私の本棚

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人生

令和3年11月12日

 

あさか大師は四十五坪ほどの平屋ひらや建てですが、その内の四分の三が寺の施設、残りが庫裡くりというか、つまり住職である私の居住スペースです。とはいっても、八畳ほどの寝室を除けば、ほかは壁一面の本棚で埋め尽くされ、そこがお弟子さん方の更衣室を兼ねた食堂となります(もちろん、キッチンや浴室もありますが)。

そうなると、並べられた(あるいは積み上げられた)本がどうしても目に尽きます。そして、小さな図書館ほどもある蔵書に、たいていは驚きます。入って来たお弟子さん方は、ジロジロと本のタイトルを見つめ、遠慮する気配すらありません。中には、勝手に何冊かを取り出してメモを取る方まで現われました。

ここで、このブログを読んでくださる皆様に申し上げますが、私にとって本は自分自身にも等しく、これらの中には所持品を売ったり、借金を重ねてでも購入したものすらあるのです。私はスーツの一着すら所有せず、高級車に乗るでもなく、海外旅行に行くでもなく、収入のほとんどを本のために費やして来ました。もうお分かりと思いますが、断りもなくのぞき見されたり、勝手に触れられることは、いくらお人好しの私でも決していい気持ちにはなれません。

そこで、奉書用紙に達筆な(!)字で、「本に手を触れてはなりません」と書いておきました。しかし、それでも目にすることは勝手ですので、相変わらずのぞき見ばかりは止まりません。やむを得ず、薄手のカーテンを設置してシャットアウトに転じました。私は本に囲まれて食事をするのが好きなので、とても残念です。

かつて、寺山修司は「僕はその人よりも、その人が読んでいる本に興味があるんです」と語りました。まったくの同感で、私もお弟子さん方と逆の立場なら、案外同じことをしたかも知れません(笑)。その人がどんな本を読んでいるかは、その人に対する大きな目安になることは確かだと思います。この頃は大学や大学院を出ていても、ほとんど本をもたない方が多いのには驚きます。必要な情報をネットや電子書籍で済ませるにしても、また生活空間が狭いにしても、紙のページをめくる醍醐味だいごみを知らない人は、私とは価値観が違うのだと考えるほかはないのでしょうか。

どんな食生活をして来たかで、その人の健康が決まりますが、どんな本を読んで来たかで、その人のしつが決まるのです。質とは教養であり、考え方であり、生き方そのものでもあります。もちろん、本を読んだらといって、人生がわかるとは思いません。しかし、本を読まなれば、なおさらわからないと私は思っています。

山路天酬密教私塾

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