高僧はここが違います

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真言密教

令和5年4月7日

 

今でも、「高僧墨蹟展」などといった企画があるのでしょうか。出品した〝高僧〟の方には申し訳ないのですが、私は「困った世の中だな」と思っています。今や〈高僧〉などという呼称は、死語になったも同然だからです。ましてや、自分を高僧だと思っている方がいるとしたら、それは高僧ではないことを自ら証明しているからです。

しかし、世の中には名は知られずとも、高僧というべき方が確かにいらっしゃることも事実です。そののような方は、決して世間に出ることはありません。あくまもでも僧侶としての自覚を忘れず、人知れず仏に使え、人のためには労をしまず、欲はなく、決して怒らず、しかし菩提心が深く、研鑽を怠らず、淡々として人生を過ごしています。私はそのような方を、わずかながら知っています。

そこで考えてみると、日々に読経や真言の念誦ねんじゅに励むと、どうやら共通した容貌ようぼうがあることに気づきました。それは頭上が少しばかり盛り上がっているということです。必ずしも確実であるとは断言できませんが、私はこの自説にかなりの確信があります。これは、仏像では〈肉髻にっけい〉と呼ばれ、ちょうど頭上におわんを伏せたように表現されています。中医学では〈百会ひゃくえ〉、ヨガでは〈サハスラーラチャクラ〉と呼ばれる身体の要所です。

代表的な例が、実は弘法大師(お大師さま)です。あさか大師の御影みえ(お姿)を見てください。頭上がまるで宝珠のように盛り上がっています(写真)。

これは読経や真言の念誦に励むうち、その響きが頭上を刺激したからでしょう。私はいつも、「真言とは振言しんごんですよ」とお話をしています。お唱えする振動が頭上まで上昇すると、まるで仏智を得たように変化するからです。このことは、私が教えを受けたさる高名な和尚も語っていました。

皆様が僧侶と対面したなら、まずは頭上を見てください。少しでも盛り上がっていたなら、その方の言葉や身振りを観察してみてください。名は知られずとも、意外な〝高僧〟かも知れません。名利は求めずとも、世間の片隅で静かに暮らしているはずです。ついでですが、頭上がへこんでいる方は用心です。気をつけましょう(笑)。

山路天酬密教私塾

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