S君の思い出

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令和元年8月31日

 

私の郷里にS君という男子がいて、中学校までは同級生でした。

彼は生まれつき鈍才どんさいであったのか、学校の成績はきわめて悪いものでした。またその容貌ようぼうも手伝ってか、常にまわりからもバカにされ、友人もほとんどなく、成績はすべてに振るわず、通知表は常にオール1(最下位)でした。家庭的にも恵まれず、父親は早くに他界したのでしょう。母親が働きながら、世間の片隅でどうにか一家を支えていました。長男であった彼は、中学校卒業と共にさる工場に就職しましたが、そんな彼に注目する人など誰もいませんでした。

ところが、その一年ほどを過ぎた頃でありましたでしょうか、どこからともなく彼のうわさが広まりました。何とS君は中学校時代から短歌雑誌に自作を投稿し続け、さる賞に輝いたというのです。私はその受賞作をこの眼で詠んだ記憶はありますが、残念ながらそのメモもなく、今となっては手がかりもありません。しかも彼は、その数年後には若くして他界しました。私は見ぬ世を見つめるような彼の眼差しを思い出し、人というものの不思議さに思いをせたのでした。

実は私は、彼と二人だけで過ごした半日ほどの思い出がありました。それは私の生家と彼の縁戚との用事で、いささか遠くまで同行したからでした。彼はその道中、私の知らない花の名前や雲の名前を、何気なくささやくのでした。私は自然に対する彼の洞察すら見ぬけませんでしたが、このような異才が短歌に反映したのでしょう。短歌こそは、彼がこの世で見い出した唯一の生きがいであったのです。

人には意外な一面があることを、私は彼との思い出で知ることができました。どのような人にも、秘めたる才能があるはずです。ただ家庭や学校で、それを引き出せないままに終わることは残念でなりません。彼の家は今、どうなっているのでしょうか。突然に思い出した今日という日も、また奇妙です。

山路天酬密教私塾

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