今なぜ二宮尊徳か
令和2年7月11日
多くの日本人が知っているとおり、昔の小学校には二宮金次郎(後の二宮尊徳)の石像かブロンズ像がありました。
ところが、今はほどんど見ることがありません。なぜなら、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を見せることはよくない」「戦時教育の名残を感じる」などといった意見に加え、「歩きながらスマートフォンを操作する行為を肯定しかねない」といった声があるからです。そこで、そのままの姿で腰かけた像も作られましたが、普及には至りませんでした。しかしその反面、二宮尊徳の偉大さが少しずつ見なおされ、その教えが甦りつつあることもまた事実です。
実は、私も二宮尊徳こそは、今の日本で最も再評価されるべき人物だと思っています。なぜなら、彼こそはすぐれた道徳者であると共に、経済という仕組みをわかりやすく教えてくれるからです。道徳者の多くはややもすると精神的な一面に片寄りがちですが、彼はいかにしたら貧困からぬけ出せるか、つまり富を得るにはどうしたらいいかを多くの農民に教え、これを実現しました。このことは、富と人生の幸せを別にして考えることのできない現代の日本人には、最も必要なことに違いありません。
私たちはほとんど、「お金がなくても幸せになれる」とは思いがたい時代に生きています。それは多くの藩政が破綻し、過酷な年貢米の取り立てで農民が飢餓に苦しんでいた幕末も同じです。その時代、二宮尊徳は六百二十町村の財政再建を成功させ、農民の貧困を救い、田畑の技術向上を指導するという驚異的な偉業を達成しました。人の生き方を教え、人の心に種をまき、人の道徳力を高めながら、富を得る方法を伝えたのです。二百余年の時を超えて、現代に甦らぬはずがありません。
改めて申し上げますが、昔の小学校には柴木を背負い、寸暇を惜しんで本を読みながら山道を歩く二宮金次郎像がありました。それは貧しくとも親を助け、本を読んで勉学に励み、道徳を守って努力をすれば、必ず富を得ることができるという無言の励ましを日本中の子どもたちに与えていたのです。そして、農民の子に学問などいらぬといわれた時代、学問こそが人生の道を開き、富を得る方法であることを私たちに残してくれたのです。
昭和20年、日本は敗戦国となりました。そして七年間の占領政策を終え、帰国にあたったGHQ情報局長のインボーデン少佐は二宮金次郎像を持ち帰り、これを自宅の庭に立てました。日本人の原動力が、この小さな像にあることを知っていたからです。戦後の経済発展と小学校の二宮金次郎像が、まったく無関係であったとは思えません。明日は、金次郎こと二宮尊徳の言葉をお伝えします。
肝のすわった僧侶
令和2年6月30日
宮城県の松島は「日本三景」の一つに数えられる、天下の名勝です。そして、松島の古刹といえば瑞巌寺です。伊達政宗ゆかりの寺としても有名ですが、幾多の変遷を経て、江戸時代に雲居禅師によって興隆しました。この雲居禅師、松島の中の〈雄島〉と呼ばれる小島の岩窟がよほど気に入ったのか、毎日ここで座禅をして、深夜に寺に帰るのが日課になっていました。瑞巌寺からさほどに遠い距離ではありませんでしたが、老杉や古松がうっそうとして昼でも薄暗い道です。村の人々は気味悪がって、めったに通ることもありませんでした。
さて、村の若い者が集まれば、いたずら心と遊び心は常のこと。いったい、この禅師がどのくらい度胸がすわっているのか、試そうじゃないかということになりました。つまり、何とかして驚かせてやろうということになったのです。
禅師が雄島から帰る時刻はわかっていましたから、おのおの、それぞれの部処について待ち受けることとなりました。墓場の影に隠れる者、木に登ってうかがう者、うずくまって待ち受ける者、それぞれです。それぞれの所で、禅師が近づいたら、仰天させてやろうと若者たちは得意げでした。
夜はしんしんと更けわたり、一面は妖気につつまれる頃となりました。そろそろ、禅師が帰る時刻です。すると、かなたよりゲタの音を運ばせながら、禅師が静かに近づいて来ました。若者たちは息をのんで、これを待ち構えました。
ある松の下に差しかかったその時、樹の上から禅師の頭をグッとつかんだ〝もの〟がありました。禅師は身じろぎもせず、ただ立ち止まって動きません。つかんだ方も、息を殺して動きません。ウンともスンとも言わず、静寂の時間が続きました。つかんだ方は決まりが悪くなりました。気がぬけてしまったのです。仕方なしに、つかんでいたその手をそっと離しました。手が離れると、禅師は何ごともなかったかのように、また歩き出して寺に帰りました。
その翌日、若者たちは何くわぬ顔つきで禅師のもとを訪ねました。そして談たけなわの頃、あの森では妖怪が出るなどと、知らんふりをして話題に出しました。そこで禅師は、こう語りました。
「うん、昨夜は松の木の下で頭をつかまれたよ。じっと立っていたら、だんだん五本の指先が暖かくなってな。妖怪ではないとわかった。人間の臭いじゃったよ。そういえば、お前さんたちのこの臭いと同じじゃったなあ」
若者たちはほうほうの体で逃げ去りました。肝のすわった僧侶とは、こういう方のことなのでしょう。さすがですね。
三遊亭圓朝の誕生秘話
令和2年6月29日
初代・三遊亭圓朝は、幕末から明治にかけて活躍した落語家です。落語中興の祖と呼ばれ、歴代名人の筆頭ともされています。特にお笑いの滑稽噺より人情噺の評価においては、古今独歩の地位にあるといえましょう。
もちろん、名人として世に知られるまでには、並々ならぬ辛苦があったことは申すまでもありません。まだ小圓太と名乗っていた修行時代、師匠の圓正の家では、お使いや掃除ばかりさせられていました。師匠が寄席に向かう場合も、当然お伴としてついて歩かねばなりません。電車もバスもありませんから、遠い道のりでも師匠の荷物を持って歩けば、疲れもするし、空腹にもなります。
ある冬の夜、師匠がめずらしく「蕎麦でも食っていくか」と言って、暖簾をくぐりました。小圓太は自分も一杯食べさせてもらえれば、冷え切った体も温まるだろうと喜びました。ところが席に着いたのは師匠だけで、しかも天ぷら蕎麦とお酒を一人前しか注文しません。そして、お酒を飲みながら天ぷら蕎麦をうまそうに食べてしまうと、さっさとお代を払って出て行きました。そして、後ろをふり向くと、「蕎麦が食いたかったら、早く真打(高座で一番の出演者)になれよ」と、それだけでした。
弟子入りして二年余りになっても、一度として噺の稽古をつけてくれません。とうとう我慢できずに、そのことを師匠に願い出ました。すると師匠は、「では寒いだろうが、明日は夜明けまでに来い」と言います。翌日、小圓太は眠気も寒さも忘れて、師匠の家に駆けつけました。ところが、言いつけられたのは庭掃除です。小圓太が池のところを箒ではいていると、師匠がいきなり氷の池に突き飛ばしました。氷を砕いて全身ずぶぬれです.それでも、凍える体で着がえを済ませて庭に出ると、師匠がスズメに米粒を撒いていました。一羽のスズメが食べ終わると、樹の枝にとまりました。また別の一羽が食べ終わると、一段上の枝にとまりました。師匠はそれを、ジーッと見つめています。そして、「もう、稽古は済んだぞ」と言うのです。小圓太は何のことやらわかりません。そして、師匠が言いました。
「高座で空腹の噺をする時は、あの蕎麦のことを思い出せ。眠い時や体が凍えた時の話をする時は、さっきのことを思い出せ。そうすれば、噺が真に迫る。このスズメを見ろ。下のスズメと上のスズメを見る時は、目線を移さねばならん。わしはそれを教えたんじゃ。だから稽古は済んだと言ったんじゃよ」
小圓太は初めて、師匠の厚い情けを知りました。こうまでして、弟子である自分を仕込んでくれている師匠の慈悲を知りました。名人・三遊亭圓朝の誕生秘話です。
画僧月僊の偉業
令和2年6月16日
江戸時代の後期、伊勢山田の寂照寺に月僊という異端な画僧がいました。名古屋の味噌商の家に生まれ、七歳で浄土宗の僧侶となり、十歳で江戸の増上寺で修行をしました。そのかたわら、雪舟様式の画人・桜井雪館の門下となって絵も学びました。その後は京都の知恩院に住して、円山応挙にも師事しました。そして写実的表現も習得して、独自の画風を確立したのでした。残された絵を見ても、深い玄妙の境地に感銘を受けます。
三十四歳で荒廃した寂照寺を再興するため、その住職となりました。そして、ここからいろいろな逸話が生まれます。まず画料が高いことで、世の批判を浴びました。絵はすばらしいが、何といっても値段の話が先なので、人々は「乞食月僊」などとまで呼ぶ有様でした。「この半切でしたら、二両でしょうな」「このような絹に人物を描くなら、三両です」といった具合で、絵の依頼はすべて値段で決まるのです。それでも絵の評価は高まる一方で、依頼者が絶えません。
時には遊女からの依頼さえありましたが、月僊は悪びれもなく法衣を着て遊郭に出向きました。遊女の白の腰巻に描いて欲しいとの希望には、「そうですな、一両二分でよろしゅうございますか」と言うや、さっさと持ち帰り、みごとな花鳥を描いて来てそれを遊女に差し出しました。遊女はまるで鳥にエサをくれるようなしぐさで画料を放り投げました。月僊はそれをていねいに拾い集め、何度も礼を言って立ち去りました。気品も威厳もない、まさに異端な「乞食月僊」だったのです。
文化六年の正月、月僊は寂照寺で六十七歳の生涯を閉じました。ところが遺品を整理するや、おびただしい契約書や領収書、設計図や人足手間賃の控えが山のように出て来たのです。それらはみな、伊勢参宮道路の修理や橋の普請に関するものばかりで、人々が驚いたのも無理はありません。当時の伊勢では、道路も橋もひんぱんに修理されて参拝者に喜ばれましたが、みな奉行所の仕事と思っていたのです。それらはすべて、月僊の画料によって支払われていたのでした。
また死に臨んでの遺言では、窮民救済金として千五百両を奉行所に託しました。飢饉に備えて永代的な計画まで立てていたのです。これらは後に、「月僊金」としてその利子が活用されました。人々は月僊の死後、その功徳に服したのでしす。もちろん寂照寺の本堂や山門などの復興も果たし、経典の購入も怠りませんでした。
まことに、偉業と讃えるほかはありません。そして、こうした偉業とは人知れぬ陰徳から生まれることも憶念されるのです。その高風は今なお、多くの人々から慕われています。月僊の作品は京都の妙法院、三重県立美術館、岡崎光昌寺、そして寂照寺にも保管されています。
『般若心経』百万巻読誦の功徳
令和2年1月28日
人は何もかも与えられることはありませんが、何もかも失うこともありません。
江戸時代の中期、とてつもない天才がいました。名を塙保己一といいます。今の埼玉県本庄市に生れましたが、五歳で失明し、十二歳で母と死別しました。しかし、彼はずばぬけた記憶力を天から授かりました。読んでもらった日本の典籍を、ことごとく暗記することができたのです。彼は人が読んでくれる文字を、心底に写してこれを熟読したのでした。
二十七歳の折、亀戸天満宮(現・東京都江東区)に参詣して一万日(二十七年)の間、毎日『般若心経』百巻を読誦する誓願を立てました。つまり、一万日で百万巻読誦を目ざしたのです。これは大事をなすには、神仏のご加護なくしてありえないという信念からの決心だったのでしょう。しかも彼は、半ばの五十万巻に達するまでに、千冊の典籍を読んでもらい、百万巻終了の折には記憶したすべての典籍を出版しようとまで考えたのでした。
彼は『般若心経』十巻を読誦するたびに、紙のこよりを小箱に入れ、妻がそれを数えて記録しました。彼は一万日で百万巻はおろか、七十六歳で没するまでの四十三年間、毎日の読誦を一日として怠りませんでした。その四十三年間の読誦は、何と二百一万八千六百九十巻とまでいわれています。
そして彼は、記憶したすべての典籍を集成して、『群書類従』正編五百三十巻、続編千百五十巻という膨大な出版を完成させました。これは典籍の定本と伝本を比較校訂までも含めた、まさに前人未到の偉業でありました。今日でもなお、国学研究に大きな貢献をしています。
いったい、人が読んでくれる文字をここまで心底に写し、記憶できるものなのでしょうか。彼の超人的な努力はもちろんでありますが、私たちの常識を超越したその才能は『般若心経』読誦の功徳というよりほかはありません。人はすべてを失ったように見えても、天から与えられた何かがあるのです。このような偉人がいたことは、この国の誇りであります。
猛女とよばれた淑女
令和2年1月21日
一昨日、斎藤茂吉・茂太父子の厄よけ法をお話しました。そして、茂太の母親のことも、ちょっとだけ紹介しました。
この母親、つまり茂吉の妻がまたとんでもない女性で、「猛女」とまで呼ばれました。名を斎藤輝子といい、八十九歳で大往生を遂げるまで、まさに波乱万丈の人生を過ごしました。
彼女は明治二十八年、東京青山のローマ式大病院のお嬢様として生まれ、学習院女学部に通い、早くから女性雑誌のグラビアを飾りました。「王者の誇りをもった緋牡丹」がそのキャッチコピーであったようです。何ごとにも一流を好み、権威をもろともせず、常に前向きでマイペースでありました。関東大震災・青山大病院の全焼・東京大空襲さえも、気骨をもって無事に乗り越えました。
一方の茂吉は「神童」とまで呼ばれた秀才でしたが、山形の貧しい農家の生まれで、ウマが合うはずがありません。また、愛弟子・永井ふさ子との恋愛問題も重なり、二人は長らく別居生活が続きました。しかし彼女も、最後は郷里で寝たきりになった茂吉を献身的に介護し、寄り添う日々を過ごしました。
そして、茂吉の死後は海外渡航97回、訪れた国が108ケ国、その距離は地球36周分でありました。中でも七十九歳で南極、八十一歳でエベレスト、八十五歳でガラパゴスなどは驚嘆に尽きましょう。多いに〝元気〟をもらえるエピソードです。さらに興味のある方は、孫娘・斎藤由香さんの著書『猛女とよばれた淑女』(新潮文庫)をご覧ください。
一昨日、あえて斎藤輝子の名を出さなかったのは、ここで紹介したかったからです。皆様、このブログを読んで元気になりましょう。
S君の思い出
令和元年8月31日
私の郷里にS君という男子がいて、中学校までは同級生でした。
彼は生まれつき鈍才であったのか、学校の成績はきわめて悪いものでした。またその容貌も手伝ってか、常に周りからもバカにされ、友人もほとんどなく、成績はすべてに振るわず、通知表は常にオール1(最下位)でした。家庭的にも恵まれず、父親は早くに他界したのでしょう。母親が働きながら、世間の片隅でどうにか一家を支えていました。長男であった彼は、中学校卒業と共にさる工場に就職しましたが、そんな彼に注目する人など誰もいませんでした。
ところが、その一年ほどを過ぎた頃でありましたでしょうか、どこからともなく彼のうわさが広まりました。何とS君は中学校時代から短歌雑誌に自作を投稿し続け、さる賞に輝いたというのです。私はその受賞作をこの眼で詠んだ記憶はありますが、残念ながらそのメモもなく、今となっては手がかりもありません。しかも彼は、その数年後には若くして他界しました。私は見ぬ世を見つめるような彼の眼差しを思い出し、人というものの不思議さに思いを馳せたのでした。
実は私は、彼と二人だけで過ごした半日ほどの思い出がありました。それは私の生家と彼の縁戚との用事で、いささか遠くまで同行したからでした。彼はその道中、私の知らない花の名前や雲の名前を、何気なくささやくのでした。私は自然に対する彼の洞察すら見ぬけませんでしたが、このような異才が短歌に反映したのでしょう。短歌こそは、彼がこの世で見い出した唯一の生きがいであったのです。
人には意外な一面があることを、私は彼との思い出で知ることができました。どのような人にも、秘めたる才能があるはずです。ただ家庭や学校で、それを引き出せないままに終わることは残念でなりません。彼の家は今、どうなっているのでしょうか。突然に思い出した今日という日も、また奇妙です。
日本第一の偉人
令和元年8月19日
日本の歴史上、最も偉大な人物を一人あげるとすれば、私は弘法大師空海(以下、単に大師とします)であるとお話しています。自分の宗祖でもありますが、どのような角度から考えても、大師の右に出る人物はおりません。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロと並ぶ、世界史上の巨星でもあります。
もちろん、歴史ファンなら織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった戦国武将や、西郷隆盛・坂本龍馬・勝海舟といった明治維新の立役者をあげるでしょう。そのほか時代を問わず、考えられる人物は何人もいます。しかし、その人間的品格・生涯の業績・後世への影響などを照合すると、大師をおいてほかに求めようはありません。
大師は仏教的な業績にとどまらず、天皇の顧問でもあり、教育者でもあり、文学者でもあり、書道の大家でもあり、土木事業の指導者でもありました。このことは、たとえば聖徳太子や二宮尊徳などと比較しても、そのスケールの大きさははかり知れません。単に真言宗の宗祖とするには、あまりにも偉大であり過ぎます。
今日、大師の人気は欧米にもおよび、高野山は外国人であふれるばかりです。特に紀伊山地のひとつとして世界遺産に登録されて以来、この様相はますます増大しました。高野山を訪れた外国人は本国に帰るや、「日本へ行ってクウカイに会って来た」と自慢することでしょう。
大師のお姿を描いた絵を〈御影〉といいます。平成23年、私は大師の御影に関する考証をまとめて『弘法大師御影の秘密』(青山社)を刊行しました。そのおり、私の考証に基づいて真鍋俊照画伯に描いていただいた御影が「あさか大師」のご本尊です。いつでも、誰でも拝見できますので、皆様もぜひお越しください。
リーダーになる人物
令和元年8月15日
社会に出てリーダーになるのはどんな人物かと問われれば、私は迷うことなく「部活でリーダーであった人物」と答えています。それが文化クラブであれスポーツクラブであれ、部活のリーダーであった人物は、社会に出ても必ずリーダーになります。そして、この持論に私はかなりの自信があります。
学校時代の学問秀才は社会に出てもあまり目立ちませんが、スポーツ大会や文化祭で活躍したリーダーが社会に出ると、たちまちに実力を発揮します。社会は学問だけでは決して花開きません。その理由は、人間的な幅がないからです。また、仕事以外の幅がないからです。幅がなくては、並みの考え方や発想しか生まれません。それでは変化に対応できず、業績を伸ばすことができません。
その点、部活でリーダーであった人物は一味違った個性を持ち、創意工夫に満ちています。そして、人の扱いにも慣れています。これは学問からは得られない、人間的な幅と仕事以外の幅を持ち合わせた別の才能といえましょう。このことは、学問そのものの世界においてさえ同じはずです。何を研究するにせよ、並みの意識からは並みの成果しか得られません。この壁を破れるのは、研究以外の〝何か〟であるからです。
小学・中学・高校・大学を問わず、皆様、ぜひ部活に励んでください。また、ご両親もこのことを念頭に、部活を勧めてください。学校時代の、その貴重な時間と体験は、社会に出て必ず役立ちます。
毎日100枚のハガキを出した人
令和元年8月13日
私が上京した昭和40年代、官製ハガキは一枚10円でした。つまり、一ヶ月間にハガキを毎日一枚ずつ出しても300円です。
一人で東京に移り住んだ私は、右も左もわからず、どうしたものかと悩んだものでした。そこで毎日、日記のつもりで父にハガキを出すことから始めました。つまり、300円の最も有効な使い道はコレだと考えたからです。
たかがハガキ一枚とはいえ、父が保管をするだろうと思えば、うかつには書けません。それでも、見ず知らずの東京の様子を、少しずつ報告していきました。一ヶ月もするとだんだんに慣れ、わずかな時間で書き上げられるようになりました。
毎日のハガキは、出し始めて一年後のその日、「今日で最後にします」と記して終了しました。後年、私がまずまず筆まめになれたのは、この時の経験が役立ったように思います。そして、たった一枚のハガキの重みまでも知り得たように思います。電話の方が楽だとわかっていても、やはりハガキ一枚の意義は大きいはずです。貴重な経験をしたと今でも思ってます。
ところが、先年亡くなった作家でタレントの永六輔さんは、毎日100枚のハガキを出していたという事実を最近になって知りました。上には上があるものです。取材した方はもちろん、番組仲間、先輩、後輩、友人など、車内で喫茶店でホテルでと、 毎日、トータル2時間はかけていたというのです。もちろん、その文面は、「先ほどはありがとう」「お疲れさまでした」「またいつか、どこかで」といった簡単なものです。でも、これを毎日100枚を出し続けるということは、並みたいていの努力ではありません。
私は永六輔さんの著書は二冊ほどは読みましたが、格別なファンであったわけではありません。でも、この事実を知ってから、急に親しみがわきました。楽しそうに出演している影で、こんな努力があったというお話です。