食べるためか、生きるためか

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人生

令和2年9月20日

 

私が高校二年生の時です。そろそろ進路を決めねばならなくなった頃、父から「おまえは何をして食べて行くのだ」と問われました。将来の目標など定まらず、まだ世間を何ひとつ知らず、理屈ばかり多い年代でしたから、「食べるために生きるより、生きるために食べるんのだと思っている」と答えました。その答えが、父にはよほど青臭く感じたのでしょう。「そんなこと言っていたら、今に食べられなくなるぞ」と言い返されました。

さほどに裕福ではありませんでしたが、まずまず食べることに不自由を経験しなかった私は、食べていくという人生の基本的な意味すら理解していなかったのです。また、いくらか本を読んで、人生を考える習慣を覚えた頃でもありました。父は自分の息子が、よもやこんなことを言うとは思いもよらなかったのでしょう。以後、私にこのような問いかけをすることは二度とありませんでした。いうなれば、私と父との唯一の人生問答であったのです。

あれから五十年が過ぎ去りました。今ここで、改めて考えてみようと思います。人は食べるために生きるのでしょうか。それとも生きるために食べるのでしょうか。食べるために生きるとは、もちろん食べるために働くという意味です。それによって自分や家族を養うという意味です。コロナ禍で職を失い、職を求めている方なら、当然この答えを選ぶはずです。

一方、「人はパンのみにてくるにあらず(聖書)」という言葉があります。これは精神的な修養の大切さを教える聖句と思われがちですが、人は神の言葉によって養われるというのが本来の意味です。たぶん、父と問答した頃、私も生半可なまはんかな知識を持っていたのでしょう。しかし、一般的な意味として考えてみても、共感する方は多いはずです。ただ、食べるために働くのでは、何とも味気がありません。今の私でも、そう思うのです。

人が生きて生活し、自分や家族を養うためには食べていかねばなりません。食べるためには働かねばなりません。働いても、いつ職を失うとも限りません。まさに〈職〉こそが〈食〉なのです。だから、「衣食いしょく足りて礼節れいせつを知る」のです。人は食べるために生きねばなりませんが、食べるに足りた時こそ礼節を知ることが必要なはずです。

宗教はややもすると、精神的な教えに片寄る傾向があります。お大師さまはそのことをよくご存知でした。たから物も心も、豊かになることも悟りに達することも一つに考えられたのです。人は食べるために生きねばなりません。しかし、価値あるもののために生きることも同時に必要なのです。それが人生という旅路なのです。

山路天酬密教私塾

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