安心という御守

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人生

令和3年8月31日

 

私もほどほどの生命保険(医療保険)には加入しています。本日は担当の方が見えましたので、いささか意地悪な質問をしてみました。私が以前から興味と疑問をいだいていたことです。

それは、「健康に自信があるからといって保険を解約した場合、病気になる確率が高くなるのではありませんか」という質問です。担当の方は、「そのとおりです。自分が知っている範囲では、集団で加入した自衛隊員で解約をした方は、その確率は間違いなく高いと思います。保険は〝御守おまもり〟と同じで、その安心がさらに安心を呼ぶのではないでしょうか」との答えでした。いささかセールス気味な意見でしたが、私はなるほどと思いました。論理的にはあり得ないことですが、人生にはこうした理不尽さがあることは否めません。

似たような例として、不要と思って処分した物が、急に必要となる確率は高いのではないでしょうか。私の場合は処分した書籍や雑誌、スクラップや切り抜きなどに、よくその経験があります。著作をしていると、なかなか〈断捨離だんしゃり〉のルールどおりにはいきません。だから、一つの著作をする場合、私は必要な資料を宅急便の丈夫な紙袋に、まとめて入れ込むことにしています。そうすることで紛失の不安が消え、安心の御守となるからです。

これは余談ですが、車を運転しながらガソリンスタンドやコンビニを探しても、なかなか見つからないという経験があります。見つかっても、道路の反対側だったという経験も多いはずです。ところが、必要もない時には、いくらでも目につきます。つまり、必要な時は見当たらず、不要な時ほど目につくというおかしな現象はどうしたことなのでしょうか。

こうした現象は、あるいは私たちの認識上の錯覚であるかも知れません。世の中は正確な確率で動いているはずです。しかし、それでも私は安心という御守は大切だと思っています。まさに「そなえあればうれいなし」なのです。厄よけのご祈願をしたからといって、何の災いもないわけではありません。しかし、ご祈願をした安心がさらに安心を呼ぶのです。その安心という御守が、どこかで災いを除く働きをするからです。心の持ち方で人生は変わるという真理が見えてきます。

何ごとにも用心という心がけが安心を呼ぶのです。自信もけっこうなのですが、過信すると新型コロナにも感染します。私は小心で臆病者であることに、むしろ誇りさえ感じています。

山路天酬密教私塾

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