2023/05の記事

霊的な顔が見える人

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令和5年5月28日

 

子供の頃、天井てんじょうの木目が人の顔に見え、こわい思いをしたものです。これは精神医学で「パレイドリア」と呼ばれる現象で、雲やの葉などの形がそのような連想を呼ぶからです。たとえばアメリカ映画『Premonition』(邦題「シャッフル」)のDVDジャケットには、木立が人の顔に見える姿を象徴的に表現しています(写真)。よく滝修行で「お不動さまが見えた」とおっしゃる方がいますが、岩の凹凸がこの現象を呼ぶ場合もあるのです。もちろん、そのように見えること自体が悪いわけではありません。ただ、自慢をしたり、自分が〝神様〟にでもなったようにお話をする方がいますので、このことは注意する必要があります。

ところが、実際には存在しない、つまり霊的な顔が見えるという場合が確かにあります。特に子供さんにはこの体験が多く、私も何度か学習塾から相談を受けたものでした。誰かが「オバケがいるよ!」というと、子供たちがそろって「ホントだ!」といいます。そうすると、これを気味悪がった子供たちが次々に欠席するので、オーナーには悩みの種となります。中には講師の先生までが「やめたい」といい出す始末で、結局は私におはらいの依頼が来るのです。

もちろん大人でも、霊的な顔を見ることがあります。また、はっきりと顔が見えなくても、片手片足だけが見えたり、音や気配で知らされることもあります。また海や川で撮影した写真に、いるはずもない人の顔や手足が映る、いわゆる心霊写真を見せられることもたびたびでした。

私自身は子供の頃はともかく、現在は陽炎かげろうのように見える場合と、気配や音で知らされることが多く、直接にはっきりと顔を見ることはありません。しかしお盆やお彼岸、命日の日には、こうした現象をよく体験します。だから、死者にとって、命日は特別な日であることは理解しているつもりです。つまり、その日の特有の波動が霊的に呼び合うのでしょう。

霊的な顔が見えて悩みを抱える人は意外に多く、よく相談を受けます。そのような体験などない方がよいのですが、そうもいかないので悩むのです。そのような方は、あさか大師にぜひお越しください。毎日11時半よりご祈祷のお護摩を修し、お役に立てるよう、努力いたします。もちろん、普通であることが一番いいのですよ、皆様。

最も身近な宇宙とは

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真言密教

令和5年5月26日

 

真言密教は人体を宇宙としてとらえます。これを説明するために、興教大師こうぎょうだいし(新義真言宗開祖)はこれを五輪塔ごりんのとうによって表現しました(写真)。

五輪とは地・水・火・風・空の自然界を、それぞれ四角・円・三角・半円・団の形によって説明したものです。大地は堅い四角で、水玉は丸で、立ち上る火は三角で、舞い上がる竜巻(風)は半円で、雲(空)は団形で表示しました。さらに、これを人体に配当すると、瞑想で座った足の形は四角い大地です。おなかと両腕は円となります。肩の形は三角で、顔は半円、頭は丸です。つまり、私たちの体はこの自然界の縮図であり、宇宙そのものなのです。

私たちはお母さんの体内から生まれましたが、このような姿を誰が創ったというわけではありません。世の中には不思議な出来ごとがあるものですが、最も身近なところに、こんな不思議があったのです。いうなれば、仏さまがお創りになったとしかいいようがないのです。

もう一つお話をしますと、かつて韓国の歴史ドラマに『ホ・ジュン』という名作がありました。主人公の名が許浚ほじゅんで、16世紀に活躍した漢方医学者です(写真)。ドラマは彼の生涯の偉業である医学書『東医宝鑑とういほうかん』を完成させるまでのストーリーで、私は長編のビデオでこれを見ました。『東医宝鑑』はユネスコの世界記録遺産にも登録され、韓医大学では今でもテキストとして学ばれているほどの古典的な名著です。

ところがストーリーの最後、まさに『東医宝鑑』が完成する場面で、すばらしい名言が放映されました。私はこれを夢中になってメモを取りましたが、その走り書きが残っています。

「人の頭が丸いのは天に似て、足が四角いのは地に似る。天に四季があるように、人には四肢しし(両手足)がある。天に五行ごぎょう(木・火・土・金・水)があるように、人には五臓ごぞう(心・肝・脾・肺・腎)がある。天に六極ろっきょく(疾・憂・貧・悪・弱)があるように、人には六腑ろっぷ(大腸・小腸・胆・胃・三焦さんしょう・膀胱)がある」

これもまた、人体の宇宙を説明するに、かんにしてようを得ています。私たちは最も身近な宇宙が自分であることを知らねばなりません。また、これがお大師さまの教えでもあることを覚えておいてください。人体とはかくも偉大なものなのです。

見えない力を引き出すために

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宗教

令和5年5月24日

 

昨日、お葬式に出仕しましたら、葬儀社の方がお焼香の仕方を説明していました。つまり、今の日本ではお焼香の仕方も知らない人が増えたということなのでしょう。

核家族化が進展した現代の日本は、仏壇も神棚もなく、高齢者がいない家が多いわけですから、当然といえば当然です。かつての日本の子供たちは、両親や祖父母が仏壇に合掌がっしょうし、神棚に拍手かしわでを打つ姿を見ながら育ちました。つまり、近い先祖は仏壇に、遠い先祖は神棚にまつってこれを大切にして来ました。これによって、言葉では教えずとも、親や先祖を大切にすることの大切さをおのずから自覚したのです。さらに、人生には自分の努力はもとより、〝見えない力〟が多分に働くことを自覚したのです。特に社会的な成功者ほど、この傾向は強いはずです。

では、その見えない力はどこから来るのでしょう。これを経営分野から主張した例として、窪寺伸浩くぼでらのぶひろ氏の『なぜ、成功する人は神棚と仏壇を拝むのか』(あさ出版)があります(写真)。窪寺氏は「神棚マイスター」という肩書で活躍していますが、見えない力を引き出す手立てとして、仏壇や神棚の重要性を強調しています。

人は生きていく過程の中で、いくつかの〈儀式〉を経験します。入学式があり、成人式があり、入社式があり、結婚式があります。これを経験してこそ、その学校の児童(生徒・学生)になったことを、一人前の大人になったことを、その会社の社員になったことを、誰もが認める夫婦になったことを自覚するのです。言葉ではこの自覚は生まれません。「親を大事にしなさい」と言葉で教えても、その親が仏壇や神棚を拝む姿を見せなければ、その自覚は生まれません。昔ながらの日本のこの風習は、きわめて重要です。そして、この風習が日本を支えてきたのです。

お葬式が大切なことは、同じように重要です。親のお葬式もしないで、自分の子供に大切にしてもらうことなど、望めるべくもありません。老いて病気となり、やがて死を迎える姿を見せ、それを弔う姿を見せることです。そして、仏壇や神棚を拝む姿を見せることです。それがまた、見えない力を引き出せる手立てとなるなら、これほどよいことはありません。

仏壇も神棚も、決して高価なものを求める必要はありません。また、住宅スペースにも限りがあります。ほんのわずかでよいのです。神聖な場所を設け、これを拝む姿を子供たちに見せましょう。親や先祖を大切にすれば、自分も大切にされるのです。そして、社会からも大切にされ、見えない力を引き出せるのです。

魂を入れるために

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信仰

令和5年5月21日

 

数日前、エンゼルスの大谷翔平選手が、自分のバットに〈心臓マッサージ〉をしている姿がテレビ放映されていました。バットの上(太い方)から三分の一ほどの所を自分の片膝かたひざに乗せ、両手を心臓マッサージと同様の手つきを何度もくり返していました。もちろん野球のバットは堅い木材ですから、心臓マッサージのようにはいきません。チームメイトも「またやっているのか」といった表情で、笑っていました。

私はその放映のほんのわずかを目にしたに過ぎませんが、「なるほど!」と思ったのです。どうしてかといいますと、大谷選手ほどの〝天才〟でも、スランプはあるのでしょう。以前、まったく打撃がふるわなかった折、悩みぬいた末にバットへの心臓マッサージを思いついたらしいのです。するとどうでしょう、次の試合から連続ホームランが飛び出したのです。スポーツ選手はよくゲンをかつぐといいますが、本当に苦しんだ時には、こんなことも思いつくものです。ゲンの担ぎも大事なのです。

しかし私は、この心臓マッサージは単なるゲンの担ぎとは思えません。なぜなら、仕事上の道具に魂を入れるためには、これくらいの配慮と努力がいるからです。手入れを怠らぬことはもちろんですが、普段とは違った何かを工夫しなければなりません。つまりプラス・アルファの力が必要だということです。

私が若い頃、法螺貝ほらがい(写真)の練習に励みましたが、なかなかいい音が出ませんでした。特にユリといわれる高音を響かせるまでには悩みました。そこで私が考えたことは、法螺貝を持って滝に打たれることでした。自分の法螺貝に想いを込めるためには、今はこれしかないと思ったからです。もちろん滝の中は岩だらけですから、落下の勢いに押されて落としたりしたら大変です。それでも法螺貝に魂を入れるつもりで、その荒行に挑みました.

結果は上々でした。法螺貝との一体感が深まったのでしょう。自分の吹き込む息と、ピッタリと同化してきたのです。ユリも出せるようになりました。以来、仕事の道具(私の場合は法具)にはこれくらいの配慮と努力がいることを実感しました。皆様の道具は何ですか。魂を入れていますか。そのための配慮と努力をしていますか。「魂を入れるために」ですよ。

〈あさか大師〉開創秘話

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信仰

令和5年5月19日

 

「厄除大師」といえば、真言宗では弘法大師、天台宗では元三がんさん慈恵じえ)大師です。ただ、〈大師〉と呼ばれる祖師はたくさんおりますが、単に「大師」といった場合は弘法大師を指しますので、あさか大師では私もご信徒も「お大師さま」と呼んでいます。

ところで、お大師さまが四十二歳の厄年の折に四国を巡礼して八十八ヶ所霊場を開創し、「厄除大師」の信仰が始まったことを知る人は意外に少ないかも知れません。したがって、四国には四十二歳のお大師さまが関与したとされるお寺がいくつか現存しています。愛媛県の遍照院・仙龍寺、香川県の海岸寺・遍照院などに伝承があります。また、高野山奥の院護摩堂には「厄除大師」の額があり、〈弘法大師四十二歳厄除御自作像〉が安置されています。

私があさか大師を開創しようとした時、はじめは尊像をおまつりしたいと考えました。私が考えている尊形はないかと探したり、仏師に相談したりしました。しかし、何か気持ちが定まらぬまま、時間ばかりが過ぎ去りました。そんなある日、一冊の本が就寝中の私の枕元に突然に落ちてきたのです。たぶん、不安定な置き方をしていたのでしょう。それは自分の著書『弘法大師御影みえの秘密』でした。どうしたのかと思った私は、落ちた著書を本棚に戻そうとした時、天啓のようなひらめきが湧いたのです。

その著書の扉にはお大師さまの御影みえ(お姿の絵)が載っています。しかもそれは仏教美術学者であり、当代随一の仏画師でもある真鍋俊照まなべしゅんしょう先生が、私のために謹写してくださったもので、もちろん自分で所持していました。私が本尊とするに、これ以上のお大師さまがあるはずはありません(写真)。それに、ご本尊は仏像に限る必要はありません。高野山御影堂みえどうのように、〈御影〉そのものをお厨子ずしに入れればよいではありませんか。私はもはや迷うことなく、この御影をご本尊にすることを決心しました。そして、あさか大師(厄除のお大師さま)はこうして開創されました。

昔も今も、皆様の厄除に対する関心は驚くばかりです。お大師さまですら、ご自分の厄年には四国を巡礼しました。私は毎日お大師さまに向かい、お護摩を修しています。皆様もご自分の厄年を感じましたら、どなたでもぜひお参りにお越しください。毎日11時半から始まります。また5月21日(日)はお大師さまのご縁日であり、〈金運宝珠護摩〉も修されます。金運が高まるお護摩として人気があります。

同行二人どうぎょうににん」といいますが、お大師さまはご自身を信仰する方にいつもつき添ってくださいます。お護摩でも巡礼でも、「お大師さまと共に歩んでいる」という気持ちになるからです。ほんとうですよ。

孔雀明王への祈り

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真言密教

令和5年5月16日

 

私は昨年の秋より毎朝、お大師さまと共に孔雀明王くじゃくみょうおうへの祈りを続けています(写真)。なぜなら、長引く新型コロナの感染終息と、ロシアによるウクライナ侵攻が一日も早く終結することを願ったからです。コロナ感染は減少しつつありますが、まだまだ油断はできません。ウクライナ侵攻に対しては、皆様からの〈一食布施いちじきふせ〉などもユニセフに送金し、現地ニュースにも耳を傾けています。

孔雀明王はご覧のとおり菩薩の姿をしていますが、そのみょう(真言)の徳がきわめて勝れていることから、〈明王〉とお呼びしています。また〈孔雀〉は〝救邪苦くじゃく〟とも表記され、あらゆる人間苦への祈りに霊験いちじるしいと相伝されて来ました。ただ、その行法ぎょうぼうは真言密教の中でも特に秘法とされ、これを修する行者はなかなかいません。

私はこのような非常事態でありますゆえ、特に熱意ある弟子僧にはこの秘法を伝授し、緊急祈願として加わっていただくことを提唱しました。また、孔雀明王の経典である『仏母大孔雀明王経』の刊行に関しても、その表題揮毫を担当しました(写真)。祈りは結集することによって、さらに威力が強大となるからです。

なお、今年は大変に雨量が多く、各地で水害が発生しております。実は孔雀明王は祈雨きう(雨を呼ぶ祈り)にも霊験がありますが、雨を止める祈りにもよく相応します。もちろん、病気・災害・降伏・商売・招財・敬愛など、多くの利益りやくがあることはいうまでもありません。

お心のございます方は私といっしょにお祈りください。毎日11時半よりお護摩を修しています。ただ、出仕のある時は早朝に修しますので、遠方の方はご一報ください。皆様のご参加をお待ちしています。合掌

続・世にも不思議な霊験談

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仏教

令和5年5月14日

 

『日本霊異記』からのお話を、もう一つご紹介いたしましょう。現在はいろいろな出版社から刊行されていますが、講談社学術文庫ならすぐ手に入ります(写真)。今日は第十九の『法華経』を読む人をあざけり、悪いむくいを受けた人の説話です。

奈良時代、山城の国(京都)相楽郡さがらぐんに一人の〈私度僧しどそう〉がいました。この当時、僧侶になるには国の許可が必要で、この人のように勝手に僧侶を名乗っていた人を「私度僧」と呼んだのです。名前はわかりませんが、この人はいつもばかり打っていました。どうやら、あやしい私度僧としか思えません。

ある日、この私度僧が知人と共に碁を打っていると、托鉢たくはつの僧がやって来て『法華経』を読みつつ、布施をいました。私度僧はこれをあざけり笑い、わざと自分の口をゆがめ、声をなまらせ、まねをして唱えました。知人は「恐ろしいことだ」といいながら、碁を続けました。それからというもの、その私度僧はどうしても碁に勝てません。そればかりか、自分の口がゆがんでしまったのでした。医者を呼んで治療をしても、ついに治ることはありませんでした。『法華経』に「法華経を信ずる人を軽蔑して笑う者があるならば、現世で歯が抜け、唇は曲がり、鼻は平らになり、手足はねじれ、目はすがめになるだろう」とあるのは、このことだったのです。そしてお話は、たとえ悪鬼あくきにとりかれても、経を読む人をそしってはならない。言葉はよくよく慎むべきであると結ばれています。

弘法大師は病気の原因として、四大不調(身体的な病気)・鬼病きびょう(霊的な病気)・業病ごうびょう宿業しゅくごうの病気)の三つをあげています。四大不調は身体の病気なので、医薬の力によって平癒します。しかし、鬼病や業病は医薬だけでは平癒しません。鬼病はいわゆる霊障から、業病は前世からの因縁による病気で、これらは真言の祈りによって、はじめて平癒するのです。この私度僧の場合は、経典をあざけり、これを軽んじた業病ということになりましょう。

それにしても、たとえ私度僧とはいえ、経典を何と思っていたのでしょうか。因果のむくいとはこのことです。『法華経』と托鉢の僧に対し、よほどの懺悔さんげを続けねば口のゆがみは治りません。皆様も、経典や真言を唱える時の訓戒にしていただきたいと思います。決しておもしろ半分に唱えてはなりません。肝に銘じましょう。

世にも不思議な霊験談

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仏教

令和5年5月11日

 

世にも不思議な霊験談を集めた本に『日本霊異記にほんりょういき』があります。古代におけるさまざまな仏教説話を、薬師寺の僧・景戒けいかいが書き残したもので、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記にほんこくげんぽうぜんあくりょういき」といいます。第二十八には孔雀明王くじゃくみょうおう呪法じゅほうで有名なえん行者ぎょうじゃ神変大菩薩じんぺんだいぼさつ)のお話も載っています。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。私は若い頃から東洋文庫(写真)で愛読してきましたが、今はいろいろな出版社から刊行されています。

たとえば、こんなお話があります。

その昔、高麗こうらい(朝鮮)の学問僧で、元興寺がんごうじ(奈良)に住む道登どうとうという方がいました。ある日、宇治橋(京都)を渡っていた時、一つの髑髏どくろが人や獣に踏まれているのを見つけました。道登はこれを悲しみあわれんで、従者の万呂まろという者に、木の上にねんごろに安置させました。

ところが、その年の暮れの夕方、ある〝人〟がやって来て、「道登大徳の従者の万呂という方に会いたい」といいました。万呂が面会すると、「大徳のお慈悲をいただいて、この頃はだいぶ楽になりました。今夜でなくては恩返しができませんので、どうかついて来てください」と言って、万呂をある家に案内しました。

家の中には食事が用意されていたので、その人は万呂にそれをほどこしました。ところが、夜半になって、「私を殺した兄が来るから逃げましょう」というではありませんか。万呂が訳を聞くと、「昔、私は兄と共に商売に出かけましたが、私だけが銀四十きんかせぎました。すると兄は、これをねたんで私を殺し、銀をうばったのです。以来、私の頭は人や獣に踏まれ続けました。大徳のお慈悲をいただいて救われましたが、あなた様の恩も忘れられず、今夜その御礼をしたかったのです」と語りました。

その時、その人の母と兄が霊を供養するために家の中に入ってきました。二人は万呂を見て驚き、わけを聞きました。万呂がことのいきさつを語ると、その母は驚き、その兄に「私の子はお前に殺されたのか。賊に殺されたのではなかったのか」とののしりました。そして万呂を拝み、丁重に接待をしました。つまり、この日はその人の命日で、あの食事はそのために用意されていたということになるのでしょう。

万呂は帰って、このことを道登大徳に伝えました。そして、お話は死人の霊や白骨でさえこうであるなら、生きている人がどうしてその恩を忘れられようかと結んでいます。現代の日本では親のお葬式をしない人が増えましたが、これを聞いたら何と思うのでしょうか。お骨も大切にとむらわねばなりません。そして、命日には特別の意味があることも忘れてはなりません。

「手塩にかける」とは

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令和5年5月7日

 

「手塩にかける」といいますが、その意味をご存知でしょうか。

実はお母さんが手に塩をふりかけて、一生懸命に〈おにぎり〉をにぎることなのです。それが、手塩にかけた子育てなのです。その手塩にかけたおにぎりを食べているかぎり、子供は〈おふくろの味〉を忘れません。そして、おふくろの味を忘れないかぎり、親不孝な子供にはなりません。最近のコンビニのおにぎりは大変に工夫され、おいしく作られていますが、失礼ながら、厳密にはあれは「おにぎり」とは呼べません。ご飯を型に入れて力学的に圧縮しただけですので、いうなれば「おしぎり」(笑)と呼びます。

〈おにぎり〉や〈おむすび〉の意味を考えてみましょう。〝にぎる〟ともいい、〝むすぶ〟ともいいます。単に力学的な力に加えるだけではないのです。それは、手作りのものと比べればよく分かることです。手塩の上にご飯をのせ、力を加えるけれども、力まかせではありません。力を内に込めながら、逆に力をおさえるはずです。そして、何より想いを込めねばなりません。つまりハンドパワーです。これが〝にぎる〟ことであり、〝むすぶ〟ことです。ご飯の粒と粒を結ぶのであって、つぶすすのではありません。だから、かたくしまっているけれども、つぶと粒が立ち上がり、生き生きと結び合っています。

また、工場で大量生産された商品は、均一ではありますが、どこか深みがありません。やはり、人の手にはエネルギーがあるということなのです。味にも、プラスアルファの深みがあります。私もよくコンビニのおにぎりをいただきますが、やはり昔ながらの手作りの味を忘れてはならないと思っています。今朝は、雑穀米のご飯でにぎってみました。(写真)。

特に若いお母さん方には、手塩にかけておふくろの味を残してほしいものです。母と子を結ぶおにぎりこそ、本当の「おむすび」だからです。どうか、手塩にかけて子育てをなさってください。そして、手塩にかける意味を忘れないでください。

仏さまはどこにいるのか

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仏教

令和5年5月4日

 

人は奈良や京都に、仏さまを見たいといって出かけます。そして今や、奈良も京都も日本人はもちろん、世界中の人々であふれています。また国立博物館で「密教美術展」や「〇〇寺名宝展」があると、人は遠くから時間をかけ、交通費を払い、二時間も並んで入場します。そして、混雑した中で目ざす仏さまを拝観し、高価で分厚く、重い図録まで購入します。

これはなぜなのか、皆さん、わかりますか。今月の掲示伝道はこのことを書きました(写真)。

そもそも、仏さまはいったい、どこにいるのかといいますと、実は私たちの心の中にいるのです。つまり、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、もともと仏さまが心の中にいたからだという意味です。お釈迦さまが仏というものを新しく考え出したわけではないし、発明したわけでもありません。もともとご自分の心の中にいた仏さまというものに目覚めたわけです。だから、仏さまのことを〈覚者かくしゃ〉ともいうのです。

そうすると、私たちの心の中にも仏さまがいるわけです。「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」などといいます。すべての人は仏になれる資質が備わっているという意味です。残念ながら、私たちには煩悩という雲が多く、光り輝くその仏性がなかなか見えては来ませんが、仏像に心引かれるのは、実はその仏性があるからなのです。

仏師がノミをふるって仏像を彫り出す様子を、皆さん、想像してみてください。仏師の心に仏さまがいなければ、仏像など彫れるわけがありません。そうでなければ、仏さまというものを新しく考え出したことになってしまいます。エジソンのように発明したことになってしまいます。

仏像ももともとは木材に過ぎません。木材というかたまりです。しかし、仏師の心の中の仏さまが活動するから、あのような立派な仏像になるのです。もちろん、その仏像も仏さまであることに違いはありません。だから、心の中の仏さまが、同じ仏さまである仏像を求めるのです。類は友を呼ぶというではありませんか。

世界中の人が奈良や京都に集まるのも、博物館の催しに集まるのも、その理由は同じです。そして、皆さんの心にも仏さまがいることを忘れてはなりません。腹を立てたり、悪口をいったりはしても、それは月にかかった雲なのです。その雲のかなたに、光り輝く仏さまがいることを忘れてはなりません。「雲晴れて 後の光と思うなよ もとより空にありあけの月」という無窓国師(鎌倉時代の禅僧)の道歌をご紹介して、今日の法話といたします。

山路天酬密教私塾

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