気になる迷信①
令和4年7月31日
迷信にはまったくの迷信もあれば、必ずしも迷信とは言えないものもあります。また、はっきりとは断言できないものや、教訓や躾け上から作り出されたものなどもあります。いくつかを検討してみましょう。
①ご飯をこぼすと盲目になる。
これは「ご飯は大切にいただきましょう」という教訓に間違いありません。米は単なる食品ではありません。神さまにお供えする、日本人の〝いのち〟です。特に毎年の新米は天照皇大神にお供えするわけですから、神さまの御眼であるとされて来たのです。その大切なお米を粗末にすれば、何かお咎めがあって当然でしょう。盲目になるとまでは言いませんが。
②ご飯を食べて横になると牛になる。
これは行儀の悪さを戒めた、躾け上のものでしょう。しかし現代人には、食事の後にすぐに寝る人は太るという方に関心があるはずです。これには両説があり、インスリンの分泌によって糖質の代謝を優先するために、脂肪の代謝が落ちるから太るのだという説と、食事の後は副交感神経の働きで眠くなるのは自然の摂理であるから、何の根拠もないという説に別れます。私は糖質や脂肪を摂り過ぎれば太るだろうと思いますし、あまり遅い時間の夕食でなければ、それほどの問題はないとも思います。両説があれば、大方はそれぞれに根拠があるものです。
③夜中にお金を数えると泥棒が入る。
これもよく聞くお話です。江戸時代の商人は使用人が寝しずまった後、よくお金を数えました。当時の小判は、当然「チャリン、チャリン」と音がします。真夜中であれば、なおさらその音が響きます。外にいる泥棒が狙いを定めるのはもちろん、使用人ですらその音を耳にすれば気になりましょう。泥棒は外から入るとは限りません。特に主人からいじめ尽くされている使用人が、恨みをいだいて持ち逃げすることもあるのです。現代はほとんどがセキュリティーの問題で、あまり意味がありません。
④ひな人形を三月三日の内に片づけないと嫁にいけない。
これはまったくの迷信です。ただ、ひな祭りが過ぎたのに、いつまでも飾っておくのは心情として気になります。また、これに似合った女性もいたのでしょう。それがこの迷信を生んだのです。ついでですが、亡くなった人が持っていた人形を飾ってから災難が多いというお話なら本当です。私はこのことで、何度も相談を受けました。つまり、人形には人の〝想い〟がこもりやすいということです。おわかりですよね。
続続・怖いお話
令和4年7月27日
ご要望にお応えして、もうひとつ。これは昨年のお話です。
たしか、5月頃だったと思います。私はある日、大阪市在住のS氏という方から、突然の電話をいただきました。まったく初めての方でした。S氏はまず、「あなた様なら私のお話を聞いていただけると思って、お電話をしました」と切り出すや、ご自分の不思議な体験を語り出しました。
聞けば、S氏すでに会社役員を退職し、奥様とともに諏訪湖温泉の〈〇〇〇ホテル〉に行くことを、毎年の楽しみにしているとのことでした。そして、昨年も恒例に違わず、そのホテルに宿泊をして来たと言いました。S氏は温泉の湯船につかり、指定しているいつもの客室で奥様と料理の席に着きました。すると毎年のごとく、顔見知りの女将さんが、「失礼いたします」と、挨拶に見えたのでした。その女将さんとは何度もお会いしていましたので、その姿も声も間違いありませんでした。
女将さんとはお話が興じ、ついつい30分以上が過ぎ去りました。普通、こうした挨拶がこれほど長く続くことはありません。S氏はいささか気になり、「女将さん、僕のところはもういいから、ほかのお客さんにも挨拶をしてください」と言いました。ところが女将さんは、「それはお気になさらないでください。ここにいる方が楽しいのですから」と言うのでした。S氏は妙なことを言うなと思いましたが、その理由までは問いませんでした。
どれほどの時間が過ぎたでしょうか。「長い時間をおつき合いいただき、ありがとうございました」と、女将さんはやっとS氏の客室から出て行きました。ところが、間もなくのことでした。今度は顔見知りのその女将さんよりも若い、別の女性が現われて、「女将でございます」と言うではありませんか。S氏が「女将さんなら、今までここにいましたよ」と言うと、その若い女将さんは怪訝な顔を露にしました。そして、ことの次第を語るや、「その方なら、もうここにはおりません。今は私が女将ですから」と言います。何という奇怪な出来事でしょう。S氏は真っ青になり、もう料理どころではありません。地酒の酔いもいっぺんに吹き飛んでしまいました。
皆様はいったい、このお話が信じられるでしょうか。実はこれには後日談があり、諏訪市在住の私の弟子僧M師が、先に挨拶に来たその女将さんのことをよく知っていました。事情があって、実家に帰っているとのことでした。したがって、そのホテルの女将として挨拶をすることは絶対にあり得ません。つまり、これは亡くなった人の霊ではなく、〈生霊の遊離〉だったのです。毎年の常客であったS氏のことを忘れなかった想念が脱魂して、本人さながらに別の場所に移動した現象です。信じがたいことではありますが、絶対にあり得ないとは言い切れません。ほかにも耳にした経験があります。
怖いお話はまだまだありますが、もう、このへんにいたしましょう。今夜の「真夏の夜の夢」をお楽しみに。
続・怖いお話
令和4年7月26日
私は平成30年11月25日にあさか大師を落慶開山し、翌年正月より布教を開始しました。
ただ、その前の2年間、近くの古いマンションを仮本堂としていました。築40年という建物でしたが、そこを選んだ理由は、昔の一間(180センチ)の押入れがあったからです。その襖をはずし、赤い毛氈を引いてお大師さまをお祀りすることができました。10人も入ればいっぱいになるほどの狭さでしたが、それでも月々の行事は今と変りなく、お参りの方々といっしょに挙行していました。
ところが、私が常に悩まされたのは、真夜中にブザーで起こされることでした。多くは深夜の2時、3時頃だったでしょうか。そのブザーというのは、今時はお目にかかれない旧式のもので、いわゆる「ビィー!」と鳴り続けるアレでした。それも一回だけを、長く鳴らすのです。私は今でも、あの音の響きを忘れません。たいていは、私が眠りに就き始めた時刻です。「せっかくいい気持ちで寝ているのに誰だろう?」と思って、ドアに向って「ハーイ」と返事をしても、何の応答もありません。玄間を開けても、もちろん誰もいません。
私は始めは誰かのいたずらかと思いました。しかし、それにしては回数が多過ぎますし、ほかの居住者に聞いても、そんな経験はないといいます。そして、それは行事の前日に多いことが、だんだんとわかって来ました。つまり、あの世の人が、供養を受けるにあたってご挨拶に来たということだったのです。
このような経験は、以前に勤務していた寺でもありました。私は玄間近くの部屋に寝起きしていましたから、誰かが入ってくれば、すぐにわかりました。そこでは、玄間のブラインドが風もないのに、「カサカサ」と音を立てるのでした。時にはノックの音で気づくこともありました。これも同様に、行事日が近づいた日に多かったと思います。
ところが、あさか大師に移転してからは、こうした音はまったく消えました。その理由ははっきりとは断言できませんが、供養の位牌があるため、わざわざ挨拶をしなくても〝常にいる〟からかも知れません。挨拶は毎日しているからなのです。その仮本堂では、位牌はまだ安置していなかったのでした。
あの世の人、つまり〈霊的な人〉は間違いなく存在します。それは眼に見える姿の場合もありますし、声や音を通じて知らせて来る場合もあります。この世のものとも、あの世のものとも、どちらともいえるような、いえないような、そんな感じです。皆様、怖いお話をまだ続けますか?
怖いお話
令和4年7月25日
真夏の夜にふさわしい、怖いお話を一つ。
今から25年ぐらい前のことですが、私が川崎大師(川崎市のお大師さま)へお参りした日のことです。帰りにタクシーに乗り、川崎駅に向かいました。ところが、その運転手さんがバックミラーでさかんに私の顔をのぞくのです。何か、ためらっているような様子でした。そこで私が、「どうしましたか?」と声をかけました。すると、「お客さんはお坊さんですか?」というので、「そうですよ」と答えました。さあ、それからです。
「信じてもらえないかも知れませんが」と前置きして、次のようなお話を始めました。
一年ほど前の、ある雨の日の夜のことだったそうです。その運転手さんが北鎌倉駅(神奈川県鎌倉市)の近くで、一人の女性客を乗せました。雨の日だというのに、なぜか傘をさしていなかったそうです。同じ鎌倉市の〝自宅〟まで行って欲しいという依頼でした。土地勘はあったので、だいたいの場所はわかりました。そして雨の夜道に気づかいながら、運転手さんはやがて依頼された家の前に車を到着させました。
すると、その女性客が、「ちょっとお待ちください。すぐ、家の人がお支払いしますから」といって、急いで家の中に入りました。ところが、いつになっても家の人など出て来ません。運転手さんはしかたなく、傘をさしてその家のブザーを押しました。すると、一人が玄関から出て来ました。
「すみません。タクシー代をいただきたいのですが」というと、その家の人が怪訝な顔をするではありませんか。運転手さんは女性客の年齢や服装を含めて、しかじかの事情をお話しましたが、「そんな人はいませんし、家に入った人など誰もいません。何でしたら中を調べてください」というのです。
運転手さんはしかたなく車に戻りました。後ろを振り向くと、何と、女性客がいた座席が、しっとりと雨でぬれているではありませんか。運転手さんは全身に悪寒が走り、身の震えを覚えました。取り合えず、近くの交番に行って事のしだいを伝えるや、「君! 夢でも見たんだろう!」でした。
交番に駆けつけたところは、いささか滑稽ですが、実はこのようなお話はほかにもあるのです。皆様、寝苦しい熱帯夜には、悪夢にご注意ください。
お世辞は偉大な文化です
令和4年7月22日
お世辞は偉大な文化です。
なぜなら、世の人々はお世辞によって、その相互関係を円滑に運ぶことができるからです。また夫婦や家族との生活に、友人や知人との交流に、お世辞ほど順応するものはないからです。仮にそれが本意からのものではなかったとしても、聞いている本人は決して悪い気をおこすこともありません。時間もかからず、費用もかからず、手続きもいりません。
フランスの男性は女性に出会ったら、その服装を一日に何度もほめるよう、子供の時から教育されます。なんという賢明な風習でしょうか。たとえば、男性は5年前の自分の服装など思い出すこともありませんし、思い出そうともしません。しかし、女性は5年前の自分の服装を克明に記憶し、それが似合っていたかどうかをいつまでも気にします。男性は服装に対する女性の努力に対して、美しく見られたいという女性の努力に対して、ほとんど無知であることがわかっていません。そして、この女性に対する無知が、人生の幸福を大きく失っていることもわかっていません。
初対面のカップルが目の前に現れた時、女性ならまず男性よりも、相手の女性の服装を見るでしょう。しかし男性は、女性の服装などほとんど関心を持ちません。その時、その女性の服装にほんのわずかでもお世辞がいえるほどならば、その男性の運命は必ず変わります。自分の服装をほめてくれた男性を、その女性は生涯忘れることがないからです。こうした女性が世の中のあちこちにいるだけで、男性の運命は大きく変わることを、私が保証します。そして、女性にお世辞がいえるようになると、男性に対しても同じことがいえるようになるものです。
ところで、私はある時、お経というものは仏さまに対するお世辞の文面だということに気づきました。その仏さまがいかに偉大であるか、どんな修行を積んだか、どんな功徳があるか、あれでもかこれでもかと並べ讃えた文面が、すなわちお経なのです。だから、私は毎日、お大師さまの前でお世辞ばかりを唱えて生きていることになります。そして、唱えれば唱えるほど、どの仏さまも私に好意を寄せてくださり、私はますます仏さまの功徳をいただいているということになります。
ウソだと思う方は、仏像や仏画に向ってお経を唱えてみてください。唱え終ると、その仏さまがかすかにほほ笑んでくださることがわかるはずです。それは皆様に、仏さまが好意を寄せてくださったからなのです。お経が偉大な文化なら、その文面であるお世辞もまた偉大な文化です。皆様、大いにお世辞でほめましょう。特に、女性には一日に何度もほめましょう。偉大な文化です。
失物発見法
令和4年7月17日
本日は第三日曜日で、午前11時半より金運宝珠護摩を奉修しました。コロナ感染者がまたまた急増し、外出を控えていらっしゃる方が多いのでしょうか。ちょっとさびしい気もいたしましたが、参詣の皆様は元気に読経をしました(写真)。
また、午後のご回向の後は、〈失物発見法〉のお話をしました。これは私たちが失物(なくしもの、落としもの)や盗難にあった場合、その原因は三宝荒神(竈の神さま)のお咎めであるという考え方によるめずらしい秘法です。現代人のほとんどは、それは単なる偶然あるとしたり、運が悪かったからだとしか思いませんが、昔から伝えられたこうした教えを決しておろそかにしてはなりません。私はこの秘法によって、どれほど多くの方々を実証してきたか、はかり知れないほどです。また私自身すら、この秘法によって、失物を見つけ出した経験が何度もあります。
現代人の生活に竈はないと思いますが、ガス台やIHがあれば、それを使用する時、必ず荒神さまがいらっしゃることを知らねばなりません。つまり〈火〉は神聖なものであるということです。そのそばで、腹を立てたり、悪口をいったりすると、必ず荒神さまのお咎めを受けます。その一つが失物です。
そこでこの〈失物発見法〉の出番となりますが、残念ながらこのブログではお教えできません。あさか大師へ直接お越しください(要予約)。これは出し惜しみをするのではなく、荒神さまのことですから、軽々しく公開をすれば、この私にお咎めが来るからです。おわかりですね。
秘法とはいいながら、実は簡単なものです(もっとも、真理とはもともと単純明快なものですが)。しかし、その霊験たるや不思議(!)としかいいようがありません。家の中の場合、たいていは1時間以内に見つかります。外の場合は少し時間がかかりますが、必ず何らかの知らせがあります。私は多くの方にこの秘法を知っていただき、荒神さまの存在を実証していただきたいと考えています。皆様も、ぜひ。
美容と健康に一番の食品
令和4年7月13日
真言密教の僧侶は〈四度加行〉というカリキュラムを経て〈傳法灌頂〉に入壇し、教師(阿闍梨)となって住職の資格を得ます。また、この四度加行を伝授する方を大阿闍梨(略して大阿)といい、あさか大師では私が一人で担当しています。
今年は得度をした方が多く、したがって四度加行の伝授も多いので、これが大変です。たいていは3時間から4時間を要し、その間、まったく休みなく話し続けねばなりません。受者の方は、私の説明や印明(仏を象徴する手指の形や真言)を一つもらさず注目しています。大寺院の会館や大学の講堂など、大勢の伝授では居眠りをする受者の方もいますが、あさか大師ではそうはいきません。授ける方も授かる方も、真剣そのものです。
したがって、大変な心労を要することは言うまでもありません。心身ともにヘトヘトになります。だから、毎日の食事にも気をつかっています。実は、私のスタミナ源は酒粕です。酒粕は秋田大学の滝澤行雄先生によって研究が進められ、美容と健康に対しての効用が知られるようになりました。私は日本には味噌・醤油・梅干し・納豆といった、すぐれた発酵食品があることを喜んでいましたが、酒粕がさらにすばらしいものであることを最近になって知りました。
調理法は甘酒でも粕漬けでもよいのですが、私のおすすめは具だくさんの粕汁です。加行中の方も楽しみにしているようで、若い方は三杯もお代わりします。秘伝のかくし味は〇〇〇〇ですが、ブログではお教えできません。知りたい方はあさか大師に直接お越しください(要予約! 予約しないとなくなります)。
何しろ、栄養はもちろんのことですが、20種類以上のアミノ酸が驚異的な力を発揮します。これを飲んでいると、その保湿力の強さから肌はツヤツヤになり、さらに内臓が強化され、食欲が出て元気になります。見てください、私が証明です!
今日も不動護摩の伝授があり、大変に疲れましたが、粕汁と雑穀ご飯をいただき、もう回復しました。毎日飲んでいますので、そろそろ飽きるかなと思いきや、いやいや決して飽きません。美容と健康に一番の食品は酒粕です。これで決まりました。「酒粕万歳!」
『九星気学立命法』の刊行
令和4年7月5日
昨日に続いて、また著書のPRです。今年11月、私は『九星気学立命法』を青山社より刊行します。これは前著『九星気学と加持祈祷』(現在は品切れ)の改訂新版なのですが、長らく多くの皆様にお待たせをしてしまいました。この場をお借りして、深くお詫び申し上げます。
〈立命〉とは何だろうと思うでしょうが、「命を立てる」とは、つまり運命を変えるという意味で、陽明学では〈造命〉ともいいます。つまり、今度の著書は九星気学で自分の先天運を知り、その改善法を説いた内容といえましょう。京都に立命館大学がありますが、選名の由来がこの立命です。
ところで、皆様は運命は何によって決まると思うでしょうか。占いの先生方なら、それは名前の画数で決まるといい、あるいは方位の吉凶で決まると主張するでしょう。しかし、女性の名前は結婚すれば変わりますし、忙しい営業マンは西に東にと飛び回らねばなりません。名前も方位も大事だとは思いますが、それで運命のすべて(!)が決まるとは思えません。
では、仏教はこれをどのように説くのかといいますと、それは〈業〉が決定すると教えています。業とは生き方です。つまり、何を行い、何を話し、何を想うかで運命が決定し、その運命によってまた死んで往くとするのです。だから、人は生きたように死ぬのだとするのが、仏教の基本的な考え方です。
では、どのような生き方がよい運命に導くのでしょうか。私はそれをズバリひとこと「好かれることです!」とお話しています。好かれるためには、喜ばれねばなりません。親切にしたり、やさしい声をかけたり、施しをすれば、必ず好かれます。そして、そういう生き方をしている人には、必ずよい〈気〉が集まってきます。気とは念です。あるいはエネルギーです。あるいはオーラです。その、よい気が集まってくる人は必ず運がよくなります。望もうが望むまいが、その人をよく思う人の気が多くれば多いほど、その人はよい運命に導かれます。
好かれるための生き方は、徳を積むこと、つまり〈積徳〉ともいいます。だから、今度の著書は積徳がテーマです。占いの本ではありますが、読んでいるうちに積徳の大切さがわかっていただけるよう苦心しました。読んでくださるすべての皆様が、この世の人にはもちろん、あの世の人にも、動物にも、植物にも好かれるよう力説しています。また、ちょっと「もったいないな」とも思いましたが、九星気学の秘伝も惜しみなく公開しました。さらに、ビデオ版の刊行も計画しています。
なお、この著書についてのご質問は、青山社(担当・三宅氏)☎0120(18)0341にお願いいたします。すでに、予約も受付けていますとのことです。
真言密教の現代化
令和4年7月4日
私の著書『真言宗・回忌法要次第』(青山社刊)の第七刷が、間もなく刊行されます(写真左)。また、同様に『真言宗・独行葬儀次第』(同社刊)も、今年三月に第八刷を刊行しました(写真右)。斯界の限られた読者層にあって、このようなロングセラーは稀有なことでありますし、また著者の私自身も大変に驚いています。
宗内における私の主張は、「真言密教の現代化」ということです。それはどのようなことかと申しますと、伝統ある真言密教も、時代に対応する必要があるという意味なのです。もちろん、最も大切な法儀(経典にある約束ごと)は守らねばなりません。しかし、現代は何ごとにも時間は短縮され、むずかしい仏教用語も理解されません。ここに問題があります。
たとえば、葬儀もせずに火葬だけで済ませる直葬や、通夜のない一日葬儀(ワンデイセレモニー)が流行する現代、江戸時代の葬儀次第をそのまま使用するなど不可能であるからです。かつての住職は、臨終の知らせを受けるや枕経に出向き、自ら湯潅(死者の体を清める)や納棺(死者を柩に納める)を司りました。そして通夜を経て、数人の役僧(読経を勤める僧)と共に葬儀を終え、行列を組んで墓地に向い、その日に埋葬をしました。葬儀時間も1時間以上は要したはずです。
ところが現代は、特に都会地では通夜もなく、与えられた40分の内のわずか30分で葬儀を、残りの10分で初七日を、すべて導師一人で済まさねばなりません。斎場(火葬場)に出向いても、親類は新幹線や飛行機の時間を気にしつつ、お斎(食事)ばかりは済ませて帰途につきます。これが現代における葬儀の実体です。江戸時代の次第など、通用するはずがありません。また、このことは回忌法要におきましても、事情はまったく同じです。
私はこうした時代に対応すべく、上記二冊の次第を刊行しました。初版当時はまだ若く、まるで小舟を漕いで荒海に向かうような心境であったことを覚えています。しかし、幸いにして多くの方々に愛用され、まさに著者冥利に尽きる結果となりました。この後も、末長く愛用されていくことを願ってやみません。
なお、上記次第についてお問い合わせのある方は、青山社(担当・三宅氏)☎0120(18)0341にご連絡ください。
盂蘭盆法要
令和4年7月3日
昨日と今日、月初めの総回向を兼ねて、盂蘭盆法要を挙行しました(下写真)。
参詣の方が、予想したより少なかったように思います。コロナ禍に加えて、さすがにこの猛暑のためでしょうか。それでも弟子僧の皆様が声明を披露し、ご信徒の皆様も一心に読経をしました。そして、法要終了後は全員で施餓鬼作法を修しました。私たちも、強欲に走る餓鬼道への戒めを心得ねばなりません。
また、午前中のお護摩の前に〈九字の秘法〉と〈大般若加持法〉を伝授し(下写真)、法要後は〈得度式〉や〈加行伝授〉など、忙しい二日間でした。