令和5年4月19日
中国の明代末に呂新吾という人がいて、『呻吟語』なる名著を残しています。もっとも私は、安岡正篤先生の『呻吟語を読む』(致知出版社・写真)によって、その一端に触れたのみで、原書の1840章に接したわけではありません。しかし、人間に対するその深い洞察には、恐るべきべき名言が散りばめられ、私は深い感動に誘われました。
たとえば人間の資質について、私たちは聡明で弁が立ち、勇気ある人なら誰もが尊敬するはずです。ところが同書では、「深沈重厚なるは第一等の資質、磊落豪勇なるは第二等の資質、聡明弁才なるは第三等の資質」と力説しています。私はこの主張に、とても驚きました。
落ち着きがあって厚みと重みのある人物が第一等だといっているのです。次いで豪胆で器の大きい人物が第二等、頭がよくて雄弁な人物は第三等だといっています。私たちの一般のみかたと、まるで逆です。これはどういうことなのかを考えてみますと、聡明で弁が立つ人物というのは、あまりに鋭く、とかく自分の才能に溺れてしまうということなのでしょう。才能は才能のゆえに失敗をするものです。そのような例を、私も目の当たりにした経験があります。
また磊落豪勇な人物は、とかくその勢いに暴走するものです。自分の大胆さを誇示したがるからなのでしょう。リスクを背負ったあぶない冒険が、そう何度もうまくいくはずがないのです。暴走を続ければ、二度と立ち上がれぬ深みにはまってしまうかも知れません。
こうして考えると、深沈厚重の人物を第一等とする意味がわかってきます。慎重にして思慮に富み、情けにもあつく、それでいて鉄のような意志を秘めている人物ならば、誰もがリーダーとしてこれを仰ぐに違いありません。これは確かなことです。また、現代ほど深沈厚重の徳が求められる時代もないはずです。
よい本に出会えました。山奥でスミレを見ながらにぎり飯を口にしたようで、いずれは精神の栄養となり、私の人生に役立ってくれるに違いありません。皆様もぜひご一読ください。