カテゴリー : 霊

続・先祖はどこにいるのか

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令和8年5月12日

 

次に地獄のお話です。凶悪殺人者・麻薬中毒者・悪質な詐欺師・人を犠牲にした富豪・戦争犯罪者などは地獄へ行きます。地獄絵図には恐ろしい獄卒ごくそつ(地獄の鬼)が刑罰を与えていますが、すべては本人の悪業の想念であることを知りましょう(写真は『矢田地獄縁起』より)。あの世では罪の隠しごとができません。それは、本人が一番よく知っており、自分が自分を裁くからです。

ただ、民族の宗教や風習によって、心の想念に違いがあります。日本人には閻魔えんま様や奪衣婆だつえばが象徴的な姿として登場します。それはどんなに法律をくぐり抜けても、人をだまし通しても、自分で自分にウソをつくことはできないからです。これは、地獄に対して私たちが知っておかねばならない真実です。

そこで、私が考えているもう一つの真実をお話しましょう。それは人がこの世でもあの世でも、苦しみを受けるのは悪業の浄化であるということです。仏教は因果応報を説きます。善因善果・悪因悪果であり、自業自得とも言います。しかし、因果の理を説きつつ、因果を越えるもう一つの理があることを忘れてはなりません。

衣類を洗えば、水は汚れます。汚れる姿が洗う姿にほかなりません。その水の汚れが苦しみです。地獄とはまさに、魂の洗濯、魂の浄化なのです。地獄の獄卒はそれを承知し、苦しみを与えて魂を救っている姿なのだと私は考えています。ただ、浄化の苦しみがあまりに大きいと、この世の私たちに悪影響を及ぼすことは否めません。

だからこそ、私たちには先祖供養が大切なのです。この世とあの世は同時にあります。私たちはこの世とあの世を共に生きています。しかし、あの世からこの世は見えても、この世からあの世は、普通の意識では見えません。だから、あの世のことは、理性では判断できません。私のお話も、信じていただく以外にありません。私のお話で何か魂が納得したような、そんなお気持ちになったなら、あなた様は立派な功徳が積めるのです。地獄も極楽も心の中にあります。そして、仏様も先祖も心の中にいるのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。先祖供養は継続することが大切です。また、形式的な法事や墓参では、「人生を変える先祖供養」にはなりません。供養料は父母両家を合わせて、一ヶ月2000円です。遠方の方には郵送します。むずかしいことは何もありませんが、最勝の先祖供養です。

先祖はどこにいるのか

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令和8年5月10日

 

「仏様はどこにいるのか」に続いて、「先祖はどこにいるのか」をお話したいと思います。ただ、先祖の場合は一筋縄ではいきません。なぜなら、亡くなって四十九日は中陰ちゅういん(幽界)にいますが、それからは上は天上界から下は地獄界に至るまで、さまざまであるからです。

まず、一般に「浮かばれた人」は霊界に往生します。霊界にもいろいろなランクがありますが、生前にまずまずの善行をなし、遺族の追善を受けた人は霊界で修行を積むのです。その上位に天上界がありますが、いささか難関であるといえましょう。

問題なのは臨終を迎えながら、自分が亡くなったことを自覚しない人たちです。この人たちは幽界をさまよいつつ、どこに行けばいいのかわかりません。死後や霊魂の存在を信じない人、信仰について何の関心もなかった人、自殺や変死などによってこの世を去った人などが、これに該当します。

自分が亡くなった場所だけをよりどころにする地縛霊じばくれい、行くところがなくて彷徨さまよい歩く浮遊霊ふゆうれいなどといった呼び名を聞いたことがあるのではないでしょうか。また、自分の存在を何とか知ってもらいたいと思い、人に憑依ひょういすることもあります。怖いお話ですが、これは本当です。

さらに問題なのは、お墓のことです。お墓は死者がこの世に残した唯一の身体であるお骨を納める場所ですが、それだけに遺族の祈りが届きやすい場所といえます。だから、霊界に往生した死者は、実はお墓そのものにいるわけではありません。お位牌(写真)もまた同じで、祈りがよく届きますが、お位牌そのものに死者がいるわけではありません。これはとても大事なことです。

あの『千の風になって』という歌に、「私のお墓の前で 泣かないでください 私はそこにはいません」とありますが、一面の真理ではあります。ところが、行くところがわからない死者が、いわゆる〝幽霊〟となって自分のお墓をよりどころにすることがあるので厄介です。お墓参りをして具合が悪くなった場合は、この幽霊のせいと思って間違いありません。

そして次に、地獄のお話がありますが、次回にしましょう。霊界で修行するあの世の先祖は常に子孫を想い、この世の子孫が先祖を想えば、互いに感応します。あの世の先祖が子孫の追善を受けると、必ず子孫に感謝し、よい影響を与えるのは当然です。結論を言えば、先祖もまた私たちの心の中にいるのです。私たちはこの世とあの世を同時に生きているからです。だから、先祖供養は大切なのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。単なる形式的な供養でないことは、筆者のほかのブログを読んでいただければわかります。勧誘をしなくても、多くの皆様が共鳴するのは、そこに真実があるからです。

飛鳥美人の犠牲者

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令和7年4月29日

 

「移転してから体調が悪いのです」といったご相談を受ける時があります。たいてい、建売住宅なら地鎮祭をせず、中古住宅ならおはらいをしていないのです。

また古戦場の跡だったり、塚跡だったりすることもあります。土地にも建物にも、歴史の中で人の想いが残ります。そのことは知っておかねばなりません。

高松塚古墳より出土した飛鳥美人(写真)や北斗・四神画は世紀の大発見でしたが、その影で犠牲者が続出したことはあまり知られていません。国をあげての大事業ながら、はたしてどの程度の供養やお祓いをしたのでしょう。

まず、明日香村観光課長М氏は、発掘が始まるや毎晩のようにうなされたといいます。そして、間もなく胸の痛みを訴えて倒れ、そのまま亡くなりました。それまで、何の徴候もなかった方です。

続いて、古墳沿いの畑をクワで耕していた村内女性K氏は、誤って石窟を傷つけてしまいました。すると彼女は体調をこわして寝込んでしまった末、二日後に息を引き取りました。

翌年、発掘調査の資金調達に奔走していた自治会長が車にはねられて死亡、また古墳の第一発見者が農薬自殺、さらに壁画の模写をしていた日本画家もまた車にはねられて死亡するなど、まるで呪われたような事件です。偶然にしては、その偶然が重なり過ぎます。

このような権力者の霊は、よほどの供養をせねば鎮まりません。百人の僧侶が必死で祈り、お護摩を焚くほどのことは必要です。今日は怖いお話になってしまいました。文化の影には、こうした犠牲があるものです。

続・蛇体の不思議な霊力

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令和6年9月10日

 

私の郷里の農村にはヘビがたくさんいましたので、いじめたり殺したりする人もいました。それについて、小学生の時の忘れがたい記憶がありますので、お話をいたしましょう。

それはちょうど今頃の季節の下校時でした。ある樹木の枝に大きな二匹のヘビがいて、それに向って3人の男の子が石を投げつけていました。私は「そんなことはしないほうがいいよ!」といいましたが、聞き入れません。一匹は地に落ち、もう一匹はかろうじて枝に留まっていましたが、二匹とも必死の苦しみにもだええていました。私は立ち去りましたが、後で聞くと二匹とも殺してしまったとのことでした。

するとその日の夜、その男の子の2人が急な高熱を出したのです。村医者を呼んで治療しましたが、3日ほどは苦しんだととのことでした。偶然とするのは簡単ですが、私は子供なりにあの残虐ざんぎゃくな行為を思い浮かべました。

ヘビをよく「弁才天さん」と呼ぶのは、弁財天と同体の宇賀神うがじんとされるからです。つまり神さまとして信仰されるからです(写真・西大寺蔵)。

蛇体には不思議な霊力があると、私は確信しています。強力なパワーを発揮する霊符もまた蛇体の姿です。もし、ヘビに対して思い当たる行為のある方は、今からでも弁財天に懺悔さんげし、おそなえをしておわびをしてください。決して軽んじてはいけません。

蛇体の不思議な霊力

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令和6年9月7日

 

鎮宅霊符尊ちんたくれいふそんの尊前には玄武神げんぶしん(亀蛇のご神体)が安置されています(写真)。したがって、霊符行者はスッポン料理はもちろんのこと、蛇体のウナギ・アナゴ・ハモ・ドジョウといった料理を口にすることはできません。

私も伝授を受けて霊符のご祈願をするようになって以来、こうした料理を口にしたことはありません。これらは口伝によって、かたく禁じられているからです。その理由は、蛇体には何か不思議な霊力が宿っているからなのでしょう。仏教の明王や諸天に、蛇体を体に巻きつけたお姿があるのはそのためなのです。

いささかはばかるお話ではありますが、私は農村に生まれましたので、幼い頃はよく庭のあちこちにオシッコ(いわゆる立ちション)をしたものでした。すると農家の庭ですから、どこにでもミミズがいて、自分のオシッコがかかってしまうことがよくありました。

するとどうでしょう。男の子のアソコの先が痛くはれるのでした。信じられないという人もいらっしゃるでしょうが、これは農村の人なら誰でも知っていることです。本当にホントウのお話です。

私は僧侶になってからもこのことが忘れられず、医師・薬剤師・生物学者など多くの方になぜなのかを質問しましたが、はっきりした答えはついに出ませんでした。要するに、科学的な現象を超えた何かがはたらいていたとしか、いいようがないのです。

ミミズは漢方では「地龍じりゅう」といい、解熱剤として効能があります。どうしても高熱が下がらない場合は、ぜひ中医師に相談してみてください。また皆様がミミズに出会っても、決して残虐ざんぎゃくな扱いをなさいませぬよう。老婆心ながら、お伝えしたします。

六地蔵霊談

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令和6年8月20日

 

あさか大師の境内に「六地蔵ろくじぞう」がまつられています(写真)。誰からも好かれ、ご信徒はもちろん、付近の老人ホームや介護施設の方々もよくお参りしています。

実はこの六地蔵は、お隣りのタクシー会社より寄進されたものです。あさか大師が開創された頃は、道路脇にまるで捨てられたかのように置かれていました。

お顔も強面こわもてで、苦しそうでした。そこで私が、「こんなところに置いてはいけませんよ」とお話したところ、「それなら、お寺でお祀りしてください」ということになったのです。

ところがお寺に運んだ日、何か異様な雰囲気が漂いました。私は「お葬式をしてもらえなかった方や、付近の道路や河川で変死した方の〝身代り〟になっているな」と直感しました。また、その日に宿泊した二人の僧侶が、「五歳ぐらいの女の子が、サッシから悲しそうにのぞいていましたよ」というではありませんか。まるでホラー映画みたいです。

翌日、さっそくお体を洗い清め、香華や供物を献じて読経しました。もちろん、施餓鬼法も修しました。すると、その表情が一変したのです。今では写真のように柔和でやさしく、ほほえましいお顔になりました。

この六地蔵は石の彫刻ですから、物理的には何ら変化するはずがありません。しかし、仏さまは〝生きもの〟です。その日によって、表情も変わります。これが仏像の不思議なところです。わかりますね。

霊的な顔が見える人

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令和5年5月28日

 

子供の頃、天井てんじょうの木目が人の顔に見え、こわい思いをしたものです。これは精神医学で「パレイドリア」と呼ばれる現象で、雲やの葉などの形がそのような連想を呼ぶからです。たとえばアメリカ映画『Premonition』(邦題「シャッフル」)のDVDジャケットには、木立が人の顔に見える姿を象徴的に表現しています(写真)。よく滝修行で「お不動さまが見えた」とおっしゃる方がいますが、岩の凹凸がこの現象を呼ぶ場合もあるのです。もちろん、そのように見えること自体が悪いわけではありません。ただ、自慢をしたり、自分が〝神様〟にでもなったようにお話をする方がいますので、このことは注意する必要があります。

ところが、実際には存在しない、つまり霊的な顔が見えるという場合が確かにあります。特に子供さんにはこの体験が多く、私も何度か学習塾から相談を受けたものでした。誰かが「オバケがいるよ!」というと、子供たちがそろって「ホントだ!」といいます。そうすると、これを気味悪がった子供たちが次々に欠席するので、オーナーには悩みの種となります。中には講師の先生までが「やめたい」といい出す始末で、結局は私におはらいの依頼が来るのです。

もちろん大人でも、霊的な顔を見ることがあります。また、はっきりと顔が見えなくても、片手片足だけが見えたり、音や気配で知らされることもあります。また海や川で撮影した写真に、いるはずもない人の顔や手足が映る、いわゆる心霊写真を見せられることもたびたびでした。

私自身は子供の頃はともかく、現在は陽炎かげろうのように見える場合と、気配や音で知らされることが多く、直接にはっきりと顔を見ることはありません。しかしお盆やお彼岸、命日の日には、こうした現象をよく体験します。だから、死者にとって、命日は特別な日であることは理解しているつもりです。つまり、その日の特有の波動が霊的に呼び合うのでしょう。

霊的な顔が見えて悩みを抱える人は意外に多く、よく相談を受けます。そのような体験などない方がよいのですが、そうもいかないので悩むのです。そのような方は、あさか大師にぜひお越しください。毎日11時半よりご祈祷のお護摩を修し、お役に立てるよう、努力いたします。もちろん、普通であることが一番いいのですよ、皆様。

死体は語る

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令和4年12月14日

 

上野正彦氏のベストセラー著書『死体は語る』(文春文庫)は、法医学の専門医として、声なき死体のミステリーを解き明かしたものでした。偽装殺人、他殺を装った自殺、事故死に見せた心中など、もの言わぬ死体は人間の喜怒哀楽を語ってやみません。「事実は小説よりも奇なり」です。

たとえば、智恵遅れの幼女がハイハイしていて石油ストーブにぶつかり、沸騰ふっとうしたヤカンが背中に落ちて大火傷おおやけどを負いました。母親は半狂乱でしたが、病院の手当てもむなしく、幼女は亡くなりました。普通なら当然、事故死と思うでしょう。しかし、そこが監察医の出番です。火傷の形が丸いということで疑問が生じました。偶然にヤカンが落ちたなら、その形は不定形となって散るはずです。やがて母親が自白し、智恵遅れのその子の前途を悲観し、過失を装って殺害したことが真相でした。まさに「死体は語る」です。

しかし、私は別の意味で死体が語ることを知っています。そのことをお話しましょう。

私は20代で僧侶となりましたが、その当時は「葬式坊主にはなりませんよ」と公言していました。真言密教は生きている人のために祈るものだと考えていたからです。しかし、やがてこれが間違いだったと気づきました。生死は一如、死者への祈りこそ、生きている人たちへの祈りであるからです。そこで葬儀について、真剣に研究しました。私の著書『真言宗・独行葬儀次第』(青山社刊・写真)は、今や日本中で使われています。

私が葬儀のお導師を勤める時、まず式場に着いたら結界(ガード)をなし、次にご遺体の顔をよく観察します。その表情の中に、その方の一生の縮図があるからです。仮に納棺師のうかんしによって化粧が施されていても、どことなく悲しみや苦しみを漂わせている場合も少なくはありません。その表情を脳裏に留めて葬儀の作法に入ります。

そして葬儀が終って出棺の時、もう一度ご遺体の顔を見て、安らかな表情に変じているかを確認します。この瞬間こそ、葬儀におけるお導師の正念場です。つまり、遺体ではあっても死者はまだ〝生きている〟からです。仏教ではこれを〈中陰ちゅういん〉といい、この世とあの世の中間を意味します。ここでも、「死体は語る」ことがわかりますでしょうか。

ついでですが、お葬式はとても大切です。入籍だけをして夫婦になるより、結婚式(という儀式)を挙げれば、本当の夫婦になったという実感が湧くはずです。子供さんやお孫さんと別れの儀式もせずして、あの世へ旅立てるでしょうか。自分のために集まった人たちに見送られてこそ、人は安心してけるのです。皆様もどうか、親のお葬式ばかりはなさってください。費用は少なくてもよいのです。死体はなおも語るのですから。

あの世はあるのでしょうか。

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令和4年12月13日

 

仏教を信じる方のほとんどは、「あの世はある」と思っています。少なくとも、そのように信じています。しかし、世の中には「そんなものがあるはずはない」とか、「死ねば何もかも亡くなるんだ」と思っている方もいます。今日はこれに対する私の意見を述べてみましょう。

世の中には霊能者と呼ばれる方が少なくありません。私自身はそのようなレッテルをられたくはありませんが、中には霊能力があるとして、それを誇り、宣伝したり、テレビに出演する方もいます。その真偽のほどはともかく、人類史上最大の霊能者として評価される人物に、エマニュエル・スエーデンボルグ(1688~1772)という方がいました。彼はスウェーデンの貴族として生まれましたが、物理・天文・経済・哲学などの分野でも一流の学者でした。そして肉体をこの世に置いたまま、20年以上にわたって死後の世界に出入りし、これを『霊界著述』と題して出版しました(写真はその日本語抄訳『私は霊界を見て来た』・叢文社刊)。しかも、自分が1972年3月29日のその日に亡くなることを予言し、そのとおりに他界しましたから、まさに驚異的な人物というほかはありません。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

ところで、現代人がこれを読んで、どのように思うのでしょうか。「なるほど」 と納得する方もいるでしょうが、中には「とんでもないホラ吹きだ」と笑い飛ばす方もいるはずです。つまり、あの世のことは論理的な思考を超えて、結局は信じる信じないという次元に行き着くからです。

そこで、私の考えです。私はいつも「あの世はあるものと信じましょう」とお話をしています。もっとも、私がお会いする多くの皆様はお寺にお参りするわけですから、会話のレベルとしてはこれで通ります。しかし、そうはいっても「どうしてですか?」と疑問を投げかける方もいます。そこで私は笑いながら、「これがウソだったら、私を詐欺師さぎしだと思ってけっこうですよ」とお話をしています。

なぜなら、あの世があると信じて功徳を積み、先祖供養を怠らない方は、死んだ後にやはりあの世があるならいることがありません。「よかった!」と思うはずです。しかし、これを信じないでいて、意外にもあの世があったとしたら、「しまった!」と思うのではないでしょうか。そういうと、「じゃー、あの世がなかったら和尚さんは詐欺師だ」と笑う声が聞こえそうです。残念でした。私が詐欺師だと呼ばれることは絶対にありません。なぜなら、あの世がないなら、死んだ後はすべてが〈無〉に帰するなら、あの世がないと確認することも、和尚さんは詐欺師だと思うこともできないからです。つまり、何もないなら、結局は何もないのです(笑)。この意味、わかりますよね。だから、どちらかを選ぶなら、あの世はあると信じた方がいいのです、その方がお得(!)なのです。

霊能者が何を言おうが、いずれは誰でもけるのですから、それを楽しみに待ちましょう。もしかしたらテレビに出演して、見て来たように言っていた〇〇〇〇さんがとんでもない詐欺師だったとわかるかも知れません。それもお楽しみに。

お不動さまが見える

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令和4年10月24日

 

お護摩を修していると、よくお不動さまや観音さま、あるいは龍神さまが見えたという方がいます。写真に撮っても、瞬間的にそのような形に映ることもあります(写真は龍神さま)。また滝修行でも、同じようなことを聞きます。これについて、私の考えを三つの角度からお話しましょう。

その一つは物理的な次元で、炎の濃淡や岩の凹凸などで、顔に見える場合です。私も子供の頃、天井てんじょうの木目が顔に見えて怖くなった経験がありますが、心理学ではこれを〈シミュラクタ現象〉といいます。林や森の樹木を写真に撮ると、よく顔が浮かんで見える場合も同じです。こうした現象があることを、まずは覚えておく必要はありましょう。

二つ目は、いわゆる精神的な信仰の次元で、たとえシミュラクタ現象であっても、それをお不動さまと尊ぶのは自由ですし、それを大事にすることはいっこうにかまいません。滝場では、よく岩の凹凸がお不動さまに見えることがあります。それは岩の凹凸を使って、お不動さまが姿を現したのだともいえるからです。阪神大震災の後、京都の東寺のある樹木の切り口にお不動さまの墨絵のようなお姿が現われ、私はお参りのたびに礼拝しています。ただ、これを一方的に押しつけてはいけません。あくまで、自分の信仰として尊ぶことです。上の写真を単なる偶然だとするならそれもよいし、龍神さまだとするなら、それは信仰として大切にすることです。

そして三つ目は、いわゆる霊的な次元です。私は心霊写真ではないかと持参して来た写真をかなり見て来ましたが、たいていは木の葉やかべの模様が顔のように見えるものでした。しかし、中には間違いのない心霊写真もありました。いるはずもない人の顔や手足が映っていたりすると、ぞっとしたものです。海や川で撮影されたものが多く、この場所やこの付近で亡くなった人だなと思ったものでした。お護摩や滝修行でも、見えないはずのものを見ることは確かにあります。しかし、見えないから信仰が足りない、修行が足りないということではありません。念のため。

ついでですが、寺の住職は「この写真を見てください」といって心霊写真(らしきもの)を見せられた場合、決して笑って済ませてはなりません。その方にとっては、夜も眠れないほど悩んでいる場合もあるからです。また、何ごとも科学的な視点だけで見るのも味気ない気がします。お不動さまのように見えるなら、それはそれで「大事にしてください」とお話してほしいと思います。皆様も気になる写真をお持ちでしたら、どうぞご持参ください。

山路天酬密教私塾

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