北斎の富士山
令和3年1月7日
あさか大師となりの土手に登ると、晴れた日には富士山を望むことができます。今年の正月は、どうしたことか葛飾北斎の富士山が気になり、改めてその画集も開きました。なるほど、海外での人気もうなずけます。
『富嶽三十六景』で知られる北斎は、江戸時代の浮世絵師として有名ですが、生涯に何と三万点を超える作品を発表しています。その作品はゴッホなどにも影響を与え、森羅万象を描いて、その特異な才能を開花させました。また『北斎漫画』などにも新境地を示し、晩年は銅版画やガラス絵の研究までも試みています。
1999年、アメリカの『ライフ』誌が企画をした「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一ランクインを果たしました。門人の数もきわめて多く、孫弟子を含めると200人に及ぶとされています。
北斎は江戸本所の農民の子として生まれましたが、幼い頃より手先が器用で絵師を志し、19歳にして浮世絵師の勝川春章に弟子入りしました。しかし、浮世絵のみに飽き足らず、師匠に内緒で狩野派などの画法も学んだために破門されています。その後は行商をしたり、うちわ絵の内職をして糊口をしのぎました。
数々の奇行でも知られ、生涯に転居すること93回に及び、一日に3回転居の記録も残しています。その理由は絵を描くことに熱中して、あまりにも部屋が汚れたためでした。食事を作ることも掃除をすることもせず、夏季のほかは炬燵に入りっぱなしで、眠くなるとそのまま横になっていました。また、新ジャンル挑戦のたびに画号を改めること30回に達し、「春朗」「宗理」「群馬亭」「画狂人」「為一」「卍」などと名のり、「北斎」は北斗妙見への崇拝から選んだようです。
北斎は卒寿(90歳)という、当時としては破格の長寿を得ました。しかし、私が最も印象に残っているのは、死を目前にして「天が私の命をあと10年、いや5年延ばしてくれたなら、私は本当の絵描きになることができるだろう」と語ったことです。天才とは尽きることのない努力の証明でしょうが、北斎の富士山は何を語っているのでしょうか。
侘びの極み
令和2年11月19日
紅葉の季節になると、いつも思い出す印象的なお話があります。それは茶道の宗匠・千利休がまだ若い頃、師匠の武野紹鴎のもとで修行をしていた頃のことです。
ある日、紹鴎が茶会の客を招くため、念入りな準備をしていました。茶席の道具を取りそろえ、内外を掃き清め、水を打ち、充分な掃除も済ませました。そこで紹鴎は一計を案じ、利休を試そうとしました。掃除はすべて済んでいたにもかかわらず、「露地の様子を点検しておきなさい」と命じました。
庭も露地も万全を尽くしたのですから、塵ひとつ落ちているはずがありません。しかし、そこが利休の非凡なところです。ある紅葉の下に行くと、その樹を何気なくゆすり動かしました。すると、色づいた紅葉がパラパラと露地に落ちました。美しい模様が点々と露地に描かれたのでした。利休は「お師匠さま、路地を点検しました。ご覧になってください」と言うや、紹鴎はその侘びの風情に驚きました。完璧に掃き清めた露地はもちろん美しいのですが、自然な落ち葉はさらにその風情を深めるからです。「この子はただ者ではない」と思ったのも、無理はありません。
利休は侘びの極みを心得ていたのです。つまり、最高の侘びとは美を極めて、さらにひとつ脱落したところにあるからです。つまり「不完全の美」にこそ、その境地があるということです。だからといって、作為的に手を加えても、侘びの極みにはなりません。そこを間違えてはなりません。
利休は後に、最高の宗匠となって、侘び茶を大成しました。さすがに紹鴎が見込んだだけの人物だったということです。ただ、私たちが同じことをしても〝不行き届き〟になるばかりです。マネをしてはいけませんよ。
中秋名月
令和2年10月1日
今夜は中秋名月で、これほどきれいな満月を観るのも久しぶりです。さっきから何度も庭に出て、満月にむかってグラスを掲げ、乾杯(ただしノンアルコール)をしました。あさか大師の桜並木から写真を撮りましたが、「こんなカメラで申し訳ありません」と謝ったくらいです(写真)。
現代人はもちろん、月にはウサギがいて餅をついているなどと思っている人はいません。ススキや団子を供える方も少なくなったことでしょう。観測データも進んで、一般の方でもかなりの知識を持っています。月面は昼の正午の温度が110度、夜はマイナス170度です。昼にウサギがいても丸焼けになりますし、夜なら凍結して餅つきどころではありません。
ところが現代の幼稚園や保育園でも、月見の由来を子供さんたちにお話し、月見団子を作ってススキと共にお供えします。家に持ち帰れば、窓際やベランダにお供えするかも知れません。日本人はそれほど、月見というものを大事にしているのです。平安時代は秋の収穫を感謝して里芋や豆類をお供えしましたが、それが月の形をした丸い団子になったのです。
いつも思うのですが、今日は旧暦の八月十五日で、つまり〝十五日の夜〟なのです。〈十五夜〉が十五日の夜にならない今の新暦は、どう考えも日本人の風習に合いません。〈新春〉とはいいながら、新暦の元旦では春の兆しもありません。七草だって生えません。三月三日といっても、新暦では桃の花など咲きません。今の桃の花は温室で育てられたものです。七月七日の七夕も、新暦ではまだ梅雨も明けません。だから、天の川など見えません。
日本人は旧暦によって、その文化を維持して来ました。真言密教で日の吉凶を調べる『宿曜経』も、旧暦を用います。旧暦の毎月一日から次の月が始まりますので、これを「月が立つ」という意味で〈月立〉と呼び、〈ついたち〉へと変じました。同じように終りの三十日を「月隠もり」と呼び、〈つごもり〉へと変じました。美しい日本語です。
そして、明日の十六日の夜が〈十六夜〉です。今夜の満月に比べると、輪郭がゆるみ、はにかみ、ためらいがちに現われます。明後日の十七日の夜が〈立待月〉です。月がまるで躊躇していたかのように忽然と現れる様子を、立ちながら待つのです。たった一つの月を、これほどいとおしむ国はありません。美しい日本語です。
弘法にも筆の誤り
令和2年7月9日
中国書道史における最高傑作に、東晋時代の王羲之による『蘭亭序』があります。これは永和九年の暮春、文人墨客四十一人が会稽山陰の蘭亭に集まり、禊をして「曲水の宴」を催した時の序文です。「曲水の宴」とは庭園の曲がりくねった流水のそばに座り、浮かべた酒杯が自分の前に流れ着くまでに詩を詠むという行事です。もちろん王羲之もこれに参加し、かなりのお酒も飲んでいたようです。
時に宴たけなわの頃、王羲之はネズミ毛の筆をもってこれを書きました。この時は草稿(下書き)として書いたわけですから、いずれは清書をしようと思っていたのでしょう。しかし後日、彼は十数回にわたって清書を試みましたが、ついにその草稿に及ぶものは書けませんでした。脱字は横に追記し(写真)、誤字は上からなぞってはいますが、その二十八行、三百二十四文字こそは深奥の妙を極め、「神品」とされています。しかも、同じ文字であっても字形を違え、特に文中には〈之〉の字が二十字もありながら、そのすべてに変化を尽くし、後代の書家は王羲之をして「書聖」と仰ぎました。
ただし残念なことに、唐の太宗皇帝が王羲之を熱愛するあまり、蒐集した彼の筆跡をことごとく自分の王陵(墓所)に埋葬させたため、真蹟は何ひとつ残っていません。現代に伝わる『蘭亭序』はすべて臨書(書き写し)されたものです。
では、日本書道史における最高傑作は何であるかとすれば、それはお大師さまの『風信帖』以外にはあり得ません。これは平安時代の弘仁二年(あるいは三年)、お大師さまが狸毛の筆をもって書かれた伝教大師(最澄さま)あての書翰(手紙)で、現在は京都の東寺に保管されています。
私は十六歳の高校一年生の時、書道教科書でこの『風信帖』に触れ、まるで稲妻に打たれたような衝撃を受けました。そして、自分もこんな書を残したい、こんな方の弟子になれるなら僧侶になってもよいとまで思いつめるようになりました。さらに、教科書の写真を切り取ってはいつも持ち歩き、何度これを臨書したかもわかりません。全部で三通ありますが、第一通などは全文を暗記していたほどです。
ところが、お大師さまも一ヶ所だけ文字の前後を書き違えていらっしゃるので、これが「弘法にも筆の誤り」の語源かも知れません。「仏法の大事因縁を商量し(共に考えること)」の〈商量〉を〈量商〉と書かれ、間にレ点をつけておられます(写真)。しかし、私も今はお大師さまご入定より高齢となりましたが、その技量も力量も、とてもとても及ぶところではありません。雲の上の存在とさえ思えます。その品格、その筆力、まさに日本の「神品」です。
厄よけの五節句
令和2年6月23日
そろそろ〈七夕〉の準備をしている保育園や幼稚園も多いことでしょう。七夕は〈五節句〉の一つで、暦のうえでの重要な意味があるのです。
「怠け者の節句はたらき」ということわざがあります。普段怠けている者にかぎって、節句の時など世間の人が休む時に、忙しいふりをするという意味です。あるいは逆に、普段怠けていると、世間の人が休む時に休めなくなるという戒めにも受け取れます。つまり節句は本来、季節の節目として仕事を休む日であったのです。なぜなら、この日は奇数(陽数)どうしが重なり、陰に転ずるために〈厄よけ〉をする必要があったからです。
数にはもちろん奇数と偶数があります。十進法(0から9までに位をつける数の表記)での奇数が〈陽〉で、偶数が〈陰〉です。ですから単数で月日を示せば、一月七日(七日正月・七草)・三月三日(桃の節句・ひな祭り)・五月五日(端午の節句・子供の日)・七月七日(七夕・星祭り)・九月九日(菊の節句・重陽)となり、これが五節句です。一月一日は元旦なので、一月七日を〈七日正月〉と定めました。これらの日はすべて奇数(陽)が重なり、陰に転じて災いをまねくと恐れられたのです。したがって、現在では国民的なお祝いの意味で過しますが、本来は厄よけをして災いを祓う日だったのです。
一月七日の〈七草粥〉は平安時代、病気にならぬよう嵯峨天皇に薬膳を献上したことから始まりました。三月三日の〈桃の節句〉は桃の木に魔よけの意味があるからです。〈ひな人形〉も、本来は紙で作った人形に名前を書いて川に流しました。つまり、禊だったのです。五月五日の端午は〈五月病〉への厄よけです。季節の変わり目で病気になりやすいため、清めの菖蒲湯に入り、菖蒲酒を飲み、菖蒲枕で眠りました。また、男の子の髪には菖蒲をまいて成長を祈りました。七月七日の七夕は織姫と彦星の伝説から、二人が会ってと疫病が流行らぬよう祈願をしたのです。これが転じて、天の川に願いごとをするようになりました。九月九日の重陽は、最大の陽数である九が重なるため、菊の花で邪気を祓ったのです。菊の花が香る中、月をながめながら菊酒を飲む〈菊花の宴〉は天武天皇の飛鳥時代から行われていました。
ただし、これらの五節句は、正しくは旧暦(約一ヶ月遅れ)でのお話です。現代(つまり新暦)の三月三日に桃の花は咲きません。花屋さんで売っている桃の花は温室で栽培されたものです。また現代の七月七日ではまだ梅雨も明けず、天の川など見えません。しかし、こうした千古の伝統が受け継がれることは、この国の文化です。新しい祝日を増やすなら、どうして伝統ある五節句を加えないのでしょうか。私は以前から、このことが大変に不満でした。
天空の仏教音楽
令和2年5月12日
「讃祷歌」という仏教音楽があります。東京代々木の智韻寺初代住職・新堀智朝尼(故人)が、その創始者です。
仏教音楽というと声明やご詠歌・和讃は知られていますが、讃祷歌は童謡ありクラシックありで、この分野ではきわめて特異な存在です。キリスト教の教会では聖歌隊はもちろん、信徒も共に讃美歌を歌って祈りのボルテージを上げますが、仏教寺院はもっぱら読経が中心です。仏さまやお大師さまを讃える歌が、もっと採用されるべきだと私は思います。
智朝尼は「讃祷歌詠唱団」を組織し、全国の寺院やステージに立ちました。また海外公演も数知れず、特にカーネギーホールや国連ホール、バチカン特別謁見でも詠唱しました。私も東京芸術劇場大ホールでの公演では、修験道(山伏)の衣帯で法螺師を務めた経験があります。圧巻のオーケストラ演奏の中、自分がお護摩を修しているイメージで法螺貝を吹奏しました。目の前に作曲家の黛敏郎さんが座っていたので、かなり緊張したことを覚えています。
私は智朝尼とは若い頃、京都東山の総本山智積院で出会ってより、大変に親しいおつき合いをしました。彼女とは親子ほど歳は離れていましたが、互いに意気投合して時を忘れるほどでした。思い出すこともたくさんあります。当時はまだ携帯電話もありませんでしたが、いっしょに街を歩いていると、「ちょっと待って」と言って公衆電話に飛び込むのです。何だろうか思ってと見ていると、何やら受話器を持って口ずさんでいます。あとで聞いてみると、突然に浮かんだ詩曲を自宅の留守電に入れていたというのです。もちろん、忘れないためです。
音楽の神さまは、思いがけない時に啓示を垂れるのでしょう。彼女はその「天空の仏教音楽」を、自分の身でキャッチしたのです。その時は〈わらべ歌〉でした。
「いとけなき子らに よみじを照らしつつ みてには乳び たれさせたもう 南無観世音 今日は父 明日は母よと叫ぶ子に 慈悲の雨ふる 晴れをまたなん」
私の車に同乗していても、急に「止めてください」と言うのです。キャッチした詩曲がエンジンの音で聞き取れなかったのでしょう。彼女の日常はすべて音楽と共にありました。旋律が降臨し、歌詞が浮上するや、天空のその詩曲を地上へと届けていたのです。聡明で一途な人柄を、私は忘れることはありません。あの世でまた出会うのが楽しみです。
レディー・ファースト
令和2年3月27日
皆様、決して笑わないでください。私は最近、レディー・ファーストを心がけているのです。
ある時、近所のスーパーに入ろうとしました。スーパーの出入口はもちろん、お客がすれ違うほどの広さは十分にあります。しかし中年の女性が一人、ちょうど外に出る直前だったので、私はとっさに身をよけて彼女に先を譲りました。すると、彼女は恐縮したように私にていねいな会釈を返してくれたのです。たしかに、こんなマナーを身に着けた男性は、日本にはほとんどいません。
しかし、このささやかな経験は、私の人生に大きな変化をもたらしました。その一日が、どれほど充実したことでしょう。まるで、大きな宝物でも手にしたような気分になったのです。
以来、私はスーパーはもちろん、コンビニでも郵便局でも、その出入口ではレディー・ファーストを心がけるようになりました。まず、たいていの女性は会釈を返してくれます。いつも思うのですが、〈出入口〉という言葉はまず〝出る〟ことを意味します。だから出る人を優先すべきであるのに、こんな常識すら通用していません。しかし私は、出入りのいずれであっても、レディー・ファーストはかなり身についてきました。私が特に、道徳的にすぐれているからではありません。それによって気持がよくなることを覚えたからです。
日本は武士道は発達しましたが、騎士道の心がけがまったくありません。特に男性にとって、レディー・ファーストは大の苦手です。それは男尊女卑の先入観はもちろん、相手の女性に対して自分より年上なのか、レディーなのか小娘(!)なのかを意識するからです。しかし欧米では、子供の頃から「女性を見たら誰であってもレディー・ファースト」と教え込まれます。つまり、無条件で優先するのがレディー・ファーストなのです。私はこの教えを自戒してからは、自然にレディー・ファーストが身についたような気がします。
しかもこのレディー・ファーストが身につくと、横断歩道に渡ろうとする人、車道を走る自転車の人に対しても、苦もなく譲れるようになりました。そして、人生の時間がゆるやかに流れ、せかされることさえ少なくなったように思えるのです。私の人生にとって、思いもかけない大きな収穫でした。とてもありがたいことです。
レディー・ファーストを実行したからといって、自分の負担に大差はありません。むしろ、得られる豊かさの方が多いはずです。小学校の授業にも、会社の研修にも取り入れてはいかがでしょうか。日本が大きく変わるはずです。そして武士道と騎士道が融合すれば、まさに鬼に金棒、世界最強の国になるでしょう。それこそ、本当の文化というものです。
大相撲放送への提言
令和2年3月8日
今日は月初めの総回向があり、また加行(入門の修行)の伝授や得度式(仏門に入る儀式)の打合せなど、忙しい一日でした。夕方五時半頃にたまたまテレビをかけましたら、大相撲春場所の初日中継を放送していました。まさに前代未聞の無観客場所です。新型コロナウイルスによるやむを得ぬ処置とはいえ、異様な館内であったことは否めません。
ところで、私は時おり思うのですが、相撲こそは日本の国技です。ところがその相撲について、国民はファンとする関取や力士のこと以外、ほとんど何も知りません。いや、その関取と力士の違いすら知りません。ただ、何となく放送されているからそれを見ていると、そんなものではないでしょうか。
たとえば「立行司の木村庄之助・式守伊之助」といいますが、その立行司という意味について、アナウンサーも解説者も何も説明しません。ほかの行司とどのように地位や装束が違うのか、もっと国民に知らせるべきなのです。
行司といえば、よく「よ~い、はっけよい」と鼓舞しますが、あの「はっけよい」とは発揮揚々のことで、「もっと気を発せよ」「発揮用意」のことであることを、国民は知っているでしょうか。また結びの一番では、たいていは観客の声援で行司の声が聞き取れません。ところが、この触れがなかなかの口上です。
「番数も取り進みましたるところ、かたや白鵬、白鵬。こなた鶴竜、鶴竜。この相撲一番にて本日の打ち止め~(千秋楽にござります~)」
日本語としてもすばらしい音調ですが、これを知っている人はおそらく国民の1パーセントもいません。
そのほか、相撲界の裏方である呼出・床山(髪結い)・ちゃんこ番、番付の書体である根岸流、太鼓(寄せ太鼓・跳ね太鼓)、相撲甚句のことなど、放送中に少しでも解説や字幕で知らせれば、国民はもっともっと相撲に興味がわくはずです。また若い女性や外国人にも、さらに人気が高まるのではないでしょうか。
文化はわかりやすく、親しめることで残るのです。また伝統という概念も、その時代に融合した新鮮さがなければなりません。私が職業とする仏教やお寺も同じことです。古きものこそ新しき革袋が必要となるのです。
音読のすすめ
令和2年3月3日
齋藤孝著の『声に出して読みたい日本語』(①~⑤草思社刊)は私の愛読書です。愛読書といっても、本書は音読して暗誦するためのテキストであり、私もまた〝声に出して〟これを読んでいます。
今や暗誦文化は絶滅の危機にありますが、あえて一石を投じた本書は称賛に価すると思います(写真)。
昔の寺子屋では、子供たちが『論語』や漢詩や和歌を大きな声で音読し、暗誦しました。それは生涯忘れることのない言葉の財産となりました。昔の人が辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、ひとえにこの暗誦文化のおかげなのです。
以前、ある大学の国語入試試験に川端康成著『伊豆の踊子』の冒頭が出題されました。〈つづら折り〉〈雨脚〉〈朴歯の高下駄〉といった言葉を、例語の中から選びなさいというものでした。それを受験した高校生が私のところに来て、「あんなのわからない」というのです。私はこの冒頭を高校生の時に暗誦していましたから、その場で声に出して聞かせました。その高校生はキョトンとしていましたが、私が特に頭がよいわけでも記憶力がすぐれているわけでもないのです。ただ、音読をくり返して暗誦していたに過ぎません。
声に出して音読をすることは、耳を通じて脳を刺激し、情緒を高揚させ、記憶力を高めます。なぜなら言葉は〈言霊〉であり、魂が宿るからです。そして言霊は〈事霊〉であり、現実をも動かす力があるのです。そして何より、日本は「言霊の幸はふ国」(『万葉集』巻五)でもあるのです。
お大師さまは「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く」(『般若心経秘鍵』第五)とおっしゃいました。真言の意味を学問的に知らずとも、心を集中してお唱えすることにより、その功徳が生まれます。『般若心経』をお唱えする人はその意味を知らずとも、その言霊によって現実を動かし、願いごとが叶い、経典の真意を〝知る〟ことができるのです。
経典ばかりではありません。名文や詩歌は声に出して音読し、暗誦することが肝要です。格別な才能などいりません。くり返し声に出す、これだけなのです。
豆まきの文化
令和2年2月3日
今日は節分で、各地の社寺で豆まきが行われました。
豆が「魔を滅する」から、あるいは「魔の眼を滅する」から、それが〝豆まき〟なのでしょう。また、豆(大豆)には豊富な栄養があり、健康食品としてもすぐれているからなのでしょう。特に炒った大豆は、火を通していますから人にも食べられます。できれば発酵して納豆にすればよいのですが、残念ながら豆まきには使えません。
幼い頃、父と二人だけで地元の神社で誰もいない中、豆まきをした記憶があります。父があまりに大きな声で「鬼は外!、福は内!」と叫ぶので、私ははずかしくなり、声も出せませんでした。それでも父が、「お前も声を出せ!」と言うので、何とか頼りない声を出しました。
今日、人はこんなことをどう思っているのでしょうか。もちろん、豆まきをする人は今でもたくさんいます。コンビニやスーパーで節分の豆が売り出されれば、何となく気になります。中には「〇〇厄除よけ大師祈願」とまで、宣伝している商品まであります。有名寺院ではゲストのタレントさんの顔を見たくて、その豆まき行事に群参します。恵方巻ももちろん売れています。
これはこの国の文化なのです。また、この国に宿った民族の血なのです。そして、人というものの不変の願望なのです。
魔を滅するから「豆まき」だといえば、幼稚な語呂あわせと笑うかも知れません。でも、人は誰でも魔を恐れ、少しでも逃れたいと望んでいるのです。そうでなければ、厄よけの祈願にこんなに人が集まるはずがありません。魔(悪いもの)を除きたいという気持は、いつの世でも変わりません。