真言密教の鳴き声
令和3年5月11日
日本の国鳥はキジです。そのキジが毎日、あさか大師に飛来します。朝の4時頃から「ケンケーン」というエキゾチックな金属音を奏で、その鳴き声で私は目を覚まします(もっとも、その頃に床に就くこともありますが)。
オスは濃い緑色で尾が長く、顔に赤色のハート模様が見えるので、すぐにわかりましょう。そのオスは羽で胸をたたく「母衣打ち」をして、メスを求めます(写真・当山の古沢秀雄氏撮影)。メスは地味な茶色で、ライチョウに似ています。
また、キジは地震の前夜に鳴き声を発するため、その予知能力があるとされています。事実、2011年の東日本大震災の折には、気仙沼に生息するキジが海鳴りの後に激しく鳴きました。足の裏に振動を察知する感覚器官があるとされていますが、まだ正確な解明はなされていません。
鬼退治で有名な「桃太郎」の物語では始めにイヌが、次にサルが、そして最後にキジが家来になりました。これは鬼を意味する〈鬼門〉が丑寅(東北)の方位(鬼はウシの角とトラの褌で表します)なので、その反対の〈裏鬼門〉の未申(西南)からサルが選ばれ、ヒツジでは頼りがないのでイヌとトリ(キジ)が選ばれたという説があります。しかし、どうでしょうか。いささか、こじつけが過ぎるようにも思えます。
私はむしろ、イヌは忠義の象徴、サルは智恵の象徴、キジは勇気の象徴として見る方が妥当な気がします。すなわち、キジのオスは強い相手にひるまず、勇ましく襲いかかって行きます。敵が現われれば素早く威嚇し、注意を引きつけて追い払います。またメスは自らの羽と同色の土に巣を作って産卵し、羽化するまで決して動じません。じっと潜んで敵の目を欺きます。その愛情の深さは、たとえ人間の草刈り機によって首を飛ばされても卵(子供)を守るとされるほどです。
私はこの事実こそ、キジが日本の国鳥となった理由ではないかと思っています。小さな島国であり、また小さな体でありながら大国の巨人に立ち向かう日本の漢と、たとえ命を落とされても子供を守らんとする日本の母を象徴するからです。
今朝もキジの鳴き声で目が覚めました。「ケンケーン」というあの甲高い音律が、私にはクジャクにも似た真言密教の響きにも聞こえます。生きるための欲を否定するのではなく、その欲によってこそ浄らかに生きる道を示しているかのように聞こえるからです。まさに『理趣経』(真言密教の代表的経典)の「大欲清浄」です。
仏画展拝観
令和3年5月9日
今日は寺の方々と法友・越塚勝也師(埼玉県久喜市・遍照院住職)の仏画展を拝観しました。毎日のお護摩を修し、昼食をいただいてから車二台にて10人で出発。現地直行の方が三人で、合わせて13人が集まりました(写真・会場の遍照院会館〈祈りの美術館〉にて、正面中央が越塚師、その左が私)。
互いに若い頃からのつき合いで、越塚師は仏画を、私は著作を志しました。あれから30年近くが過ぎ去り、越塚師の仏画は多くの人々に知られるところとなりました。今では各地で仏画展を開き、教室での指導にも当たっています。その作品はいずれも息をのむばかりの色彩で、到達した技術の高さに一同が眼をうばわれました。
お大師さまは真言密教の悟りを単なる言葉ではなく、異次元的な形や音、色や響きをもって表現なさいました。その代表が曼荼羅であり、声明の音律でありましょう。仏画もその一つであって、一瞬にして仏の世界に引入させる力を持っています。越塚師のあたたかい人柄に触れ、皆様が法悦のひとときを過ごすことができました。
一道を極めることは、並みの努力では成し得ません。越塚師の歩んだ道が、またこれから歩まんとする道が、さらなる彩りにつつまれることを願っています。ありがとうございました。
ほんとうの高僧」
令和3年1月21日
江戸時代の中期、阿波の国(徳島)の瑞川院に懐圓という和尚さまがおりました。私はこの世に「ほんとうの高僧」と呼べる方がいるのなら、それはまさしく懐圓さまのようなお方であると確信しています。それほどにすばらしいお方です。深遠なお大師さまの教えを誰にでもわかりやすく、近在の方々に淡々と説き、いささかの名利も求めぬ超俗のお方でした。私がもし、どのような僧侶を理想とするかと問われるなら、真っ先に挙げたい方とすら思っています。
瑞川院は現在、幾星霜を経て土地のみが残っていますが、その教えは近在の有志によって『真言安心小鏡』と題して版行されました。〈小鏡〉とは常に懐中して折々に学び、人生の手本にしましょうというほどの意味です。私は長谷宝秀先生の『真言宗安心全書』と共にその存在を知りましたが、近年は真言宗大覚寺派徳島青年教師会の尽力によって現代語訳が出版され、その恩恵に浴することができました。その一端をご披露いたしましょう。
「往生は、ただただ真言はありがたいと思うことで決まるものです。ありがたいと思うだけで決まるというのは、真言に不思議な功力があることを信じて疑わず、ありがたく思う真実の心さえあれば、君主は天下国家を治めながらに、臣下は君主に仕えながらに、また士農工商は、それぞれの職を勤めながらにたやすく往生を遂げられるということです。それは蠅が虎の尾に止まって千里を行くようなものです。これには一切如来の真実本願神変加持の不思議があるからです」
「光明真言は、阿字の光明を説いて、一切の功徳を欠けることなく具えた諸仏の真言です。毎朝顔を洗うと、すぐにその場で光明真言を三遍唱え、そのありがたいことを忘れずに行往座臥にも心をかけて、思い出しましょう。そうすれば自ずから信心が発起し相続することになるのは、梅干しを思うと唾の出るようなものです。また閑暇がある人は、百遍二百遍ないし千遍の日課をも勤めて、四恩法界に回向しましょう」
もはや、何も申し上げることはございません。ただただ、このような高僧がおられたことを皆様にお伝えし、いずれはその墓参を果たしたいと願うばかりです。
「三密」の正しい理解を
令和2年12月10日
2020年の新語・流行語の大賞に「三密」が選ばれました。
私は新型コロナウイルスの感染が始まって間もなく、この「三密」なる用語を聞くたびに困惑したものでした。なぜなら、「三密」こそは真言密教における、きわめて重要なキーワードであるからです。真言密教とはまさに、「三密」の教義とその実習にあると定義しても過言ではありません。
もちろん、真言密教の「三密」は、人が密にならない、密を避けるというコロナ対策とはまったく意味が異なります。簡単に説明をしますと、人の言動は体と言葉と心の三つの働きに集約され、それらを通じて祈りを捧げるということです。つまり、合掌をしたり特殊な印を結んで〈身密〉となし、口に真言を唱えて〈口密〉となし、心に浄土や仏を観想して〈意密〉となし、これを総じて「三密」の行法とするのです。
追悼の式典などで、よく「黙祷」をしますが、祈りは言葉に出した方がより直接に通達します。また、祈りに応じた印を結び、どのように観想するかの規範があれば、そのパワーも増大します。真言密教の祈りは、人の体も言葉も心も総動員した「三密」なればこそ叶うのです。コロナ禍で浮上した「三密」が同じ用語であったことは、まったくの偶然でした。このブログを読んでいただいた皆さんには、ぜひ正しい「三密」の意味を理解してほしいものです。
浄土真宗の教義に「他力本願」がありますが、まったく誤解されて通用していることは遺憾としか言いようがありません。宗門には迷惑なお話なのです。このような事実はほかにもたくさんありますが、これが世間というものなのでしょう。
体と言葉と心の中でも、特に注意を要するのは言葉です。だから「口は災いのもと」と言うのです。お大師さまがあえて〝真言密教〟を立宗された由縁もそこにあるのです。人はたった一言から成功もするし、失敗もするのです。ご用心を。
プロの条件
令和2年11月23日
あさか大師の本堂に入れば、誰でも心洗われるような気持になるという自信が、私にはあります。たとえば、皆さんが斎場や火葬場などに出向くと、その重い気を受けて体調を壊すことよくがあります。そのような場合でも、あさか大師にお越しいただくと、体がとても軽くなり、気持ちも晴れるとおっしゃってくださるからです。
その理由は簡単で、私が毎日お護摩を修し、お大師さまにお仕えしているからです。ただひたすら、毎日同じことをくり返しているからです。だから、私がいろいろなお寺に出向いた場合、ご本尊さまがどのくらい拝まれているか、住職がどのくらいお勤めをしているかが、すぐにわかります。これは真言密教のプロとして、当然のことです。そして、プロはどの分野でも、そのような能力や感性を身に着けています。
たとえば、プロのスポーツ選手も同じです。プロ野球の一流の右投手は、自分の左耳が見えるほどに視野が広いと言われます。本塁の打者を見ると同時に、一塁走者動きも同時に見えなくればならないからです。また、キャッチャーにいたっては、グランド上の味方の全選手の動きと、塁上の敵のランナーの動きを一瞬にして見渡すことができます。
一流のサッカー選手は、ボールを蹴りながら一瞬にグランド内を見渡し、敵味方の選手の動きを的確に把握し、パスをしたり、敵の背後に走り込んで、味方のパスを受けたりします。
一流の卓球選手は、相手のラケットの動き、腕の動き、肩の動き、目の動きなど、すべての動きを一瞬に見極めねばなりません。そうでないと、相手のフェイントを見破れず、あっさりと逆コースを抜かれることになるからです。
こうした能力や感性は、各選手が生まれながらに持っていたものではありません。一日も怠らぬ練習と長い実践経験から養われることです。だから、そのきびしい練習や実践に耐えられない選手はプロにはなれません。プロのスポーツ選手が一日も練習を怠らぬのなら、真言密教の僧侶が何を怠ってはならないのか、これは誰にでもわかることです。
仏さまの三身
令和2年11月2日
「仏さまはどこにいらっしゃるのですか」という、素朴な質問を受けることがあります。そこで、仏さまの〈三身〉についてお話をいたしましょう。
まず、仏さまは私たちの心の中にいらっしゃると考え、これを「法身の仏さま」と呼びます。この法身の仏さまがいらっしゃらなければ、私たちはお参りをしたり、読経をしたりすることはありません。修行を志すこともありません。
そして、お寺にお参りをしたり、読経をしたりする以上、本堂には仏像や仏画が祀られていますので、これを「応身の仏さま」と呼びます。つまり、仏師によって彫られた仏像や、絵師によって描かれた仏画を入魂開眼すれば、これももちろん立派な仏さまなのです。決して、単なる美術品などと思ってはなりません。
皆様は奈良や京都に行って、〝仏さま〟を拝観したいと思うはずです。国立博物館で「〇〇寺名宝展」や「〇〇仏教美術展」が催されれば、何時間も並んで入場するはずです。そして、その高貴なお姿にうっとりとするはずです。仏像や仏画の絵葉書まで買うはずです。どうしてなのか、わかりますでしょうか。
これは皆様の心の中にいらっしゃる仏さまが、同じ仏さまを求めるからなのです。つまり、類が類を呼ぶのです。そうでなければ、わざわざ交通費を払って出かけるはずがありませんし、出かけるための時間を作るはずもありません。仏さまは私たちの心の中に、間違いなくいらっしゃるのです。また、心の中に仏さまがいらっしゃらなければ、仏師や絵師が仏さまをこの世に彫り出すことも、描き出すこともできません。
そして、この仏像や仏画を入魂開眼するためには、法界(曼荼羅世界)から「報身の仏さま」をお呼びする必要があります。法界の曼荼羅世界とは、この自然界、あるいは宇宙のことです。この法身・応身・報身を仏さまの三身と呼びます。真言密教の行者が修法をする時は、心の中の本尊と、本堂の本尊と、法界の本尊の三身を冥合させ、この世に仏さまを顕現させるのです。このお話、とても大事ですよ。
足止め祈願の霊験
令和2年10月29日
私もときどき、家出人や行方不明者のご祈願依頼を受けることがあります。
この場合、真言密教の行者は〈足止め法〉というご祈願法を用います。つまり、これ以上は先へ進まぬよう、足を止めるという意味です。これを修しますと、たいていは2~3日から一ヶ月程度で家にもどって来たり、電話連絡があったり、消息が判明したりします。もちろん長い時間を要する場合もありますが、必ず何らかの結果が得られるものなのです。
今から五カ月前のことでした。岩手県の方より、弟さんが一ヶ月前に家出をして、連絡がないというご相談がありました。しかも、自殺をする可能性すらあるというのです。警察への捜査願いを出しても、いっこうに行方がわからないというお話でした。私はさっそく足止め祈願の霊符を浄書して、お護摩でのご祈願に入りました。しかし、一ヶ月が過ぎ、二カ月が過ぎてもいっこうに行方はわかりませんでした。依頼者にも連絡をしましたが、何の音沙汰もないという返事だったのです。
私はこの家出人は、すでに亡くなっているだろうと判断しました。そうなると、あとは遺体が出るかどうかの問題です。そして、とうとう五か月が経過しました。つまり、家出をしてから六カ月です。私もしだいに不安と焦燥を覚えました。こういう状況が続くと、自分の祈願法に自信を失いかけるからです。どうしてなのかと、わからなくなることも確かです。
ところが今から一週間ほど前、依頼者より突然の電話が入り、「先生、弟の遺体が見つかりました」という連絡が入りました。車に乗ったまま、海に突っ込んで自殺していたという報告です。遺体はすでに白骨化していましたが、車体番号から判明したのでした。それにしても奇妙です。私はどのようにして発見されたのかを問いました。聞けば、トテラポット工事の最中に発見されたというのです。まさに奇跡的な霊験です。
私の長い行者生活の中でも、忘れ得ないお話です。その弟さんもすでに火葬もされ、骨壺に納められました。この後は、ねんごろな回向を修して行きたいと考えています。合掌
お護摩の伝授②
令和2年9月13日
今日は毎日のお護摩と昼休みをはさんで、午前も午後も不動護摩の伝授をしました。
真言密教の加行(入門の行法修行)は、お不動さま(不動明王)を本尊とする「五段護摩」です。つすなわち、第一火天段・第二部主段・第三本尊段・第四諸尊段・第五世天段の五部門に分けて修します。第一火天段はお護摩で最も大切な火天さま(大日如来の智慧の火)を、第二部主段では降三世明王さまを、第三本尊段では本尊のお不動さまを、第四諸尊段ではたくさんの仏菩薩さまを、最後の第五世天段では諸天の神さまを供養して、諸願の成就を祈ります。
もちろん、この五段護摩を習得するのは大変で、お弟子さんたちも真剣でした(写真)。しかも、ハイスピードで伝授をしましたので、かなり疲れたことでしょう。よく復習をしていただきたいと思います。
お護摩は大変にありがたい行法です。なぜなら、炎の勢いがそのまま祈りに感応するからです。この自然界は地・水・火・風・空という五大によって構成されています。それぞれが私たちの心に感応しますが、もっとも強力なのが火の力だからです。心の様相がすぐに感応します。それだけに、修する行者は身を慎まねばなりません。
水害も台風の被害もありますが、日常の生活で最も注意すべきが火なのです。昔は「火の用心」ではなく、「火之要慎」と書きました。〝慎みを要する〟からです。それだけに、私たちは、身近にあっても火を粗末にしてはなりません。仏さまそのもの、神さまそのものだからです。現代人にはその心が薄れています。
私はお弟子さんたちがあさか大師に気軽に集まり、それぞれがお護摩を修して、ご自分はもとより、人々の祈願を成就してくださることを楽しみにしています。そして、その炎の力で社会を浄化してくださることを念じています。
私の大切な宝もの
令和2年8月30日
今日は、私の大切な宝物をご披露しましょう。
とはいっても、豪邸や高級車ではなく、宝石や金塊でもありません。そのようなモノにはまるで縁がありませんし、何しろスーツひとつ所有しておりませんので、身を飾ることもありません。まるで隠遁者そのものの生活なので、お大師さまに祈ることだけが私の財産です。それでも、この世に生きた痕跡として、大切にしているモノがあることも事実です。
その一つが若い頃に使った護摩杓(お護摩の作法で油をそそぐ法具)で、三十代の折に明け暮れた八千枚護摩の残骸です(写真)。八千枚護摩とは真言密教の難行で、お不動さまの供養法を修して真言を十万遍お唱えし、その後に断食して八千本の護摩木を焼き尽くすという秘法です。一座に真言五千遍を唱えるだけでも五時間はかかります。護摩を加えて片づけをすると七時間近くかかりますから、一日三座では睡眠の時間もありません。私はこれを一回に七日間、一年に七回~十回を修して、五十回を成満しました。しかも、最初の三回までは七日間をすべて断食しましたから、真夏などは意識がもうろうとして護摩木を投ずることさえ困難でした。不思議な体験もしましたが、それ以上にお護摩に対する信念が培われたことが最大の功徳となりました。
写真の撮り方が悪いのではありません。このとおり杓の柄が曲がっているのです。これはお護摩の高熱によって反ってしまったからです。私は先に二組の柄を燃やしてしまい、これが三組目で、かろうじて残りました。実はこの柄は樫の木で出来ています。想像はつくと思いますが、樫の木がこのように反るということは、並みの高熱ではあり得ません。いかに無謀な荒行に投じていたかが、わかりますでしょうか。おそらく真言密教の長い歴史の中でも、こんな痕跡を残した方はがさほどにいるとは思えません。この二本の杓こそは、私にとっては何よりの宝です。
それゆえ、私がこの世の人生を終えて柩に入る折には、この杓も一緒に入れていただこうと私案しています。そして、いざ火葬されるその時こそ、若い時のあの情熱を甦らせて、「六大無礙の炬火を燃やして本来不生の体を焼く」と観念を凝らし、もう一度この杓のお世話になろうと考えています。火葬の炎がお不動さまに変ずるよう、これからも大切に保管して磨きをかけておきましょう。
あれから、三十年近くがたちました。今の私は無謀な荒行より、お大師さまに楽しく接することに生きがいを感じています。何枚も皮がむけて、もともとの自分に帰ったような、そんな気持ちでいるのです。もちろん、人生に無駄なことなどありません。過ごした時間は、過ごしただけの価値があると、そう思っています。人はそのために生きているのです。たとえ、叶わぬことがあったとしてもです。皆様も同じですよ、きっと。
お護摩の伝授
令和2年8月27日
昨日と今日、お二人のお弟子さんに「不動護摩」の伝授をしました。
真言密教の僧侶は「四度加行」という修行を経て伝法灌頂(正しい継承者となる儀式)に入壇し、一人前の教師となります。四度加行は文字どおり四種の修行をしますが、その最後が不動護摩なのです。不動護摩とはいわゆる不動明王(お不動さま)をお呼びし、さまざまな供養をなし、浄炎をもって祈願をする修行のことです。ほかのお弟子さんもこれから続きますが、今回のお二人にはトップを切って受法していただきました。
不動護摩は正式に修すると約二時間はかかります。印や真言、また観想など、覚えることがたくさんあって大変です。お二人とも二日間びっちりで、だいぶ疲れたようでした。私たちはお大師さまのような天才ではないので、そこは辛抱と努力が必要です。しかし、それだけに今後の成長が楽しみです。
ところで、お護摩を修するには護摩壇が必要です。私が毎日修している護摩壇は特別なもので、加行中のお弟子さんにはとてもとても扱いきれません。そこで、どのように伝授をするか困っていましたら、あるお弟子さん夫婦が手作りの立派な護摩壇をご寄進してくださいました(写真)。私が望んでいたとおり、解体が可能なのでとても助かります。本当にありがたいことです。色を塗って仕上げをしようかとも考えています。
私が望んだわけではないのに、このようにことが運ぶのは、やはりお大師さまのご加護だと思っています。それだけお大師さまは、私やお寺のことを考えてくださっていることに間違いはないと確信しています。それは、私がいつもお大師さまを思い、おそば近くで仕えているからです。何ごとでも同じです。思わなければ思われませんし、近づかなければ縁は結ばれません。縁が結ばれねば何の変化もありません。簡単な道理です。
そして、このようなご縁をくださったお弟子さん夫婦に、深く感謝しています。私はお弟子さんに教えを説き、法を伝えますが、私もまたお弟子さんに多くを教えられ、多くを与えられているのです。これが師弟の関係であって、師が高いところからものを言うだけでは、本来の修行にはなりません。世の〝高僧〟ほど、自戒をすべきです。いや、これはちょっと、よけいなお話になりそうです。このへんで。