お葬式はなぜ大切なのか

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人生

令和5年4月23日

 

私は20代で僧侶となりましたが、親ほども年上の方々の前で、偉そうに法話をしたものでした。もちろん、いい法話もあったかも知れませんが、中にはとんでもないあやまちも犯しました。その一つが、「葬式坊主にはなりませんよ」という放言でした。つまり、自分は生きている方々のために真言密教を学ぶけれども、亡くなった人のお葬式はゴメンだといいたかったのでしょう。

しかし、やがてこれが大変な間違いだったと気づきました。僧侶はこの世にもあの世にも関わらねばなりません。いや、この世とあの世は一つだという観念で勤めねばなりません。そこで私はお葬式について研究し、特に現代におけるお葬式の問題をふまえて『真言宗・独行葬儀次第どくぎょうそうぎしだい』を、またそれに伴う『真言宗・回忌法要次第』を刊行しました(写真)。ありがたいことに、いずれも宗内ではよく普及しているようです。

兼好法師けんこうほうしは『徒然草つれづれぐさ』の中で、「若きにもよらず、強きにもよらず、思いがけぬは死期しごなり」と書いています。どんなに若かろうが、どんなに丈夫であろうが、死は突然にやって来るものだといっています。どんな人でも、いずれは必ず死を迎えます。その確率は100パーセントです。にもかかわらず、人は死についてどれだけの自覚をもっているでしょうか。どれだけの自覚をもって人生を考えているでしょうか。残念ながら若い人ほど、また壮健な人ほど、この自覚がありません。

あの若さで、と思う人が突然の死を迎えます。仕事の鬼のように働いていた人が、突然の死を迎えます。病気の場合もあれば、事故による場合もあります。自殺も他殺もあります。つまり、この世は無常なのです。何がおきても不思議ではありません。その無常という土台の上で、人は生きているのです。これが仏教の、もっとも基本的な原点です。

だから、死につい考えなければ、自分らしく生きることも、豊かになることも、幸せになることもできません。そのためにも、肉親の死に接してこれを見送り、自分の人生について考えることです。そして、何が価値ある生き方なのか、何が最後に後悔をしない生き方なのかを考えることです。

さらに、人はこのようにして死を迎えるのだという事実を、子供さんやお孫さんに見せることも大切です。たとえ考える力はなくても、肉親の死を目で見て、悲しみの声を耳で聞いて、死について学ぶことはできるのです。ついでながら、財産も名誉も一手にした人ほど、死に対する自分の無力を感じると聞きました。自分が望んだものをすべて手に入れながら、死を前にしてのショックははかり知れないのでしょう。人生とは何かを考えるヒントになるお話です。

皆様、お葬式ほど死について考えるチャンスはありません。どんなに簡素でも、肉親のお葬式だけはなさってください。たとえ望んだ人生ではなかったとしても、最後に「ありがとう」と言えるよう、お葬式を大切にしてください。

山路天酬密教私塾

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