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続・聖人マザー・テレサ

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令和2年7月15日

 

マザー・テレサの逸話を一つだけご紹介しましょう。

ある若い神父がマザー・テレサの「死を待つ人々の家」で、ボランティア活動をしました。彼の役割は風呂に入れた病人を、バスタオルで受け止めることでした。ところが始めてのその時、せこけて体が変形してしまった男性の病人が目の前に現れるや、驚いた彼は思わず目をそむけ、後ずさりをしてしまいました。

おじけづく若い神父を見かねたマザーは、代わりに病人をバスタオルで受け止め、体をぬぐいながら次のようにその病人に語りました。

「あなたは大切な人です。神さまはあなたを許し、そして大きな愛を注いでいらっしゃいますよ」

まるで死人にも等しいその病人は、うっすらと目を開け、喜びのほほえみを浮かべました。その若い神父は、後に次のように述懐じゅっかいしています。

「たとえ死の間際であっても、単なるあわれみや同情ではなく、一人の人間として対等に接してくれる方がいるだけで、人はあたたかい愛につつまれて生まれ変わるこができるという事実を学びました」

マザーの何気ないひと言が、まさに死を待つ病人をよみがえらせたのでした。そして、それはマザーにとって特別なことではなかったはずです。その病人を一人の人間として敬い、神さまから愛されているということを祝福したに過ぎませんでした。しかし、そのひと言は苦しみと絶望の中をさまよっていた病人にとっては、何にもまさる光明と希望であったはずです。

私たちはマザーほどの生き方はできずとも、小さな親切を積み重ねることはできます。その小さな親切が人生を豊かにして、大きな喜びとなるのです。身近な人とさり気なく心を通わし、敬意をもって親切を尽せば、やがては積もり積もって人生の宝となるのではないでしょうか。

2016年、ローマ教皇フランシスコはマザー・テレサを列聖して、「真の聖人である」と宣言しました。このような方がこの地上に現われ、このような方と同じ時代に生きられたことに感謝をしたいと思います。その姿は化粧も飾りもせず、賤民せんみんが着るとされる白い綿のサリーに青い線を入れてまとい、履物はきものといえばサンダルばかりでしたが、後光の差すような美しさでした。

聖人マザー・テレサ

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令和2年7月14日

 

マザー・テレサは1910年、現在の北マケドニア共和国に生れました。大変に聡明で十二歳にしてすでに、将来はインドの貧しい人々のために修道女として働きたいという希望を持っていました。

十八歳の時、アイルランドの修道院に入り、二十一歳ではじめてインドにおもむきました。カルカッタの聖マリア学院で地理と歴史を教え、三十四歳で校長に任命されました。三十六歳の折、休暇でダージリンに向かう汽車に乗っていた時、「すべてを捨てて貧しい人々のために働きなさい」という啓示を受けました。

「死を待つ人々の家」を開設し、約半世紀にわたってインドの貧しい人々の救済に生涯を捧げたマザーも、最初からぶれないしんの強さをもっていたわけではありませんでした。救済活動を始めた頃は、「インドにはえている人たちがごまんといるのに、そんなことをしても焼け石に水でしょう」と批判され、さすがのマザーもくじけそうになったことがありました。しかし、きびしい環境の中で献身的な活動を続けるうちに、シスターたちとの間に不動の信念がつちかわれいていきました。それは深い信仰によって支えられたきずながあったからでした。

日本にも三度ほど訪れています。1984年には、聖心女子大学でこんな講演(概略)をしました。

「日本では路上で行き倒れて死んでいく人、うみにまみれてハエにたかられている人はいません。しかし私は日本の街を歩きながら、大変なショックを受けました。どの街もきれいで、とてもにぎわっているのに、その街を歩く人々に笑顔がありません。皆さん、どこかさびしく悲しそうに見えるのです。

インドの貧しい人々は体が病んでいますが、多くの日本の方々は心を病んでぽっかりと穴が空いているのではないでしょうか。貧しい人々には体をケアする必要がありますが、さびしい思いをしている日本の方々には心のケアが必要かも知れません。どうかやさしい言葉をかけてあげてください。あたたかい笑顔を見せてあげてください。それは私がインドの貧しい人々にしていることと、まったく同じことなのです」

マザーは日本に対しても深い思いやりを示し、人々に愛の言葉を残しました。そして、その活動は世界的に高く評価され、1979年にはノーベル平和賞も贈られています。1997年、マザーはカルカッタで八十七歳の生涯を閉じました。その葬儀はインド政府によって、国葬として挙行されました。

続続・今なぜ二宮尊徳か

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令和2年7月13日

 

二宮尊徳の言葉を続けましょう。

「富と貧とは、遠く隔たったものではない。ほんの少しの隔たりであって、それはただ一つの心がけである。貧者は昨日のために今日をつとめ、昨年のために今年をつとめる。それゆえ、苦しみは絶えることがない。富者は明日のために今日をつとめ、来年のために今年をつとめる。だから、思うことがよく叶うのである」

貧富の差は、ほんの少しの心がけだと言っています。勤勉な人は未来に向かって働き、勤勉を怠る人は過去の埋め合わせのために働くという意味でしょう。その埋め合わせのために借金をすれば、またそれを埋め合わせるために借金をせねばなりません。これが現代の借金地獄です。欲しいものがあるからすぐにローンを使うのではなく、働いて賃金を得て、その後に本当に必要かどうかを考えるのが経済の基本です。

「人はみな、財貨は富者のところに集まると思っているが、そうではない。節倹せっけんで勤勉なところに集まるのである。百円の収入を八十円、七十円で暮らせば、財が集まり富がやって来る。百円の収入を百二十円、百三十円で暮らせば、財が去り貧がやって来る」

きびしいことを言っていますが、当然のことです。節倹せっけん(倹約)など流行はやらぬ時代と思うかも知れませんが、この油断が貧の原因、貧の原因が不幸の原因です。尊徳は貧しさが人を卑屈ひくつにし、怠惰たいだにし、絶望させることを誰よりも知っていました。その七十年の生涯は、貧困からの脱出をいかにして実現するかの一点でした。

「衰えた村を復興させるには、篤実精励とくじつせいれいな良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼ほういつぶらいの貧民がついに化して良民となるように導くことである」

これが人を導くにあたっての、尊徳の方法でした。正直で善良な人をまずめ、表彰して村の模範としました。怠惰たいだな貧民は離散するにまかせ、やがて改心する日をじっと待つのでした。成果が上がれば、人は必ず帰って来ます。その時こそ賃金を与え、衣服を与え、家を与え、支援を惜しみませんでした。

「富める者は必ずといってよいほど、前の前から徳を積んでいる。今日を安楽に暮らせるのは、父母や祖父母が勤勉にして徳を積み、よく働いたからである。それを考えれば子孫のため、今日の精進が何よりも大切である」

積善の家には、必ず余慶よけい(よいこと)があるのです。だから、幸運も福徳も先祖のおかげと思い、その法恩を忘れてはなりません。そして、私たちの生き方が子や孫に継がれることも忘れてはなりません。徳を積むことが富への道であることを教えない教育の荒廃こうはいを、尊徳は予言していたのでしょうか。

続・今なぜ二宮尊徳か

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令和2年7月12日

 

尊徳・二宮金次郎は現代の小田原市栢山かやまの農家に生れました。四歳の折に酒匂川さかわがわ氾濫はんらんで一家の田畑は流失し、さらに十三歳で父を亡くし、十五歳で母を亡くし、叔父おじの家に引き取られました。少年金次郎は昼は叔父の農業を手伝い、夜は父が残した書物を読み、学問に励みました。叔父から灯油が減ると苦情を言われるや、友人から一握ひとにぎりの菜種なたねを借り、それを空き地にきました。そして、一年後には百五十倍の菜種を収穫し、その灯油をもって学問を続けました。

また、農民が捨てた稲苗を拾い集め、荒れ地を耕してこれを植えました。秋になると一俵いっぴょう余りの収穫となり、その喜びと発見が生涯の教訓となりました。すなわち、「小を積んで大となす」の鉄則を知ったのです。こうした少年期の経験が、後の偉業の原点であることは十分に得心されましょう。やがて生家に帰った金次郎は少しずつ田畑を買い戻し、三十一歳にして立派な大地主となりました。その実績を買われて、家老・服部家の財政を立て直し、藩主・大久保忠真ただざね公の依頼で桜町さくらまち領(栃木県芳賀郡)の廃村復興を手始めに、数々の藩政再建にも着手していきます。

では、金次郎こと二宮尊徳の言葉を聞いてみましょう。

「大事をなさんと思う者は、まず小事をおこたらず努めねばならない。一万石の米も一粒ずつ積んだもの、一万町の田は一鍬ひとくわずつ積んだもの、万里の道も一歩ずつ積んだもの、高い築山も一杯ずつ積んだものである。だから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する」

尊徳は勤労をその数でイメージさせ、学問のない農民にもやる気をおこさせる達人でした。一反いったんを耕すにくわは三万回以上、稲苗は一万五千株、実った米粒は六万四千八百粒余りと、それを目標に小さな努力から始めさせました。その著書『天徳現量鏡てんとくげんりょうきょう』では百八十年にも及ぶ利息計算を示し、小さな努力がいかに大きな利益をもたらすかを説いています。

「早起きをして稲を多く得る。稲を多く得て米を多く得る。米を多く得て馬を多く得る。馬を多く得て田を多く得る。田を多く得て貸し金を得る。貸し金を多く得て利息を得る。富を得るには、まず早起きをすることである」

早起きをして働くか否かは、一里の差となり、二里の差ともなると尊徳は説きます。富を得るのもそのとおり、貧におちいるのもそのとおりと説きます。早起きをして働くことが、富を得る道であることをくり返し語りました。

「米を見てただちに米を得ん(食べん)と欲する者は、盗賊禽獣とうぞくきんじゅうに等しい。人たる者はすべからく米をいて、後に米を得ることである。楽しみを見てただちに楽しみを得んと欲する者は、盗賊禽獣に等しい。人はすべからく勤労して、しかる後に楽しみを得ることである」

現代はまじめに働くことを、バカにする人すらいます。もちろん、遊んで収入が得られるほど、人生は甘くはありません。後の楽しみのために働くのは当然のことです。尊徳の言葉、明日も続けましょう。

今なぜ二宮尊徳か

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令和2年7月11日

 

多くの日本人が知っているとおり、昔の小学校には二宮金次郎(後の二宮尊徳そんとく)の石像かブロンズ像がありました。

ところが、今はほどんど見ることがありません。なぜなら、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を見せることはよくない」「戦時教育の名残なごりを感じる」などといった意見に加え、「歩きながらスマートフォンを操作する行為を肯定しかねない」といった声があるからです。そこで、そのままの姿で腰かけた像も作られましたが、普及には至りませんでした。しかしその反面、二宮尊徳の偉大さが少しずつ見なおされ、その教えがよみがえりつつあることもまた事実です。

実は、私も二宮尊徳こそは、今の日本で最も再評価されるべき人物だと思っています。なぜなら、彼こそはすぐれた道徳者であると共に、経済という仕組みをわかりやすく教えてくれるからです。道徳者の多くはややもすると精神的な一面に片寄りがちですが、彼はいかにしたら貧困からぬけ出せるか、つまりとみを得るにはどうしたらいいかを多くの農民に教え、これを実現しました。このことは、富と人生の幸せを別にして考えることのできない現代の日本人には、最も必要なことに違いありません。

私たちはほとんど、「お金がなくても幸せになれる」とは思いがたい時代に生きています。それは多くの藩政が破綻はたんし、過酷な年貢米ねんぐまいの取り立てで農民がに苦しんでいた幕末も同じです。その時代、二宮尊徳は六百二十町村の財政再建を成功させ、農民の貧困を救い、田畑の技術向上を指導するという驚異的な偉業を達成しました。人の生き方を教え、人の心に種をまき、人の道徳力を高めながら、富を得る方法を伝えたのです。二百余年の時を超えて、現代に甦らぬはずがありません。

改めて申し上げますが、昔の小学校には柴木しばきを背負い、寸暇すんかを惜しんで本を読みながら山道を歩く二宮金次郎像がありました。それは貧しくとも親を助け、本を読んで勉学に励み、道徳を守って努力をすれば、必ず富を得ることができるという無言の励ましを日本中の子どもたちに与えていたのです。そして、農民の子に学問などいらぬといわれた時代、学問こそが人生の道を開き、富を得る方法であることを私たちに残してくれたのです。

昭和20年、日本は敗戦国となりました。そして七年間の占領政策を終え、帰国にあたったGHQ情報局長のインボーデン少佐は二宮金次郎像を持ち帰り、これを自宅の庭に立てました。日本人の原動力が、この小さな像にあることを知っていたからです。戦後の経済発展と小学校の二宮金次郎像が、まったく無関係であったとは思えません。明日は、金次郎こと二宮尊徳の言葉をお伝えします。

肝のすわった僧侶

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令和2年6月30日

 

宮城県の松島は「日本三景」の一つに数えられる、天下の名勝です。そして、松島の古刹こさつといえば瑞巌寺ずいがんじです。伊達政宗ゆかりの寺としても有名ですが、幾多の変遷へんせんを経て、江戸時代に雲居うんご禅師によって興隆しました。この雲居禅師、松島の中の〈雄島おじま〉と呼ばれる小島の岩窟がんくつがよほど気に入ったのか、毎日ここで座禅をして、深夜に寺に帰るのが日課になっていました。瑞巌寺からさほどに遠い距離ではありませんでしたが、老杉や古松がうっそうとして昼でも薄暗い道です。村の人々は気味悪がって、めったに通ることもありませんでした。

さて、村の若い者が集まれば、いたずら心と遊び心は常のこと。いったい、この禅師がどのくらい度胸がすわっているのか、試そうじゃないかということになりました。つまり、何とかして驚かせてやろうということになったのです。

禅師が雄島から帰る時刻はわかっていましたから、おのおの、それぞれの部処について待ち受けることとなりました。墓場の影に隠れる者、木に登ってうかがう者、うずくまって待ち受ける者、それぞれです。それぞれの所で、禅師が近づいたら、仰天させてやろうと若者たちは得意げでした。

夜はしんしんと更けわたり、一面は妖気ようきにつつまれる頃となりました。そろそろ、禅師が帰る時刻です。すると、かなたよりゲタの音を運ばせながら、禅師が静かに近づいて来ました。若者たちは息をのんで、これを待ち構えました。

ある松の下に差しかかったその時、樹の上から禅師の頭をグッとつかんだ〝もの〟がありました。禅師は身じろぎもせず、ただ立ち止まって動きません。つかんだ方も、息を殺して動きません。ウンともスンとも言わず、静寂の時間が続きました。つかんだ方は決まりが悪くなりました。気がぬけてしまったのです。仕方なしに、つかんでいたその手をそっと離しました。手が離れると、禅師は何ごともなかったかのように、また歩き出して寺に帰りました。

その翌日、若者たちは何くわぬ顔つきで禅師のもとを訪ねました。そして談たけなわの頃、あの森では妖怪ようかいが出るなどと、知らんふりをして話題に出しました。そこで禅師は、こう語りました。

「うん、昨夜は松の木の下で頭をつかまれたよ。じっと立っていたら、だんだん五本の指先が暖かくなってな。妖怪ではないとわかった。人間のにおいじゃったよ。そういえば、お前さんたちのこの臭いと同じじゃったなあ」

若者たちはほうほうのていで逃げ去りました。きものすわった僧侶とは、こういう方のことなのでしょう。さすがですね。

三遊亭圓朝の誕生秘話

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令和2年6月29日

 

初代・三遊亭圓朝さんゆうていえんちょうは、幕末から明治にかけて活躍した落語家です。落語中興の祖と呼ばれ、歴代名人の筆頭ともされています。特にお笑いの滑稽噺こっけいばなしより人情噺にんじょうばなしの評価においては、古今独歩の地位にあるといえましょう。

もちろん、名人として世に知られるまでには、並々ならぬ辛苦しんくがあったことは申すまでもありません。まだ小圓太こえんたと名乗っていた修行時代、師匠ししょう圓正えんしょうの家では、お使いや掃除そうじばかりさせられていました。師匠が寄席に向かう場合も、当然おともとしてついて歩かねばなりません。電車もバスもありませんから、遠い道のりでも師匠の荷物を持って歩けば、疲れもするし、空腹にもなります。

ある冬の夜、師匠がめずらしく「蕎麦そばでも食っていくか」と言って、暖簾のれんをくぐりました。小圓太は自分も一杯食べさせてもらえれば、冷え切った体も温まるだろうと喜びました。ところが席に着いたのは師匠だけで、しかも天ぷら蕎麦とお酒を一人前しか注文しません。そして、お酒を飲みながら天ぷら蕎麦をうまそうに食べてしまうと、さっさとお代を払って出て行きました。そして、後ろをふり向くと、「蕎麦が食いたかったら、早く真打しんうち(高座で一番の出演者)になれよ」と、それだけでした。

弟子入りして二年余りになっても、一度としてはなし稽古けいこをつけてくれません。とうとう我慢がまんできずに、そのことを師匠に願い出ました。すると師匠は、「では寒いだろうが、明日は夜明けまでに来い」と言います。翌日、小圓太は眠気ねむけも寒さも忘れて、師匠の家にけつけました。ところが、言いつけられたのは庭掃除です。小圓太が池のところをほうきではいていると、師匠がいきなり氷の池に突き飛ばしました。氷をくだいて全身ずぶぬれです.それでも、こごえる体で着がえを済ませて庭に出ると、師匠がスズメに米粒をいていました。一羽のスズメが食べ終わると、樹の枝にとまりました。また別の一羽が食べ終わると、一段上の枝にとまりました。師匠はそれを、ジーッと見つめています。そして、「もう、稽古は済んだぞ」と言うのです。小圓太は何のことやらわかりません。そして、師匠が言いました。

「高座で空腹のはなしをする時は、あの蕎麦そばのことを思い出せ。眠い時や体がこごえた時の話をする時は、さっきのことを思い出せ。そうすれば、はなしが真にせまる。このスズメを見ろ。下のスズメと上のスズメを見る時は、目線を移さねばならん。わしはそれを教えたんじゃ。だから稽古は済んだと言ったんじゃよ」

小圓太は初めて、師匠の厚い情けを知りました。こうまでして、弟子である自分を仕込んでくれている師匠の慈悲を知りました。名人・三遊亭圓朝の誕生秘話です。

画僧月僊の偉業

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令和2年6月16日

 

江戸時代の後期、伊勢山田の寂照寺じゃくしょうじ月僊げっせんという異端な画僧がいました。名古屋の味噌商の家に生まれ、七歳で浄土宗の僧侶となり、十歳で江戸の増上寺ぞうじょうじで修行をしました。そのかたわら、雪舟せっしゅう様式の画人・桜井雪館さくらいせっかんの門下となって絵も学びました。その後は京都の知恩院に住して、円山応挙まるやまおうきょにも師事しました。そして写実的表現も習得して、独自の画風を確立したのでした。残された絵を見ても、深い玄妙の境地に感銘を受けます。

三十四歳で荒廃こうはいした寂照寺を再興するため、その住職となりました。そして、ここからいろいろな逸話が生まれます。まず画料が高いことで、世の批判を浴びました。絵はすばらしいが、何といっても値段の話が先なので、人々は「乞食こじき月僊」などとまで呼ぶ有様でした。「この半切でしたら、二両でしょうな」「このような絹に人物を描くなら、三両です」といった具合で、絵の依頼はすべて値段で決まるのです。それでも絵の評価は高まる一方で、依頼者が絶えません。

時には遊女からの依頼さえありましたが、月僊は悪びれもなく法衣を着て遊郭ゆうかくに出向きました。遊女の白の腰巻に描いて欲しいとの希望には、「そうですな、一両二分でよろしゅうございますか」と言うや、さっさと持ち帰り、みごとな花鳥を描いて来てそれを遊女に差し出しました。遊女はまるで鳥にエサをくれるようなしぐさで画料を放り投げました。月僊はそれをていねいに拾い集め、何度も礼を言って立ち去りました。気品も威厳もない、まさに異端いたんな「乞食月僊」だったのです。

文化六年の正月、月僊は寂照寺で六十七歳の生涯を閉じました。ところが遺品を整理するや、おびただしい契約書や領収書、設計図や人足にんそく手間賃の控えが山のように出て来たのです。それらはみな、伊勢参宮道路の修理や橋の普請に関するものばかりで、人々が驚いたのも無理はありません。当時の伊勢では、道路も橋もひんぱんに修理されて参拝者に喜ばれましたが、みな奉行所の仕事と思っていたのです。それらはすべて、月僊の画料によって支払われていたのでした。

また死に臨んでの遺言では、窮民救済金として千五百両を奉行所に託しました。飢饉ききんに備えて永代的な計画まで立てていたのです。これらは後に、「月僊金」としてその利子が活用されました。人々は月僊の死後、その功徳に服したのでしす。もちろん寂照寺の本堂や山門などの復興も果たし、経典の購入も怠りませんでした。

まことに、偉業と讃えるほかはありません。そして、こうした偉業とは人知れぬ陰徳いんとくから生まれることも憶念されるのです。その高風は今なお、多くの人々から慕われています。月僊の作品は京都の妙法院、三重県立美術館、岡崎光昌寺、そして寂照寺にも保管されています。

『般若心経』百万巻読誦の功徳

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令和2年1月28日

 

人は何もかも与えられることはありませんが、何もかも失うこともありません。

江戸時代の中期、とてつもない天才がいました。名を塙保己一はなわほきのいちといいます。今の埼玉県本庄市ほんじょうしに生れましたが、五歳で失明し、十二歳で母と死別しました。しかし、彼はずばぬけた記憶力を天から授かりました。読んでもらった日本の典籍を、ことごとく暗記することができたのです。彼は人が読んでくれる文字を、心底に写してこれを熟読したのでした

二十七歳の折、亀戸かめいど天満宮(現・東京都江東区)に参詣して一万日(二十七年)の間、毎日『般若心経』百巻を読誦どくじゅする誓願せいがんを立てました。つまり、一万日で百万巻読誦を目ざしたのです。これは大事をなすには、神仏のご加護なくしてありえないという信念からの決心だったのでしょう。しかも彼は、半ばの五十万巻に達するまでに、千冊の典籍を読んでもらい、百万巻終了の折には記憶したすべての典籍を出版しようとまで考えたのでした。

彼は『般若心経』十巻を読誦するたびに、紙のこよりを小箱に入れ、妻がそれを数えて記録しました。彼は一万日で百万巻はおろか、七十六歳で没するまでの四十三年間、毎日の読誦を一日として怠りませんでした。その四十三年間の読誦は、何と二百一万八千六百九十巻とまでいわれています。

そして彼は、記憶したすべての典籍を集成して、『群書類従ぐんしょるいじゅう』正編五百三十巻、続編千百五十巻という膨大ぼうだいな出版を完成させました。これは典籍の定本と伝本を比較校訂までも含めた、まさに前人未到の偉業でありました。今日でもなお、国学研究に大きな貢献をしています。

いったい、人が読んでくれる文字をここまで心底に写し、記憶できるものなのでしょうか。彼の超人的な努力はもちろんでありますが、私たちの常識を超越したその才能は『般若心経』読誦の功徳というよりほかはありません。人はすべてを失ったように見えても、天から与えられた何かがあるのです。このような偉人がいたことは、この国の誇りであります。

猛女とよばれた淑女

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令和2年1月21日

 

一昨日、斎藤茂吉さいとうもきち茂太しげた父子の厄よけ法をお話しました。そして、茂太の母親のことも、ちょっとだけ紹介しました。

この母親、つまり茂吉の妻がまたとんでもない女性で、「猛女もうじょ」とまで呼ばれました。名を斎藤輝子さいとうてることいい、八十九歳で大往生をげるまで、まさに波乱万丈の人生を過ごしました。

彼女は明治二十八年、東京青山のローマ式大病院のお嬢様として生まれ、学習院女学部に通い、早くから女性雑誌のグラビアを飾りました。「王者の誇りをもった緋牡丹ひぼたん」がそのキャッチコピーであったようです。何ごとにも一流を好み、権威をもろともせず、常に前向きでマイペースでありました。関東大震災・青山大病院の全焼・東京大空襲さえも、気骨をもって無事に乗り越えました。

一方の茂吉は「神童」とまで呼ばれた秀才でしたが、山形の貧しい農家の生まれで、ウマが合うはずがありません。また、愛弟子まなでし・永井ふさ子との恋愛問題も重なり、二人は長らく別居生活が続きました。しかし彼女も、最後は郷里で寝たきりになった茂吉を献身的に介護し、寄り添う日々を過ごしました。

そして、茂吉の死後は海外渡航97回、訪れた国が108ケ国、その距離は地球36周分でありました。中でも七十九歳で南極、八十一歳でエベレスト、八十五歳でガラパゴスなどは驚嘆きょうたんに尽きましょう。多いに〝元気〟をもらえるエピソードです。さらに興味のある方は、孫娘・斎藤由香さんの著書『猛女もうじょとよばれた淑女しゅくじょ』(新潮文庫)をご覧ください。

一昨日、あえて斎藤輝子の名を出さなかったのは、ここで紹介したかったからです。皆様、このブログを読んで元気になりましょう。

山路天酬密教私塾

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