2022/09の記事

最も大切な徳

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人間

令和4年9月27日

 

昨夜は就寝で横になりながら、久しぶりに司馬遼太郎著『関ケ原(上)』の一部を拾い読みしました。そっとお話をしますが、私は寝床で本を読むくせがいっこうに改まらず、いつも枕元に読みたい本、読まねばならない本を積み上げています。寝返りを打つと本が落ち、その音で目が覚めることたびたびで、まったく自慢にもなりません。

私がこの上巻で読みたい箇所は決まっています。石田三成いしだみつなりの軍師・島左近しまさこんが、主人である三成の性格をいさめる場面です。ご存知のように石田三成は大変に聡明でしたが、正義感において融通がかず、そのため反感をかって多くの敵を作りました。特に徳川家康を「老奸ろうかん」と呼んでこれを嫌い、やがて〈関ケ原合戦〉にまで進展するのです。そこで、左近が説き伏せようとします。

「古来、英雄とは、智・弁・勇の三徳そなわったるものをいうと申しますが、殿はその意味では当代太閤たいこうをのぞけば、家康とならぶ英傑えいけつです」

しかし、と左近はいいます。

「智・弁・勇だけでは世を動かせませぬな。時には世間がそっぽをむいてしまう。そっぽをむくだけでなく、激しく攻撃してくるかもしれませぬな。真に大事をなすには、もう一徳が必要です」

「つまり?」と、三成。

「幼児にさえ好き慕われる、という徳でござるな」

私はこの一説を、どれほど読んだかわかりません。能力とは奇妙なものです。知能にたければ人は一目をおきましょう。弁が立てば説得にたけましょう。勇敢ゆうかんなれば人望が集まりましょう。三徳とも人の能力として多いに賞賛されるものです。しかし、なおそれだけでは、と左近はいうのです。

『論語』の中で、私が最も好きな一説にも似たようなことが書かれています。孔子が弟子に対して、「お前たちはいったいどんな人間になりたいのだ」と問いました。弟子たちはそれぞれ理屈っぽい答えを返すのですが、「では、先生はどうなのですか」という問いに、孔子は「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれる、そんな人間になれたら本望だな」と答えました。

二つとも、人間として最も大切な徳とは何かを考える、いいお話です。何よりも自然で無理がありません。私までも気持ちがやすらぎ、間もなく深い眠りに誘われたのでした。

結縁の不動明王

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あさか大師

令和4年9月25日

 

あさか大師の本堂に、大きな不動明王(お不動さま)の尊像が運ばれました。高さ1・5メートルの木彫り立ち姿で、すでに長年の祈りが込められた尊像です(写真)。

この不動明王は今年7月24日に他界した、私の友人が護持ごじしていたものです。私はかつて、毎月28日をこの尊像の例祭日と決め、友人の自宅(大田区南馬込)まで出仕してお導師を勤めていた時期があります。それだけに、私にとってはご縁の深い尊像ということになります。

この友人は若い頃に曹洞宗そうとうしゅうにて得度をして雲水うんすい(禅宗の修行僧)も経験したほどで、毎日の読経も欠かしませんでした。また八丈太鼓はちじょうだいこ(八丈島の郷土芸能)のすぐれた指導者であり、その四十九日法要については、このブログの9月10日に書いておきました(「四十九日の回し打ち」)。

友人からは、他界する3ヶ月前に電話がありました。そして自分の葬儀導師と、この尊像をあさか大師に安置してほしいという二つの依頼を受けました。この時、友人は主治医より余命二カ月という宣告を受けていましたが、私はさっそく霊符で延命祈願に入りました。二カ月を経た頃、私の方から電話をしましたら、「まだ元気です」と言いましたので、私も喜んだものでした。そして、その一か月後に友人は他界しました。私にとっては思い出の多い、かけがいのない友人の一人でした。

お寺に仏像を安置することは、単に買い求めればよいというわけにはいきません。それなりの由来やご縁が必要です。私は友人より依頼を受けた時、迷うことなく快諾かいだくしたのは、すでに私の読経や祈りが込められた〈結縁けちえんの不動明王〉であったからです。今後はあさか大師でも、明王の威力が躍動すること念じています。また、新しい歴史が始まりました。

秋彼岸とおはぎ

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あさか大師

令和4年9月23日

 

本日は秋彼岸の中日で、あさか大師でも午後1時から秋彼岸会法要を修しました。回向殿にはたくさんのお塔婆が立てられ、光明真言によって多くの精霊に供養を捧げました(写真上)。

法要は僧侶によって声明や『理趣経』が唱えられ、続いてご信徒の方々と共に勤行ごんぎょうをしました。実は、秋の彼岸は私の母の命日でもあります。毎年、私は母が好きだったおはぎを供え、お集りの皆様に布施をすることを、もう何十年も続けて来ました(写真下)。母が喜んでいるように、自分でも感じます。

蛇足ながら、春の彼岸には牡丹ぼたんが咲くので「ぼたもち」といい、秋の彼岸ははぎが咲くので「おはぎ」といい、どちらも同じものです。ところが、地方によってはこれを「半殺はんごろし」と呼ぶのには驚きました。もち米をもちになるまでつくのではなく、半分までつぶすので半殺し(!)と呼ぶそうです。

このお話は落語で聞きました。遠来のお客さんを客間に通した後、「せっかくのお客だから、半殺しにしよう」などど夫婦で口にしてはなりません(笑)。そのお客さんはあわてて逃げ出すことでしょう。それに、お彼岸に半殺しとはおだやかではありません。彼岸はご先祖に供養を捧げる日です。供養を捧げて、その後にお召し上がりを。

天上の花

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あさか大師

令和4年9月21日

 

あさか大師桜並木の傾斜に彼岸花が咲きました。昨年はまだまだ乏しい数でしたが、今年はかなり増えています。台風で全滅するかと心配しましたが、ほんの一部を除いて何とか立ち姿を維持してくれました(写真)。

別名を「曼珠沙華まんじゅしゃげ」といいますが、これは『法華経ほけきょう法師功徳本ほっしくどくぼんに記載される「天上の花」という意味の仏教用語です。おめでたいことがある時、天から赤い花が降臨こうりんして来るとされ、本来は大変に縁起のよい花なのです。

ところが、日本ではよくお墓に植えられたため、かつては「死人花」や「幽霊花」などと呼ばれて嫌われました。私の郷里ではごく近年まで土葬どそう(火葬をしないひつぎのままの埋葬法)の習慣が残り、土盛りした上によくこの花の球根を植えました。これはもちろん、土盛りが崩れないためと、モグラや野ネズミに荒らされないためです。同じ理由から田んぼのあぜなどにも植えられました。今でも、子供の頃の記憶から、この花を「気味が悪い」と思う方がいるかも知れません。

しかし、近年は妖艶ようえんなこの彼岸花を好む方が増え、「元気が出る」「とてもいやされる」といいます。そして、各地の群生地には人が集まり、カメラマンの姿が絶えません。特に本県日高市の〈巾着田きんちゃくだ〉は全国的な名所となりました。ネットで調べてみてください。願わくはあさか大師も、その群生地になってほしいと念じています。

実は、彼岸花の球根にはアルカロイドの毒性がありますが、昔はすりおろして水にさらし、さらに煮沸しゃふつして粉末になし、これを飢饉ききんの折の救荒食きゅうこうしょくにしました。また、すりおろしたままを「石蒜せきさん」といい、シップすると腹膜炎・浮腫・むくみなどに薬効があり、民間療法として永く活用されました。

私の思い出の中では、奈良県明日香村の景観が忘れられません。橘寺たちばなでらの境内も石舞台いしぶたいの土手も古代ロマンが真っ赤に染まり、仏教伝来の詩情に酔いしれました。このブログを書きながらも脳裏には、秋の明日香村への想いをせてやみません。さながら、「天上の花」です。

金運宝珠護摩

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あさか大師

令和4年9月18日

 

本日は第三日曜日で、午前11時半より金運宝珠護摩を奉修しましたが、あいにくの台風で、皆様のお足が遠のきました。残念でしたが、お集りの方々と、力強いお護摩に浴しました(写真)。郵便、FAX、メールでもたくさんの護摩木ごまぎ(お護摩で祈願するお札)が寄せられましたが、それぞれのご自宅でご祈願していただいたものと拝察しています。

真言密教の僧侶がお大師さまにご祈願をする場合、高野山では弥勒菩薩みろくぼさつの行法を修します。お大師さまは奥の院にご入定にゅうじょうされつつも、常には〝あの世〟の弥勒浄土にいらっしゃると考えられているからです。つまり、弥勒浄土にいらっしゃりながら、そのご宝号をお唱えすれば、すぐ〝この世〟にも出現されるという意味なのです。

では高野山以外の寺院ではどうするかというと、如意宝珠にょいほうしゅの行法を修します。お大師さまは真言密教の象徴である如意宝珠そのものであるからです。実は、私は毎日、この如意宝珠のお護摩を修してお大師さまにご祈願を続けています。そして、第三日曜日を特に金運宝珠護摩の日と定めたのは、如意宝珠のいろいろな功徳の中で、特に金運を高めたいためでした。

現代の生活において、お金はとても大切なものであることは申すまでもありません。金運を高めることは、生活そのもの、人生そのものを守ることなのです。多くの方がこの金運宝珠護摩に参拝していただくことを念じてやみません。どなたでも参加できますので、このブログを読んだ方は、ぜひお越しいただきたいと思っています。

ちなみに、あさか大師の護摩木は一本が200円で、子供さんや学生さんでも申し込めます。お会い出来ます日を楽しみにしていますよ。

努力は報われないのか

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思考

令和4年9月16日

 

8月14日のブログ(「ひらめき」がおこる時)で私は、「努力は必ず報われます。報われないのは努力が足らないというほかに何の理由もありません」と書きました。しかし、皆様の中には、「努力をしても報われないのではないのか」とか、「結局は才能と運の差ではないのか」と思っていらっしゃる方もいるはずです。今日はこのことについて、私の考えをお話いたしましょう。

実は私は「努力」という言葉が、特に好きだというわけではありません。奴隷どれいの〈奴〉に〈力〉が加わって、何とも悲痛な感じがします。歯を食いしばってガンバルのではなく、むしろ「楽しい努力」こそ心得るべきだとさえ思っています。「これがうまくいったら、自分に何の褒美ほうびをあげようか」などと考えながら、楽しい努力をしたいと望んでいるからです。

そもそも、努力に対して、人には間違った偏見があると私は考えています。その一つは、努力をしていると思っているのに、実は大した努力をしているわけではない場合です。別の言い方をすれば、努力することと〝苦労〟することを勘違いしている、あるいは努力をしていると思い込んでいるという意味です。

たとえば、多くの人がダイエットを望んでいながら、またダイエットに関する本や方法があふれていながら、太った人がいっこうに減らないのは、この落し穴があるからです。どんなに糖質制限や脂肪制限をしても、甘いドリンクやスイーツを口にしていては本末転倒です。これでは苦労ばかり記憶に残りながら、いっこうに成果はあがりません。

もう一つは、努力の方法が間違っているのに、自分は一生懸命に努力をしていると思い込んでいる場合です。代表的な例として、受験勉強があります。皆様もご存知と思いますが、受験生の中には授業を聞いているだけで高得点が取れるという人もいれば、徹夜でガリ勉をしながら、いっこうに成績が上がらないという人もいます。この違いが何なのか、わかりますでしょうか。

私が思うには、一流大学に合格できる理由は、記憶のコツがわかっているからなのです。日本の受験制度は、ほとんどが記憶力で決まります。学習したことがどんな形式で問題に出るのか、その出題パターンをのみ込む要領がいいのです。つまり、何を覚えたらいいのかの目標を明確にして戦略を立て、それを短時間で実行しているからなのです。もともと受験向きの脳を持っている、ということなのでしょう。

努力をしても、ガムシャラに努力することがすなわち成果ではありません。また、自分を苦しめたり、いじめぬくことがすなわち成果でもありません。このような努力を、ある種の快感として酔い知れてもなりません。努力が報われるためには。〝努力以前〟が問題なのです。この努力以前がわかれば、努力は必ず報われます。そうではありませんか、皆様。

道徳的センスと宗教的センス

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宗教

令和4年9月14日

 

私たちは子供の頃から、家庭でも学校でも、「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて来ました。そして、自分でも人に迷惑をかけてはいけない、迷惑をかけることは悪いことだと思って生きて来ました。これは大切なことで、社会ルールとして身につけねばなりません。特に子供たちには道徳教育として、しっかりと植えつけねばなりません。大人もまたこのことを自覚し、社会人として守らねばなりません。交差点の近くに車を駐車したり、電車の中で携帯電話の会話をしてはなりません。当然のことです。

もちろん、「私は誰にも迷惑なんてかけません」「いつも正しいことをしています」と言い張る人もいます。自分は迷惑をかけることなど何もしていないと言いたいのでしょう。これは日常の会話としては、何ら不自然さはありませんし、よく耳にすることです。

しかし、よくよく考えてみてください。私たちは本当に迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか。皆様はどのように思われますでしょうか。

実は私たちは、人に迷惑をかけずには絶対に生きられないのです。まず、子供の頃にダダをこねたり、言いつけに背いて親に迷惑をかけています。衣類を汚したり、部屋を散らかしては迷惑をかけています。これは、大人になっても同じです。忘れ物をしませんか。約束の時間を守っていますか。イライラしてまわりの人を困らせていませんか。ささいな一言で相手を傷つけていませんか。

私などは、迷惑をかけずに一日として生きていくことはできません。食べるのが早いのでかされると言われては、迷惑をかけています。忘れ物はいつものことで、迷惑をかけています。蔵書を事務所に積み上げては迷惑をかけています。パソコンやスマホが苦手で、迷惑をかけています。

そして、最も重要なことは、自分では気づかないうちに、たくさんの迷惑をかけているという事実なのです。この事実は誰でも共通のことでありながら、その認識にはかなりのへだたりがあります。つまり、そのことを認識しているかどうかは、人としての大きな分かれ道になるのです。

私たちは迷惑をかけてはいけないという道徳的センスと、迷惑をかけずには生きられないという宗教的センスが共に必要です。道徳はしっかりと守らねばなりません。しかし、守れない自分がいるという矛盾にも気づかねばなりません。そして、すべての宗教はここから始まることも知らねばなりません。皆様は宗教的センスをお持ちでしょうか?

中秋名月

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文化

令和4年9月11日

 

昨夜の中秋名月は実にみごとでした(写真)。久しぶりに、あまりのみごとさに感動し、立ち尽くし、何人かの友人にも伝えました。もちろん、誰一人として見逃すはずがありません。みんなで同じ月を見て、気持ちを共有しました。日本人はやはり、お月見が好きなのです。

あさか大師のまわりはススキも豊富です。少しばかりを境内のお大師さま(遍路へんろ大師)に供えました。また所蔵の硯箱すずりばこに、ススキと満月の蒔絵まきえがあったことを思い出し、さっそくお大師さまのわきに置いてみました(写真)。

この硯箱は江戸期のものですが、まるで平安時代の嵯峨野さがのあたりを連想させられます。当時、現在の京都・大覚寺だいかくじには嵯峨御所さがごしょ(嵯峨天皇の御座所ござしょ)があり、お大師さまは天皇さまと深いご親縁をいただきました。特に仏教や書道については、時を忘れてご歓談をなさったことでしょう。

九月の古名を「長月ながづき」と言いますが、「夜長月よながづき」の略かも知れません。日が暮れる時間は早くなりますが、それだけに、秋の夜が楽しめます。今日の十六日は「十六夜いざよい」、十七日は「立待たちまちの月」、十八日は「居待いまち月」と、十五夜ばかりを讃えないところが、この国の文化です。守り続けてほしい、美しい日本語です。

四十九日の回し打ち

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健康

令和4年9月10日

 

本日は私が親しくおつき合いをした、八丈太鼓はちじょうだいこ(八丈島の郷土芸能)の指導者であったM氏の四十九日法要を挙行し(写真上)、法要後は参列したお弟子さんたちによって〈まわし打ち〉の供養が捧げられました(写真下)。長年にわたって回忌法要をつかさどってまいりましたが、このような企画は初めてのことで、大変に感銘を受けました。

お弟子さん方は概してお若い年齢層ではありませんでしたが、太鼓を打ち始めると背筋が伸び、リズムに乗って体が躍動していました。週に一度のお稽古けいこを続けていらっしゃるそうで、日ごろの成果が充分に発揮されたように思います。私は改めて、趣味(と一般にいわれるもの)に対する効用のすばらしさを痛感せざるを得ませんでした。

音楽に関しては、そのリズムや響きが右脳うのう(情感を支配する部処)を適度に刺激し、その能力や記憶が蘇生そせいすると聞きました。たとえば、つい先ほどのことすら自覚しない認知症の人でも、曲に合わせて好きな歌を唄い出すと、間違えずに最後まで唄いきるというのです。言語障害の子供さんに対しても、歌の効用がすばらしいことをうかがっています。カラオケを健康法としてすすめる医師がいることも、納得できましょう。

そうすると、お寺は〈健康道場〉としても、大いに活用すべき場所であることがわかります。第一にいっしょにお経を唱えることで、右脳を活性化します。さらに太鼓や法螺貝ほらがい木魚もくぎょかねといった法具がそれを増長させます。第二に仏像や仏画の慈顔に接することで、浄土のようなやすらぎを得ることができます。第三に高雅なおこうの薫りで心をいやし、異次元世界へと誘導することができます。第四に法話を聞くことで教養を深め、生きる喜びを得ることができます。そして、いつも冗談にお話をするのですが、さらに温泉(!)があったら、もうこれ以上の理想はありません(笑)。

かつて、映画解説で活躍した水野晴郎みずのはるおさんに、「いやー、映画って・・・」という名台詞めいぜりふがありました。私も言いましょう。「いやー、お寺ってほんとにいいもんですね。またご一緒いっしょに楽しみましょう!」と。

20000回の食事

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食事

令和4年9月7日

 

私の母は体が弱く、あまり母乳が出ませんでした。心配した祖母は濃い目にぎ出した米汁を作り、それを母に渡してくれていたようです(農村のことで、まだ粉ミルクはありませんでした)。そのおかげで一年後には村の〈赤ちゃんコンクール〉で優勝し、また小学校の卒業式では男女一名ずつ選ばれる健康優良児として表彰されました。まさに、強運と幸運に恵まれたとしか言いようがありません。

母は入退院を繰り返しながら三十三歳の若さで他界しましたが、それでも私のことを病床に呼んでは話し相手になってくれました。苦しいことがあっても、私が今日まで何とか耐えてこられたのは、その病床の母の顔を思い出すからです。今さらながら、その恩の深さが憶念されてなりません。

私たちは三歳ほどまでは、母に一日に6回前後はオムツを変えていただきました。一年で約2000回、三歳までで6000回です。また、一日8回前後の母乳(ミルク)をいただきました。一年の授乳で約3000回です。そして離乳食を含めて、毎日毎日、三度の食事を作っていただきました。おやつまでを加えると、一年で約1000回、仮に十八歳までとして何と約20000回以上です。

私は外食をすることはほとんどなく、自分で食事を作って生活をしていますが、20000回を毎日続けることなどとてもできません。しかも、忙しい日はもちろんのこと、体の具合が悪かった日もあったことでしょう。今ならスーパーで買えるとしても、米屋さん、八百屋さん、肉屋さん、魚屋さんを廻り、重い荷物を持って歩いたはずです。食材を洗って切り、煮て焼いて、味つけをして、食卓に並べていただきました。それを私たちは当たり前のように、ただ黙って食べていたのです。「おいしい」のひと言がなくても、不平すらもらしませんでした。

そして、私たちがテレビやゲームに夢中になっていても、母には食後の片づけがありました。翌朝の準備もありました。お風呂の準備もありました。洗濯もありました。洋服のつくろい、片づけ、そのほか父の世話もあったはずです。いったい、母がいなかったら、私たちはどのようにして暮らし、どのようにして成長したのでしょうか。

私たちは母に対する自分のふるまいを思いおこす時、慙愧ざんきの念にえるものは何もありません。過ぎ去った恩の大きさに唖然あぜんとするばかりです。しかも、その恩に対して何も返したものはありません。返そうと思えるほどの年齢になった時、たいていはその母も、すでにこの世にはいません。私たちが母に対してできることは、あの世の母に対してであることをお伝えして、今日の法話といたします。

山路天酬密教私塾

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