カテゴリー : 霊

六地蔵怪談

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令和2年10月14日

 

あさか大師へ向かう途中に、自動車整備会社とタクシー会社の駐車場があります。その自動車整備会社の片隅かたすみ六地蔵ろくじぞうが置いてありました。それはタクシー会社の先代社長さんがどこかの石材店で見つけ、気に入って買って来たものとのことでした。たぶん、交通安全への願いからだったのでしょう。もちろん、読経をしていたわけではありません。つまり、土産物みやげものほどの意味で買って来たということなのです。しかも、まわりはゴミ捨て場のように散らかしたままでした。

私はそのことがとても気になり、自動車整備会社の社長さんにこのことをお話しました。すると、「お寺で何とかしていただけませんか」という返答だったので、あさか大師で引き取ることとなりました。運搬して取りあえず、玄間のそばに並べました。いずれは、しかるべき場所に安置するつもりだったのです。

ところがその翌日、二人の尼僧さんが護摩修行に来て宿泊しました。私は自室で就寝しましたので気づきませんでしたが、尼僧さんたちは安眠できないほど怖い体験をしていたのです。二人が宿泊した部屋にはもちろん、サッシがあり、カーテンもついています。しかし、深夜になって、赤い服を着た女の子が一人(もちろん、この世の子ではありませんが)、サッシに張りつくような姿で二人をじっと見ていたというのです。

二人は護摩修行で疲れ果て、しかも深夜でもあったので、「明日になったら供養をするから」と言って眠りにつきました。これは明らかに事故か川でおぼれた女の子で、葬式もされず、どこへ行っていいのかわからない孤独な霊なのです。たまたま六地蔵が目につき、供養されることを望んで、今か今かと待っていたのです。

翌朝、私はさっそく六地蔵を水子観音堂に並べ、香を焚いて供養を施しました。不思議なもので、六地蔵の顔までうれしそうに変じました(写真)。今でも、毎日続けています。安置する場所も定まり、近いうちには開眼法要をするつもりです。

仏像を安易な気持ちで買ってはいけません。私たちは眼に見える世界にだけ生きているのではないのです。そうでないと、このように怖い怪談を体験しますよ。

続・蛇体の威神力

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令和2年8月24日

 

実は、高野山にも蛇体に関する伝承が残っています。かつて、奥の院の一の橋から御廟ごびょうに向かう途中を右に少し入ると、「蛇柳じゃやなぎ」と呼ばれる柳の大木がありました。荒れ果てたさびしい湿地に、柳の枝がいくつにも分かれて伸びている様子は、まるで大蛇が地をう姿そのものだとされていました。近づくとまさに妖気ようきが漂い、背筋が寒くなったと語る人もいたそうです。現在では新しい墓地になっていますが、さて、その伝承です。

お大師さまが高野山を開創され、諸堂建設の指揮をされていた頃、東北の地(もちろん、当時はまだ奥の院という地名はありません)にとてつもない大蛇がいて、人々をおびやかしていることを耳にされました。お大師さまはこの大蛇は封じ込めないと高野山に差し障りがあると判断をされ、竹箒たけぼうきを持って現場に向かわれました。到着すると、なるほど今にも人をみ込まんとするほどの勢いで、見るも恐ろしい大蛇が地をっていたのです。お大師さまは持ち前の法力で、たちまちにその大蛇を竹箒に封じ込め、大蛇は柳の大木へと変じました。

竹箒を用いられたのは、たぶん大蛇のような、また龍のような形を想起されたからでありましょう。以来、高野山にはマムシ等の毒蛇がいなくなったことが、「高野七不思議」の一つとして数えられ、現在に至っています。それにしても、後世まで「蛇柳」として残るとは、並みのパワーではありません。

別のお話が、常喜院じょうきいんから根本大塔へ向かう「蛇腹道じゃばらみち」にも伝わっています。蛇腹道は今ではモミジの名所として知られる美しい小径こみちですが、たしかに蛇体のような曲線をなしています。お大師さまご在世の頃は、頭西腹北と頭東腹南の二龍がせった不思議な地形でした。この二龍の腹と腹の間を通ったことが、その名の由来です。近くの蓮池には龍王社が祀られていますので、お大師さまは高野山を風水ふうすいでの「龍臥りゅうがほら」と考えられ、ここでも法力を示されました。つまり、威神力をもって高野山を守護する龍王としてお迎えされたのです。

明治時代まで、高野山では「三つまた熊手くまで、および竹箒たけぼうきを禁ず」という規則がありました。封じ込めた大蛇を恐れたからでありましょう。竹の植栽さえ禁じました。そのため、コウヤボウキという低木の枝を束ね、これを箒として使いました。もっとも、これには別の理由もあって、人は竹を見るとかござるを作って商いをするからだと私は思っています。

蛇体には霊的なパワーがあるのです。仏教の強大な守護神ともなれば、悪蛇悪龍ともなるのです。たとえミミズといえども、粗末に扱ってはなりません。私も肝に銘じ、自戒をしています。

蛇体の威神力

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令和2年8月20日

 

私が子供の頃、農村の男の子はみな、川でりをしたものです。とはいっても、えさはミミズしかありません。ミミズばかりはいくらでもいたのです。また、男の子はどこにでも立小便をしたので、おしっこがミミズにかかることがよくありました。さあ、その時です。故意であろうが間違ってであろうが、そのおしっこがミミズにかかるや、男の子のアソコがれて痛み出すのです。私も何度か経験しましたので、よくわかります。これは確かなことです。

しかし、その理由がわかりません。いろいろ調べましたし、質問もしました。ある方はミミズが防御液を出すのではないかと言いましたが、たとえ子供でも、地面から男性器までの距離を考えれば納得はできません。ある方は不潔な手でおしっこをするからだと言いましたが、農村の子供はみな田畑を手伝って汚れていたのに、ミミズにおしっこをかけた時だけというのも納得できません。ある農学博士はこの質問に対して、「きわめてむすかしい」と答えています。

ミミズを干した生薬を漢方では「地龍じりゅう」といい、解熱剤として大変に薬効があります。高熱を発する疫病治療などにも、使われたかも知れません。たしか韓国の歴史ドラマ『王建(ワンゴン)』の中で、兵たちが疫病にかかって士気を失い、交戦もできない状況のシーンがありました。軍医も治療法が見つからず、悩むに悩みました。ところがある夜、夢の中にその先祖が現われ、ミミズを生薬と共にせんじて服用させれば快癒かいゆするとのお告げを受けました。事実、この処方で兵たちの命が助かりました。ドラマでのストーリーとはいえ、十分にあり得るお話だと思います。

また、近年は赤ミミズに含まれる〈ルンブルクスルベルス〉という酵素が血栓けっせんを溶かす効力があるとして、宮崎医科大学の美原恒みはらひさし博士らによって研究が進められています。脳梗塞のうこうそく心筋梗塞しんきんこうそくの救世主となり、栗本慎一郎氏がこの線溶酵素によって一命を取り留めたことでも話題になりました。これはまさに、驚異的な業績と言わざるを得ません。

それにしても、ミミズを「地龍」と呼ぶ薬名も気になります。〈龍〉は強大なパワーを持ち、権威や才能の象徴ともされます。皇帝の玉座ぎょくざを「龍座りゅうざ」とも言い、『三国志』では隠棲いんせい中の諸葛孔明しょかつこうめいを「臥龍がりゅう」と呼んでいます。かくれた天才という意味でしょう。また、いまだ天に昇らぬ龍を「蟠蛇はんじゃ」と言い、ヘビを龍の子供とするのです。龍は肉眼では確認できませんが、ヘビやミミズは地上の生物です。つまり、こうした蛇体には、何か霊的なパワーがあると考えられて来たのです。

農村のことばかりで恐縮ですが、ヘビをいじめたり、殺したりして高熱を出した子供がよくいました。釣りをして川魚を食べても、ネズミを退治しても何ともないのに、どうしてなのでしょう。弁財天の眷属けんぞくである白蛇はくじゃを「宇賀神うがじん」と呼ぶように、ヘビやミミズのような蛇体には、特殊な威神力いじんりきがあるとしか思えません。私が浄書する霊符れいふ(護符の一種)もまた、蛇体の形をしていますし、霊符行者はウナギ(蛇体)を禁食としています。今日のお話、いかがお思いでしょうか。

あり得ないお話

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令和2年8月11日

 

これは四十年近くも前、私の友人の子供(三男)に起こった奇跡談きせきだんです。

その子は当時、四歳ほどだったと思います。友人の自宅は東京都文京区の、ある交差点から約30メートルほどの距離にありました。通りに面して車の往来も多いところでしたが、住民はけっこうスキを見て(横断歩道まで行かずに)道路を横切っていました。このことが裏目に出たのでしょう。

ある日、その子が自宅の反対側から道路を横切ろうとした時でした。交差点を左折したタクシーがスピードを出して迫って来ました。友人の妻、つまりその子の母親が自宅前で「あぶない!」と叫びましたが、すでに遅く、その子は急ブレーキを踏んだタクシーにはねられて倒れ、しかもタイヤの下敷きになったのです。一瞬のことでした。

母親もタクシーの運転手も、無我夢中でその子を抱き起こしました。うっすらと意識はありましたが、何が何だかわからなかったようです。着ていた赤いTシャツはボロボロで、胸にはタイヤのあとがはっきりと残っていました。もちろん救急車を呼び、すぐ病院に運びましたが、何と内臓に異常はなく、ほんのかすり傷で済みました。まず、あり得ないことです。

もちろん私は、その場に居合いあわせたわけではありません。しかし、この知らせを受けた時、これは世にもまれな奇跡だと思いました。そして後日、私はその子に会い、その時の状況を上手に聞き出しました。たぶん、何かに支えられて空中に浮いた感じとか、光のようなものを見たとか、そういう神秘体験をしたに違いないと思ったからです。

その時の答えを、私は忘れることができません。その子の答えは、「おじいちゃんやおばあちゃんが見えたよ」というものでした。私がさらに「どんなおじいちゃんやおばあちゃんだったの」と聞くと、「この人たち」と、仏壇の上を指さしました。その仏壇の上には、友人の祖父母からの遺影が飾られていたのです。私は驚くと同時に、十分にあり得ることだと確信したのでした。あり得ないお話が、あり得るお話へと変ったのです。

皆様はこのお話を信じるでしょうか。しかし、これは間違いのない実話です。私は友人に願い出て、ボロボロになり、胸にタイヤの跡までついた赤いTシャツを譲り受けました。そして折を見てそのTシャツを披露ひろうし、生々しいタイヤの跡を示しつつ、この奇跡談の法話をしました。何よりも、そのTシャツが事実を証明しています。そして、一段と声を大きくして、いつもの「大切なこと」をお話したのでした。

続・陰膳のすすめ

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令和2年2月12日

 

昨日、「陰膳かげぜん」のお話をしました。そして、家族は精神的に連結しているから、陰膳によってこれを応用することができるとお話をしました。

実は、このお話をさらに続けるなら、家族は霊的にも連結しているともいえるのです。つまり、あの世の人とも連結しているという意味です。人はこの世の一生で終るのではなく、その人を思えば、それは〝生きている〟ことになるからです。

たとえば、ご主人か奥様のどちらかが他界されて、お子様が幼いのに片親となった場合、子育てはなかなかむずかしいものです。しかし、その片親が位牌に向かって合掌がっしょうをしていれば、そのお子様が間違った育ち方をすることはありません。その後ろ姿を見て、「お父さん(お母さん)を大事にしているし、お父さん(お母さん)はいつもそばにいる」という思いをいだくからです。そして、その思いは必ずあの世とも連結するからです。何もむずかしいことではありません。

そして、あえて提案しますが、月に一度の命日めいにちには陰膳かげぜんをすることが大切です。ご主人(奥様)が座っていた食卓に、好きだった食事をえることです。お子様ははじめ、お客さんでも来るのかと思うでしょう。しかし、その理由を説明すれば、お子様はますますよい子に育ちます。これは、どんなご祈祷法にもまさる〈秘中の秘〉なのです。

片親でご苦労をされている皆様、どうかこの陰膳のすばらしさを、ぜひ体験してみてください。

インド人のお墓

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令和元年10月4日

 

昨日、親のお葬式ばかりはなさってください、そして、お墓に埋葬してください、とお願いしました。そう言うと、皆様の中には反論をなさる方がいらっしゃるはずです。インド人は火葬した遺骨をガンジス川に流すではないか、お墓なんかないではないか、という反論です。

違うのです。現代のインド人はほとんどがヒンズー教徒ですが、火葬した後は僧侶を呼んでお葬式をします。そして、その後に〈聖なる川〉であるカンジス川に流します。聖なる川であるからこそ、罪を浄めるために流すのです。つまり、インド人にとっては、ガンジス川こそが〝お墓〟なのです。今日の日本で行われている散骨さんこつとは、根本的に違います。思い出の〇〇の海に、裕次郎さんがヨットを浮かべた〇〇の海とは、意味が違うのです。日本人はまず、この違いを知らねばなりません。

次に、もう一つお話をしましょう。そもそも、インドと東北アジア(中国・朝鮮・日本)では、生死観が違うのです。インド人は永い歴史を、きびしいカースト制度の中で生きて来ました。どんなに努力をしても、最下層のスードラ(奴隷どれい)はその身分を変えることができません。そして、きびしい炎天熱砂の中で暮らして来ました。輪廻転生りんねてんしょう(生まれ変わり)を信じていても、二度と生まれ変わらぬ悟りの世界にきたいのです。

ところが、東北アジアの仏教は多分に儒教じゅきょうの影響を受けました。死んだ後にも、〝草場くさばかげ〟から子孫を見守りたいのです。あるいは生まれ変わって、今度こそ好きなあの人とげたい、あるいは成しげられなかったあの仕事を完成させたいのです。だからこそ、お墓があり、また家庭には仏壇があって子孫と共に〝暮らす〟のです。つまり、仏さまの浄土とこの世が同時にあるのです。このことが、わかりますでしょうか。

だから皆様、せめて親の散骨はなさらないでください。もう一度申し上げますが、どんなに簡素でも、親のお葬式ばかりはなさって、お墓に埋葬してください。

怖いお話

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令和元年10月3日

 

ちょっと、こわいお話です。

お寺に住んでいると、まれに奇妙な体験をします。たとえばインターフォンが鳴りながら、画面をのぞいても玄間に出ても人がいないことがあります。はじめは誰かのいたずらか、気のせいかと思いました。しかし、どなたかがそばにいても、同じことを体験します。

それからお護摩を修していて、境内けいだいに人の気配を感じることがあります。参詣の方なら入って来るはずなのに、外でうろうろしているのです。どうしたらいいか、迷っているような様子です。

これらの〝人〟は、まだ自分が死んだことも自覚しない浮遊ふゆうの霊なのです。特に、遺族からお葬式すらしてもらわなかった人です。ただ、お護摩を修する時は〈結界けっかい〉という作法をするので、中に入ることができません。

いま、この国ではお葬式をしない遺族が増えています。「直葬じきそう」と呼ばれていますが、火葬ばかりで僧侶も呼ばず、ただ遺骨だけを受け取って帰って行くのです。では、その遺骨をどうするのかというと、お墓ばかりは建てる方もいますが、戒名もつけません。あるいは、散骨さんこつ樹木葬じゅもくそう・宇宙葬といった方式をとるか、とりあえず家に置いて、どうするか迷っているのです。遺族が迷っているのですから、死者が迷うのも当然です。極端な例では、新幹線の車内に故意に置いていく人すらいます。

親の臨終に立ち会えないことを一生の恥としたほどの日本人が、いったいどうなってしまったのでしょう。葬式もしない、墓もいらないとすることが文化的であるかのごとくに思っているのでしょうか。

私たちの一生にはいくつかの節目があります。学校に入るには入学式、成人になるには成人式、就職をするには入社式があります。そして何より、夫婦になるには結婚式があります。牧師さんが新郎新婦の手をとって、「二人が夫婦であることを宣言します!」というから、夫婦としての実感が湧くのです。お葬式をしてもらわなかった死者がどんな思いでいるかは、誰にでもわかることです。

結婚式には綿密な計画を立て、多大な費用をかけるのに、どうして親のお葬式もしないのでしょうか。費用のことなら、いくらでも方法があります。皆様、どんなに簡素でも、親のお葬式ばかりはなさってください。そして、どんなに簡素でも、お墓に埋葬してください。お寺の境内をうろうろするような死者にはさせないでください。

仏壇の水になぜ泡が立つのか

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令和元年8月6日

 

お盆が近いので、また霊的なお話をします。

皆様は仏壇にお供えしたコップの水に、泡が立った経験がありましょう。これを良い意味に解釈する人もおりますが、たいては悪い意味に受け取る人が多いはずです。私はこのことが大変に気になっておりました。はじめはコップの器内にヌメリがついて、それで泡が立つのではないかと考えました。しかし、コップを洗わずに使用しても泡を見ることがなく、この考えは違っていたようです。

この現象に対して、私は科学的な見解と信仰上の見解と、その両面から考えています。

科学的な見解を申し上げますと、水道の蛇口に至るまでの水圧と温度によって泡が立つようです。遠い所や高い所まで運ばれた水道水は高い圧力を必要とするため、空気の分子がたくさん水中に溶け込みます。また、水中の温度が低いほど多くこれに比例します。これをコップに移した場合、圧力が低く室温が高いために、再び気体となって器内に現れます。これが泡の正体です。

しかし、こうした科学的な見解だけでは、どこかに物足りなさを感じることは否めません。物理現象として理解はしても、「なぜそうなるのか?」という問いに対する答えにはならないからです。たとえば、「生命はなぜ生まれるのか」という疑問に対して、どのような科学的な見解も何ひとつ答えにはならないのと同じです。

私は科学的な必然性をふまえて、その偶然性に意味を見い出すべきではないかと考えています。水道の蛇口に至るまでの必然性をどのように説明しようと、その場所とその時間に汲まれたその水の偶然性を否定することはできません。仏壇のコップに泡が立った時は、〝何かのお知らせ〟ほどの解釈をしてもよいいのではないでしょうか。命日を忘れているかも知れませんし、お墓の草が伸びているかもしれません。よく考えてみることです。

霊的な妄信に走って、非常識にはなりませぬよう。常識に生きて、少しだけ〝超常識〟をわきまえましょう。

霊は存在します

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令和元年7月14日

 

本日、尼僧になりたいという方がお越しになりました。

「どうして私のところを選びましたか」と聞きましたところ、「仏教の心得にも、また霊的な心得にも通じていらっしゃるとお聞きしました」との返答でした。普通の生活をしたくても、霊的な悩みをかかえている人が、実は意外に多いのです。葬儀に列席すれば息苦しさに襲われ、交通事故の現場を通れば悪寒に襲われ、命日が来れば頭痛に襲われるといった悩みは、常人には理解しがたいものです。

ところが、これをお寺さんにでも相談すれば、「そんなものは気のせいですよ」の一言でかたずけられるのがオチなのです。本来、霊に関わるべきお寺さんが、霊に対してまったく無関心であるという事実は、遺憾としか申し上げようがありません。また僧侶の中には、「霊などというものはありません」とまで言い放つお方もいらっしゃいます。にもかかわらず、霊園(!)を経営し、葬儀や法事の折には「〇〇〇〇之霊」と読み上げる矛盾を、どのように説明するのでしょうか。

霊は私たちと共に、いつもここにいるのです。つまり、この世とあの世は同時にあるのです。決して特別なことではありません。ただ、テレビの電波のように眼には見えず、耳にも聞こえません。でも「電波は存在しますか」と問えば、誰でも肯定するはずです。そして、テレビとの周波数が合えば、映像となって現れます。

霊に対しても、これと同じなのだと誰もが納得する日が来ることを、私は望んでいます。皆様の身辺にも霊的な悩みをかかえている方がおりましたら、どうかこのことを理解してあげてください。そして私も、お役に立つことを果たしていきたいと考えています。

山路天酬密教私塾

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