2026/06の記事

続・先祖供養の落とし穴

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令和8年6月5日

 

よく、「先祖にはいつも感謝しています」という方がおりますが、気持ちだけでは先祖供養になりません。具体的な行為がなければ、感謝にはならないからです。進んで先祖供養を目ざすなら、気持ちだけであってはならいないことをきもに銘じましょう。

また、苦しみや悩みを重ねると、よく霊能者(?)のもとを訪ねる人がいます。すると「先祖がたたっている」といわれ、高額な供養料を請求されるはずです。私のところにも、何百万円も支払ったという方がいらっしゃいました。欲心は必ず顔や姿に現れます。こういう方に先祖供養をお願いすると、その欲心が反映して、かえって苦しみや悩みが増えていきます。お導師とは闇を照らす光でなければなりません。光でない者が、あの世の闇を照らすことができるでしょうか。

また、人生の不幸はすべて、先祖の霊が悪いからだと主張する人もいます。自分の生き方を問うこともなく、何もかも霊的な原因で考えるから困るのです。先祖が子孫に影響を与えるのは事実ですが、自分の生き方がまた先祖に影響することも忘れてはなりません。子供が悪いことをすれば、親も悩むでしょう。追善があれば、「追悪ついあく」もあるのです。そして、先祖供養にはこうした落とし穴があるのです

先祖供養はまず、正統なお導師を選び、そのお導師と共に修することです。正統なお導師は、よく仏に仕え、人のために生きることを喜び、生活が清楚で、決して法外な供養料を要求することがありません。こうしたお導師は、向かいあっただけで心が安らぐはずです。そして、清浄で強い霊気が漂っているはずです。

あさか大師が提唱する先祖供養は皆様に供養紙(写真のお札)を渡し、お大師様(弘法大師)の光明真言法を勤修してその功徳を回向する様式です。いわば、私が放送局で、皆様が受信のテレビです。これを毎日続けています。そして、月ごとにその功徳を供えることで、「人生を変える先祖供養」となるのです。

また、全国の弟子僧がネットワークを組んで、光明真言の百万遍念誦ねんじゅも融合させています。ここまで先祖供養に配慮しているお寺はありません。皆様は簡単な祈りだけでよいのです。ただ、お大師様を信じていただければ、それだけでよいのです。それだけで、不思議なことがおこります。

*あさか大師の先祖供養をご希望の方は、ホームページの「お問合わせ」からご連絡ください。勧誘はしません。供養料は父母両家を合わせて、1ヶ月2000円です。遠方の皆様には郵送します。全国からたくさんの皆様がこの先祖供養に参加しています。

先祖供養の落とし穴

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先祖供養

令和8年6月4日

 

生きるとは、一日一日が死に向かうことです。人生の目的をあえて申し上げるなら、それは「どのような死を迎えるか」に尽きるのです。ところが、ほとんどの人が終活はしても、死について考えることがありません。そして、何ひとつ教えられることがありません。親からも学校からも、寺の住職からも教えられることがありません。これであの世に旅立つのですから、〝迷う〟のは当たり前です。

亡くなって四十九日間を、仏教では「中陰ちゅういん」といいます。この世とあの世の中間で、「幽界ゆうかい」ともいいます。あの世の「霊界れいかい」に向かう待合所です。この間は、肉体から脱した幽体として生活します。「のどが渇いた」「お腹がすいた」と言っても、生前のように飲むことや食べることから別次元の生活に慣れねばなりません。いわゆる「香りを食とする」と仏典『俱舎論くしゃろん』(写真)には説かれています。〈香り〉とは食事の香りでもありますが、遺族の想いが香りとなります。だから、お線香をお供えするのです。

皆様はいかがでしょうか。香りで満足する生活を、四十九日間で達成できますでしょうか。さらに重要なのは、生前のごう(カルマ)が深いと、その重さから霊界には往生おうじょうできないということです。悪事を重ねたり、強欲に生きた人ほど、重い業を背負っています。しかし、ここで救いとなるのが、遺族が善事をなして「追善ついぜん」をすることです。死者に変わって、遺族が善を追うのです。

これによって、死者の業は軽くなり、その功徳によって霊界に往生することができるのです。死者が往生しないと、幽体のままこの地上にとどまります。これが幽霊です。今の日本には、お葬式もされず、追善もされない幽霊がいかに増えているかがわかりますでしょうか。

この世はあの世の映しです。だから、「現世うつつよ」といいます。あの世の生活は必ず子孫に映し出されます。この世でうまくいかないことは、あの世でうまくいかない映しです。だから、先祖供養が大切なのです。ただし、先祖供養は自己流ではいけません。とんだ、落とし穴があるからです。次回、さらにお話をいたします。

*筆者の先祖供養に関心のある方は、ホームページのブログから検索してください。毎日、真言密教の「光明真言法」を修して皆様の先祖供養に励んでいます。

生きた仏になるためには

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信仰

令和8年6月3日

 

あさか大師の境内に「六地蔵」があり、参詣の皆様が手を合わせ、祈りを捧げています(写真)。特に隣接の老人ホームの皆様には、「安らぎのお地蔵さま」として親しまれています。

この六地蔵は以前、近くの道路わきに放置され、とても怖い顔をしていました。その後、縁あってあさか大師の境内に移し、お祀りして開眼法要をなし、皆様に拝まれるようになってから、このように柔和でやさしい顔に変わりました。

皆様は「仏だから拝む」と、当たり前のように思っているはずです。そうではありません。実は、「拝むから仏になる」のです。なぜなら、木像であれ石像であれ、それ自体は単なる物質です。それを開眼し、読経し、真言を唱え、多くの方々に拝まれることによって、はじめて魂が入り、生きた仏になるのです。つまり、仏は拝まれることによって、生き生きとした仏らしい仏に変わるということです。

逆に言えば、拝まれない仏は生気が乏しく、迫るものがありません。だから、お寺の本堂に入ると、住職がどのくらい拝んでいるかスグにわかります。心を清める本堂であるのに、何か重々しい暗い空気に包まれることがあるはずです。以前のこの六地蔵も拝まれることがなく、川でおぼれたり、交通事故で亡くなった霊に頼られていたのです。

よく拝まれている仏は、毎日の表情に微妙な変化があることがわかってきます。お供えがあったり、大勢のお参りがあると嬉しそうな顔をしますが、地震や災害のニュースががあると、悲しそうな顔をします。丸顔に見える日もあれば、面長に見える日もあります。もちろん、物質的な変化があるわけではありません。しかし、拝む人の立場に立つと、そのように見えるから不思議です。信仰とは物質現象を超えて、このような精神的、あるいは霊的な広がりをもたらすものです。この六地蔵が、その証明です。

6月の伝道法語

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人生

令和8年6月1日

 

6月の伝道標語です(写真)。境内の伝道掲示板にはって、皆様に読んでいただいています。

人は誰でも自分が認められることを望んでいます。だから、自分の話を対等に聞いてくれること、自分の能力や業績を正当に評価してくれることを望んでいます。そして、そのように接してくれる人に好意を持ちます。でも、そのような人にはなかなか出会えません。思うように認められることも少ないはずです。

そんな時、多くの人は愚痴を言って自分をなぐさめます。しかし、それによって自分への評価が上がるわけではありませんし、解決することは何もありません。むしろ、これを鏡として自分の心を写すなら、自分を向上させるチャンスとなるのではないでしょうか。相手に対しても、感謝が生まれるかも知れません。

「立ち向かう人の心は鏡なり おのが姿を写してや見ん」という道歌があります。愚痴で受けるか、感謝で受けるか、そこに生き方の分かれ目があります。

山路天酬密教私塾

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