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偶然なのか、必然なのか

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令和5年4月21日

 

昨年の8月、京セラや第二電電の創業者であった稲盛和夫さんが亡くなりました。現代における最もすぐれた経営者として、私はその著書もかなり愛読して来ました。特に「社員が幸せでなければ、お客様を幸せにはできない」という経営理念は日本航空再建にも反映され、大きな業績を残し得たと思っています。

私は昨年11月に『九星気学立命法きゅうせいきがくりつめいほう』を刊行し、占いの本でありながら積徳による運命改善法、すなわち〈立命りつめい〉の大切さを力説しました。運命が何によって決定していくかを仏教の宿業論しゅくごうろん(生き方が運命そのものになるという教え)に基づき、日常生活の中で徳が積めるよう提唱したつもりです。また、その代表的な実例として、袁了凡えんりょうぼん(中国みん代の人)の『陰隲録いんしつろく』という古典も紹介しました。

ところが、まったく同じ昨年11月、月間『致知ちち』が「追悼特集・稲盛和夫」を刊行し、稲盛さんがこの『陰隲録』を人生の指針にしていた事実を知りました(写真)。偶然なのか必然なのか、私はこの奇妙な一致に、自らの運命さえも実感したものです。人生にはこんなこともあるという驚きは、今でも鮮明に残っています。

稲盛さんは講演の中で、次のように語っています。

「私自身が仕事を通じて、この『陰隲録』に出会い、自分の心の在り方によって、人生は地獄にも極楽にも変わっていくことに気がつき、そして自分の心にできるだけ善き思いを描き、善き思いを実行していくことに努めてきた結果、すばらしい事業の展開をできましたし、私も本当に幸せな人生を送っています。苦労もしました。たいへん厳しい人生を必死で生きてきましたが、しかしそれにしても、何と素晴らしい人生であったことかと。こんな幸福な人生はなかったと、心から思っておりまして・・・」

机上の空論とは違って、現実味があります。人生は心がけです。その心がけが徳となり、運命となるのです。さすがだと思いました。稲盛さんの経営手腕は、こうした心がけから生れ出たものであることを、改めて得心させられます。

私はこの記事を読んで、〈立命〉に対する自分の責務を痛感し、いっそうの励みとしました。人生は出会いだといいますが、出会いはまた別れでもあります。お別れした稲盛さんに、慎んで哀悼の意を表したいと思います。合掌

第一等の人物とは

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令和5年4月19日

 

中国のみん代末に呂新吾りょしんごという人がいて、『呻吟語しんぎんご』なる名著を残しています。もっとも私は、安岡正篤やすおかまさひろ先生の『呻吟語を読む』(致知出版社・写真)によって、その一端に触れたのみで、原書の1840章に接したわけではありません。しかし、人間に対するその深い洞察には、恐るべきべき名言が散りばめられ、私は深い感動に誘われました。

たとえば人間の資質について、私たちは聡明で弁が立ち、勇気ある人なら誰もが尊敬するはずです。ところが同書では、「深沈重厚しんじんじゅうこうなるは第一等の資質、磊落豪勇らいらくごうゆうなるは第二等の資質、聡明弁才そうめいべんざいなるは第三等の資質」と力説しています。私はこの主張に、とても驚きました。

落ち着きがあって厚みと重みのある人物が第一等だといっているのです。次いで豪胆ごうたんで器の大きい人物が第二等、頭がよくて雄弁な人物は第三等だといっています。私たちの一般のみかたと、まるで逆です。これはどういうことなのかを考えてみますと、聡明で弁が立つ人物というのは、あまりに鋭く、とかく自分の才能におぼれてしまうということなのでしょう。才能は才能のゆえに失敗をするものです。そのような例を、私も目の当たりにした経験があります。

また磊落豪勇な人物は、とかくその勢いに暴走するものです。自分の大胆さを誇示したがるからなのでしょう。リスクを背負ったあぶない冒険が、そう何度もうまくいくはずがないのです。暴走を続ければ、二度と立ち上がれぬ深みにはまってしまうかも知れません。

こうして考えると、深沈厚重の人物を第一等とする意味がわかってきます。慎重にして思慮に富み、情けにもあつく、それでいて鉄のような意志を秘めている人物ならば、誰もがリーダーとしてこれを仰ぐに違いありません。これは確かなことです。また、現代ほど深沈厚重の徳が求められる時代もないはずです。

よい本に出会えました。山奥でスミレを見ながらにぎり飯を口にしたようで、いずれは精神の栄養となり、私の人生に役立ってくれるに違いありません。皆様もぜひご一読ください。

命がけの聖火台

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令和3年7月22日

 

いよいよ〈2020年オリンピック・パラリンピック東京大会〉が始まります。コロナ禍での賛否両論もあれば、いろいろな問題が次々に浮上して波乱な幕開けとなりました。日本選手の活躍を期待する以上に、まずは無事に大会が終了することを願ってやみません。

オリンピックに関して、私がこれまで何度もお話してきたことは、1964年の東京大会でした。その当時、私は小学生でしたので、学校に一台だけあったテレビで観戦した以外は何もわかりませんでした。しかし、やがて年齢を経て知ったことは、これがあの敗戦からたった19年目であったという驚くべき事実です。

東京が空襲くうしゅうで焼野が原となり、食べるものもなく、橋の下やドカンの中で暮らしていた日本人が、19年であそこまで成し遂げたという事実を何と説明しらよいのでしょうか。少ない資材(鉄)で東京タワーを建て、首都高速道路や東海道新幹線を開通させ、数々の競技場を建設し、世界に恥じないフランス料理で外国人選手をもてなしました。

そして、私が特に感動したのは、旧国立競技場聖火台の逸話です。あの聖火台は川口市の鋳物師いもじである鈴木萬之介・文吾さん親子二代が完成させました。納期3ヶ月、予算20万円という割に合わない依頼は、どの鋳物師も大手企業も断りました。しかし、萬之助さんは「お国の大事を断っては鋳物師の恥だ!」と言って、これを引き受けました。家族はもちろん、反対だったようです。

ところが、直系2、1メートル、重さ4トンの聖火台など、誰も作ったことがありません。やっと鋳型いがたが出来あがったものの、湯入ゆいれをしたとたんに爆発を起こしてしまったのです。萬之助さんはあまりの心労とショックで寝込んでしまい、8日後に息を引き取りました。納期まで、わずか1ヶ月のことでした。

文吾さんは萬之助さんの遺志を継ぎ、それこそ不眠不休で取りかれたように仕事に没頭し、ついにこれを完成させました。そして、オリンピック終了後も毎年10月10日(開会式が行われた日)には夫婦で旧国立競技場に出向き、ごま油で丹念に聖火台をみがいていましたが、2008年に他界しました。

私たちはこのような職人の業績を、忘れるべきではありません。割に合わない仕事は、歴史に残る偉業ともなるのです。「命がけの聖火台」は被災地復興のシンボルともなり、今後は新国競技場に保存され、後世へと語り継がれることでしょう。

天佑神助

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令和3年6月27日

 

日露戦争における日本の奇跡的な勝利は、〈天佑神助てんゆうしんじょ〉であったかも知れません。天のたすけと神のたすけです。日本が頼みとするこの言葉は、司馬遼太郎著の『坂の上の雲』にもその記載があります。

児玉源太郎大将や乃木将軍の率いる陸軍は、難攻不落なんこうふらくとされた旅順りょじゅん要塞ようさいを二〇三高地の攻略から陥落させ、東郷平八郎司令長官の率いる海軍は、秋山真之さねゆきの作戦によって世界最強とされたロシアのバロチック艦隊を日本海海戦で撃破げきはしました。当時の日本の兵力からすれば考えられないことで、まさに天佑神助であったといえましょう。

しかし、この奇跡的な勝利は人の寿命を縮めるほどの犠牲の上にあったことを忘れてはなりません。『坂の上の雲』ではこのことを、「作戦上の心労のあまり寿命をを縮めてしまったのが陸戦の児玉源太郎であり、気を狂わせてしまったのが海戦の秋山真之である」と特記しています。思考のかぎりを尽くし、脳漿のうしょうをしぼり切れば、心身は疲労困憊こんぱいし、気が狂いそうになるのでしょう。そして、日本の天佑神助は、こうした軍人の犠牲があっての顕現だったのです。

よくお話をするのですが、人はよく「人事を尽くして天命を待つ」などと言います。しかし、この名言は天命を待つことばかりが力説され、その天命がいかほどの人事によって成り立つかは何も語っていません。多くの人が「ほどほどに努力をして、後は天命を待てばよい」くらいにしか考えていないからです。しかし、そんな程度で天命がやって来るなら、どこへ行っても天才ばかりがゴロゴロすることでしょう。

悲運では名将にはなれませんが、天命も運のよさも、そして天佑神助も、気が狂うほどの努力をせずして引き寄せることはできません。神秘的な奇跡は人の努力から生れるからです。久しぶりに大作を読み、そんな考えに至ったことをお伝えしておきましょう。

まことに運のいい男

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令和3年6月24日

 

六月に入ってから、私は司馬遼太郎著の『坂の上の雲(一)~(八)』(文春文庫)を枕元まくらもとに積み上げ、毎晩少しずつ読んできました。著者がこの大作を書くにあったっては、東京中の古書店から日露戦争に関する資料が一冊残らず消えたというエピソードがあります。たしか、トラック二台分もの古書を著者が買い求め、大阪の自宅に運んだからです。歴史家の中には、文中の内容に疑問を投げかける方もおりますが、小説としてはすばらしいい作品です。

この小説は連合艦隊の作戦参謀・秋山真之あきやまさねゆきを主人公としていますが、兄の秋山好古あきやまよしふるや俳人・正岡子規まさおかしきもかなり登場します。もちろん、明治天皇や乃木希典のぎまれすけ将軍、陸軍大将・児玉源太郎こだまげんたろう、海軍大将・山本権兵衛やまもとごんべい、連合艦隊司令長官・東郷平八郎とうごうへいはちろうといった偉人の存在も見逃せません。印象に残った場面や会話には赤線を引きつつ眠りにき、昨夜、その全巻を読み終えました。その赤線の一つをご紹介しましょう。

日露関係の緊張も風雲急をつげ、いよいよ開戦やむなしとなった折、明治天皇より山本権兵衛に、「連合艦隊司令長官に、なぜ東郷平八郎を選んだのか」とのご下問がありました。

山本はそれに対して、「東郷はまことに運のいい男だからであります」と意外な返答をしました。

世界最強のバロチック艦隊から日本を救い得るためには、強靭な〈運〉が必要だったからです。伝えによれば、東郷は「たまの当たらない長官」として有名でした。〈運〉こそは才能以上の才能、究極の才能なのでしょう。難攻なんこう不落ふらくとされた陸軍のあの旅順りょじゅん攻略も、何万という死傷者を出しつつ、児玉・乃木両将軍の強運がなければ達せられたとは思いません。

私は中学生の折は柔道に専念しましたが、稽古中に仲間が骨折をした時はよく近くの接骨院にかつぎ込んだものでした。そこの先生も柔道の師範であったからです。玄関に入ると東郷平八郎の扁額があり、その独特の花押かおう(書きはん)を今でも克明に覚えています。花押への関心もそこから始まりましたが、はたして、運のいい男の功徳をいただけたでしょうか。

怒っても出ないでしょう

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令和3年2月17日

 

私がよく用いる辞書の一つに、中村元なかむらはじめ博士(故人)の『佛教語大辞典』(東京書籍)全三巻があります。特に重要な仏教用語について、わかっているつもりでも再確認をしなければならない時、これほど至便な辞書はありません。所蔵している仏教事典はほかにもいくつかありますが、私は何をおいても、まずはこの辞書を引くことにしています。それだけに、日頃から多大な恩恵を受けていることは間違いがありません。

実は、中村博士がこの辞書を刊行するまでには、言語に絶する苦難がありました。博士はもちろん当時における日本仏教学の最高峰でありましたが、この原稿に19年以上をかけ、1967年に200字詰め原稿用紙4万枚に3万語を収録して完成させました。そして、その原稿を木製のリンゴ箱に入れて出版社に渡したのでした。

ところが当時、その出版社は道路拡張のために移転を強いられてたのです。その移転騒動のさ中、事件が起きました。膨大ぼうだいな荷物に埋もれる中、その木箱を紛失してしまったのです。たぶん、ゴミ箱と間違えられたのでしょう。出入りの回収業者や製紙会社にも問い合わせましたが、何の手がかりもありません。新聞には懸賞つきで捜索そうさく願いを掲載し、テレビにも放映されましたが、発見には至りませんでした。

博士はもちろん、茫然自失ぼうぜんじしつ。土足で顔を踏みつけられたような恥辱ちじょく無念むねんの日が続きました。もちろん出版社は博士を訪ね、手をついて謝罪しました。しかし、博士はきわめて冷静に、「怒っても出ないでしょう」と語りました。これは有名な発言です。何と寛大無比な心でしょう。こんな人物が、こんな学者がいるとは思えません。出版社にとっては、観音さまのような大慈大悲に接したはずです。

そして、不死鳥のように意を決した博士は、この執筆を再度やり直すを決断しました。大学関係者や学生数十人に依頼し、分担作業を開始したのです。しかし、分担での原稿にはムラがあり、最後は博士自らが執筆せねばなりませんでした。この間には学園紛争が勃発ぼっぱつし、執筆の場所も転々としました。洛子夫人の支えも大きかったことでしょう。

こうして1975年、再開より8年余り、着手より30年、収録数4万5千の『佛教語大辞典』がついに刊行されました。同辞書は毎日出版文化賞に輝き、翌年には文化勲章が授与されました。この偉人ありて、この辞書があるのです。「怒っても出ないでしょう」と。

続・聖人マザー・テレサ

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令和2年7月15日

 

マザー・テレサの逸話を一つだけご紹介しましょう。

ある若い神父がマザー・テレサの「死を待つ人々の家」で、ボランティア活動をしました。彼の役割は風呂に入れた病人を、バスタオルで受け止めることでした。ところが始めてのその時、せこけて体が変形してしまった男性の病人が目の前に現れるや、驚いた彼は思わず目をそむけ、後ずさりをしてしまいました。

おじけづく若い神父を見かねたマザーは、代わりに病人をバスタオルで受け止め、体をぬぐいながら次のようにその病人に語りました。

「あなたは大切な人です。神さまはあなたを許し、そして大きな愛を注いでいらっしゃいますよ」

まるで死人にも等しいその病人は、うっすらと目を開け、喜びのほほえみを浮かべました。その若い神父は、後に次のように述懐じゅっかいしています。

「たとえ死の間際であっても、単なるあわれみや同情ではなく、一人の人間として対等に接してくれる方がいるだけで、人はあたたかい愛につつまれて生まれ変わるこができるという事実を学びました」

マザーの何気ないひと言が、まさに死を待つ病人をよみがえらせたのでした。そして、それはマザーにとって特別なことではなかったはずです。その病人を一人の人間として敬い、神さまから愛されているということを祝福したに過ぎませんでした。しかし、そのひと言は苦しみと絶望の中をさまよっていた病人にとっては、何にもまさる光明と希望であったはずです。

私たちはマザーほどの生き方はできずとも、小さな親切を積み重ねることはできます。その小さな親切が人生を豊かにして、大きな喜びとなるのです。身近な人とさり気なく心を通わし、敬意をもって親切を尽せば、やがては積もり積もって人生の宝となるのではないでしょうか。

2016年、ローマ教皇フランシスコはマザー・テレサを列聖して、「真の聖人である」と宣言しました。このような方がこの地上に現われ、このような方と同じ時代に生きられたことに感謝をしたいと思います。その姿は化粧も飾りもせず、賤民せんみんが着るとされる白い綿のサリーに青い線を入れてまとい、履物はきものといえばサンダルばかりでしたが、後光の差すような美しさでした。

聖人マザー・テレサ

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令和2年7月14日

 

マザー・テレサは1910年、現在の北マケドニア共和国に生れました。大変に聡明で十二歳にしてすでに、将来はインドの貧しい人々のために修道女として働きたいという希望を持っていました。

十八歳の時、アイルランドの修道院に入り、二十一歳ではじめてインドにおもむきました。カルカッタの聖マリア学院で地理と歴史を教え、三十四歳で校長に任命されました。三十六歳の折、休暇でダージリンに向かう汽車に乗っていた時、「すべてを捨てて貧しい人々のために働きなさい」という啓示を受けました。

「死を待つ人々の家」を開設し、約半世紀にわたってインドの貧しい人々の救済に生涯を捧げたマザーも、最初からぶれないしんの強さをもっていたわけではありませんでした。救済活動を始めた頃は、「インドにはえている人たちがごまんといるのに、そんなことをしても焼け石に水でしょう」と批判され、さすがのマザーもくじけそうになったことがありました。しかし、きびしい環境の中で献身的な活動を続けるうちに、シスターたちとの間に不動の信念がつちかわれいていきました。それは深い信仰によって支えられたきずながあったからでした。

日本にも三度ほど訪れています。1984年には、聖心女子大学でこんな講演(概略)をしました。

「日本では路上で行き倒れて死んでいく人、うみにまみれてハエにたかられている人はいません。しかし私は日本の街を歩きながら、大変なショックを受けました。どの街もきれいで、とてもにぎわっているのに、その街を歩く人々に笑顔がありません。皆さん、どこかさびしく悲しそうに見えるのです。

インドの貧しい人々は体が病んでいますが、多くの日本の方々は心を病んでぽっかりと穴が空いているのではないでしょうか。貧しい人々には体をケアする必要がありますが、さびしい思いをしている日本の方々には心のケアが必要かも知れません。どうかやさしい言葉をかけてあげてください。あたたかい笑顔を見せてあげてください。それは私がインドの貧しい人々にしていることと、まったく同じことなのです」

マザーは日本に対しても深い思いやりを示し、人々に愛の言葉を残しました。そして、その活動は世界的に高く評価され、1979年にはノーベル平和賞も贈られています。1997年、マザーはカルカッタで八十七歳の生涯を閉じました。その葬儀はインド政府によって、国葬として挙行されました。

続続・今なぜ二宮尊徳か

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令和2年7月13日

 

二宮尊徳の言葉を続けましょう。

「富と貧とは、遠く隔たったものではない。ほんの少しの隔たりであって、それはただ一つの心がけである。貧者は昨日のために今日をつとめ、昨年のために今年をつとめる。それゆえ、苦しみは絶えることがない。富者は明日のために今日をつとめ、来年のために今年をつとめる。だから、思うことがよく叶うのである」

貧富の差は、ほんの少しの心がけだと言っています。勤勉な人は未来に向かって働き、勤勉を怠る人は過去の埋め合わせのために働くという意味でしょう。その埋め合わせのために借金をすれば、またそれを埋め合わせるために借金をせねばなりません。これが現代の借金地獄です。欲しいものがあるからすぐにローンを使うのではなく、働いて賃金を得て、その後に本当に必要かどうかを考えるのが経済の基本です。

「人はみな、財貨は富者のところに集まると思っているが、そうではない。節倹せっけんで勤勉なところに集まるのである。百円の収入を八十円、七十円で暮らせば、財が集まり富がやって来る。百円の収入を百二十円、百三十円で暮らせば、財が去り貧がやって来る」

きびしいことを言っていますが、当然のことです。節倹せっけん(倹約)など流行はやらぬ時代と思うかも知れませんが、この油断が貧の原因、貧の原因が不幸の原因です。尊徳は貧しさが人を卑屈ひくつにし、怠惰たいだにし、絶望させることを誰よりも知っていました。その七十年の生涯は、貧困からの脱出をいかにして実現するかの一点でした。

「衰えた村を復興させるには、篤実精励とくじつせいれいな良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼ほういつぶらいの貧民がついに化して良民となるように導くことである」

これが人を導くにあたっての、尊徳の方法でした。正直で善良な人をまずめ、表彰して村の模範としました。怠惰たいだな貧民は離散するにまかせ、やがて改心する日をじっと待つのでした。成果が上がれば、人は必ず帰って来ます。その時こそ賃金を与え、衣服を与え、家を与え、支援を惜しみませんでした。

「富める者は必ずといってよいほど、前の前から徳を積んでいる。今日を安楽に暮らせるのは、父母や祖父母が勤勉にして徳を積み、よく働いたからである。それを考えれば子孫のため、今日の精進が何よりも大切である」

積善の家には、必ず余慶よけい(よいこと)があるのです。だから、幸運も福徳も先祖のおかげと思い、その法恩を忘れてはなりません。そして、私たちの生き方が子や孫に継がれることも忘れてはなりません。徳を積むことが富への道であることを教えない教育の荒廃こうはいを、尊徳は予言していたのでしょうか。

続・今なぜ二宮尊徳か

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令和2年7月12日

 

尊徳・二宮金次郎は現代の小田原市栢山かやまの農家に生れました。四歳の折に酒匂川さかわがわ氾濫はんらんで一家の田畑は流失し、さらに十三歳で父を亡くし、十五歳で母を亡くし、叔父おじの家に引き取られました。少年金次郎は昼は叔父の農業を手伝い、夜は父が残した書物を読み、学問に励みました。叔父から灯油が減ると苦情を言われるや、友人から一握ひとにぎりの菜種なたねを借り、それを空き地にきました。そして、一年後には百五十倍の菜種を収穫し、その灯油をもって学問を続けました。

また、農民が捨てた稲苗を拾い集め、荒れ地を耕してこれを植えました。秋になると一俵いっぴょう余りの収穫となり、その喜びと発見が生涯の教訓となりました。すなわち、「小を積んで大となす」の鉄則を知ったのです。こうした少年期の経験が、後の偉業の原点であることは十分に得心されましょう。やがて生家に帰った金次郎は少しずつ田畑を買い戻し、三十一歳にして立派な大地主となりました。その実績を買われて、家老・服部家の財政を立て直し、藩主・大久保忠真ただざね公の依頼で桜町さくらまち領(栃木県芳賀郡)の廃村復興を手始めに、数々の藩政再建にも着手していきます。

では、金次郎こと二宮尊徳の言葉を聞いてみましょう。

「大事をなさんと思う者は、まず小事をおこたらず努めねばならない。一万石の米も一粒ずつ積んだもの、一万町の田は一鍬ひとくわずつ積んだもの、万里の道も一歩ずつ積んだもの、高い築山も一杯ずつ積んだものである。だから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する」

尊徳は勤労をその数でイメージさせ、学問のない農民にもやる気をおこさせる達人でした。一反いったんを耕すにくわは三万回以上、稲苗は一万五千株、実った米粒は六万四千八百粒余りと、それを目標に小さな努力から始めさせました。その著書『天徳現量鏡てんとくげんりょうきょう』では百八十年にも及ぶ利息計算を示し、小さな努力がいかに大きな利益をもたらすかを説いています。

「早起きをして稲を多く得る。稲を多く得て米を多く得る。米を多く得て馬を多く得る。馬を多く得て田を多く得る。田を多く得て貸し金を得る。貸し金を多く得て利息を得る。富を得るには、まず早起きをすることである」

早起きをして働くか否かは、一里の差となり、二里の差ともなると尊徳は説きます。富を得るのもそのとおり、貧におちいるのもそのとおりと説きます。早起きをして働くことが、富を得る道であることをくり返し語りました。

「米を見てただちに米を得ん(食べん)と欲する者は、盗賊禽獣とうぞくきんじゅうに等しい。人たる者はすべからく米をいて、後に米を得ることである。楽しみを見てただちに楽しみを得んと欲する者は、盗賊禽獣に等しい。人はすべからく勤労して、しかる後に楽しみを得ることである」

現代はまじめに働くことを、バカにする人すらいます。もちろん、遊んで収入が得られるほど、人生は甘くはありません。後の楽しみのために働くのは当然のことです。尊徳の言葉、明日も続けましょう。

山路天酬密教私塾

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