北風と太陽
令和2年4月1日
「人間の問題は人間に尽きる」と、私は考えています。
この世を生きていく以上、苦しみや悩みは尽きません。しかし、何が一番やっかいであるかといえば、それは人間どおしの問題、つまり対人関係だといえるのです。なぜなら、たとえ病気の問題であれ、お金の問題であれ、その背後にあるのは結局は人間の問題だといえるからです。だから、この対人関係をうまく身につけられるなら、生きていくことがかなり楽になることは間違いありません。
人はみな、自分が認められることを望んでいます。自分の気持が少しでも理解されることを望んでいます。これが生きていくうえで、人が求める最大の願いです。だから、そのふところの中にどれだけ飛び込んでいけるかに、その秘訣があるといえるのです。
たとえば、皆様がよくご存知の『イソップ物語』に「北風と太陽」という、有名なお話があります。旅人は寒いから外套を着用し、少しでも暖かくして旅をしたいと願っていたはずです。それを北風のように寒風を吹きまくり、強引に脱がせようとしてもうまくいくはずがありません。かえって襟を押さえて離しませんでした。太陽は暖かくして旅をしたいという、その願いに飛び込んだのです。そして、みごとに目的を果たすことができました。
これこそは人間の問題、つまり対人関係のバイブルなのです。つまり、相手が何を望んでいるかを理解してあげること、そして、その望みが叶うよう協力してあげること、ただそれだけなのです。そのためには一歩譲ること、退くことも進むことへの智恵と知ることです。たいていの場合、相手はこれに応じてくれましょう。
もちろん、このような心がけで接しても、めんどうな相手は必ずいます。その場合、私は「こんな時もあるだろう」ぐらいに考えるようにしています。それでよいのです。これで相手を恨み、悪口を並べたところで、何ら益することはありません。むしろ負担を重ね、ストレスが積るばかりです。
考えてみれば、人間はみなさびしさを閉じ込め、やすらぎを求めて生きています。愛されたいと思い、やさしくされたいと思っています。その思いを少しでも叶えてあげられるならば、私たちの人生はかなり違ったものになるはずです。北風よりも太陽のように、です。
何とかなるのです
令和2年3月23日
もう一つ、『論語』のお話を紹介しましょう。
孔子が陳の国を訪れた時、戦乱のために食料が絶えてしまいました。お供の弟子たちも疲れ果て、また病んで立ち上がれない者まで続出しました。その時、子路が憤然として孔子に言い放ちました。
「いったい、君子でもこのように困りきることがあるのですか?」
さて、それに対する孔子の答えがいいのです。
「君子でもむろん困りきることはあるさ。でも、小人は困りきるとヤケをおこすではないか」
小人とは君子に対する〈凡人〉ほどの意味です。君子でも困りきることはある。しかし、小人のようにヤケをおこすことはない言っています。事実、陳の同盟国であった楚の昭王が援軍を出して孔子を迎え、やっと生命をまっとうしたのでした。
私は人としての器の大きさを考える時、いつもこの一説を思い出しています。平常の時は、誰でも冷静を保てましょう。しかし、この時の孔子のように窮地に陥った場合、たいていの人は冷静さを失います。その時に器が問われるのです。
私はどんな時でも「お大師さまが助けてくださる」という信念を、どこまで貫けるかはわかりません。でも「何とかなる」ぐらいの考えは持ち続けています。そして、本当に何とかなると思っている人は、本当に〝何とかなる〟のです。これは祈りのルールを知っている人には、容易に理解できるはずです。
しかし、ほとんどの人は不安や疑いによって、祈りのパワーが弱まってしまうことも事実です。要は体験を重ねて自分の考えとなり、さらに信念となり、祈りとなれば、何とかなるぐらいのことは十分に可能です。つまり、思考は現実化するということです。
そして、最後に申し上げましょう。今日のブログを読んでいただいた方は、きっと何とかなります。そうでなければ、私とのご縁もなかったはずです。このブログを読み、私とご縁のあった皆様は、私と同じように何とかなるのです。そうでなければ、このブログを読むことも、私とのご縁もなかったはずなのです。そうではありませんか、皆様。
本当の教養
令和2年3月23日
『論語』の中で、私がもっとも好きなお話をいたしましょう。
ある日、子路と顔渕がおそばにいた時、孔子が言いました。「おまえたちはどんな人間になりたいのだ」、と。
まず、子路が語ります。「馬車に乗り、立派な着物や毛皮に身をつつんでいて、それを友人に貸し与えても、少しも気にしないほどの寛容な人間になりたいものです」と。次に顔渕が語ります。「自分の行いを自慢せず、めんどうなことを人に任せないような人間になりたいものです」と。
そこで、「先生はどうなのですか」と、子路が問いました。孔子が答えます。
「そうだなあ。年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような、そんな人間かな」、と。
これは孔子が居間で、くつろいでいる時のこととされています。そばにいる弟子に、何気なく語ったことなのでしょう。堅いことはぬきにして、人間としての生き方を問うたのだと思います。
子路の答えは、少し空想的に片寄った感じがします。また、顔渕の方は道徳的にかたい感じがします。でも孔子の答えこそは、きわめて自然です。
私たちも自分を語る時、孔子のようにありたいものです。よけいな理屈などいりません。学識さえ無用です。孔子は深い学識がありましたが、誰にでもわかり、誰にでも納得できるような、やさしい答えを語りました。これが、本当の教養というものです。
私は教養ということを考える時、このお話を忘れ得ません。まさに、そのとおりです。至高の名言です。
「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような」、そんな人間になりたいと思うのです。すばらしいでしょう、皆様。いかがですか。
最後まで大切なもの
令和元年11月16日
昨日、人の悩みで最も多いのは、病気とお金と対人関係だとお話しました。
しかし、さらに考えてみますと、病気の悩みは、病気そのものが悩みであると同時に、その病気によって迷惑をかけている家族や職場の人たちのことが気になるものです。またお金の悩みも、お金そのものが悩みであると同時に、それによって迷惑をかけている人たちが必ずいるものです。つまり、病気もお金も、つきつめて考えれば人間どうしの問題、対人関係の問題だといえるのです。人間の問題はやはり、行き着くところ人間なのです。
たとえば、職場の中を考えてみましょう。職場では仕事の成績でも悩むでしょうが、最もやっかいなのは人間どうしの対人関係です。顔も見たくないという上司がいるかも知れませんし、パワハラやセクハラもあるでしょう。また、同僚からのいじめに悩んでいる人も、キリがありません。
趣味のサークルもまた同じです。上達したかどうかで悩むより、サークル内の対人関係で悩むのです。仲間外れにされたり、お茶や食事にさそってもらえず、独りで悩んでいる人が必ずいるものです。
人間どうしのつき合いこそは、人生最大の課題です。自分の考えや意見ばかりを押し通すようでは、うまくいくはずがありません。また、人の立場を思いやる幅広い心と誠意が必要なことはいうまでもありません。最後まで大切なものは、人柄ということです。
人間を救うもの
令和元年10月29日
「人間を救うものは何ですか?」と問われた場合、私は「教養でしょう」と答えることにしています。教養はもちろん学歴ではありません。知識でもありません。言い方を変えれば、〈智恵〉というほどの意味です。困難を乗り越えるためには、考える力、決心する力、信じる力など、たくさんの力が必要です。それらを統合して、もっとも一般的な言葉が教養であり、智慧であると思うのです。
そうすると、「お坊さんなのに仏教であるとか、宗教であるとか言わないのですか?」といった反問がありそうです。もちろん、私がお話する教養とは、仏教的教養や宗教的教養を含めての意味があることも申し上げねばなりません。
人間は決して一人では生きられません。どんな才能を持とうが、強い意志を持とうが、必ず他人の助けがなければ生きられません。つまり、自分の力の限界を知って謙虚にならねばなりません。素直に他人の協力を仰がねばなりません。これも教養の一つです。
次に、生きていくためには能力が大切であるけれども、その能力が受け入れられる信頼がなくてはなりません。世の中には仕事はできるけれども人気がないという人がいるものです。こういう人は自尊心が強いので、まわりから信頼されません。いつかは墓穴を掘り、自滅していきます。その、信頼される力を、私は〈徳〉と呼んでいます。徳もまた教養の一つです。
次に、お世話になったら感謝と御礼を、ご迷惑をかけたなら反省とお詫びをする、それもスグ(!)にする習慣が大切です。人間がトラブルをおこす原因は「挨拶がない」からです。つまり、挨拶こそは、人間社会の潤滑油なのです。この当たり前の挨拶を、どこまで身に着けているかも教養の一つです。
こうして考えていくと、発想はいくらでもふくらみ、自然に対する教養、社会に対する教養、健康に対する教養、芸術に対する教養、そして神仏に対する教養へと発展していきます。人間を救うものは教養であり、智恵なのです。
淡交
令和元年10月11日
人間どうしのつき合いは、あっさりしていることが肝要です。荘子は「君子の交わりは、淡きこと水の如し」と語っています。水は淡きがゆえに、自在に流れるからです。濃厚な液体では、こうはいきません。この淡き交わりを〈淡交〉といいますが、美しい日本語だと私は思います。
「親しき中にも礼儀あり」といいますが、親しき中にも距離が必要です。どんなに親しい間でも、常に密着していると、息苦しくなるからです。たとえば、狭い部屋にぎゅうぎゅう人を押し込んで会議をしたらどうなるでしょうか。しだいに、みんなが不機嫌になっていくはずです。親友どうしも、同じ家に住むより、適度に離れていた方がよいはずです。
空間の距離ばかりではなく、時間の距離も必要です。親しい間なら、黙っていても気持ちが通じます。その沈黙の時間こそ大切で、それによっていっそう密接になっていくのです。いつも同じ調子で馴れ馴れしく話しかけられたら、いつかは嫌悪感が湧くはずです。
また、普段はあまり親しくもない者どうしが、急に打ち解けた話をすると、いい気分になるものです。とっつきにくいと思っていた人が、急に親しくしてくれると、こちらも心を許すものです。つまり、人間どうしにはメリハリが重要なのです。適度な距離をおき、適度な時間をおき、イザとなったら親交を深めることです。
音楽にアクセントがあるように、人生にも高低や強弱を保つことです。長い道のりです。息苦しくならぬよう、ご用心を。
小心という大胆
令和元年9月28日
私は小心で、臆病な人間です。幼い頃はカメラを向けられただけでも、はずかしくて逃げ回っていました。まして、大勢の前で自分の意見を述べるなど、考えられないことでした。
ところが、そこが人間の不思議さなのです。そういう自分を素直に認めると、逆に大胆で豪放な人間に一変するからです。今では自分をアピールすることが大好きですし、どんなに大勢の前でも堂々と講演をすることができます。けっして、特別な訓練をしたわけではありません。
つまり、小心と大胆、臆病と豪放とは紙一重なのです。自分の弱さを知ったものほど、逆に強くなるからです。考えてみれば、人は誰でも気の小さい、気の弱い一面があるものです。ただ、そのことを自覚しているかどうかが問題なのです。だから、それを自覚しない人ほど、度胸があって気の強そうな態度を見せるのです。
「弱い犬ほどよく吠える」というでしょう。弱い犬は闘えば負けてしまうので、吠えまくって相手に逃げて欲しいからです。強い犬はいつ闘っても勝てるので、そんなことはしません。犬にたとえて申し訳ないのですが、本当に実力も自信もある人は、むやみに怒鳴るようなことはしません。
自分は気が小さい、気が弱いと悩むことがあるなら、まずは素直にそれを認めることです。すると、かえって居直れるはずです。強い自分は、そこから始まるのです。実力も自信もある人は、小心で臆病な自分を知っています。重箱のスミをつっつくように細かいことにこだわるのです。それでいて、いざとなれば驚くほど大胆な働きをします。人間は誰でも、〝小心という大胆〟の矛盾を背負って生きているものなのです。
ケンカをして仲良しに
令和元年9月21日
ラグビーの〈ワールドカップ2019日本大会〉が開幕しました。私はラグビーはルールすら知りませんが、昨日は開幕の対ロシアの試合を、途中からテレビで観戦しました。
あれはまさに、ボールを使った格闘技です。もっと下世話に言えば、一種の〝ケンカ〟です。試合中は互いに激突して、取っ組み合いの寸前でした。でも私は、ラグビーがなぜ「紳士のスポーツ」と呼ばれるのか、その理由がわかりました。
人間は互いに本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出さねば本当の仲良しにはなれません。ラグビーはそれをスタジアムで証明するスポーツなのです。そして、選手どうしも観客どうしも熱狂して戦い、怒り、叫び、そして仲良くビールを飲んでいます。これは、人間が紳士になれる根底をついているからです。
はるかな記憶ですが、私がもの心のついた頃、農村の子供たちはよく徒党を組んでケンカをしました。川の両岸や土手に集まっては一列に並んで向かい合いました。そして、双方の大将が前に出て名のりをあげ、取っ組み合いをしました。まるでヤクザ映画の子供版です。私などは後ろの方で、指をくわえてそれを見ていたものです。
ところがケンカが終ると、互いが健闘をたたえ合い、得がたい仲良しになるものでした。たかが子供どうしのことですが、今思い出せば、あれこそはラグビーが紳士のスポーツであることと通ずるものがあるように思います。
このような例はスポーツはもちろんのこと、政治家どうし、経営者どうし、科学者どうしでも同じです。人間が本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出してケンカをした時、不思議な友情が生まれます。この事実は、私たちが何らかのケンカに巻き込まれた時、必ず役立つはずです。
「足るを知る」とは
令和元年8月27日
お坊さんの法話に「足るを知る」という、定番のタイトルがあります。そして、その法話の内容は、「欲をかかずに、与えられた生活で満足すること」というものです。つまり〈小欲知足〉や〈清貧の生活〉こそ、身分相応の理想的な生き方であるということを力説しています。
しかし、この考えには私なりの異論がありますので、そのお話をしましょう。
そもそも「足るを知る」とは、老子の言葉です。老子は「足るを知る者は富み、勉めて行う者は志あり」と語っています。「自分には何があるかを知る人は、本当の豊かさに恵まれ、努力を続けることができる人は、それだけでも大きな生きがいである」といった意味でしょうか。そうすると、与えられたもので満足することとは、かなり違ったお話になります。自分には何があるかを知るとは、自分に与えられたものを最大限に生かすという意味ではないでしょうか。自分に与えられたものとは、内面的な長所でも、身辺の人や物でもよいのです。
つまり、自分の足もとにこそ無限のヒントがあり、無限の味方があり、無限の宝があるということなのです。本当に行き詰まった時、何を失ったかより、何が残っているかを考えることです。あと一ヶ月しかないということは、あと一ヶ月はあるということです。心に浮かんだことを、やってみることです。急に思い出した人に、電話をしてみることです。思い出の場所を、また訪ねてみることです。意外な時に、意外な場所で、意外なことがおこるのです。
追いつめられた時こそ、この老子の言葉を思い出してください。乗り越えられない苦難を、背負うはずがないのです。この世に生まれた以上、人は生きるに値する富があるのです。
妙なお話
令和元年7月27日
女性の戒名には、〈妙〉の字がつくことが多いのです。戒名というのは、葬儀において仏門に入るための新たな名前です。つまり、仏式で葬儀をするということは、仏弟子になるということで、そのために戒名をつけるのです。
では、なぜ女性の戒名に〈妙〉の字が多いのか、考えてみれば妙なお話です(笑)。もちろん、オンナヘンがついているのも、その理由の一つでしょう。しかし、そればかりではないように思います。皆様は、どのようにお考えになるでしょうか。
私が思うには、女性はささいな変化にも敏感であるためではないかと推察しています。つまり、女性はわずかな違いでも、鋭く見極めることができるからです。
たとえば、ある部屋の中に男性と女性が一人ずつ入って、その部屋の中をよく観察した後に、いったん外に出ていただくとしましょう。そして、たとえば机の上の置時計を10センチほど移動したとします。そして、再びお二人に部屋の中に入っていただき、どこを移動したかとたずねてみたとします。男性はたぶん何も移動していないか、わからないと答えるはずです。しかし女性は、そのわずかな移動を敏感に感じ取り、みごとに言い当てることでしょう。
男性はいつも仕事が忙しいので、こんなことに関心を持つ余裕すらありません。しかし、女性は日頃から、食品のわずかな鮮度を見分け、洋服のわずかな色彩を見分ける習慣を持っています。それは理論的な思考ではなく、ほとんど直観といってもよいほどの才能でしょう。この才能は男性がいかに努力をしても、追いつくものではありません。
同じ人間なのに、まことに妙なお話です。いつであったか、こんなことをお通夜の席でお話したものでした。