四十五年ぶりの再会
令和3年11月16日
私にとって、今日はとてもうれしい日でした。なぜなら、熊本県八代市在住のある女性ご信徒が、はるばると私を訪ねて来てくださったからです。彼女とは、私が二十代の初めにお会いしてより、実に四十五年ぶりの再会でした。彼女は当時、東京で働いていましたが、兄弟のことで大変に悩んでおりました。私もできるだけの智恵をしぼっては相談に応じましたが、その後に結婚し、子を授かり、郷里の熊本に帰り、久しくお会いすることはありませんでした。
しかし、この四十五年間、彼女は毎月のご回向やご祈願を郵便にて欠かすことなく、私を信頼してコツコツと地味な信仰を続けました。四十五年間です。その間、私はお会いすることも、(電話以外では)お話をすることもありませんでした。決して、並みの決意でできることではありません。「四十五年間の信仰はあなたの財産ですよ」と、今日、私はそのように自分の気持を正直に伝えました。
その四十五年前の遠い記憶をたどると、その頃の彼女は非常におとなしく、口数の少ない方でした。ところが、お会いした今日は何とも明るく、ペラペラとしゃべる天真爛漫な性格に一変していたのです。「ずいぶん変わりましたね」と私が言うと、「もう恥も外聞もありませんよ」と笑っていましたが、その笑いの裏にどれほどの辛苦をなめて来たかのか、そんな面影を感じる一瞬がありました。
人はそれほどに変われるものではありません。しかし、男性に比べると、女性の方が変わり身の早い傾向はあるかも知れません。これは私の考えに過ぎませんが。男性は大人になるまで、自分の身体にさほどの変化がありません。大人になる前に声変わりをしたり、体毛が増えたりはしますが、せいぜいこの程度です。それに比べると、女性は乳房のふくらみから始まって、初潮があり、妊娠があり、出産があり、授乳があり、閉経がありで、何度も身体の変化を体験します。いつまでも過去にこだわっていては、身が持ちません。大切なのは、あくまでも〝いま〟なのです。つまり、きっぱりと過去を捨て去る天性の覚悟が備わっているからではないでしょうか。
それに比べると、男性は意外にもグズグズと過去を引きずるものです。たとえば(もちろん、一概には言えませんが)、かつての家柄や栄誉を自慢したり、別れた女性の写真や手紙をいつまでも保管していたりで、変わり身がありません。仕事の面では縦横無尽でも、私生活にはさほどの変化がありません。男性は仕事を離れるや、まったく融通のきかない一面があることは確かなようです。
今日の私は、まるで浦島太郎です(笑)。人生という時間の半分を費やして、まるで夢のような体験をしました。これはいかに努力を重ねても、万巻の書物を読んでも、パソコン技術を駆使しても、決して作り出すことはできません。この四十五年間は、「空白の意匠」です。
私の本棚
令和3年11月12日
あさか大師は四十五坪ほどの平屋建てですが、その内の四分の三が寺の施設、残りが庫裡というか、つまり住職である私の居住スペースです。とはいっても、八畳ほどの寝室を除けば、ほかは壁一面の本棚で埋め尽くされ、そこがお弟子さん方の更衣室を兼ねた食堂となります(もちろん、キッチンや浴室もありますが)。
そうなると、並べられた(あるいは積み上げられた)本がどうしても目に尽きます。そして、小さな図書館ほどもある蔵書に、たいていは驚きます。入って来たお弟子さん方は、ジロジロと本のタイトルを見つめ、遠慮する気配すらありません。中には、勝手に何冊かを取り出してメモを取る方まで現われました。
ここで、このブログを読んでくださる皆様に申し上げますが、私にとって本は自分自身にも等しく、これらの中には所持品を売ったり、借金を重ねてでも購入したものすらあるのです。私はスーツの一着すら所有せず、高級車に乗るでもなく、海外旅行に行くでもなく、収入のほとんどを本のために費やして来ました。もうお分かりと思いますが、断りもなくのぞき見されたり、勝手に触れられることは、いくらお人好しの私でも決していい気持ちにはなれません。
そこで、奉書用紙に達筆な(!)字で、「本に手を触れてはなりません」と書いておきました。しかし、それでも目にすることは勝手ですので、相変わらずのぞき見ばかりは止まりません。やむを得ず、薄手のカーテンを設置してシャットアウトに転じました。私は本に囲まれて食事をするのが好きなので、とても残念です。
かつて、寺山修司は「僕はその人よりも、その人が読んでいる本に興味があるんです」と語りました。まったくの同感で、私もお弟子さん方と逆の立場なら、案外同じことをしたかも知れません(笑)。その人がどんな本を読んでいるかは、その人に対する大きな目安になることは確かだと思います。この頃は大学や大学院を出ていても、ほとんど本をもたない方が多いのには驚きます。必要な情報をネットや電子書籍で済ませるにしても、また生活空間が狭いにしても、紙のページをめくる醍醐味を知らない人は、私とは価値観が違うのだと考えるほかはないのでしょうか。
どんな食生活をして来たかで、その人の健康が決まりますが、どんな本を読んで来たかで、その人の質が決まるのです。質とは教養であり、考え方であり、生き方そのものでもあります。もちろん、本を読んだらといって、人生がわかるとは思いません。しかし、本を読まなれば、なおさらわからないと私は思っています。
安心という御守
令和3年8月31日
私もほどほどの生命保険(医療保険)には加入しています。本日は担当の方が見えましたので、いささか意地悪な質問をしてみました。私が以前から興味と疑問をいだいていたことです。
それは、「健康に自信があるからといって保険を解約した場合、病気になる確率が高くなるのではありませんか」という質問です。担当の方は、「そのとおりです。自分が知っている範囲では、集団で加入した自衛隊員で解約をした方は、その確率は間違いなく高いと思います。保険は〝御守〟と同じで、その安心がさらに安心を呼ぶのではないでしょうか」との答えでした。いささかセールス気味な意見でしたが、私はなるほどと思いました。論理的にはあり得ないことですが、人生にはこうした理不尽さがあることは否めません。
似たような例として、不要と思って処分した物が、急に必要となる確率は高いのではないでしょうか。私の場合は処分した書籍や雑誌、スクラップや切り抜きなどに、よくその経験があります。著作をしていると、なかなか〈断捨離〉のルールどおりにはいきません。だから、一つの著作をする場合、私は必要な資料を宅急便の丈夫な紙袋に、まとめて入れ込むことにしています。そうすることで紛失の不安が消え、安心の御守となるからです。
これは余談ですが、車を運転しながらガソリンスタンドやコンビニを探しても、なかなか見つからないという経験があります。見つかっても、道路の反対側だったという経験も多いはずです。ところが、必要もない時には、いくらでも目につきます。つまり、必要な時は見当たらず、不要な時ほど目につくというおかしな現象はどうしたことなのでしょうか。
こうした現象は、あるいは私たちの認識上の錯覚であるかも知れません。世の中は正確な確率で動いているはずです。しかし、それでも私は安心という御守は大切だと思っています。まさに「備えあれば憂いなし」なのです。厄よけのご祈願をしたからといって、何の災いもないわけではありません。しかし、ご祈願をした安心がさらに安心を呼ぶのです。その安心という御守が、どこかで災いを除く働きをするからです。心の持ち方で人生は変わるという真理が見えてきます。
何ごとにも用心という心がけが安心を呼ぶのです。自信もけっこうなのですが、過信すると新型コロナにも感染します。私は小心で臆病者であることに、むしろ誇りさえ感じています。
死との対面
令和3年8月4日
今日はめずらしくお葬式が入り、午前中から出仕してそのお導師を勤めました。故人は享年100歳の女性で、まさに日本の高齢者を代表するような方でした。
私は生年月日さえ聞けば、その方のだいたいの人生がわかります。本命七赤、月命六白で、健康で体力に恵まれ、社交性があり、飲食や歌舞音曲が好きな方でした。つまり、人生を楽しむ才能に恵まれていました。ただ、ご主人との相性が悪く、何かとご苦労されたことと思います。そのことを葬主にお話しましたら、「会ってもいないのに、どうしてそんなことまでわかるのですか?」と問われました。実は〝そんなことしか〟わからないのですが(笑)。
終了後、私はいつも戒名の説明をしますが、さらにお葬式の大切さもお話しています。つまり、人生の節目にはそれぞれに必要な儀式があり、その儀式によって自分の立場をわきまえることを力説しています。学校や大学に入学するには入学式があり、それによってその生徒や学生であることを自覚するはずです。就職をするには入社式があります。そして、何よりも結婚をするには結婚式があります。
今時はウエディングドレスを着て、お父さんと腕を組んで入場したいという女性が多いことでしょう。そして、神父さんが二人の手を取って片手を挙げ、「お二人が夫婦であることを宣言します」と奏上するから互いに夫婦となり、社会的な責任を自覚するのです。ただ、二人で一緒に住めばいいというものではありません。。
では、お葬式にはどのような意味があるのでしょうか。たとえば、皆様が何十年も勤めた会社を退職する時、ねぎらいの挨拶もなく、お別れの言葉もなく、見送りもなく、一人さびしく裏口から去って行くとしたなら、どんな思いをするでしょうか。お葬式をしてももらえず、だた火葬だけであの世に往くとは、そういうことなのです。子供さんから最後の挨拶を受け、お孫さんから最後の手紙を受取れば、悔いなくあの世に旅立てることは容易にご理解いただけましょう。
そして、私がもう一つ強調をしていることは、特にお孫さんに人が死ぬことの姿を見せることの大切さです。つまり、どんな人もやがては死を迎えることの事実を教えることなのです。その「死との対面」なくして、人生を考えることはできません。その対面によってこそ、生きている時間を大切にできるからです。
もちろん、小さなお孫さんにそんな自覚が生まれるはずはありません。しかし、死との対面なくして、やがて大人になって、人生の限られた時間を考えることはできません。そのためにも、お葬式は大切だということです。
会葬の方々に、私の気持ちが伝わったことを念じて、私は式場を後にしました。いいお葬式だったと思います。
オリンピック選手の真価
令和3年7月30日
私はほとんどテレビを見ない生活をしています。しかし、今回のオリンピックはやはり気になり、興味のある競技やハイライト番組などは視聴しています。新型コロナの感染者がますます増大し、オリンピックの開催そのものへの批判もありますが、賛否両論のどちらが正しいと断言することはできません。事情が許される方は外出を控え、この後の対策に望みを託しましょう。テレビで応援するのも、よいものです。
参加選手はこの日のために過酷な練習に耐え、それこそ血の出るような努力をして来たはずです。実力の差が明らかな場合もありましょうが、わずかな〈運〉の差が死闘の勝敗を決することもあります。オリンピックは夢であり、感動であり、英知でありますが、きわめて残酷なものでもあります。歓喜もあれば、号泣もあり、人はどうしてこうも闘うのかという哲学的な懐疑すら禁じ得ません。世界ランク一位とされ、金メダル候補とされる選手が、初戦で「まさかの敗退」をすることもよくあります。人生そのものの象徴です。
だからこそ、勝者が号泣する敗者の前で歓喜をあらわにするのもいかがなものでしょうか。特に柔道のような二人競技はそこにオリンピック選手の、また武道家の真価が問われるように思います。競技が終った後、コーチとどのような涙を見せようが、それはよいのです。せめて敗者をいたわる姿を見せてほしいと私は思いました。勝者と敗者が互いにたたえ合う姿は美しく、視聴者に感動を与えます。
体操で選手一人の競技が終るたびに、自国の選手はもちろん、他国の選手たちとタッチをしたり抱き合う姿も初めて見ました。ソフトボールの優勝決定戦でも、試合が終わって、日米の互いの監督が泣きながら抱き合った姿も、美しく放映されました。世界中の人々が見ていたはずです。これにこそ、オリンピックの開催を喝采すべきすべてがあるのです。コロナ禍のリスクを背負ってでも開催した意義がほかにあるでしょうか。
オリンピックは戦争ではありません。しかし、闘う以上は、勝たなければなりません。そして、美しく闘い、美しく勝たねばなりません。メダルはそこから輝くのです。美しいオリンピックであってほしいと思います。
続・運命のルール
令和3年5月30日
さらに続けますが、運命のル-ルは誰にでも平等です。もちろん、私だって同じです。自分だけは違うなどということは、絶対にあり得ません。次のお話を読んでいただければ、わかっていただけるはずです。
この世の中は自分が与えた分を、自分が得るのです。自分を考えてください。与えた分の姿が、今の自分です。自分の収入も財産も、配偶者も友人も、それが自分の真実です。世の中は幻のようなもの、夢のようなものかも知れませんが、同時にそれが真実なのです。実体がないといいながら、それが真実だと『般若心経』は教えています。
たとえば、スーパースターと呼ばれる人たちがいます。俳優(女優)・歌手・スポーツ選手、彼らや彼女らは世界中から愛されています。血の出るような努力に努力を重ね、世界中の人たちを楽しませる何かを、世界中に与えています。だから、私たちには想像もできないよいうな名声と富を得ています。人は与えた分を、得ることができるからです。
私たちは何を与えているでしょうか。労働力であれ商品であれ、情報であれアイデアであれ、与えた分を自分が得ているはずです。それが自分の能力であり、自分の徳なのです。それが運命のルール、運命の真実なのです。このルールからはずれることはありません。わかりますよね。
では、与えずして何かを得た場合はどうなるでしょうか。人を騙したり、不正をはたらいて奪ったものは、必ず奪われることになります。あるいはその分の〝つぐない〟をすることになります。なぜなら、騙したり不正をはたらけば、人の恨みを買うからです。その恨みによって奪ったものが奪われるからです。もちろん、スグにそうなるとは限りません。しかし、いずれは必ずそうなります。また、そのような恨みに囲まれれば、痛い目にあうことも必定です。減給されたり、失業したり、刑務所に入ることになるのです。これも運命のルールです。
私たちは時として失物をしたり、盗難にあったり、詐欺にあったりします。これも〝つぐない〟の姿です。悪口を言ったり、うそをついたり、腹を立てたりすると、このようなことが起こりやすいのです。私は失物をした場合、「お叱りを受けたな」と思うようにしています。過ちの〝修正〟をしているからです。痛い目にあった時は、このように思うことです。痛い目にあわねばわからないから痛い目にあうのです。さらに悪徳を積まぬよう、運命はこのようにはたらくのです。人が望もうが望むまいが、信仰があろうがなかろうが、人は何かによって支えられ、救われていることを知らねばなりません。実は、これも運命のルールです。「運命は均される」からです。もう、このへんにしましょうか。
運命のルール
令和3年5月29日
「すべては預かりもの」だとお話をしました。そして、あらゆる所有は永遠のものではなく、所有するにふさわしい人の預かりものとなって、また次の人の所有になるとお話をしました。極論を申し上げれば、人はこの世で所有するものなど、何一つないのです。人は自分にふさわしいものを、ふさわしい時に、ふさわしい所で、一時預かりをしながら生きているのです。すべてがそうなのです。お金も物も、結婚した相手も友人も、自分にもっともふさわしい縁で、今ここで預かっているのです。この事実を何と思うでしょうか。
ただ、ちょっとだけ例外があります。運命は時として〝ふさわしくない〟人物に預かりものをさせるからです。つまり、運命の悪戯です。その一つがギャンブルです。ギャンブルには能力も必要でしょうが、そのほとんどは偶然の産物です。宝くじもまた同じで、これは百パーセント偶然に過ぎません。
断言しますが、ギャンブルや宝くじで財をなすことは絶対にありません。ギャンブルで一時的に大金持になっても、そんな生活が長く続くでしょうか。お金がなくなると、味をしめたギャンブルにまた手を出すのです。そして、最後には一文なしとなって、人生そのものすら失うのです。
宝くじで一億円を当てた人が幸せになるでしょうか。ふさわしくない人がそれを所有すれば、運命のルールが狂うのです。運命のルールが狂えば、人生も狂い、必ず不幸になるのです。食べてはいけないものを食べれば胃が痛み、下痢や吐き気をおこすでしょう。それと同じです。一億円に群がる人の憎愛が怨恨を生み、トラブルを生み、殺人事件にまで発展するのです。
あり得ないこととは思いますが、もしも、もしも皆様が宝くじを買って一億円を手に入れたなら、スグにでも社会に還元することです。ユニセフにでも赤十字にでも寄付をすることです。そうすれば、運命のルールは狂いません。もっとも、あさか大師に寄付をしてくださるなら、私がさらにいい方法をソッと教えましょう(笑)。こんなことを言う人はいませんが、私にはその自信があります。なぜなら、この世のものをあの世にも持ち越せる唯一の方法を、私が知っているからです。これはお大師さまにお使えしなければ、言えないことです。
いつもお話をしますが、自分とは〝自らの分〟なのです。自分にふさわしいものが、ふさわしい出来ごとが、ふさわしい人物が、目の前に現れるているのです。そんな自分を好きになってください。それを忘れて、おかしなことを考えてはなりません。困った人になってはいけません。そうでしょう、皆様。
青年の意気、熟年の智恵
令和2年12月15日
.私は今では、まったくと言っていいほど外食をせず、毎日の自炊が常となりました。いわば悠々自適、気ままな暮らしをしているということです。もちろん、以前は友人や知人とのつき合いも多く、なじみの店もいくつかありました。今でも、出入りしていたなつかしい店名や店内を思い出します。
私はカウンターに座るのが好きで、よく板前さんの調理を〝のぞき見〟していたものでした。特に寿司と天ぷらばかりは、その手さばきを観察し、揚げたてやにぎりたてを阿吽の呼吸で口にしたものです。せっかくカウンターに座りながら、仕事の問題に熱中していては、もったいないことです。
その天ぷらのことですが、何人かの分を揚げ終わると、油を足します。特に質問をしたわけではありませんが、その新古の比率にコツがあるように思いました。つまり、使い古した油にまったく新しい油を混ぜることにより、絶妙のバランスがあるらしいのです。これは、人生そのものを考えるヒントだと思いました。
まっさらで、世間をまったく知らないような青二才ばかりでは困ります。しかし、世間の諸悪に汚れ切っていても使えません。いわば、青年だけでは経験に乏しく、熟年だけでは新鮮さに欠けるといった道理にも通じるということです。何ごとにも、このバランスが大切です。いかがでしょうか、私はこのことをとても印象的に覚えています。
新しいものに挑戦する青年の意気はすばらしい、だからといって、熟年の智恵をおろそかにしてはなりません。このバランスを上手に使えれば、それこそ人生の達人です。それぞれに代わりは利きません。それぞれに貴重な存在です。青年と熟年と、その融合をはかることが大切です。
年寄りの智恵を青年が学び、青年の意気を年寄りが学べば、それこそ理想のバランスでしょう。会社も家庭も、営業も人事も、このバランスなのです。かつて、私は天ぷらの技を見ながら、そんなことを思ったものでした。しばらく行っていませんが、またあの技を見たいものです。汚れた油に新しい油を足す、人生はこの加減に極意があるのです。久しぶりに、あの店に行ってみたくなりました。
別れても好きな人
令和2年12月3日
12月に入って、お歳暮がたくさん届くようになりました。多くの方にお気遣いをいただき、とても感謝しています。中には、ご信徒としてすでに縁の切れた方、お名前すら忘れていた方からも届きます。「あれ?」とい思いつつも、私はこうした方を、「別れても好きな人」と呼んで笑っています。
祈願寺は一般の菩提寺(檀家さんの寺)と違って、ご信徒の離脱は避けられません。つまり、願いごとが叶ってしまえば、それでサヨナラという方もいるということです。祈願寺ではこれを「食い逃げ」などと言って、惜しみます。しかし、こうした方からお歳暮が届くことは、決して悪い気はしません。
人生に出会いがあれば、別れがあるのは当然です。しかし、別れた方がどのような気持ちでいるかは、きわめて重要ではないでしょうか。つまり、別れても好意を持っていてくれる方がいるということは、それだけ〝プラスの思い〟が集まるということなのです。プラスの気、プラスの波動が集まり、人生がより良いものになるからです。皆さんも幸運を望むなら、「別れても好きな人」をたくさん持つことです。私はそのように考え、皆さんの前でもお話をしています。
私たちは想念の中で生きています。つまり、眼には見えずとも、多くの人々の思いが電波のように飛び交う中で暮らしているということです。だから、プラスの思いが多い人ほど幸運を得るのは当然のことです。毎日のように出会う人には、気配りが効きましょう。しかし、別れてしまった人とは、どのように分かれたかの結果だけが残るのです。
だからこそ、「別れても好きな人」をたくさん持ちましょう。もちろん、あの世の人も含めてです。これぞ、人生の智恵、人生の秘訣です。伝授しておきますよ。
二・六・二の法則
令和2年10月9日
一昨日、私は「投資もギャンブルも知りません」とお話をしました。まことにもってそのとおりなのですが、後になって「ちょっと、違うかな」とも考えました。
たしかに、私はギャンブルは一度もやったことがありません。若い頃、悪友に誘われて競馬場へ行ったことはありますが、レースに熱狂する人の数に圧倒されるばかりで、自分では何の興味も湧かなかったことを覚えています。もちろん、カジノのことなど、何もわかりません。株式も信託も知りません。ある先輩から、「株で儲けるためには、赤いおしっこが出るほど苦しまねばならないぞ」と聞かされ、最初からお手上げでした。
しかし、私は自分への〝投資〟をして来ました。自分への投資とは、つまり何かを学ぶためにお金を遣うということです。眠る時間もないほど苦学して大学へも行きましたが、授業として決められた課目を学ぶことに興味を失い、中退しました。その代わり、いろいろな学校に通い、いろいろな師を求めて学びました。各種のセミナーや個人レッスンも受けました。高いなと思っても、それを後悔したことはありません。
そして、何よりもお金を費やしたのは本の購入でした。私はスーツの一着すら所持していませんが、財産といえばこれまでに学んだ知識や技術と本ぐらいのものです。しかし、それが人生の智恵となり、宝となりました。よく「こんなに本を買わなくても、図書館を利用すればいいでしょう」と言われますが、この意見は間違っていると断言します。
なぜなら、本の中身は身銭を切らなければ、痛手を覚えなければ絶対に身につかないからです。食費を削ってでも購入するから、元手をとろうと真剣になれるのです。もちろん調べものをする時に、私も図書館を利用することはありますが、資料としてコピーをとったり、メモをとるに過ぎません。それに図書館の本は赤線を引いたり、ページを折ったりすることもできません。図書館は便利でありがたいものですが、あくまでも公共財産であって、自分の血肉にはなりません。
私は一流大学を出ていながら、本をほとんど買わない人を知っています。そういう人はもちろん、住宅や愛車、旅行やファッションにお金を遣います。豊かな暮らしはけっこうなのですが、それ以上に何かを学ぼうという意欲がありません。そして、豊かな境遇から一挙に転落した人も知っています。人は向上しないかぎり堕ちるのです。これは長い間この仕事をして来て、人の有為転変を見て来て、つくづく思うことなのです。
「二・六・二の法則」をご存知でしょうか。この世の中は二・六・二の割合で人が生きているという意味です。最初の二割は人生を半ば断念し、自分への投資などまったく考えない人です。次の六割は自分に投資をして何かを学ぼうと思ってはいても、その行動を起こさない人です。皆様はいかがでしょう。残りの二割に入りますか、それとも〇〇〇〇ですか?