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続々・あの世は「ここ」にあるのです

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令和8年8月26日

 

この世とあの世の関係で、もう一つ大切なことをお話いたします。それはこの世の肉体的また物質的世界と、あの世の精神的また霊的世界とがいっしょにあるということです。そして、この世の人はあの世の世界に、生きているうちに目覚めねばならないということです。

この世で健康に恵まれ、おいしいものを味わい、地位を得て、財産を残せれば、それに越したことはありません。しかし、これらは何ひとつとしてあの世に持ち越せるものはありません。持ち越せるものはどれだけ人のために尽くし、喜ばれ、感謝されたかという功徳だけなのです。そして、それを成し遂げるにはあの世の力、つまり精神的また霊的な融合がなくてはなりません。

つまり、個人の努力だけでは功徳は積めないということです。あの世の守護霊や先祖の協力なくして、功徳を積める人生は歩めません。どのような分野でも、すぐれた業績には、必ずあの世との融合があります。偉大な発見も、すぐれた芸術も、それはあの世からのインスピレーションによって成就するからです。

仏教では、あの世の三途さんずの川を渡る時、奪衣婆だつえばによって衣服を脱がされると説明してきました(写真は『熊野観心十界曼荼羅』)。これはあの世には、一切の地位も財産も持ち越せないことを象徴的に教示しているのです。私たちはこの世の肉体的また物質的世界な世界から、精神的また霊的世界な世界に目覚めるために、この世に生かされているのです。

あの世への関心を高め、魂を磨き、先祖への報恩を忘れぬ生活に目覚めましょう。先祖供養にも励みましょう。それが人としてこの世に生かされた責務です。肉体としての自分がいれば、霊体としての自分が同時にいます。この世とあの世は、同時にあるからです。そして、あの世は「ここ」にあるからです。

*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からお気軽にご連絡ください。住職も弟子僧も誠実に励んでいます。ご負担のない供養料で、どなたでも参加することができます。遠方の皆様には郵送いたします。

続・あの世は「ここ」にあるのです

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令和8年8月24日

 

あの世が「ここ」にあるとは、また〝いっしょにある〟という意味でもあります。いっしょにあるとは、表裏の関係であり、同時にある関係ともいえましょう。

そのことを説明するには、蓮の花にたとえるのがよいかも知れません。蓮は汚れた泥どろの中(煩悩)から、清らかな花(悟り)を咲かせます(写真は筆者)。この場合、煩悩の泥がなければ、悟りの花も生まれないというところに仏教の極意があります。つまり、煩悩と悟りはいっしょにあるということです。煩悩がなければ、悟りは生まれないし、煩悩を転じてこそ悟りが生まれるということです。蓮の花が仏様の象徴とされるのも納得されましょう。

同じように、この世とあの世はいっしょにあるのです。この世はあの世の写しであるから、「現世うつしよ」といいます。この世の姿はあの世の写しなのです。だから、私はいつも「あの世はここにありますよ」とお話をしています。この世の病気は、あの世の病気です。この世の苦悩は、あの世の苦悩です。この世の姿を通じて、私たちはあの世の姿を知るのです。先祖供養はこの世に生きる私たちの、大切な責務です。来月のお彼岸に向かって、先祖供養の大切さを改めて考えねばなりません。

私たちは肉体によって生きていますが、幽体も霊体も衣類のように身につけています。ただ、普通の感覚ではわかりません。しかし、私のお話を心から信じられる方は、あの世との感覚が鋭い方です。仏縁の深い方です。私と共に、先祖供養に励んでいただきたいと思います。

*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。高額な供養料はいただきません。勧誘もいたしません。どなたでも気軽に参加できます。遠方の皆様には郵送いたします。

あの世は「ここ」にあるのです

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令和8年8月22日

 

私はいつも、あの世は遠い彼方かなたにあるのではなく、「ここ」にあるのです、とお話しています。「ここ」とは、私たちがいる場所の意味でもありますが、私たちの心の中をも指すのです。だから、あの世は私たちの心の中にあって、先祖もまた、私たちの心の中にいるのです。

19世紀のフランスにおける最も偉大な思想家であり、また教育者でもあったアランは、著名な『幸福論』(写真は岩波文庫)において、「死者たちは死んでいない。そのことはまったく確実である。死者たちは考えている、語っている、行動している、助言し、欲し、承認し、避難することができる。これらはすべて本当である。しかし、それに耳を傾けなくてはならない。それらはすべて、われわれの内にある。われわれの内で、確かに生きているのだ(一部中略)」と語っています。

私は若い頃にこの本に接し、何年かに一度は思い出したように再読してきました。それはまるで古い友人に会うような楽しみで、読書とは人生の邂逅かいこうであると憶念したものです。当初の蔵書は製本も劣化したので、二年前に新たに購入し、大切に保管しています。

先祖が私たちの心の中にいるという真実を、かくも大胆に表記している文章を、私はほかに知りません。しかも、このようなアカデミックな著作においてです。実はアランはペンネームで、本命をエミール・オーギュスト・シャルティエといい、生涯を(大学教授ではなく)高校教師として過ごしました。彼の授業を受けたフランスの高校生は、とても幸せな時間を過ごしたと思います。

それにしても、このような文章を残した偉人が、フランスから出ている史実も奇妙です。フランス国民が日本人や日本の文化を特に好むことと、あながち無関係ではないかも知れません。

*あさか大師では先祖供養の大切さを公布しています。お墓や菩提寺がなくとも、わずかな供養料でお気軽に参加することができます。関心のある方はホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の皆様には郵送します。

続・先祖はどこにいるのか

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令和8年5月12日

 

次に地獄のお話です。凶悪殺人者・麻薬中毒者・悪質な詐欺師・人を犠牲にした富豪・戦争犯罪者などは地獄へ行きます。地獄絵図には恐ろしい獄卒ごくそつ(地獄の鬼)が刑罰を与えていますが、すべては本人の悪業の想念であることを知りましょう(写真は『矢田地獄縁起』より)。あの世では罪の隠しごとができません。それは、本人が一番よく知っており、自分が自分を裁くからです。

ただ、民族の宗教や風習によって、心の想念に違いがあります。日本人には閻魔えんま様や奪衣婆だつえばが象徴的な姿として登場します。それはどんなに法律をくぐり抜けても、人をだまし通しても、自分で自分にウソをつくことはできないからです。これは、地獄に対して私たちが知っておかねばならない真実です。

そこで、私が考えているもう一つの真実をお話しましょう。それは人がこの世でもあの世でも、苦しみを受けるのは悪業の浄化であるということです。仏教は因果応報を説きます。善因善果・悪因悪果であり、自業自得とも言います。しかし、因果の理を説きつつ、因果を越えるもう一つの理があることを忘れてはなりません。

衣類を洗えば、水は汚れます。汚れる姿が洗う姿にほかなりません。その水の汚れが苦しみです。地獄とはまさに、魂の洗濯、魂の浄化なのです。地獄の獄卒はそれを承知し、苦しみを与えて魂を救っている姿なのだと私は考えています。ただ、浄化の苦しみがあまりに大きいと、この世の私たちに悪影響を及ぼすことは否めません。

だからこそ、私たちには先祖供養が大切なのです。この世とあの世は同時にあります。私たちはこの世とあの世を共に生きています。しかし、あの世からこの世は見えても、この世からあの世は、普通の意識では見えません。だから、あの世のことは、理性では判断できません。私のお話も、信じていただく以外にありません。私のお話で何か魂が納得したような、そんなお気持ちになったなら、あなた様は立派な功徳が積めるのです。地獄も極楽も心の中にあります。そして、仏様も先祖も心の中にいるのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。先祖供養は継続することが大切です。また、形式的な法事や墓参では、「人生を変える先祖供養」にはなりません。供養料は父母両家を合わせて、一ヶ月2000円です。遠方の方には郵送します。むずかしいことは何もありませんが、最勝の先祖供養です。

先祖はどこにいるのか

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令和8年5月10日

 

「仏様はどこにいるのか」に続いて、「先祖はどこにいるのか」をお話したいと思います。ただ、先祖の場合は一筋縄ではいきません。なぜなら、亡くなって四十九日は中陰ちゅういん(幽界)にいますが、それからは上は天上界から下は地獄界に至るまで、さまざまであるからです。

まず、一般に「浮かばれた人」は霊界に往生します。霊界にもいろいろなランクがありますが、生前にまずまずの善行をなし、遺族の追善を受けた人は霊界で修行を積むのです。その上位に天上界がありますが、いささか難関であるといえましょう。

問題なのは臨終を迎えながら、自分が亡くなったことを自覚しない人たちです。この人たちは幽界をさまよいつつ、どこに行けばいいのかわかりません。死後や霊魂の存在を信じない人、信仰について何の関心もなかった人、自殺や変死などによってこの世を去った人などが、これに該当します。

自分が亡くなった場所だけをよりどころにする地縛霊じばくれい、行くところがなくて彷徨さまよい歩く浮遊霊ふゆうれいなどといった呼び名を聞いたことがあるのではないでしょうか。また、自分の存在を何とか知ってもらいたいと思い、人に憑依ひょういすることもあります。怖いお話ですが、これは本当です。

さらに問題なのは、お墓のことです。お墓は死者がこの世に残した唯一の身体であるお骨を納める場所ですが、それだけに遺族の祈りが届きやすい場所といえます。だから、霊界に往生した死者は、実はお墓そのものにいるわけではありません。お位牌(写真)もまた同じで、祈りがよく届きますが、お位牌そのものに死者がいるわけではありません。これはとても大事なことです。

あの『千の風になって』という歌に、「私のお墓の前で 泣かないでください 私はそこにはいません」とありますが、一面の真理ではあります。ところが、行くところがわからない死者が、いわゆる〝幽霊〟となって自分のお墓をよりどころにすることがあるので厄介です。お墓参りをして具合が悪くなった場合は、この幽霊のせいと思って間違いありません。

そして次に、地獄のお話がありますが、次回にしましょう。霊界で修行するあの世の先祖は常に子孫を想い、この世の子孫が先祖を想えば、互いに感応します。あの世の先祖が子孫の追善を受けると、必ず子孫に感謝し、よい影響を与えるのは当然です。結論を言えば、先祖もまた私たちの心の中にいるのです。私たちはこの世とあの世を同時に生きているからです。だから、先祖供養は大切なのです。

*あさか大師の先祖供養に関心のある方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。単なる形式的な供養でないことは、筆者のほかのブログを読んでいただければわかります。勧誘をしなくても、多くの皆様が共鳴するのは、そこに真実があるからです。

飛鳥美人の犠牲者

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令和7年4月29日

 

「移転してから体調が悪いのです」といったご相談を受ける時があります。たいてい、建売住宅なら地鎮祭をせず、中古住宅ならお祓はらいをしていないのです。

また古戦場の跡だったり、塚跡だったりすることもあります。土地にも建物にも、歴史の中で人の想いが残ります。そのことは知っておかねばなりません。

高松塚古墳より出土した飛鳥美人(写真)や北斗・四神画は世紀の大発見でしたが、その影で犠牲者が続出したことはあまり知られていません。国をあげての大事業ながら、はたしてどの程度の供養やお祓いをしたのでしょう。

まず、明日香村観光課長М氏は、発掘が始まるや毎晩のようにうなされたといいます。そして、間もなく胸の痛みを訴えて倒れ、そのまま亡くなりました。それまで、何の徴候もなかった方です。

続いて、古墳沿いの畑をクワで耕していた村内女性K氏は、誤って石窟を傷つけてしまいました。すると彼女は体調をこわして寝込んでしまった末、二日後に息を引き取りました。

翌年、発掘調査の資金調達に奔走していた自治会長が車にはねられて死亡、また古墳の第一発見者が農薬自殺、さらに壁画の模写をしていた日本画家もまた車にはねられて死亡するなど、まるで呪われたような事件です。偶然にしては、その偶然が重なり過ぎます。

このような権力者の霊は、よほどの供養をせねば鎮まりません。百人の僧侶が必死で祈り、お護摩を焚くほどのことは必要です。今日は怖いお話になってしまいました。文化の影には、こうした犠牲があるものです。

続・蛇体の不思議な霊力

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令和6年9月10日

 

私の郷里の農村にはヘビがたくさんいましたので、いじめたり殺したりする人もいました。それについて、小学生の時の忘れがたい記憶がありますので、お話をいたしましょう。

それはちょうど今頃の季節の下校時でした。ある樹木の枝に大きな二匹のヘビがいて、それに向って3人の男の子が石を投げつけていました。私は「そんなことはしないほうがいいよ!」といいましたが、聞き入れません。一匹は地に落ち、もう一匹はかろうじて枝に留まっていましたが、二匹とも必死の苦しみに悶もだええていました。私は立ち去りましたが、後で聞くと二匹とも殺してしまったとのことでした。

するとその日の夜、その男の子の2人が急な高熱を出したのです。村医者を呼んで治療しましたが、3日ほどは苦しんだととのことでした。偶然とするのは簡単ですが、私は子供なりにあの残虐ざんぎゃくな行為を思い浮かべました。

ヘビをよく「弁才天さん」と呼ぶのは、弁財天と同体の宇賀神うがじんとされるからです。つまり神さまとして信仰されるからです(写真・西大寺蔵)。

蛇体には不思議な霊力があると、私は確信しています。強力なパワーを発揮する霊符もまた蛇体の姿です。もし、ヘビに対して思い当たる行為のある方は、今からでも弁財天に懺悔さんげし、お供そなえをしておわびをしてください。決して軽んじてはいけません。

蛇体の不思議な霊力

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令和6年9月7日

 

鎮宅霊符尊ちんたくれいふそんの尊前には玄武神げんぶしん(亀蛇のご神体)が安置されています(写真)。したがって、霊符行者はスッポン料理はもちろんのこと、蛇体のウナギ・アナゴ・ハモ・ドジョウといった料理を口にすることはできません。

私も伝授を受けて霊符のご祈願をするようになって以来、こうした料理を口にしたことはありません。これらは口伝によって、かたく禁じられているからです。その理由は、蛇体には何か不思議な霊力が宿っているからなのでしょう。仏教の明王や諸天に、蛇体を体に巻きつけたお姿があるのはそのためなのです。

いささかはばかるお話ではありますが、私は農村に生まれましたので、幼い頃はよく庭のあちこちにオシッコ(いわゆる立ちション)をしたものでした。すると農家の庭ですから、どこにでもミミズがいて、自分のオシッコがかかってしまうことがよくありました。

するとどうでしょう。男の子のアソコの先が痛くはれるのでした。信じられないという人もいらっしゃるでしょうが、これは農村の人なら誰でも知っていることです。本当にホントウのお話です。

私は僧侶になってからもこのことが忘れられず、医師・薬剤師・生物学者など多くの方になぜなのかを質問しましたが、はっきりした答えはついに出ませんでした。要するに、科学的な現象を超えた何かがはたらいていたとしか、いいようがないのです。

ミミズは漢方では「地龍じりゅう」といい、解熱剤として効能があります。どうしても高熱が下がらない場合は、ぜひ中医師に相談してみてください。また皆様がミミズに出会っても、決して残虐ざんぎゃくな扱いをなさいませぬよう。老婆心ながら、お伝えしたします。

六地蔵霊談

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令和6年8月20日

 

あさか大師の境内に「六地蔵ろくじぞう」が祀まつられています(写真)。誰からも好かれ、ご信徒はもちろん、付近の老人ホームや介護施設の方々もよくお参りしています。

実はこの六地蔵は、お隣りのタクシー会社より寄進されたものです。あさか大師が開創された頃は、道路脇にまるで捨てられたかのように置かれていました。

お顔も強面こわもてで、苦しそうでした。そこで私が、「こんなところに置いてはいけませんよ」とお話したところ、「それなら、お寺でお祀りしてください」ということになったのです。

ところがお寺に運んだ日、何か異様な雰囲気が漂いました。私は「お葬式をしてもらえなかった方や、付近の道路や河川で変死した方の〝身代り〟になっているな」と直感しました。また、その日に宿泊した二人の僧侶が、「五歳ぐらいの女の子が、サッシから悲しそうにのぞいていましたよ」というではありませんか。まるでホラー映画みたいです。

翌日、さっそくお体を洗い清め、香華や供物を献じて読経しました。もちろん、施餓鬼法も修しました。すると、その表情が一変したのです。今では写真のように柔和でやさしく、ほほえましいお顔になりました。

この六地蔵は石の彫刻ですから、物理的には何ら変化するはずがありません。しかし、仏さまは〝生きもの〟です。その日によって、表情も変わります。これが仏像の不思議なところです。わかりますね。

霊的な顔が見える人

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令和5年5月28日

 

子供の頃、天井てんじょうの木目が人の顔に見え、怖こわい思いをしたものです。これは精神医学で「パレイドリア」と呼ばれる現象で、雲や木この葉などの形がそのような連想を呼ぶからです。たとえばアメリカ映画『Premonition』(邦題「シャッフル」)のDVDジャケットには、木立が人の顔に見える姿を象徴的に表現しています(写真)。よく滝修行で「お不動さまが見えた」とおっしゃる方がいますが、岩の凹凸がこの現象を呼ぶ場合もあるのです。もちろん、そのように見えること自体が悪いわけではありません。ただ、自慢をしたり、自分が〝神様〟にでもなったようにお話をする方がいますので、このことは注意する必要があります。

ところが、実際には存在しない、つまり霊的な顔が見えるという場合が確かにあります。特に子供さんにはこの体験が多く、私も何度か学習塾から相談を受けたものでした。誰かが「オバケがいるよ!」というと、子供たちがそろって「ホントだ!」といいます。そうすると、これを気味悪がった子供たちが次々に欠席するので、オーナーには悩みの種となります。中には講師の先生までが「やめたい」といい出す始末で、結局は私にお祓はらいの依頼が来るのです。

もちろん大人でも、霊的な顔を見ることがあります。また、はっきりと顔が見えなくても、片手片足だけが見えたり、音や気配で知らされることもあります。また海や川で撮影した写真に、いるはずもない人の顔や手足が映る、いわゆる心霊写真を見せられることもたびたびでした。

私自身は子供の頃はともかく、現在は陽炎かげろうのように見える場合と、気配や音で知らされることが多く、直接にはっきりと顔を見ることはありません。しかしお盆やお彼岸、命日の日には、こうした現象をよく体験します。だから、死者にとって、命日は特別な日であることは理解しているつもりです。つまり、その日の特有の波動が霊的に呼び合うのでしょう。

霊的な顔が見えて悩みを抱える人は意外に多く、よく相談を受けます。そのような体験などない方がよいのですが、そうもいかないので悩むのです。そのような方は、あさか大師にぜひお越しください。毎日11時半よりご祈祷のお護摩を修し、お役に立てるよう、努力いたします。もちろん、普通であることが一番いいのですよ、皆様。

山路天酬密教私塾

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