一勝二敗を続けましょう
令和5年4月26日
斎藤茂太さんの『人生80パーセント主義』と共に、私の大きな支えとなった本に、関根潤三さんの『一勝二敗の勝者論』がありました。関根さんもすでに故人となりましたが、かつてはプロ野球選手としても、また野球解説者としても一流の方でした。私は古典も読みますが、若い頃に出会った現代の書籍では、この二冊が忘れられません(写真)。
その『一勝二敗の勝者論』ですが、一勝二敗でどうして勝者になれるのか、皆様はわかりますか?
当然のことですが、一勝二敗では負け越しです。それを続けても、勝者にはなれません。しかし、関根さんがいうのは、その先の〝ねばり〟なのです。つまり、一勝二敗にくじけず、とにかく一勝する努力を続ければ、いつかは二勝一敗に勝ち越すことができる、時には三勝することだってできるかも知れないということなのです。勝率も六割六分七里です。そうなれば、態勢が変わります。そして、ついには勝者の道に到るということなのです。肝心なのは、くじけずに一勝すること、一勝二敗の逆転勝利を目ざすということなのです。
プロ野球は三連戦で組まれています。監督も選手も、たいていは全勝か二勝一敗を目ざします。しかし、勝負は相手があってのことですし、運もつきものです。相手だって同じことを考え、必死で立ち向かって来ます。それをすべて勝ち越そうとしても、無理なお話です。勝ちたい気持ちばかりが先行して一敗でもすれば、もういけません。気持ちが落ち込み、自暴自棄に落ち入るばかりです。こういう戦い方では、長いペナントレースに勝てるわけがありません。勝負というものは結局、最後に勝たねば意味がないのです。
それに、一勝二敗なら気を楽にして、のびのびと平常心でプレーすることができましょう。これも大事です。さすがに野球界で苦労を重ねた関根さんならではの勝者論だと、私は今でもこの本を大切に保管しています。皆様もどうか、一勝二敗の逆転勝利を目ざしてください。プラス思考は大切ですが、マイナス思考もまんざらではありません。私はこれを仏教的な空理をふまえて、「マイナス型プラス思考」と呼んでいます。一勝二敗、ですよ。
人生は70%ほどで
令和5年4月24日
齋藤茂太さんは精神科医として斎藤病院院長を勤めたほか、ユーモアあふれるエッセイストとしても、たくさんの業績を残しました。その中で、特に私の印象に残ったのは『人生80%主義』(経済界刊)という著書で、今でも時おり取り出しては読み続けています(写真)
齋藤さんがこの本で強調していることは、精神的なトラブルのほとんどは100%を望む完全主義から来ているから、これを80%ほどの水準に下げるべきだということです。いかにも斎藤さんらしい、余裕の人生論ですね。
この世の中で、100%完璧な生き方など、出来るはずがないのです。ところが、うつ病などの症状を抱える人はみな、まじめで責任感が強く、何ごとも完璧にやろうとする傾向があることは間違いありません。几帳面でだらしのないことを嫌う点でも共通しています。ややもすると、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思ってしまう人もいます。それだけに、その性格が潔癖なのでしょう。
だから、自分が望むことの80%ほどでよしとするなら、心理的なストレスはかなり緩和するはずです。完璧を目ざす努力は大切であるけれども、ハンドルのように少し〝遊び〟がなければ、心の舵取りはできません。これはもちろん、最初から妥協するということではありません。目標に向かっては全力で当たりましょう。持てる力は出し切りましょう。ただ、失敗をしても、悔いが残っても、引きずってはなりません。いつまでも悩まずに、次のチャンスを待ちましょう。きっぱりと発想を変える、ここが大切です。
実は、私もかつては完全主義の傾向がありました。何をするにも思うようにいかないと悩み苦しみ、大きなストレスを抱えていたものでした。そんな中でこの本に出会い、まさに目からウロコでした。そして、私はさらに80%ならぬ、70%ほどが自分にはちょうどよいと思うようになりました。70%もうまくいったなら、上出来です。いや、むしろそのくらい気を楽にして臨んだほうが、かえってうまくいくのではないでしょうか。私の〈人生70%主義〉はこうして生まれたのです。
皆様の中にも完全主義の方がいらっしゃるはずです。車のハンドルのように、どうか余裕の遊びを持ってください。肩の力もぬきましょう。今まで以上にうまくいくはずです。そして斎藤さんの80%がいいか、私の70%がいいか、それは楽しみながら決めてください。人生に闘いはつきものですが、闘ってばかりもいられません。そうでしょう。
お葬式はなぜ大切なのか
令和5年4月23日
私は20代で僧侶となりましたが、親ほども年上の方々の前で、偉そうに法話をしたものでした。もちろん、いい法話もあったかも知れませんが、中にはとんでもない過ちも犯しました。その一つが、「葬式坊主にはなりませんよ」という放言でした。つまり、自分は生きている方々のために真言密教を学ぶけれども、亡くなった人のお葬式はゴメンだといいたかったのでしょう。
しかし、やがてこれが大変な間違いだったと気づきました。僧侶はこの世にもあの世にも関わらねばなりません。いや、この世とあの世は一つだという観念で勤めねばなりません。そこで私はお葬式について研究し、特に現代におけるお葬式の問題をふまえて『真言宗・独行葬儀次第』を、またそれに伴う『真言宗・回忌法要次第』を刊行しました(写真)。ありがたいことに、いずれも宗内ではよく普及しているようです。
兼好法師は『徒然草』の中で、「若きにもよらず、強きにもよらず、思いがけぬは死期なり」と書いています。どんなに若かろうが、どんなに丈夫であろうが、死は突然にやって来るものだといっています。どんな人でも、いずれは必ず死を迎えます。その確率は100パーセントです。にもかかわらず、人は死についてどれだけの自覚をもっているでしょうか。どれだけの自覚をもって人生を考えているでしょうか。残念ながら若い人ほど、また壮健な人ほど、この自覚がありません。
あの若さで、と思う人が突然の死を迎えます。仕事の鬼のように働いていた人が、突然の死を迎えます。病気の場合もあれば、事故による場合もあります。自殺も他殺もあります。つまり、この世は無常なのです。何がおきても不思議ではありません。その無常という土台の上で、人は生きているのです。これが仏教の、もっとも基本的な原点です。
だから、死につい考えなければ、自分らしく生きることも、豊かになることも、幸せになることもできません。そのためにも、肉親の死に接してこれを見送り、自分の人生について考えることです。そして、何が価値ある生き方なのか、何が最後に後悔をしない生き方なのかを考えることです。
さらに、人はこのようにして死を迎えるのだという事実を、子供さんやお孫さんに見せることも大切です。たとえ考える力はなくても、肉親の死を目で見て、悲しみの声を耳で聞いて、死について学ぶことはできるのです。ついでながら、財産も名誉も一手にした人ほど、死に対する自分の無力を感じると聞きました。自分が望んだものをすべて手に入れながら、死を前にしてのショックははかり知れないのでしょう。人生とは何かを考えるヒントになるお話です。
皆様、お葬式ほど死について考えるチャンスはありません。どんなに簡素でも、肉親のお葬式だけはなさってください。たとえ望んだ人生ではなかったとしても、最後に「ありがとう」と言えるよう、お葬式を大切にしてください。
偶然なのか、必然なのか
令和5年4月21日
昨年の8月、京セラや第二電電の創業者であった稲盛和夫さんが亡くなりました。現代における最もすぐれた経営者として、私はその著書もかなり愛読して来ました。特に「社員が幸せでなければ、お客様を幸せにはできない」という経営理念は日本航空再建にも反映され、大きな業績を残し得たと思っています。
私は昨年11月に『九星気学立命法』を刊行し、占いの本でありながら積徳による運命改善法、すなわち〈立命〉の大切さを力説しました。運命が何によって決定していくかを仏教の宿業論(生き方が運命そのものになるという教え)に基づき、日常生活の中で徳が積めるよう提唱したつもりです。また、その代表的な実例として、袁了凡(中国明代の人)の『陰隲録』という古典も紹介しました。
ところが、まったく同じ昨年11月、月間『致知』が「追悼特集・稲盛和夫」を刊行し、稲盛さんがこの『陰隲録』を人生の指針にしていた事実を知りました(写真)。偶然なのか必然なのか、私はこの奇妙な一致に、自らの運命さえも実感したものです。人生にはこんなこともあるという驚きは、今でも鮮明に残っています。
稲盛さんは講演の中で、次のように語っています。
「私自身が仕事を通じて、この『陰隲録』に出会い、自分の心の在り方によって、人生は地獄にも極楽にも変わっていくことに気がつき、そして自分の心にできるだけ善き思いを描き、善き思いを実行していくことに努めてきた結果、すばらしい事業の展開をできましたし、私も本当に幸せな人生を送っています。苦労もしました。たいへん厳しい人生を必死で生きてきましたが、しかしそれにしても、何と素晴らしい人生であったことかと。こんな幸福な人生はなかったと、心から思っておりまして・・・」
机上の空論とは違って、現実味があります。人生は心がけです。その心がけが徳となり、運命となるのです。さすがだと思いました。稲盛さんの経営手腕は、こうした心がけから生れ出たものであることを、改めて得心させられます。
私はこの記事を読んで、〈立命〉に対する自分の責務を痛感し、いっそうの励みとしました。人生は出会いだといいますが、出会いはまた別れでもあります。お別れした稲盛さんに、慎んで哀悼の意を表したいと思います。合掌
第一等の人物とは
令和5年4月19日
中国の明代末に呂新吾という人がいて、『呻吟語』なる名著を残しています。もっとも私は、安岡正篤先生の『呻吟語を読む』(致知出版社・写真)によって、その一端に触れたのみで、原書の1840章に接したわけではありません。しかし、人間に対するその深い洞察には、恐るべきべき名言が散りばめられ、私は深い感動に誘われました。
たとえば人間の資質について、私たちは聡明で弁が立ち、勇気ある人なら誰もが尊敬するはずです。ところが同書では、「深沈重厚なるは第一等の資質、磊落豪勇なるは第二等の資質、聡明弁才なるは第三等の資質」と力説しています。私はこの主張に、とても驚きました。
落ち着きがあって厚みと重みのある人物が第一等だといっているのです。次いで豪胆で器の大きい人物が第二等、頭がよくて雄弁な人物は第三等だといっています。私たちの一般のみかたと、まるで逆です。これはどういうことなのかを考えてみますと、聡明で弁が立つ人物というのは、あまりに鋭く、とかく自分の才能に溺れてしまうということなのでしょう。才能は才能のゆえに失敗をするものです。そのような例を、私も目の当たりにした経験があります。
また磊落豪勇な人物は、とかくその勢いに暴走するものです。自分の大胆さを誇示したがるからなのでしょう。リスクを背負ったあぶない冒険が、そう何度もうまくいくはずがないのです。暴走を続ければ、二度と立ち上がれぬ深みにはまってしまうかも知れません。
こうして考えると、深沈厚重の人物を第一等とする意味がわかってきます。慎重にして思慮に富み、情けにもあつく、それでいて鉄のような意志を秘めている人物ならば、誰もがリーダーとしてこれを仰ぐに違いありません。これは確かなことです。また、現代ほど深沈厚重の徳が求められる時代もないはずです。
よい本に出会えました。山奥でスミレを見ながらにぎり飯を口にしたようで、いずれは精神の栄養となり、私の人生に役立ってくれるに違いありません。皆様もぜひご一読ください。
心を一つにする方法
令和5年4月17日
人の心を一つにするには、何が必要でしょうか。言葉をもって、よく説き聞かせることでしょうか。あるいは規則を設けて、これを守らせることでしょうか。もちろん複数の人が集まって何かをする時、いずれも必要なことです。しかし一方、言葉への反感や規則への反論が生ずることもまた否めません。
ではいったい、ほかにどんな方法があるのでしょうか。大胆なお話をすれば、私はずばり、〈お祭り〉をすることではないかと思っています。つまり、言葉を超越した儀式が必要だという意味です。お寺でも神社でもお祭りで心を寄せ合い、お供えのお下がりをみんなでいただく直会(宴会)をすれば、黙っていても人は仲よくなります。だから、お祭りには人を夢中にさせる何かがあるのです。〈政〉とは〈まつりごと〉だというではありませんか。
しかし、お祭りは年に一度か二度しかありません。どうすればよいのでしょう。実は、お寺にも神社にも〈ご祈祷〉があるのは、そのためなのです。みんなで集まってご祈祷を受けることもまた、お祭りだということです。特に、会社の社長さんはこのことをしっかりと認識していただきたいと思います。
一昨日、ある土建業社の方々30人以上があさか大師に寄り合い、一同で工事安全と商売繁昌のご祈祷を受けました(写真)。
私は土建業社とはご縁が多く、このようなご祈祷をどれほど経験してきたか数知れません。そして、いずれの会社も事故がなく、あっても小難に留まり、つつがなく業務をまっとうしています。それは取りも直さず、ご祈祷というお祭りによって、みんなの心が一つにまとまるからなのです。
一昨日の方々も、最初から最後まで合掌を止めることなく、とても真剣でした。そして、皆様がすがすがしい気持ちでお帰りになりました。チームワークもよく、私は「この会社は必ず発展するだろう」と思いました。これは社長さんがどんなに言葉で説いても、決して成し遂げられることではありません。
お正月の初詣以来、これほどに本堂が埋まったことはなかっただけに、私もまた満ち足りた一日になりました。この気持がお寺の力となり、その力がまた、次の力を呼ぶのです。以心伝心は人もお寺も同じです。そして、心を一つにする方法でもあるのです。
続・天下第一の高僧
令和5年4月14日
浄厳大和尚のお話を、さらに続けましょう。
大和尚は十歳の折に高野山にて得度し、以後二十三年間にわたって求道生活を送りました。その間、その才名は天下に聞こえ、これを敬慕しない人はなかったとまで伝えられています。高僧というと、一般には学識的な面ばかりが強調されますが、大和尚の偉才は密教修法による数々の霊験にあると私は思っています。
もちろん真言陀羅尼の編纂をはじめ、口決(行法の意味や口伝)に関する著作も多く、その功績もまたはかり知れません。ただ、大和尚の著作刊行にあたっては驚くほど多くの寄進者によって成り立っていたことは注目すべきです。たとえば、『普通真言蔵』という名著の刊行においては、1042名の方がこれに協賛していますが、そのほとんどはご信徒の方々なのです。これは大和尚が祈念した護符の霊験が、いかに顕著であったかを示す確証にほかなりません。
江戸牛込の西村喜兵衛という人は、舌が腐って飲食もできない業病(前世からの宿業による病気)を患い、医者にも見捨てられましたが、大和尚より光明真言の護符を授かりました。そして深く懺悔して念誦したところ、たちまちに平癒しました。尾道の今田屋新平衛という人は大和尚から阿字(真言密教の象徴的梵字)の浄書をいただき、お軸にして日夜これを祈念しました。すると元禄15年の大火で、民家800軒あまりと共に新兵衛の家も焼失しましたが、大和尚のお軸だけは少しも損じませんでした。諸人はこれを奇跡として崇め、深く礼拝しました。また、日照りにあっては祈雨を念じ、渡海にあっては無事を念じ、いずれも不思議な霊験が記録されています。
大和尚は生涯に十七回の結縁灌頂(ご信徒が仏さまとご縁を結ぶ儀式)を勤めました。その入壇者は何と304055人と記録されています。これほど驚異的な入壇者の数を私は知りません。一日の予定が三日、七日、十日と続き、霊雲寺でのその様相は『江戸名所図絵』にも描かれています。
大和尚は元禄15年、六十五歳で入滅しました。その威光は蓮体という弟子に継がれました。墓所は霊雲寺に近い、台東区池之端の妙極院にあります(写真)。
その入滅が近づいた時、将軍綱吉の命によって大奥の医師が診脈にうかがいました。「何か苦しいことがありましたら仰せられませ」とお話したところ、「何もありません。ただ正法の興隆がまだまだ及ばず、それが心苦しいだけです」と語りました。これが大和尚の最後の言葉でした。
天下第一の高僧
令和5年4月12日
江戸時代の初期、浄厳という大和尚がいました(写真)。寛永16年、大阪・河内長野市に生れ、高野山で修行し、生家に延命寺を建立し、真言密教の再興に尽くし、民衆を強化し、晩年は東京湯島に霊雲寺を開山した方です。私はこの時代、この浄厳大和尚をして天下第一の高僧と断言してはばかりません。その幼少期のことをお話しましょう。
大和尚が母の胎内に宿った時より、その母には一切の苦しみがなく、身も軽く、すがすがしい毎日でした。ただ、少しでも生臭いものを口にすると、たちまちに腹痛をおこしたそうです。誕生の時も、世の女性は苦痛と共に不浄の血を伴うのに、まったくその兆候がなく、まるで絹に包まれたように誕生しました。
二歳までは乳を飲みつつ、右手の人差し指で母の胸に、いつの間にか梵字を書いていました。また、三歳になるや、習ったはずもないのに観音経や尊勝陀羅尼を唱えていました。どのように考えても、奇妙な子供として注目されたようです。
魚肉や葷辛(臭いや辛みのある野菜)を食さず、女性には近づこうともしませんでした。ある時、父に向って、「私は必ず僧侶になるだろう。そして、名を〈空海〉と名のるだろう」と宣言しました。驚いた父は、「お大師さまの名を用いることはならん」と言いつけるや、「では〈空経〉と名のろう」と言い出しました。常に子供とは思えない英知を発揮し、身辺の人から弘法大師の再来とまで言われたそうです。
五歳になって父が大きな筆を与えると、知るはずもない阿弥陀如来や観世音菩薩といった諸仏諸菩薩の名、また経文の言葉をすらすらと書くのでした。その筆跡は今でも延命寺に残っています。また、ある人が熊野に参詣した道中を語ると、「その道なら私も知っている。高野山からそこを過ぎると・・・」などと言い出すではありませんか。「どうしてその道を知っているのか」と問うや、「私は師と共に何度も参詣している」と言うのでした。そして、諸国の霊山名跡を詳細に語るので、聞く人はみな身の毛もよだつ恐怖と不思議の念にかられ、何をおいても凡人ではないことを知りました。
しかも、自分が誕生した時のことを見て来たように、「私が生まれた時、お大師さまが隣りに座っておられた。そこがその場所だ」と言って指さし、そこに人を座らせることは決してありませんでした。経文でも漢書でも、ひとたび手にするや、水が流れるように音読しました。漢詩を作るや、その韻のみごとさはすでに詩人の域でした。
もう、余白がありません。皆様は信じられるでしょうか。また、このような方がどうしてこの世に生れるのでしょうか。常人には理解し得ない世界があることを、歴史の運命は少しだけ見せてくれるようです。それ以上を私には語れません。
足裏は人体の縮図です
令和5年4月10日
足裏は人体の縮図です。なぜなら、足裏にはたくさんの〈反射区〉があり、それが人体の要所に直結しているからです(写真は大堀和三著『人は足から健康になる』インターハート刊より)。
この足裏の反射区をもむと、体の調子がよくなることは間違いありません。反射区には血液の汚れがたまっているからです。その汚れが多いほど、指でもむと痛みを感じます。ちょっとさわった程度でも、悲鳴をあげる人がいるほどです。これは本当ですよ。なぜなら、心臓の位置は身体の上から三分の一の高さにあります。したがって上半身の血液はよく循環しますが、身体の下ほどその循環が悪く、足裏には血液の汚れがたまっていしまうのです。だから、足裏は「第二の心臓」とまで呼ばれるのです。
作家の橋田壽賀子さんは一昨年、96歳の天寿をまっとうしましたが、とにかく健康法には熱心でした。朝から水泳に励み、夕方は犬の散歩、テレビを見る時は自転車のペダルを回し、電話中は竹踏みを実践しました。この竹踏みこそ〈足裏健康法〉にほかなりません。
私もかつては台湾の官有謀先生の講習会に参加し、その原理を熱心に研究しました。また足裏ローラーを購入して、今でも実践しています。また、入浴中はふくらはぎもよくもむよう心がけています。足裏からふくらはぎまでもむのが、官先生の教えであったからです。
昔の人はわらじを履いて仕事をしたり、お遍路をしましたが、これはまさに足裏健康法であったのです。お遍路によって奇跡的に健康を取り戻した場合、信仰に加えてこの足裏健康法が役立っていたことも事実ではないでしょうか。食事とともに、歩くことが健康の基本であることは、昔も今も変わりません。
高僧はここが違います
令和5年4月7日
今でも、「高僧墨蹟展」などといった企画があるのでしょうか。出品した〝高僧〟の方には申し訳ないのですが、私は「困った世の中だな」と思っています。今や〈高僧〉などという呼称は、死語になったも同然だからです。ましてや、自分を高僧だと思っている方がいるとしたら、それは高僧ではないことを自ら証明しているからです。
しかし、世の中には名は知られずとも、高僧というべき方が確かにいらっしゃることも事実です。そののような方は、決して世間に出ることはありません。あくまもでも僧侶としての自覚を忘れず、人知れず仏に使え、人のためには労を惜しまず、欲はなく、決して怒らず、しかし菩提心が深く、研鑽を怠らず、淡々として人生を過ごしています。私はそのような方を、わずかながら知っています。
そこで考えてみると、日々に読経や真言の念誦に励むと、どうやら共通した容貌があることに気づきました。それは頭上が少しばかり盛り上がっているということです。必ずしも確実であるとは断言できませんが、私はこの自説にかなりの確信があります。これは、仏像では〈肉髻〉と呼ばれ、ちょうど頭上にお椀を伏せたように表現されています。中医学では〈百会〉、ヨガでは〈サハスラーラチャクラ〉と呼ばれる身体の要所です。
代表的な例が、実は弘法大師(お大師さま)です。あさか大師の御影(お姿)を見てください。頭上がまるで宝珠のように盛り上がっています(写真)。
これは読経や真言の念誦に励むうち、その響きが頭上を刺激したからでしょう。私はいつも、「真言とは振言ですよ」とお話をしています。お唱えする振動が頭上まで上昇すると、まるで仏智を得たように変化するからです。このことは、私が教えを受けたさる高名な和尚も語っていました。
皆様が僧侶と対面したなら、まずは頭上を見てください。少しでも盛り上がっていたなら、その方の言葉や身振りを観察してみてください。名は知られずとも、意外な〝高僧〟かも知れません。名利は求めずとも、世間の片隅で静かに暮らしているはずです。ついでですが、頭上がへこんでいる方は用心です。気をつけましょう(笑)。