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死との対面

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令和3年8月4日

 

今日はめずらしくお葬式が入り、午前中から出仕してそのお導師を勤めました。故人は享年100歳の女性で、まさに日本の高齢者を代表するような方でした。

私は生年月日さえ聞けば、その方のだいたいの人生がわかります。本命七赤ほんめいしちせき月命六白げつめいろっぱくで、健康で体力に恵まれ、社交性があり、飲食や歌舞音曲が好きな方でした。つまり、人生を楽しむ才能に恵まれていました。ただ、ご主人との相性が悪く、何かとご苦労されたことと思います。そのことを葬主にお話しましたら、「会ってもいないのに、どうしてそんなことまでわかるのですか?」と問われました。実は〝そんなことしか〟わからないのですが(笑)。

終了後、私はいつも戒名の説明をしますが、さらにお葬式の大切さもお話しています。つまり、人生の節目にはそれぞれに必要な儀式があり、その儀式によって自分の立場をわきまえることを力説しています。学校や大学に入学するには入学式があり、それによってその生徒や学生であることを自覚するはずです。就職をするには入社式があります。そして、何よりも結婚をするには結婚式があります。

今時はウエディングドレスを着て、お父さんと腕を組んで入場したいという女性が多いことでしょう。そして、神父さんが二人の手を取って片手を挙げ、「お二人が夫婦であることを宣言します」と奏上するから互いに夫婦となり、社会的な責任を自覚するのです。ただ、二人で一緒に住めばいいというものではありません。。

では、お葬式にはどのような意味があるのでしょうか。たとえば、皆様が何十年も勤めた会社を退職する時、ねぎらいの挨拶もなく、お別れの言葉もなく、見送りもなく、一人さびしく裏口から去って行くとしたなら、どんな思いをするでしょうか。お葬式をしてももらえず、だた火葬だけであの世にくとは、そういうことなのです。子供さんから最後の挨拶を受け、お孫さんから最後の手紙を受取れば、いなくあの世に旅立てることは容易にご理解いただけましょう。

そして、私がもう一つ強調をしていることは、特にお孫さんに人が死ぬことの姿を見せることの大切さです。つまり、どんな人もやがては死を迎えることの事実を教えることなのです。その「死との対面」なくして、人生を考えることはできません。その対面によってこそ、生きている時間を大切にできるからです。

もちろん、小さなお孫さんにそんな自覚が生まれるはずはありません。しかし、死との対面なくして、やがて大人になって、人生の限られた時間を考えることはできません。そのためにも、お葬式は大切だということです。

会葬の方々に、私の気持ちが伝わったことを念じて、私は式場を後にしました。いいお葬式だったと思います。

オリンピック選手の真価

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令和3年7月30日

 

私はほとんどテレビを見ない生活をしています。しかし、今回のオリンピックはやはり気になり、興味のある競技やハイライト番組などは視聴しています。新型コロナの感染者がますます増大し、オリンピックの開催そのものへの批判もありますが、賛否両論のどちらが正しいと断言することはできません。事情が許される方は外出をひかえ、この後の対策に望みを託しましょう。テレビで応援するのも、よいものです。

参加選手はこの日のために過酷な練習に耐え、それこそ血の出るような努力をして来たはずです。実力の差が明らかな場合もありましょうが、わずかな〈運〉の差が死闘の勝敗を決することもあります。オリンピックは夢であり、感動であり、英知でありますが、きわめて残酷ざんこくなものでもあります。歓喜もあれば、号泣ごうきゅうもあり、人はどうしてこうも闘うのかという哲学的な懐疑かいぎすら禁じ得ません。世界ランク一位とされ、金メダル候補とされる選手が、初戦で「まさかの敗退」をすることもよくあります。人生そのものの象徴です。

だからこそ、勝者が号泣する敗者の前で歓喜をあらわにするのもいかがなものでしょうか。特に柔道のような二人競技はそこにオリンピック選手の、また武道家の真価が問われるように思います。競技が終った後、コーチとどのような涙を見せようが、それはよいのです。せめて敗者をいたわる姿を見せてほしいと私は思いました。勝者と敗者が互いにたたえ合う姿は美しく、視聴者に感動を与えます。

体操で選手一人の競技が終るたびに、自国の選手はもちろん、他国の選手たちとタッチをしたり抱き合う姿も初めて見ました。ソフトボールの優勝決定戦でも、試合が終わって、日米の互いの監督が泣きながら抱き合った姿も、美しく放映されました。世界中の人々が見ていたはずです。これにこそ、オリンピックの開催を喝采かっさいすべきすべてがあるのです。コロナ禍のリスクを背負ってでも開催した意義がほかにあるでしょうか。

オリンピックは戦争ではありません。しかし、闘う以上は、勝たなければなりません。そして、美しく闘い、美しく勝たねばなりません。メダルはそこから輝くのです。美しいオリンピックであってほしいと思います。

続・運命のルール

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令和3年5月30日

 

さらに続けますが、運命のル-ルは誰にでも平等です。もちろん、私だって同じです。自分だけは違うなどということは、絶対にあり得ません。次のお話を読んでいただければ、わかっていただけるはずです。

この世の中は自分が与えた分を、自分が得るのです。自分を考えてください。与えた分の姿が、今の自分です。自分の収入も財産も、配偶者も友人も、それが自分の真実です。世の中は幻のようなもの、夢のようなものかも知れませんが、同時にそれが真実なのです。実体がないといいながら、それが真実だと『般若心経』は教えています。

たとえば、スーパースターと呼ばれる人たちがいます。俳優(女優)・歌手・スポーツ選手、彼らや彼女らは世界中から愛されています。血の出るような努力に努力を重ね、世界中の人たちを楽しませる何かを、世界中に与えています。だから、私たちには想像もできないよいうな名声と富を得ています。人は与えた分を、得ることができるからです。

私たちは何を与えているでしょうか。労働力であれ商品であれ、情報であれアイデアであれ、与えた分を自分が得ているはずです。それが自分の能力であり、自分の徳なのです。それが運命のルール、運命の真実なのです。このルールからはずれることはありません。わかりますよね。

では、与えずして何かを得た場合はどうなるでしょうか。人をだましたり、不正をはたらいてうばったものは、必ず奪われることになります。あるいはその分の〝つぐない〟をすることになります。なぜなら、騙したり不正をはたらけば、人のうらみを買うからです。その恨みによって奪ったものが奪われるからです。もちろん、スグにそうなるとは限りません。しかし、いずれは必ずそうなります。また、そのような恨みに囲まれれば、痛い目にあうことも必定です。減給されたり、失業したり、刑務所に入ることになるのです。これも運命のルールです。

私たちは時として失物うせものをしたり、盗難とうなんにあったり、詐欺さぎにあったりします。これも〝つぐない〟の姿です。悪口を言ったり、うそをついたり、腹を立てたりすると、このようなことが起こりやすいのです。私は失物をした場合、「おしかりを受けたな」と思うようにしています。あやまちの〝修正〟をしているからです。痛い目にあった時は、このように思うことです。痛い目にあわねばわからないから痛い目にあうのです。さらに悪徳を積まぬよう、運命はこのようにはたらくのです。人が望もうが望むまいが、信仰があろうがなかろうが、人は何かによって支えられ、救われていることを知らねばなりません。実は、これも運命のルールです。「運命はならされる」からです。もう、このへんにしましょうか。

運命のルール

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令和3年5月29日

 

「すべては預かりもの」だとお話をしました。そして、あらゆる所有は永遠のものではなく、所有するにふさわしい人の預かりものとなって、また次の人の所有になるとお話をしました。極論を申し上げれば、人はこの世で所有するものなど、何一つないのです。人は自分にふさわしいものを、ふさわしい時に、ふさわしい所で、一時預かりをしながら生きているのです。すべてがそうなのです。お金も物も、結婚した相手も友人も、自分にもっともふさわしい縁で、今ここで預かっているのです。この事実を何と思うでしょうか。

ただ、ちょっとだけ例外があります。運命は時として〝ふさわしくない〟人物に預かりものをさせるからです。つまり、運命の悪戯いたずらです。その一つがギャンブルです。ギャンブルには能力も必要でしょうが、そのほとんどは偶然の産物です。宝くじもまた同じで、これは百パーセント偶然に過ぎません。

断言しますが、ギャンブルや宝くじでざいをなすことは絶対にありません。ギャンブルで一時的に大金持になっても、そんな生活が長く続くでしょうか。お金がなくなると、味をしめたギャンブルにまた手を出すのです。そして、最後には一文なしとなって、人生そのものすら失うのです。

宝くじで一億円を当てた人が幸せになるでしょうか。ふさわしくない人がそれを所有すれば、運命のルールが狂うのです。運命のルールが狂えば、人生も狂い、必ず不幸になるのです。食べてはいけないものを食べれば胃が痛み、下痢げりき気をおこすでしょう。それと同じです。一億円に群がる人の憎愛ぞうあい怨恨えんこんを生み、トラブルを生み、殺人事件にまで発展するのです。

あり得ないこととは思いますが、もしも、もしも皆様が宝くじを買って一億円を手に入れたなら、スグにでも社会に還元することです。ユニセフにでも赤十字にでも寄付をすることです。そうすれば、運命のルールは狂いません。もっとも、あさか大師に寄付をしてくださるなら、私がさらにいい方法をソッと教えましょう(笑)。こんなことを言う人はいませんが、私にはその自信があります。なぜなら、この世のものをあの世にも持ち越せる唯一の方法を、私が知っているからです。これはお大師さまにお使えしなければ、言えないことです。

いつもお話をしますが、自分とは〝みずからの分〟なのです。自分にふさわしいものが、ふさわしい出来ごとが、ふさわしい人物が、目の前に現れるているのです。そんな自分を好きになってください。それを忘れて、おかしなことを考えてはなりません。困った人になってはいけません。そうでしょう、皆様。

青年の意気、熟年の智恵

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令和2年12月15日

 

.私は今では、まったくと言っていいほど外食をせず、毎日の自炊が常となりました。いわば悠々自適ゆうゆうじてき、気ままな暮らしをしているということです。もちろん、以前は友人や知人とのつき合いも多く、なじみの店もいくつかありました。今でも、出入りしていたなつかしい店名や店内を思い出します。

私はカウンターに座るのが好きで、よく板前さんの調理を〝のぞき見〟していたものでした。特に寿司と天ぷらばかりは、その手さばきを観察し、揚げたてやにぎりたてを阿吽あうんの呼吸で口にしたものです。せっかくカウンターに座りながら、仕事の問題に熱中していては、もったいないことです。

その天ぷらのことですが、何人かの分を揚げ終わると、油を足します。特に質問をしたわけではありませんが、その新古の比率にコツがあるように思いました。つまり、使い古した油にまったく新しい油を混ぜることにより、絶妙のバランスがあるらしいのです。これは、人生そのものを考えるヒントだと思いました。

まっさらで、世間をまったく知らないような青二才あおにさいばかりでは困ります。しかし、世間の諸悪に汚れ切っていても使えません。いわば、青年だけでは経験に乏しく、熟年だけでは新鮮さに欠けるといった道理にも通じるということです。何ごとにも、このバランスが大切です。いかがでしょうか、私はこのことをとても印象的に覚えています。

新しいものに挑戦する青年の意気はすばらしい、だからといって、熟年の智恵をおろそかにしてはなりません。このバランスを上手に使えれば、それこそ人生の達人です。それぞれに代わりはきません。それぞれに貴重な存在です。青年と熟年と、その融合をはかることが大切です。

年寄りの智恵を青年が学び、青年の意気を年寄りが学べば、それこそ理想のバランスでしょう。会社も家庭も、営業も人事も、このバランスなのです。かつて、私は天ぷらの技を見ながら、そんなことを思ったものでした。しばらく行っていませんが、またあの技を見たいものです。汚れた油に新しい油を足す、人生はこの加減に極意があるのです。久しぶりに、あの店に行ってみたくなりました。

別れても好きな人

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令和2年12月3日

 

12月に入って、お歳暮がたくさん届くようになりました。多くの方にお気遣いをいただき、とても感謝しています。中には、ご信徒としてすでに縁の切れた方、お名前すら忘れていた方からも届きます。「あれ?」とい思いつつも、私はこうした方を、「別れても好きな人」と呼んで笑っています。

祈願寺は一般の菩提寺(檀家だんかさんの寺)と違って、ご信徒の離脱はけられません。つまり、願いごとが叶ってしまえば、それでサヨナラという方もいるということです。祈願寺ではこれを「食いげ」などと言って、しみます。しかし、こうした方からお歳暮が届くことは、決して悪い気はしません。

人生に出会いがあれば、別れがあるのは当然です。しかし、別れた方がどのような気持ちでいるかは、きわめて重要ではないでしょうか。つまり、別れても好意を持っていてくれる方がいるということは、それだけ〝プラスの思い〟が集まるということなのです。プラスの気、プラスの波動が集まり、人生がより良いものになるからです。皆さんも幸運を望むなら、「別れても好きな人」をたくさん持つことです。私はそのように考え、皆さんの前でもお話をしています。

私たちは想念の中で生きています。つまり、眼には見えずとも、多くの人々の思いが電波のように飛び交う中で暮らしているということです。だから、プラスの思いが多い人ほど幸運を得るのは当然のことです。毎日のように出会う人には、気配りが効きましょう。しかし、別れてしまった人とは、どのように分かれたかの結果だけが残るのです。

だからこそ、「別れても好きな人」をたくさん持ちましょう。もちろん、あの世の人も含めてです。これぞ、人生の智恵、人生の秘訣です。伝授しておきますよ。

二・六・二の法則

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令和2年10月9日

 

一昨日、私は「投資もギャンブルも知りません」とお話をしました。まことにもってそのとおりなのですが、後になって「ちょっと、違うかな」とも考えました。

たしかに、私はギャンブルは一度もやったことがありません。若い頃、悪友に誘われて競馬場へ行ったことはありますが、レースに熱狂する人の数に圧倒されるばかりで、自分では何の興味もかなかったことを覚えています。もちろん、カジノのことなど、何もわかりません。株式も信託も知りません。ある先輩から、「株で儲けるためには、赤いおしっこが出るほど苦しまねばならないぞ」と聞かされ、最初からお手上げでした。

しかし、私は自分への〝投資〟をして来ました。自分への投資とは、つまり何かを学ぶためにお金をつかうということです。眠る時間もないほど苦学して大学へも行きましたが、授業として決められた課目を学ぶことに興味を失い、中退しました。その代わり、いろいろな学校に通い、いろいろな師を求めて学びました。各種のセミナーや個人レッスンも受けました。高いなと思っても、それを後悔したことはありません。

そして、何よりもお金を費やしたのは本の購入でした。私はスーツの一着すら所持していませんが、財産といえばこれまでに学んだ知識や技術と本ぐらいのものです。しかし、それが人生の智恵となり、宝となりました。よく「こんなに本を買わなくても、図書館を利用すればいいでしょう」と言われますが、この意見は間違っていると断言します。

なぜなら、本の中身は身銭みぜにを切らなければ、痛手を覚えなければ絶対に身につかないからです。食費をけずってでも購入するから、元手もとでをとろうと真剣になれるのです。もちろん調べものをする時に、私も図書館を利用することはありますが、資料としてコピーをとったり、メモをとるに過ぎません。それに図書館の本は赤線を引いたり、ページを折ったりすることもできません。図書館は便利でありがたいものですが、あくまでも公共財産であって、自分の血肉にはなりません。

私は一流大学を出ていながら、本をほとんど買わない人を知っています。そういう人はもちろん、住宅や愛車、旅行やファッションにお金を遣います。豊かな暮らしはけっこうなのですが、それ以上に何かを学ぼうという意欲がありません。そして、豊かな境遇から一挙に転落した人も知っています。人は向上しないかぎりちるのです。これは長い間この仕事をして来て、人の有為転変ういてんぺんを見て来て、つくづく思うことなのです。

「二・六・二の法則」をご存知でしょうか。この世の中は二・六・二の割合で人が生きているという意味です。最初の二割は人生をなかば断念し、自分への投資などまったく考えない人です。次の六割は自分に投資をして何かを学ぼうと思ってはいても、その行動を起こさない人です。皆様はいかがでしょう。残りの二割に入りますか、それとも〇〇〇〇ですか?

何を捨てて何を拾うか

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令和2年10月7日

 

私はゴルフもマージャンもできません。カラオケもダンスも上手じょうずとはいえません。投資もギャンブルも知りません。

こういうことが得意なら楽しいだろうと思いますが、私の価値観の中ではあまり大きなものではありません。つまり、人生における優先順位が高くはないという意味です。私にとって僧侶の仕事は最優先であり、また生きがいを感じるものでもあります。もちろん仕事に疑問を持ったり、苦しいこともありますが、概してこの仕事を選んでよかったと思っています。たくさんの法友やご信徒に囲まれ、幸せな人生であるとも思っています。

人生は限られた時間と、限られた能力と、限られたうんの中でしか希望を叶えることができません。何もかも叶えることはできないということです。仕事をバリバリにこなし、家族の世話も充分に尽くし、社会にも貢献し、友人とのつき合いもマメで、学歴も教養も申し分がなく、趣味やグルメも楽しみ、世界中を旅行できればけっこうなことですが、そのすべてを叶えることはできません。少なくとも、同時に叶えることはできません。

すべてが叶わないのであれば、何を捨てて何を拾うかを考えねばなりません。人生は常に、何を捨てて何を拾うかの二者択一にしゃたくいつを迫られるからです。〝あれかこれか〟のどちらかを選ばねばならないということです。一日の仕事が始まれば、最初に何から片づけるかを考えねばなりません。そして、選ばねばなりません。一つの仕事を選ぶということは、もう一つを捨てるということです。人事でも結婚でも一人を選ぶということは、もう一人を捨てるということです。私たちは、こういう二者択一をくり返しながら、毎日を生きているのです。

捨てるという選択は、あきらめることでもあります。よく知られるようになりましたが、あきらめるとは〝明らかにみる〟ことです。明らかにみることが、すなわちあきらめることです。明らかにみれば、ものごとの良否がみえ、善悪がみえるからです。あきらめるは漢字で〈あきらめる〉と書きます。諦めるの〈たい〉とは仏教では悟りを意味します。煩悩ぼんのうとしての余分なもの、不要なものを捨てることが諦めること、つまり悟りであるということです。

だから、人生は多くのことを諦め、多くのことを捨てねばなりません。私も多くのことを捨てて諦めました。今の生活がその結果です。毎日、あさか大師にいますので、休むこともできません。行ってみたいところがあっても、それも叶いません。しかし、これによって多くを得て来たことも事実です。体も心も解放され、祈ることの喜びを知りました。これは捨てて諦めなければ、得ることはできません。そして、ついにすべてを捨てたものが、すべてを得るのです。お釈迦さまやお大師さまのようになるのです。いや、そうではないかと、ひそかに思うのです。

腹七分目の幸せ

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令和2年10月1日

 

「腹八分目」といいますが、なかな出来ることではありません。ご馳走を前にすれば、腹いっぱい食べたくなるのは人の常です。だから、満腹になるまで食べ尽くしてしまうはずです。そして、そのことは物ごとに対しても同じです。

人は望んだことを百パーセント満足させようとします。その傾向は、マジメな人ほど強く出ます。何でも完璧でないと満足せず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込み、その思いが極端に進むとうつ病におちいります。

いったい、この世の中はうまくいくことといかないことと、どちらが多いでしょうか。それはもちろん、うまくいかないことが多いと知らねばなりません。「三度目の正直」といいますが、三度ことをなして、三度目にうまくいけばかなりの成功率です。それは野球で三割バッターともなれば、一流選手であることを見てもわかるはずです。イチロー選手だって四割は打てません。つまり、十回挑戦して、三回成功すれば一流選手だという意味です。

私は若い頃に自己啓発や成功法則の勉強をしましたし、いろいろなセミナーにも参加しました。自律訓練法、プラス思考、マインドコントロールも学びました。それでも百パーセント成功することはありませんでした。今では成功への最善を尽しても、失敗したり最悪の状況に備えておいた方が、うまくいくということを確信しています。

成功をイメージすることは大切です。同時に、失敗を想定することはさらに大切なのです。そうでないと、いざ失敗した時に何の対応も出来ません。そして失敗とは、まさに成功しない方法を学ぶことであると知るべきです。失敗から何も学べないとしたならば、それこそ本当の失敗だと知るべきです。

私もかつては一種の完全主義者でした。望んだことを百パーセント叶えないと満足しませんでした。それによって神経をすり減らし、自分の無力を恥じたものでした。周囲の人に迷惑もかけました。しかし、ある時期から望んだことの七十パーセントが成功すれば上出来じょうできだと考えるようになり、とても楽になりました。これは始めから妥協するという意味ではありません。最善を尽して、その結果が七十パーセントなら、それで充分ということです。三割バッターどころか、七割バッターです。上出来ではありませんか。私はこれを「腹七分目の幸せ」と呼んで、自分への戒めにしています。

成功が続くようなことがあったら、あぶないと思うべきです。必ず慢心まんしんが生じます。慢心こそは自らを滅ぼすやいばなのです。そして「腹七分目の幸せ」を忘れぬことです。ちょうどいい腹かげんです。「満八分目」でもゼイタクですよ。

七転び八起き

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令和2年9月29日

 

中学生の時、柔道の稽古中に「七転ななころ八起やおきき」とはおかしいじゃないかと演説をしたことがありました。理屈の多い子供であった私は、受け身(投げられ方)をやって説明しながら得意になっていたものでした。今となっては冷や汗ものですが、聞いていた仲間たちも「なるほど」と思ったようです。田舎者がのん気なことをして遊んでいたということです。

皆様もお気づきと思いますが、七回転んだら、七回しか起き上がれません。どうしてこれを「八起き」と言うのでしょうか。これについては、また妙な理屈を言う人がいるのです。たとえば最初に起きている状態から数えて「八起き」とする説。あるいは朝に起床した時を加えるとするとの説があります。では、前の晩に就寝した時をどうするのかとなりますが、これはもうやめておきましょう(笑)。

また、七回転んで七回起きて、次の八回目に転んでもまた起き上がる勇気を強調して「八起き」とする説があり、いくらか説得力があります。さらに「七転八しちてんばっとう」が変化して「八起き」になったという説もあります。正しいような気もします。

思うに、これは言葉の勢いと調子ではないかと私は考えています。「七転び七起き」では当りまえ過ぎます。また、これでは意味をなしません。前向きな生き方を言葉にするなら、やはり「七転び八起き」となり、語呂もいいからです。つまり、わざわざ理屈を重ねるほどのことではないということです。

「七転び八起き」はよく色紙やダルマに書かれて来ました。寿司屋さんの茶碗でも見かけましたが、今では何とも陳腐ちんぷさをぬぐえません。特に現代の若者たちが好む名言とは思えません。しかし、何度転んでも立ち上がる気骨は、いつの時代にも讃えられるべきもので、特に歴史上の偉人がそれを示しています。

偉人とは単に、生まれながらの才能や努力が花開いた結果ではないからです。偉人はみな患難辛苦かんなんしんくを何度も味わい、そしてそれを乗り越えたがゆえの結果であるからです。偉人は生死をさまようほどの大病たいびょうを経験します。二度と立ち上がれぬほどの貧困を経験します。あるいは大事故、戦争、投獄など、およそ人間としての〝どん底〟を経験して、そこからはい上がって行ったのです。だから偉人なのであって、これをなめ尽くさぬかぎり、偉人にはなれません。偉人ではない私たちは、せいぜいその伝記を読んで何かを汲み取れればよいのです。

偉人には患難辛苦を、あえてけぬところがあります。患難を背負い、辛苦に倒れ、何度でも立ち上がって行くからです。これを避ければ楽な人生であったかも知れません。しかし、それが許されぬところに偉人の運命があるのです。人生の栄冠は患難に耐え、辛苦を乗り越えねば手にすることは出来ません。私たちでさえ、それは同じです。ただ、その度量が違うということなのです。

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