令和2年9月15日
人はよく「悪いことは何もしていません」とか、「他人に迷惑をかけるようなことはしていません」などと言います。もっともな言い分で、たいていは特に考えることもなくこれを聞き流しています。皆様はどうでしょうか。
もちろん、悪いことをしてはいけません。それは当然のことです。もっとも、何が善で何が悪かという奥深い問題がありますが、ここでは一般的な意味でお話をいたします。また、他人に迷惑をかけることもいけないことです。だから、私たちは悪いことをしない、迷惑をかけないという強い意志を持たねばなりません。これは人としての大切な道徳であるからです。
ところが、人というものは悪いことはしない、迷惑はかけないと思いつつ、少しずつ過ちを犯します。誰も見ていなければゴミを捨てるかも知れませんし、飼っている愛犬が他人の家に粗相をするかも知れません。それでいて困っている友人がいれば、何とか手助けをしようとし、無断駐車を見ればこれをののしります。
つまり、人は善いことをしながら悪いことをしているし、悪いことをしながら善いことをしているのです。他人に好かれたいと思いながら、嫌われることをしますし。親を傷つけまいと思いながら、心配ばかりかけています。
さらに極端な例が犯罪者です。彼らや彼女らは始めからそんな人生を望んだわけではありません。何かの拍子に小さな悪事をすると、それを隠そうとしてまた悪事を重ね、さらにそれを隠そうとして犯罪の道に入ってしまうのです。私たちは、もちろん自分が犯罪者になるなどとは思っていません。しかし、その縁が寄れば何がおこるともかぎりません。これが、仏教でいう〈業〉なのです。避けることのできない運命のようなものです。よく「あの人は業が深い」などと言いますが、私たちだって同じです。ただ、業のはたらく縁が寄らねば、まずまず平穏な人生を歩んでいるに過ぎないということなのです。
その昔、「わかっちゃいるけどやめられない」という唄が流行りました。おもしろい唄でしたが、業の本質をよく表しています。そうではありませんか。お酒もたばこも、パチンコもギャンブルも、何ごとも、わかっちゃいるけどやめられないのです。それが業なのです。だから、人は悪いことをしない、迷惑をかけないという道徳的な意志と、悪いことをせずには生きられない、迷惑をかけずには生きられないという仏教的な自覚が共に必要なのです。
わかっちゃいるけどやめられない皆様、苦しく、切なく、時には愛しい業と、どう向き合いますか。それとも・・・。