生きた仏になるためには

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信仰

令和8年6月3日

 

あさか大師の境内に「六地蔵」があり、参詣の皆様が手を合わせ、祈りを捧げています(写真)。特に隣接の老人ホームの皆様には、「安らぎのお地蔵さま」として親しまれています。

この六地蔵は以前、近くの道路わきに放置され、とても怖い顔をしていました。その後、縁あってあさか大師の境内に移し、お祀りして開眼法要をなし、皆様に拝まれるようになってから、このように柔和でやさしい顔に変わりました。

皆様は「仏だから拝む」と、当たり前のように思っているはずです。そうではありません。実は、「拝むから仏になる」のです。なぜなら、木像であれ石像であれ、それ自体は単なる物質です。それを開眼し、読経し、真言を唱え、多くの方々に拝まれることによって、はじめて魂が入り、生きた仏になるのです。つまり、仏は拝まれることによって、生き生きとした仏らしい仏に変わるということです。

逆に言えば、拝まれない仏は生気が乏しく、迫るものがありません。だから、お寺の本堂に入ると、住職がどのくらい拝んでいるかスグにわかります。心を清める本堂であるのに、何か重々しい暗い空気に包まれることがあるはずです。以前のこの六地蔵も拝まれることがなく、川でおぼれたり、交通事故で亡くなった霊に頼られていたのです。

よく拝まれている仏は、毎日の表情に微妙な変化があることがわかってきます。お供えがあったり、大勢のお参りがあると嬉しそうな顔をしますが、地震や災害のニュースががあると、悲しそうな顔をします。丸顔に見える日もあれば、面長に見える日もあります。もちろん、物質的な変化があるわけではありません。しかし、拝む人の立場に立つと、そのように見えるから不思議です。信仰とは物質現象を超えて、このような精神的、あるいは霊的な広がりをもたらすものです。この六地蔵が、その証明です。

山路天酬密教私塾

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