カレーの秘伝
令和8年8月29日
私は僧侶をやめたら(もちろん、やめませんが)、インドカレーの専門店を開きたいと思っていたことがあります。子供の頃からカレーを研究し、特にインドカレーについてはかなりの自信を持っているからです。カレーは各種のスパイスと共に、酸味・苦味・甘味・辛味・塩味のいわゆる五味が混然一体となり、絶妙の味覚を完成させた料理です。いわば、諸仏諸尊と異教の神までを融合した「マンダラの料理」でありましょう。まさに、真言密教の極意はカレーにあるといっても過言ではないのです。
インドには、いわゆるカレー粉という商品はありません。家庭ごとにスパイスを調合し、その家庭ならではの〝カレー粉〟を作ります。また、日本の家庭のようにカレールーを入れ、小麦粉でとろみを出す調理法は本来のカレー料理ではありません。インドでは野菜やヨーグルトでとろみを出すので、さらっとしていて、かぎりない奥行きがあります。
夏にはカレーが合うので、一度は作りたいと思っていましたが、今年はどうやら果たせそうもありません。何しろ時間がかかります。以前の記録をさぐって、作ったことにしましょう(写真)。

私の担当は、いわゆるカレーソースを作ることで、ほかのトッピングは誰にでもできます。特に炒りココナッツやキノコ類の炒めものは人気があるようです。また辛味を調和させる干しブドウ、飲み物としてはミルクティーにスパイスを加えたマサラチャイがよく合います。鶏肉はヨーグルトに漬けると柔らかくジューシーになります。
もう、9月です。大汗をかいてインドカレーを食べたいと思いましたが、残念でなりません。来年、果たせるかどうか。今夜も粕汁を作って、雑穀米をいただきましょう。
続々・あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月26日
この世とあの世の関係で、もう一つ大切なことをお話いたします。それはこの世の肉体的また物質的世界と、あの世の精神的また霊的世界とがいっしょにあるということです。そして、この世の人はあの世の世界に、生きているうちに目覚めねばならないということです。
この世で健康に恵まれ、おいしいものを味わい、地位を得て、財産を残せれば、それに越したことはありません。しかし、これらは何ひとつとしてあの世に持ち越せるものはありません。持ち越せるものはどれだけ人のために尽くし、喜ばれ、感謝されたかという功徳だけなのです。そして、それを成し遂げるにはあの世の力、つまり精神的また霊的な融合がなくてはなりません。
つまり、個人の努力だけでは功徳は積めないということです。あの世の守護霊や先祖の協力なくして、功徳を積める人生は歩めません。どのような分野でも、すぐれた業績には、必ずあの世との融合があります。偉大な発見も、すぐれた芸術も、それはあの世からのインスピレーションによって成就するからです。
仏教では、あの世の三途の川を渡る時、奪衣婆によって衣服を脱がされると説明してきました(写真は『熊野観心十界曼荼羅』)。これはあの世には、一切の地位も財産も持ち越せないことを象徴的に教示しているのです。私たちはこの世の肉体的また物質的世界な世界から、精神的また霊的世界な世界に目覚めるために、この世に生かされているのです。

あの世への関心を高め、魂を磨き、先祖への報恩を忘れぬ生活に目覚めましょう。先祖供養にも励みましょう。それが人としてこの世に生かされた責務です。肉体としての自分がいれば、霊体としての自分が同時にいます。この世とあの世は、同時にあるからです。そして、あの世は「ここ」にあるからです。
*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からお気軽にご連絡ください。住職も弟子僧も誠実に励んでいます。ご負担のない供養料で、どなたでも参加することができます。遠方の皆様には郵送いたします。
続・あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月24日
あの世が「ここ」にあるとは、また〝いっしょにある〟という意味でもあります。いっしょにあるとは、表裏の関係であり、同時にある関係ともいえましょう。
そのことを説明するには、蓮の花にたとえるのがよいかも知れません。蓮は汚れた泥の中(煩悩)から、清らかな花(悟り)を咲かせます(写真は筆者)。この場合、煩悩の泥がなければ、悟りの花も生まれないというところに仏教の極意があります。つまり、煩悩と悟りはいっしょにあるということです。煩悩がなければ、悟りは生まれないし、煩悩を転じてこそ悟りが生まれるということです。蓮の花が仏様の象徴とされるのも納得されましょう。

同じように、この世とあの世はいっしょにあるのです。この世はあの世の写しであるから、「現世」といいます。この世の姿はあの世の写しなのです。だから、私はいつも「あの世はここにありますよ」とお話をしています。この世の病気は、あの世の病気です。この世の苦悩は、あの世の苦悩です。この世の姿を通じて、私たちはあの世の姿を知るのです。先祖供養はこの世に生きる私たちの、大切な責務です。来月のお彼岸に向かって、先祖供養の大切さを改めて考えねばなりません。
私たちは肉体によって生きていますが、幽体も霊体も衣類のように身につけています。ただ、普通の感覚ではわかりません。しかし、私のお話を心から信じられる方は、あの世との感覚が鋭い方です。仏縁の深い方です。私と共に、先祖供養に励んでいただきたいと思います。
*あさか大師の先祖供養に参加をご希望の方は、ホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。高額な供養料はいただきません。勧誘もいたしません。どなたでも気軽に参加できます。遠方の皆様には郵送いたします。
あの世は「ここ」にあるのです
令和8年8月22日
私はいつも、あの世は遠い彼方にあるのではなく、「ここ」にあるのです、とお話しています。「ここ」とは、私たちがいる場所の意味でもありますが、私たちの心の中をも指すのです。だから、あの世は私たちの心の中にあって、先祖もまた、私たちの心の中にいるのです。
19世紀のフランスにおける最も偉大な思想家であり、また教育者でもあったアランは、著名な『幸福論』(写真は岩波文庫)において、「死者たちは死んでいない。そのことはまったく確実である。死者たちは考えている、語っている、行動している、助言し、欲し、承認し、避難することができる。これらはすべて本当である。しかし、それに耳を傾けなくてはならない。それらはすべて、われわれの内にある。われわれの内で、確かに生きているのだ(一部中略)」と語っています。

私は若い頃にこの本に接し、何年かに一度は思い出したように再読してきました。それはまるで古い友人に会うような楽しみで、読書とは人生の邂逅であると憶念したものです。当初の蔵書は製本も劣化したので、二年前に新たに購入し、大切に保管しています。
先祖が私たちの心の中にいるという真実を、かくも大胆に表記している文章を、私はほかに知りません。しかも、このようなアカデミックな著作においてです。実はアランはペンネームで、本命をエミール・オーギュスト・シャルティエといい、生涯を(大学教授ではなく)高校教師として過ごしました。彼の授業を受けたフランスの高校生は、とても幸せな時間を過ごしたと思います。
それにしても、このような文章を残した偉人が、フランスから出ている史実も奇妙です。フランス国民が日本人や日本の文化を特に好むことと、あながち無関係ではないかも知れません。
*あさか大師では先祖供養の大切さを公布しています。お墓や菩提寺がなくとも、わずかな供養料でお気軽に参加することができます。関心のある方はホームページの「先祖供養」をご覧になり、「お問合わせ」からご連絡ください。遠方の皆様には郵送します。
ノーベル賞を生んだ日本のスイカ
令和8年8月19日
暑い日には、スイカでも食べたいものです。スイカは皮も果汁も漢方に用いられ、炎暑のほてりを鎮めてのどを潤し、尿の出をよくする働きがあります。また、少量の塩を加えて食べればナトリウムと糖分を含んだ経口補水液となり、熱中症対策にもなりましょう。ただ、最近はえらく高価で、気軽には買えなくなりました。今日はこのブログのために奮発したほどです(写真)。

また、日本のスイカからは、すぐれたアミノ酸が検出された歴史があります。1930年、東大の和田光徳教授がこれをシトルリン(スイカの意味)と命名し、血流サイクルの改善に効能があることを発見しました。そして、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のルイス・イグナロ博士は、この効能が血管系伝達物質である一酸化窒素(NО)のはたらきであることを発見し、1998年にはノーベル生理学・医学賞に輝きました。
イグナロ博士はこの一酸化窒素の効能を証明するため、64歳からマラソン大会に出場し、妻や友人たちと年に1~2度のペースで完走しています。そのほか、ロードバイク(自転車)にも挑戦しており、その若さには驚嘆せざるを得ません。
19世紀における偉大な医学者であるウイリアム・オスラー博士は、「人は血管とともに老いる」という名言を残しました。血管が硬くなり、血栓ができれば全身の細胞や臓器が衰えます。しなやかな血管とスムースな血流に導くシトルリンが、日本のスイカから発見された功績は、永く歴史に残ることでしょう。スーパーでスイカを見たら、買わなくてもいいから、合掌ぐらいはせねばなりません。
続・お金のほんとうの姿
令和8年8月16日
あさか大師では本日11時半に、金運宝珠護摩を奉修しました(写真)。お参りの皆様は浄炎のパワーに浴し、遠方の皆様は同時祈念によって感応道交を果たしました。

金運を得るにはお金のほんとうの姿を知ること、そしてお金を大切に思い、お金を好きになることが大切です。同時にそれは、お金から大切にされ、お金からも好かれることでありましょう。大切にされ、好かれるためには、それだけの心がけがなくてはなりません。
お金は生きものです。お金に感謝し、礼を尽くしましょう。お財布は清潔にしてカードやレシートで息苦しくせず、お札は向きをそろえて入れましょう。放り投げたり、お尻のポケットに入れたまま座ってはいけません。こういうことをおろそかにする人は、決して金運には恵まれません。
このお護摩は金運を呼ぶために、皆様の背中を押すためのものです。行動をおこすには、何かの転機が必要です。社会に貢献し、社会に喜ばれる何かを与えるため、その転機となることを願っています。皆様が願っていることを行動に移すため、このパワーが役立つはずです。
お金のほんとうの姿
令和8年8月14日
あさか大師では8月16日(日)午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修いたします。お参りの皆様には金運銭を差し上げますので、如意宝珠のパワーを持続させてください。遠方の皆様は同時祈念をして、感応道交をはかりましょう。
明治時代の偉大な林学博士で「公園の父」とまで呼ばれ、また大富豪でもあった本多静六(写真・『私の財産告白』実業之日本社より)は、「経済の自立なくして精神の自立はありえない」と喝破しました。私は青年期にこの言葉を知り、お金に対する考え方が一変しました。なぜなら、お金は汚いもの、お金持ちは悪い人だという考え方が脳裏にあったからです。特に日本人には、この傾向が強いのではないでしょうか。

しかし、これは大変な間違いです。お金は社会が自分を評価してくれる目安であり、いわば自分自身の分身です。自分を大切にするなら、お金も大切にすることです。自分を好きになるなら、お金も好きになることです。そして何より、生活のために、いかにありがたいかを知ることです。人は「衣食足りて礼節を知る」からです。
お金は決して不平等に与えられることはありません。社会に貢献する何を与えたか、社会に喜ばれる何を与えたかで、お金もまた与えられるからです。お金持ちと呼ばれる人は、それだけの生き方をしています。人によっては、悪いことをしてお金を得る場合も、一時的にはあるかも知れません。しかし、そのようなお金は、いずれは必ずその人から離れていきます。また、それだけの償いをさせられます。不当な利益を得た分、その埋め合わせをさせられるからです。
私がこの金運宝珠護摩を奉修する理由は、お金のほんとうの姿を知ってほしいため、お金の神様に好かれるため、如意宝珠のパワーをいただいてほしいためです。また社会に貢献し、喜びを与えてほしいためです。その手助けとして、このお護摩によって、皆様の背中を押したいと思っています。
何も求めない功徳
令和8年8月12日
いよいよお盆となりました。前回、お盆はご先祖を迎え、供養をなし、共に過ごす時間を楽しむためのものだと書きました。帰省したご実家でもご自宅でも、お供えをして、ぜひ楽しい時間を過ごしていただきたいと思います。
もう一つ、お盆で大切なのが施餓鬼です。施餓鬼は、文字どおり餓鬼界に堕ちてしまった亡者を救済するためのものです。餓鬼界の亡者は残念ながら、先祖代々として迎えることはできません。家の中に入って来ることもできません。その姿が醜悪なので、人に見られることを嫌がるためです。心ある方は、ほんの少しのご飯に汁物をかけて、あまり明るくないところに置いてあげてください。
私はお盆にかぎらず、常にこの施餓鬼を心がけています。夕食の五穀米に味噌汁(粕汁)をかけ、深夜に境内の片隅で、僧侶の勤めとして施餓鬼法を修しています(写真)。

施餓鬼で大切なことは、何も求めないことです。出世するようにとか、お金が増えるようにとか、世間的なお願いをしてはいけません。ただ、施しをすることにのみ専念することです。実はここに重大な深義があり、何も求めないことで、かえって大きな功徳があるという意味があることを忘れてはなりません。
私が師僧から伝えられたことは施餓鬼の功徳によって、お檀家やご信徒が少なくても、衣食には困らないこと、食べられない病気にはならないことの二つでした。あさか大師が200円の護摩木、2000円の先祖供養でも、大勢の皆様によって支えられている背景には、毎日のこの施餓鬼があることは間違いありません。「何も求めない功徳」には驚くばかりです。
仏教は布施を大切な教えとしますが、施したもの、施した相手、施した自分を共に忘れることを訓戒となし、これを「三輪清浄」といいます。何を施したかに執着せず、施した相手に恩を売らず、施した自分を偉そうに思ってはならないということです。いかでしょうか。
「盆踊り」とは何か
令和8年8月8日
私が若い時に愛読し、いまだに大切にしている本の一冊に『霊話・不思議』(金峰山寺刊行)があります(写真)。これは20代の折、吉野の蔵王堂で購入したもので、当時の五條覚澄管長様のご著書でした。今ではおそらく入手困難と思いますが、ご覧のように何度も読んだためか、カバーもボロボロになりました。

私がこの本の中で、特に印象に残っているのは、霊を満足させる「供養宴」というお話です。管長様は毎月1日の夕方、お酒やご馳走を持ち寄って地獄谷(脳天大神)に集まり、これを供えて宴会を催したというのです。これはお経よりも、一杯の水、ひとにぎりの飯を欲する霊と共に、集まった人たちがお酒を飲み、歌をうたって過ごすという趣向でした。
供養を受ける霊と共にあって、ある人はゲラゲラと笑い、ある人はシクシクと涙を流し、ある人は腹にたまったうっぷん吐き出すなど、皆がその本音を顕露にしたそうです。また、参加した人はその後、不思議に運がよくなったとも記されていました。
このお話を読んだ私は、「盆踊り」の意味を「なるほど!」と理解したことを鮮明に覚えています。お盆にお迎えした先祖の霊をもてなし、共に歌って踊る日本仏教の習俗がみごとに発揮されているからです。何と明るく、何と大らかなお国がらでしょうか。お盆とは先祖供養のためであると同時に、共に過ごすことを楽しむための時間だったのです。「東京音頭」はヤクルトスワローズの応援曲にとどまらず(笑)、集まった先祖と共に楽しみたいものです。
あさか大師は狭い本堂ですが、私もいつかは皆様と共にご馳走を持ち寄り、先祖の位牌に供え、その後にカラオケ大会を催したいものだと本気で思っています。お寺は楽しいところと思い、ますます好きになること、間違いありません。
*あさか大師の先祖供養につきましては、私のブログ、またホームページの「先祖供養」をご覧ください。
8月の伝道法語
令和8年8月6日
8月の伝道法語(写真)を境内に掲示し、ご参詣の皆様に読んでいただいています。

私は開運の秘訣は何かと聞かれたなら、いつも「好かれることです」と答えています。また、好かれることは、「人生で最も役立つ才能です」ともお話しています。つまり、この地球上で一人でも多くの人から好かれるなら、皆様は望まずとも開運するということです。なぜなら、人の想念はパワーであるからです。
自己啓発を学んで、プラス思考を心がけることは役立ちます。九星気学を学んで、方位を活用することも役立ちます。また、吉数の名前に変えるのも、開運グッズを所持するのも役立ちます。しかし、社会とは結局、人間の集まりです。人間に好かれることが、いかに大切かは誰にでもわかることです。
それも、この世の人ばかりではありません。この世の人の数など、幽界や霊界、また天上界に比べれば、ほんのひと握りです。あの世の人に好かれることが、いかに大切かも知らねばなりません。私がいつも、先祖供養の大切さをお話するのはその意味なのです。
運命はその人の生き方で決まるのです。好かれる人はオーラが輝き、味方に囲まれ、イザという時には必ず助けが現れます。この世の人にも、あの世の人にも好かれるほど、人は幸運になるのです。

