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「北風と太陽」への疑問

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令和4年4月27日

 

昨夜はとんでもない突風となり、境内に置いた一輪車さえ遠くへ吹き飛ばされていました。この頃は天気が不安定で、真夏のような暑さと、逆に寒さを感じるほどの日が交互にやって来ます。よく「体がついていけない」とか、「何を着ていいのかわからない」などと言いますが、まさにこの頃の天気を指しているのでしょう。

ところで、突風といえば、『イソップ物語』に「北風と太陽」のお話があります。北風と太陽が、道を歩く人のマントをどちらが脱がせることができるか勝負をしたあのお話です。北風は力づくで、太陽はやさしい日差しからじわじわと照らし続けた結果、太陽の勝ちとなりました。つまり、人を動かすのは強引な力づくより、やさしさが大切だという教訓です。

このお話は、たとえばセールスのノウハウとしても、よく引き合いに出されます。どんなによい商品をお客様に売ろうとしても、強引な押し売りでは買っていただけません。かえって警戒されるからです。むしろ、この物語の太陽のようにやさしく、快感や喜びを与えることが大切です。相手の立場になって考え、困っていることや悩んでいることがあったら、相談にのってあげるようにすれば、商品は頼まずとも売れるというわけです。

そして、この教訓はすべての対人関係にも当てはまります。社長と従業員、先生と生徒、医者と患者など、人と人が交流する以上は大いに学ぶべきでありましょう。ヘタな人生論より、こういうお話の方が真に迫るものがあります。

しかし、私はこの頃、「まてよ・・・」とさえ思うことがあります。物ごとは何でも二面性があるはずです。たしかにこの太陽のように、〝やさしさ〟は大切です。しかし、時には北風のように強引な〝きびしさ〟をもって、一気に突き進むことも大切ではないでしょうか。世の中はやさしさだけでは通らないこともあるからです。それに、太陽のようなアプローチが、いつも成功するとはかぎりません。やさしく接することが裏目に出れば、時には甘く見られることもありましょう。なめられることもありましょう。

人はもちろん、やさしさも大切ですが、きびしさを欠いてはなりません。いや、むしろ本当のやさしさとは、きびしさに裏づけされてこそ湧き出るものではないでしょうか。きびしく教えてくれる人、きびしく叱ってくれる人こそ、本当にやさしい人なのです。これを欠いた上司や先輩では、自分もまた成長はできません。つまり、こうした上司や先輩は、決してやさしい人ではないのです。親と子の関係も、まったく同じです。そうではありませんか。

深くて、しかも巾広く

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令和3年12月9日

 

物ごとを成し遂げるには、とにかく一生懸命になることが大切です。そのためには、まず、一つのことを貫き通すことです。つまり、これだったら人には負けないぞという特技を身につけることです。

ところが、一生懸命になるのはけっこうなのですが、それだけでは足りません。なぜなら、ある段階になると、必ず専門外の知識や経験が必要になるからです。つまり、一本の樹木のみきにはえだがあるように、枝葉を学ぶことも大切なのです。具体的にいいますと、趣味や娯楽といった、専門外への関心が必要だということです。ただ、始めから枝葉ばかりを増やしてはなりません。これは大切なことです。このバランスこそ、人生の極意だからです。

真言密教の教師を阿闍梨あじゃりといいますが、経典には「阿闍梨の十三徳じゅうさんとく」が説かれ、そのすべてが必要だとされています。「①菩提心をおこし、②明慧みょうえと慈悲があり、③しゅげいべ」と十三項目が続くのですが、私が特に気になるのは③の「衆芸を綜べ」なのです。

また、孔子は「道に志し、徳にり、仁にり、芸に遊ぶ(『論語』述而篇じゅっしへん)」と述べています。ここでも「芸に遊ぶ」という表現が気になります。「綜芸を綜べ」とか「芸に遊ぶ」とはいったい何なのでしょうか。まさか、ゴルフやマージャンに通じなさいという意味とは思えません(いや、それもあるかも知れませんが)。

まず思いつくことは、一生懸命に道を貫くことは大切であるが、時には文学や芸術に接したり、旅行やスポーツを楽しむことで心をリラックスさせなさいということではないかと思います。それによって、本来の一生懸命がさらに生きて来るのではないかと思うのです。つまり深くて、しかもはば広く、教養に余裕を持った人になりなさいという意味ではないでしょうか。

こういう境地に達した人は、決して窮屈きゅうくつさというものがありません。それでいて、品格もやさしさもユーモアも兼ねているはずです。真言密教で同じ10の伝授をしても、100の力を持っている阿闍梨と10のギリギリの力しか持っていない阿闍梨では雲泥うんでいの差です。その内容がまるで違います。それはどこから来るのかと言えば、やはり深さに加えた、巾の広さではないかと私は思うのです。

三年目の浮気

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令和3年11月10日

 

昭和の終わりごろに、『三年目の浮気』というおもしろいデュエット曲が流行はやりました。まず、男側がこういう歌詞で歌い出します。

「馬鹿いってんじゃないよ お前と俺は

ケンカもしたけどひとつ屋根の下 暮らして来たんだぜ

馬鹿いってんじゃないよ お前のことだけは

一日たりとも忘れたことなど なかったぜ」

だから、この男にしてみれば、「三年目の浮気ぐらい 大目に見ろよ」と言いたいのでしょう。熱愛した二人も、三年もたつと冷めて来るのでしょうか。

しかし、この〝三年目〟という言葉には、きわめて重要な人生のキーワードがあるように私は思います。なぜなら、何をしても三年もたつと、気ごころが変わるのは人の常であるからです。

たとえば、お花やお茶を習っていても、三年近くになると、このまま続けるかどうか迷う人が多いことをご存知でしょうか。それは月謝への負担や、先生への不満といった理由があるかも知れませんが、たいていは対人関係の悩みです。続けたい気持ちはあっても、あの人に気遣きづかうのはイヤだといった感情が先行するからです。

ここが一つの山なのです。ここをガマンして続けると、また一つ大きな成長があるからです。「石の上にも三年」「いばらの道も三年」と言うではありませんか。また、僧侶の修行にも、千日回峰せんにちかいほう千座法せんざほうなどいった言葉があります。千日はつまり〔1000÷365=2.73・・・〕で、ほぼ三年です。

何をするにも、三年目の変化に気をつけましょう。そして、やめたいと思った時にそれを乗り越えて五年もすれば、必ず成果が生まれます。さらに、六年・七年でまた壁に突き当たります。また迷いながらも進めば乗り越えますが、また壁に突き当たります。この繰り返しを十年も続ければ、〝先生〟として教えることができます。そして、ついに、これを三十年も続けられるなら、その道の極意に達することも夢ではありません。

まずは三年目の山を乗り越えましょう。修行も仕事も、学問も芸事も、そして男女の仲も同じです。人間がすることに、さほどの違いはありません。みんな、同じです。「三年目の〇〇」ですよ、皆様。

性格判断

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令和3年9月25日

 

人にはさまざまな性格があります。私はたいてい、九星気学でこれを判断していますが、そのほか特に重視しているのがクレッチマーの性格類型です。クレッチマーは二十世紀におけるドイツの精神科医ですが、彼は人の性格を五つのタイプに分類しています。私なりの分類用語で、ちょっとのぞいていみましょう。

①自己顕示型

社交的で派手好き、自己主張が強く負けず嫌いな人です。他人が自分より上にいることが許せず、嫉妬心しっとしんも人一倍強いので、対人関係のトラブルが絶えません。嫌いな相手やライバルには徹底的に攻撃こうげきしますが、うまくいかないとヒステリー症状におちいります。しかし、上を目ざしてはい上がるパワーは強く、水商売や芸能人タイプと言えましょう。

②几帳面型

いわゆる几帳面きちょうめんでねばり強く、きわめてまじめな人です。だらしのない生活を極端に嫌い、ルールやセオリーをきちんと守らなければ気がすみません。持久戦に強い反面、こらえきれなくなると、癇癪かんしゃくをおこして年に一度二度と、これを爆発させます。不器用なほどのマイペースですが、一人でコツコツと成果を積み重ねる研究者タイプと言えましょう。

③柔軟性型

五つの分類では最も柔軟性じゅうなんせいに富み、まずまず無難な人です。つまり、ものごとを素直に受け入れる能力に富み、しかも七転び八起きのしぶとさにも欠きません。いささか八方美人ではありますが、人づきあいがうまく、好んで他人の面倒もみます。たくましさを持つこのタイプは政治家に多く、最後に天下人となった徳川家康がその代表的タイプと言えましょう。

④理想空想型

きわめて非社交的であり、ああくまで自分のカラに閉じこもる人です。偏屈へんくつな変わり者と見られますが、特異な才能を発揮して、世間を驚かせることもあります。繊細せんさいで空想や理想に走り、まわりの評価など気にもせず、世渡りのヘタなのが特徴です。一部の人からは熱狂的に愛されますが、一方では誤解されることも多い芸術家タイプと言えましょう。

⑤完全主義型

感受性が強く、過敏で、小さなことにこだわる神経質な人です。何ごとも完璧にやりげねば気がすまず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込むと、ノイローゼにもなりかねません。完全主義が強い反面、身辺のささいな一言が気になると、強いコンプレックスをいだきます。寒がり屋なのに暑がり屋の、いわゆる汗かきタイプと言えましょう。

もちろん、人はこの五つのタイプを複数に持ち合わせ、時に応じてどれかが強く現れるのです。私などは、この五つのすべてをそなえているようにさえ思えます。さて、皆様はいかがでしょうか。もしかして・・・。

人類はみな兄弟なのか

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令和3年2月20日

 

若い頃、十代も先祖をたどったらどのくらいの数字になるかと、マジメに計算したことがありました。

どんな人にも父母の2人がいます。その父母には4人の父母がいます。その父母にはまた8人の父母で、三代ですでに14人です。こうして続けると、五代で62人、六代で126人、七代で254人(七世の父母!)、十代では何と2,046人となりました。これは実に驚くべき数字です。

十代前となると、いつ頃なのでしょうか。現代は子供が授かる親の年齢が高くなりました。2010年、第一子を出産した女性の平均年齢がはじめて30才を超え、現在は31才ほどとされています。もちろん、昔はもっと若い時に出産しましたから、夫の年齢も含めて、親子の平均年齢差を仮に26才としましょう。十代で260年前となり、ほぼ江戸時代中期ぐらいです。つまり、江戸時代中期までに、どんな人にも2,046人の先祖がいるということです。

さらに続けましょう。二十代で2097150人、三十代では何と何と、2147483646人で21億を超えるのです。今度は親子の平均年齢差を仮に24才とすると720年前となり、たぶん鎌倉時代末期ぐらいでしょう。つまり、鎌倉時代までの先祖をたどった時、どんな人にも必ず21億を超える先祖がいて、その誰ひとりが欠けても、今日の私たちはこの世に生まれることはなかったということです。

それと、もう一つ。現代の日本人の人口は、たかが1億2千万人程度です。比べものになりません。そうすると、私たちはみな兄弟だともいえるのです。かつて、笹川良一氏が「人類はみな兄弟」とテレビCMで語っていましたが、国民はいささか冷ややかな目で見ていたはずです。しかし、こうした数字に驚くと、まんざらでもないということがわかります。

いや、それどころか、このことはお大師さまが『綜芸種智院しゅげいしゅちいんの式』(日本初の庶民学校の設立申請書)ですでに主張されていることなのです。すなわち「この世の人々がすべてわが子であるとは釈尊しゃくそんの言葉であり、世界中がみな兄弟であるとは孔子こうしの言葉である」と述べていらっしゃいます。なるほど、人類はみな兄弟と思わねばなりません。お大師さまの教えですよ。私も心がけましょう。

人間の魅力とは

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令和2年12月24日

 

今朝の目覚めに、突然に中学生時代の記憶がよみがえりました。

あれはたしか理科の授業中であったと思います。担当の先生が、「〈力〉という字が入る単語を、一人ずつ黒板に書いていってごらん」と言うのです。たぶん作用と反作用の課題から、こんなお話になったのだと思います。

生徒たちはめいめい、〈体力〉〈引力〉〈風力〉〈能力〉といった具合に、順に板書しました。後の生徒ほどなかなか思いつかず、困った顔をしていたものです。私は最後に近く、思案に暮れましたが、大きな字で〈魅力〉と書くや、一番の喝采かっさいを博しました。以来、〈魅力〉の二文字こそは、私の守護神のようにさえ思えたものでした。長らく忘れていましたが、どうやら久しぶりに守護神の呼び出しを受けたようです。

いったい、人間の魅力とは何でしょうか。トップの器であること、一芸にひいでていること、誠実であること、雄弁であることなど、思いつく要素はいくつかあります。そこで気になるのは、『呻吟語しんぎんご』という古典の言葉です。これは中国のみん代末に呂新吾りょしんごという方があらわしたものですが、私は安岡正篤まさひろ先生の『呻吟語を読む』によってこの古典の存在を知りました。

その冒頭に「深沈厚重しんちんこうじゅうなるは、これ第一等の資質。磊落豪勇らいらくごうゆうなるは、これ第二等の資質。聡明才弁そうめいさいべんなるは、これ第三の資質」とあります。つまり、落ち着いて思慮しりょ深いことが、人間の魅力として最高だと言っています。また、肝っ玉が太くて勇敢ゆうかんであることがこれに次ぐ魅力であり、意外にも、頭がよくて弁が立つは三番目の魅力だと言っています。

〈呻吟〉とは苦しみうめくことです。落ち着いて思慮深い人間になるには、苦しんでうめくほどのきびしい修養が必要だという意味なのでしょうか。自分の足りなさを指摘されたようで、とても気になったことを今でも覚えています。

落ち着いて思慮深い人間なら、どんな時でも冷静に判断し、他人からも信頼され、苦難や災難を最小限に止めることができるのです。なるほど、それが人間の魅力として最高であることは間違いありません。

ひび割れた水瓶

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令和2年6月22日

 

その昔、インドに水汲みずくみを仕事にしている男がいました。男は不思議にも、人の言葉を話す二つの大きな水瓶みずがめを主人から与えられていました。この二つの水瓶に一本の竿さおを通して肩にかつぎ、高台にある主人のやかたから遠くの川まで降り、水を汲んでから再び主人の館まで運ぶことを命ぜられていたのです。水瓶はとても重く、主人の高台までの坂道は特に大変でした。坂道を上るため、男はその水瓶を左右にかついで登っていたのでした。

ある日のこと、いつものように長い時間をかけて水を運んだところ、左側の水瓶の水が半分に減っていました。よく見ると、その水瓶のにはひび割れが入り、そこから水がれていたのです。次の日も、また次の日も、どんなに急いでも、左側の水瓶は半分に減ってしまいました。それでも、右側の水瓶は漏れることがなく、何とか必要な水を汲むことができました。そんな毎日が続いたある日、とうとう左側の水瓶が人の言葉で語りかけて来ました。

「あなたが毎日、一生懸命に水を運んでくれているのに、私の体にひび割れが入っているから水が漏れてしまいます。こんなに苦労して運んでくれているのに、水が半分に減ってしまいます。これからもこうして迷惑をかけるくらいなら、私なんか捨てられてしまった方がいいのです。どうか捨ててください」

「いいんだよ、そんなことは心配しないで。君がいなければ水は半分も汲めないじゃないか。こうして水が汲めるのも君のおかげだよ。そのうち、きっといいことがあるからね」

それから二年がたちました。男は毎日、相変わらず二つの水瓶を使って水汲みをしていました。右側の水瓶は得意でしたが、ひび割れの入った左側の水瓶はいいたたまれません。働いてもむくわれないのは、役立たずな自分のせいだから、もう捨ててくださいと何度も頼むのでした。男は毎日登っている、いつもの坂道を指さして言いました。

「見てごらん、みごとな花が咲いているじゃないか。どちら側の道に咲いているかわかるかい。君が通る左側の道に、私が花の種をまいておいたんだ。ここは雨の少ない土地だから、君が水を漏らさなければ花なんか咲くはずもない。そうだろう。この花は君が咲かせたんだよ。誰にだって、必ず取りがあるんだ。立派に役目を果たしたじゃないか。ご主人様がこの美しい花の坂道を見て、君にとても感謝していたよ」

ひび割れた水瓶は、もう喜びで涙をこらえることができませんでました。役立たずと思っていた自分が初めて報われたのです。そして、自分の尊厳を知ったのです。このひび割れた水瓶こそは、実は私たち自身のことです。

続続・男と女はどこが違うのか

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令和2年6月9日

 

男性はあくまで社会的に生きています。すべてを捨てて、一人の女性のために生きるということはできません(少なくとも、そういう傾向があります)。一方の女性は家庭的(個人的)に生きています。自分を選んでくれた一人の男性のためには、すべてを捨てるのです。だから、女性は両手で恋をしますが、男性は〝片手で〟恋をするのです。

男性は社会的に関わらないと、生きてはいけません。働かなくても生活ができれば一時は喜びますが、いずれは不安におそわれます。だから、定年後の人生が心配なのです。少しでも〝肩書き〟が欲しいのです。一方の女性は働かなくても生活ができれば、何の不安もありませんし、これほどうれしいことはありません。

男性は個人的なつながりよりも、社会的なつながりによって満足します。社会の中で、自分の位置づけがあってこそ安心するのです。地位や名誉が欲しいのは、見栄のためだけではないのです。一方の女性は、誰かと個人的につながることで安心します。特に、自分を選んでくれた一人の男性とつながっていることで安心します。

男性はきれいな女性なら〝誰でも〟さわりたいという欲望があります。これが本音なのです。女性は逆にさわられたいという欲望がありますが、しかし好きな男性からでなければ満足しません。好きな男性からさわられれば気持がいいのですが、嫌いな男性からさわられると、まるで毛虫に触れたような嫌悪感をいだきます。その夜はお風呂でゴシゴシと体を洗い、何度も除菌します。このギャップがセクハラ問題の原因です。

男性はその思考の多くを、論理によって決定します。いつ、どこで、誰が、何をしたかを記憶します。だから、〝事実〟こそが真実なのです。一方の女性は、思考より感情を優先します。何が楽しかったか、何がイヤだったかでその記憶が決定されるのです。男性がとっくに忘れている十年前の〝ひとこと〟を、急に持ち出すのはそのためです。

男性はあくまで論理的に正しく、経済的に有利で、便利であることを中心に考えます。どういうお店で食事をしたいかといえば、近くて入りやすくて、安くておいしいと思うところを選びます。一方の女性はおいしさはもちろんですが、雰囲気を基準に選びます。接待の感じがいいか悪いかが大事なのです。できれば海が見えて夜景がきれいな、そんなお店を望むのです。そして、誰と行くかに最大の関心があるのです。

男性は悲しいことがあれば、時には泣くこともあります。それはあくまで、悲しいという目の前の現実に対して泣くのです。ところが女性が泣く時は、似たような悲しみや直接に関係のない過去の悲しみが次々と連結し、涙があふれ出るのです。女性が涙もろいのは、このためです。男性は悲しいから泣きますが、女性は泣くからさらに悲しくなるのです。

もう、このへんにしましょうか。いつもこのブログを読んでくださるすべての男性に、そして男性である私のブログを読んでくださるすべての女性に感謝いたします。

続・男と女はどこが違うのか

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令和2年6月8日

 

男性どうしが集まると、こんな会話をします。「まったく、女ってヤツはわからないよな」と。また女性どうしが集まると、こんな会話をします。「いったい男の人って、何を考えているのかしらね」と。そして、人類はこんな会話を何十年、何百年、もしかすると何千年も続けてきました。男性にとって女性という存在は、女性にとって男性という存在は永遠のなぞなのです。しかし謎であるがゆえに、男女の間には恋愛という「世にも不思議な物語」が生まれるのかも知れません。

当然のことですが、男性は女性になることはできませんから、女性特有の思考や感情を理解することは困難です。それは、女性にとっても同じです。もちろん、男性にも多少の女性的要素が、女性にも男性的要素はあります。そして例外があることも事実ですが、ここでは一般論としてお話をしましょう。

そもそも男性とは、〈願望〉で生きているのです。何をなすか、何をなしげたいかなのです。そして、感情よりも思考が先行し、できるだけ多くを獲得かくとくしたいという狩猟しゅりょう本能を持っています。だから、人生の願望をより多く達成し、より多くの女性をモノにしたいと思って生きています(そういう本能が根底にあるという意味なので、誤解なさいませんよう)。ところが、女性の方は〈期待〉で生きています。何を成すかより、何をしてもらえるかなのです。思考よりも感情が先行し、保守本能を持っています。何かをしてもらって、安心していたいのです。自分が得た安心を、守っていきたいのです。そして、ただ一人の男性から愛されることを願って生きています。自分を選んでくれた一人の男性に、生涯にわたって愛情を注いでほしいと願っています。このことが、まずは男女の根本的な違いです。いっしょに生活をすれば、その思考と感情の差に亀裂が生じるのも当然なのです。

ところが、では世の男性は自分が選んだ一人の女性に愛情がないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。一生の伴侶として大切にしたいと願っていることも事実です。また女性の方は、自分を選んでくれた一人の男性以外に何の関心もないのかといえば、これまた、そんなことはないのです。ここが男女の間の矛盾であり、不可解でやっかいなところです。

私が考えた別の見解をご披露ひろうしましょう。それは、まず男性という生き物は多分に〈イヌ族〉であるということです。主人(社会)という絶対的な大義がなければ動きません。またその大義のために働くことに喜びを感じます。だから社会的に自立できなくなった時、男性はとたんに自信を失います。つまり、何かの意味を持って仕事をしていないと不安になるのです。だから、休日を返上してでも頑張がんばります。一方の女性は〈ネコ族〉です。ふとん(家庭)の上で、気持ちよく眠っていたいのです。大義だの仕事だの、どうでもよいことです。呼んでも、気分が乗らねば寄っても来ません。これは思考より感情が先行するからです。そして、自分に愛情を注いでくれる人にででもらったり、抱いてもらったりすることに喜びを感じます。「私と仕事とどっちが大事なの」という、女性の言いぶんはこうして生じるのです。このお話、まだ続けますか。

男と女はどこが違うのか

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令和2年6月5日

 

私は自分が受けてきた教育の中で、最も不満に思っていることが一つあります。それはまた、特にこれからの学校教育の中で、ぜひ採用してほしいと思っていることでもあります。これさえ採用されれば、そして実際に授業として教育されれば、多くの問題が解決するのではないか、多くの犯罪すら減るのではないかと、そこまでも考えているのです。

では、その教育とは何であるかと申しますと、「男とは何か、女とは何か」という男女学のことなのです。つまりこの世に存在する男性と女性の違いを、子供の時からしっかりと教育すべきだということです。そうすれば多くの問題や犯罪は、相当に消え去るのではないかと、そのように考えているのです。

そもそもこの世の多くの問題や犯罪は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。それほどに、男性と女性は〝別の生きもの〟なのです。体や脳の構造はもちろん、思考も感情もまったく違います。ところが、これについて私たちは家庭ではもちろん、学校においても何ひとつ教育されずに何十年も生きているのです。男女の問題こそは、人生で最も大切な課題です。生きていくうえで、何よりも知らねばならないことなのです。しかし、私たちはそんなことも知らずに学校を卒業し、就職して結婚します。そして男女が同じ職場で共に働き、一つ屋根の下で共に暮らしています。問題や犯罪が生じるのは当りまえです。

かつて、『話を聞かない男、地図の読めない女』(平成12年・主婦の友社刊)という本がべストセラーになりました。同書はオーストラリアのアラン・ピーズとバーバラ・ビーズ夫婦による共著で、「男脳・女脳テスト」も付き、特に男女の脳の違いからするどい結論を引き出しました。ビーズ夫婦は、その序文でこう語っています。「この問題の根本原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。これは科学者、人類学者、社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らされてこなかった事実だ。というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり、『政治的に正しい』ことをめざす社会では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ」と。男女の違いを語ることは、民主主義や男女平等に反するという世論に一石を投じた、勇気ある意見です。

当時、私もこの本をきっかけに、男女の違いを語った書籍をいくつか読みました。その頃のメモ書きには、「りない男、反省しない女」「男の手のうち、女の胸のうち」「男の願望、女の期待」などと残っています。そして自分が男女の違いについて、いかに無知であったかも気づき始めました。男女は協力し合うことはできても、理解し合うことはなかなかできません。夫婦も、恋人どうしも、職場の男女も、みな同じなのです。くり返しますが、この世の多くの問題は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。このお話はさらに続けますが、明日と明後日は忙しいので、ちょっと。

山路天酬密教私塾

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