっても、いざ遺影に使える写真を用意している人はなかなかいません。いかに合成技術が進んでも、30年前の写真では遺影としていかがなものかと思うのです。終活を意識している方は、ぜひご自分で気に入った遺影を残してください。その遺影ひとつで、葬儀の雰囲気がかなり立派になることを保証します。遺影が決まれば、式場に飾ってほしいものを考えることなど楽しくなるはずです。

実は、この問題は僧侶の方々にも言えそうです。洋服を着用した家族とのスナップはあっても、威儀いぎを正して一人で撮影した遺影を準備している方はめったにいません。真言宗の僧侶(特に名誉住職)はいよいよの年齢を迎えた時、写真館に出向いて(あるいは出張を願って)、衲衣のうえ(密教の法衣)着用の遺影を残しておくべきだと私は思います。洋服姿の写真では、僧侶の葬儀にはなりません。また葬主に対しても、迷惑をかけることになりましょう。このお話、大切なことですよ。

施餓鬼法の伝授

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令和3年3月16日

 

一昨日、私は数名の僧侶(弟子)の方に〈施餓鬼法せがきほう〉を伝授しました。そして、皆様とても熱心に受法していただきました。私は僧侶にとって、施餓鬼はきわめて大切であると思っています。だから、施餓鬼に関心をよせ、私に伝授を求めていただいたことは、大変にうれしいことでした。

では、僧侶にとってなぜ施餓鬼が大切であると思っているのか、その理由をお話いたしましょう。

そもそも人間というものは、他人のことはまずまず見えていても、自分のことはなかなか見えません。自分が正しいと思えば、相手は間違っていると思うものです。また大きな組織の中にでもいれば、自分までが特別な人間だと思いがちです。その傾向は、組織が大きければ大きいほど強くなりましょう。さらに職業によっても、ことさらこの傾向は強まります。政治家・裁判官・弁護士・医師、そして僧侶などは、世間から特別な目で見られるはずです。つまり、あがめられるということです。こういった職業の人は、特に自戒をせねばなりません。

僧侶はもちろん法務(回向や祈祷)を勤めて、お布施を受けます。そうすると、お布施を受けるのが当たりまえ、このくらいを受け取るのは当りまえに思うものです。世の僧侶の中にはお布施の額が足らないと言って催促さいそくをしたり、腹を立てたり、短い読経でさっさと立ち去る方がいるのです。このような僧侶は間違いなく〝餓鬼道〟にちます。少なくとも私は、そう確信しています。僧侶といえども餓鬼道に堕ちることを、いや、僧侶なればこそ餓鬼道に堕ちることを知らねばなりません。

新義真言宗の開祖・興教大師こうぎょうだいし覚鑁かくばん上人)は有名な『密厳院発露懺悔文みつごんいんほつろさんげもん』の中で、「形を沙門しゃもん(僧侶)にして信施(お布施)を受く」と述べています。つまり、修行とは形ばかりで、お布施ばかりを受け取っているという意味です。鎌倉時代からです。今も昔も、僧侶は受け取るばかりで、自らはほとんど布施をしません。

もう、おわかりでしょう。僧侶は施餓鬼ばかりは必ず修することです。私は略作法ではありますが、毎日これを自らに課しています。また、多くの方に食事をほどこすことも心がけています。「師僧が弟子のために食事を作るのですか」と奇妙に思う方もいますが、私には何の違和感もありません。むしろ布施ができることを、ありがたいとさえ思っています。このブログを読んでいただいた僧侶の方は、ぜひ施餓鬼を修していただきたいと思います。

続続・僧侶の人徳

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令和3年2月4日

 

議論はいろいろな意見を統合し、よりすぐれた、みんなが納得し得る結論を引き出すために行うべきです。人の意見にはそれぞれに一理(もしや三分の理!)があり、一方的に正しいということはほとんどありません。だから、人の意見を聞く時は、常に「なるほど」という気構えで臨むことが大切です。自分の意見はもちろん、正しいと思うから発言します。しかし、よく考えると、自分との反対意見にも必ず理があることを忘れてはなりません。

ところが、人はややもすると、議論を〈論争〉と間違えて、その論争に勝つことを目的にする傾向があるのです。これでは議論が何の意味もなさないばかりか、あと味の悪い陰険な結果を招くことになりましょう。実は、論争に勝ったところで、何の効用もありません。言い負かしたところで、ただ相手の名誉を傷つけるだけで、かえって恨みを買うことになのです。

ところが、律儀りちぎ潔癖けっぺきな方ほど、意外にこの事実に気づかぬ人が多いことを私は知っています。僧侶も例外ではありません。まじめで学識があるだけに、その理論(実は理屈!)があだになるのです。「その考えは宗祖の教えではありません」とか、「そんな教義すら知らないのですか」と相手を責め立て、どこまでも追いつめるようなクセは何とかならないものでしょうか。知才や弁舌に富みながら、人に対する認識が極端に欠落しているとしか思えません。

「女は愛嬌あいきょう、男は度胸どきょう」と言いますが、私は男にこそ愛嬌が必要だと思っています。一歩引いて人を立て、冗談口じょうだんぐちをたたくほどのひょうげたところがなくてはオトコではないのです。時には自分のあやまちを認め、みんなから笑われることも必要なのです。毒を含んだ皮肉な理屈に、福の神は見向きもしないことを知りましょう。

同じことを言っても、そこに温かさと真実が伝わらなければ人は共感してくれません。その共感を呼ぶ力こそ人徳というものです。もちろん、僧侶ばかりではありません。社会の中で生きていく、すべての人に言えることです。

続・僧侶の人徳

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令和3年1月31日

 

僧侶の人徳について、お話の続きです。

僧侶には必ず師僧しそう、つまりお師匠さまがいて、その師僧のもとで修行をします。ただ、現代はたいてい宗門の大学を出て、スグに〝偉く〟なりますので、いわゆる〝小僧教育こぞうきょういく〟というものがありません。昔はその師僧のもとで、読経や作法を学び、師僧がどこへ行くにも荷物を持って付き添いました。そして、身のまわりのお世話をし、空いた時間があれば宗祖や師僧の書を習いました。こうした修行を経て、やがて住職として独り立ちし、立派に法務を果たせるようになったのです。

だから、いつも礼儀作法が正しく、朗々と読経をして、達筆であることが僧侶の常識でした。私が子供の頃は、葬式といえば家族や親類や会葬者一同が見守る中で、住職が戒名や墓標を書きました。それを見て一同が息をのみ、目をみはり、その住職を尊敬しました。それが住職として当然の姿であったのです。学問も大切ですが、私は僧侶たる者は、何をおいても読経と書ばかりは謙虚に努力をすべきだと思っています。

私は一概に、現代の(特に若い)僧侶の方々を批判しているのではありません。ただ、大学で高度な学問を修めながら、残念だと思うことが多いからです。師僧のそばに出来るだけ寄り添い、多くを学ぶことです。修行とはいっても、ただ資格を取るだけの程度では、檀信徒の皆様から尊敬されるほどの僧侶にはなれません。

ましてや、学問がかえってあだとなり、師僧を一方的に批判するような僧侶が大成することはありません。師僧からは知らず知らずのうちに、多くのことを吸収しているはずです。謙虚な心を失った僧侶は、その時から成長が止まるのです。謙虚であることは、僧侶の人徳としてきわめて大切であることに、間違いはありません。

山路天酬密教私塾

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