天下第一の高僧

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真言密教

令和5年4月12日

 

江戸時代の初期、浄厳じょうごんという大和尚だいわじょうがいました(写真)。寛永16年、大阪・河内長野市に生れ、高野山で修行し、生家に延命寺えんめいじ建立こんりゅうし、真言密教の再興に尽くし、民衆を強化し、晩年は東京湯島に霊雲寺れいうんじを開山した方です。私はこの時代、この浄厳大和尚をして天下第一の高僧と断言してはばかりません。その幼少期のことをお話しましょう。

大和尚が母の胎内に宿った時より、その母には一切の苦しみがなく、身も軽く、すがすがしい毎日でした。ただ、少しでも生臭いものを口にすると、たちまちに腹痛をおこしたそうです。誕生の時も、世の女性は苦痛と共に不浄の血を伴うのに、まったくその兆候ちょうこうがなく、まるで絹に包まれたように誕生しました。

二歳までは乳を飲みつつ、右手の人差し指で母の胸に、いつの間にか梵字を書いていました。また、三歳になるや、習ったはずもないのに観音経や尊勝陀羅尼そんしょうだらにを唱えていました。どのように考えても、奇妙な子供として注目されたようです。

魚肉や葷辛くんしん(臭いや辛みのある野菜)を食さず、女性には近づこうともしませんでした。ある時、父に向って、「私は必ず僧侶になるだろう。そして、名を〈空海〉と名のるだろう」と宣言しました。驚いた父は、「お大師さまの名を用いることはならん」と言いつけるや、「では〈空経くうきょう〉と名のろう」と言い出しました。常に子供とは思えない英知を発揮し、身辺の人から弘法大師の再来とまで言われたそうです。

五歳になって父が大きな筆を与えると、知るはずもない阿弥陀如来や観世音菩薩といった諸仏諸菩薩の名、また経文の言葉をすらすらと書くのでした。その筆跡は今でも延命寺に残っています。また、ある人が熊野に参詣した道中を語ると、「その道なら私も知っている。高野山からそこを過ぎると・・・」などと言い出すではありませんか。「どうしてその道を知っているのか」と問うや、「私は師と共に何度も参詣している」と言うのでした。そして、諸国の霊山名跡を詳細に語るので、聞く人はみな身の毛もよだつ恐怖と不思議の念にかられ、何をおいても凡人ではないことを知りました。

しかも、自分が誕生した時のことを見て来たように、「私が生まれた時、お大師さまが隣りに座っておられた。そこがその場所だ」と言って指さし、そこに人を座らせることは決してありませんでした。経文でも漢書でも、ひとたび手にするや、水が流れるように音読しました。漢詩を作るや、その韻のみごとさはすでに詩人の域でした。

もう、余白がありません。皆様は信じられるでしょうか。また、このような方がどうしてこの世に生れるのでしょうか。常人には理解し得ない世界があることを、歴史の運命は少しだけ見せてくれるようです。それ以上を私には語れません。

山路天酬密教私塾

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