これが大師浄塩です
令和4年12月31日
今年最後のブログとなりました。あさか大師では、皆様のご要望により、この新春より「大師浄塩」を授与することとなりました(写真)。
これはお護摩のパワーを引き出して、家や部屋の〈気〉を変えるものです。特に鬼門(東北)や裏鬼門(西南)に玄間・トイレ・仏壇がある方、またその家に越して以来、何となく体調が悪いという方は、この大師浄塩を小皿で盛ってみてください。リビングや寝室にもおすすめです。向きは問いません。家や部屋の雰囲気が大きく変わることがわかります。もちろん、海水の天然塩ですので食用にもOKです。
現代は理想の家相など、求めようがありません。また、せっかく引っ越しをしたのに、体がだるくなったり、イライラすることが多くなったという方が大変に多いのです。あさか大師の比類のないお護摩で祈願されたこの大師浄塩を、ぜひお役立てください。元旦から御守コーナーにて授与されます(500円)。初詣の折には、ぜひお求めください。
では皆様、よいお年をお迎えくださいますよう。合掌
カレーはマンダラ料理です
令和4年12月28日
昨夜カレーを作りました。ただ、私の役割はカレーソースを作るだけです(写真)。トッピングする具は誰が作ってもよいので、材料だけを用意します。カレーは特に猛暑の夏に合いますが、暖かくした部屋で冬にいただくのも、格別なおいしさです。私は子供の時から研究しましたので、自分のカレーにはかなりの自信があります。お坊さんをやめたらカレー屋になってもよいとさえ思っています。
ところで、カレーはインド料理の代表でしょうが、私はあえて「マンダラ料理」と呼んでいます。なぜなら、カレーは五味(甘味・苦味・辛味・塩味・酸味)のすべてが融合して混然一体となり、絶妙の味を醸し出しているからです。五味のそれぞれが互いに溶け合い、毎日でも飽きることなく、子供から高齢者まで、世界中でこれほど愛される料理はありません。さらに、薬膳としても評価されています。私がマンダラ料理と呼ぶ理由もここにあります。まるで教義の違った世界中の宗教が、いっしょに手をつないだ感がありましょう。
皆様もご存知とは思いますが、インドには「カレー粉」と呼ばれる食材はありません。インドの家庭ではいろいろなスパイスを調合して、それぞれの家庭で独自の〝カレー粉〟を作るからです。私は既製のカレー粉も使いますが、芳醇な香りを出すため、かなりのスパイスを使います。また、日本のカレールウは小麦粉でとろみを出しますが、インドではヨーグルトやタマネギ(チャツネ)、野菜や果物でとろみを出します。その濃厚な味を知ると、日本のカレーはどんなに工夫を加えても糊のような食感にしか思えないほどです(失礼!)。
最近はいろいろなカレーが、レトルト商品として発売されています。インドカレーを日本に知らしめた〈〇〇屋〉のみならず、タイカレー、各地の名店カレー、噂の〈〇〇カレー〉など、スーパーには列をなして並んでいます。私はかなり買い込んで食べ比べをしましたが、どれ一つとして、太鼓判を押す商品はありませんでした。私の味覚は、レトルトには合わないのかも知れません。
かといって、私は日本のカレーを卑下するつもりはありません。野菜がゴロゴロと入ったお母さんのカレーは、家族にとって最高のごちそうです。普段、スーパーのお惣菜で済ませることはあっても、カレーばかりは手作りでお願いしたいと思っています。また手軽な昼食として、キャンプや催しの献立として、カレーほど適切な料理はありません。主婦は何をおいても、まずはカレーを工夫すべきであると私は思っています。何しろマンダラ料理です。カレーだけでも、一家和合は間違いありません。
霊符神の好きなお酒は?
令和4年12月26日
私は霊的な問題を祈願する場合、〈霊符〉を用います。霊符はこの世と神仙界を結ぶ符号で、特殊な秘伝をもとに作成されます。現代の日本では、これを正しく伝承している人はほとんどいません。私は不思議なご縁でこの秘伝を受け、『霊符秘要抄』(青山社)を刊行しました。よく「お金が儲かる」「恋人ができる」といった宣伝で、霊符がネット販売されていますが、私はいろいろな意味で疑問です。
霊符神は正しくは「太上神仙鎮宅霊符尊」とお呼びします。常に〈八種供物〉を供えて祈願をするのが、霊符行者のつとめです。霊符行者は食べてはならないもの、行ってはいけないことなど、きびしい戒律があることはいうまでもありません。私は特にウナギ・アナゴ・ハモといった長ものの魚類や、スッポン料理は一切口にしないことを自らに課しています。
八種供物とは水・酒・茶・もち・菓子・カヤ・洗米・塩をいいます(写真)。
私はカヤの代わりに、よくナツメ(中列左)を用います。ナツメは〝仙菓〟として神仙界の神さまには尊ばれるからです。また、私自身もおやつとして、よくナツメをいただいています。また菓子としては、歓喜団を供えます(下列中央)。歓喜団は聖天さまのお供物として知られていますが、仏教の神さまには共通して喜ばれます。こしあんと薬材を皮で包んで油で揚げたもので、京都の土産物としても販売されています。また、洗米の代わりに五穀米をお供えすることもあります(下列右)。仏教の神さまは五穀米を好むからです。
ところで、霊符神はどんなお酒が好きなのでしょうか? 伝承した秘伝に、お酒に関する規定はありませんでしたが、私は特に〈桂花陳酒〉を選んでいます(写真)。なぜなら、霊符神はキンモクセイの花を好むという秘伝があり、桂花陳酒は中国製の白ワインとキンモクセイの花で作られるからです。かなりの甘口ですが、さすがに、中国料理には合います。
霊符は軽々しく作成すべきではありません。霊符神とのお約束を守り、正しい秘伝をもとに修する必要があるからです。人と人との間にはマナーがありますが、神さまと人の間にはきびしい戒律があることを知らねばなりません。仏さまが祟りをなすことはありませんが、神さまには祟りがあることも申し添えておきます。
孔雀明王の呪力
令和4年12月24日
私は先日、弟子僧の七名の方に〈孔雀経法〉を伝授しました。文字どおり、『仏母大孔雀明王経』をもとにした孔雀明王の行法(祈り方)です。実は孔雀経法こそは、真言密教で〈三ケの大法〉の一つとして畏怖される秘法中の秘法で、めったに伝授されることはありません。また鎮護国家の祈りとして、本来は大勢の僧侶が結集して修する大法でもあります。
それでも、私があえて弟子僧に伝授をしたのは、今なおコロナ禍の終息も見えず、ウクライナでの戦争も終結せず、日本を取り巻く国交関係が危機的状況にあるからです。たとえ行者一人の祈りであっても、孔雀明王の呪力が絶大な霊験をもたらすに違いありません。私はそのことを深く信じています。もちろん伝授をするにあたっては、お大師さまにお許しを乞いました。また、伝授をした七名の方の祈りが、強く融合することも念じています。
孔雀明王はやさしい菩薩さまの姿をしていますが、乗っている孔雀は毒虫を食らうだけあって、いささか怖い形相でこちらをにらんでいます(写真)。
毒虫を食らうとは、いわば人間の苦しみのもとである煩悩を食らうという意味でありましょう。それだけに、この秘法を修する行者は煩悩を解脱した清らかさが求められます。秘法という響きに溺れてはなりません。よく、いろいろな秘法を知っていることを吹聴する方がいますが、知っているだけでは何の役にも立たないことを知るべきです。要は行者自身が清らかで行法に励み、唱える呪力にパワーがなければ、霊験は得られません。
孔雀明王における歴史上の偉大な行者としては、飛鳥時代の役行者(神変大菩薩)がいます。また中世には聖宝(理源大師)・仁海(雨の僧正と呼ばれ、請雨法の逸話がある方)などが多くの霊験を残しています。それぞれに何が偉大であったかといいますと、人間そのものが偉大であったということです。人間が偉大でなければ、偉大な行者になどなれるはずもなく、また不思議な霊験など得られる道理がありません。
私もお大師さまへの毎日の祈りの中に孔雀明王の秘法を加えて、日本と世界の平穏を念じています。大きなことを言うと思われるでしょうが、小さな祈りも融合すれば、絶大なパワーを生むのです。偉大ではない私たちは、融合の発想こそ大切ではないでしょうか。小さな力を融合してこそ、大きな仕事ができるからです。これは、現代のどのような分野においても、共感されることです。
この世の花・あの世の花
令和4年12月22日
昨日は納め大師(今年最後の大師縁日)で、有縁の方々と縁日護摩を修しました。今年の無事を感謝すると同時に、コロナ禍の終息と国家安穏・世界平和を念じました。また、奇しくも私の【花と写真のエッセイ・『花は野の花』(創樹社美術出版)】が刊行されました(写真)。
私が寺の住職として多忙にあっても花を挿し、このような本を刊行したのには理由があります。それは花は仏さまに供えますが、花そのものもまた、仏さまであると思っているからです。〈仏花〉とは仏の花でありますが、その花もまた仏であるという意味ではないでしょうか。
花が嫌いという人は、まずいません。女性はもちろんでありますが、男性もまたある年齢になりますと、花に関心を寄せます。また、お祝いをするにあたっても、まずは花を贈ります。男性が女性に捧げるのも、まずは花です。死者との別れにも、柩に花を入れます。墓参をするにも、忘れずに花を持参します。人間の生活において、花ほど想いを伝えるものはありません。「この世の花」はまた「あの世の花」でもありましょう。
人は恩を忘れますが、花はその季節が来れば、手入れの恩を忘れずに花を咲かせます。人は年末のあわただしさにふり回されますが、花はかたい蕾を秘めて来春に備えます。人は楽をして成果を得ようとしますが、花は寒風に耐えて彩を放ちます。人はとかく名誉を求めますが、花は自らを楽しんで開きます。だから、仏さまなのです。
ただ、私の花は流儀のものではありません。つまり、自己流です。また、花器も使いません。時には仏具を、時には民具を、また土器や瓦の残欠などを用います。素人でも花を楽しめることを知ってほしいからです。道端の枯れた狗尾草(ネコジャラシ)でもよいのです。空き瓶にでも挿してみてください。何と美しいかがわかります。美は身辺にあるのです。真実も身辺にあるのです。そして、幸せそのものが身辺にあるのです。
*本書に掲載されている筆者の花は、ホームページ・トップ画面の中ほどにも送信されています。
*本書の購入をご希望の方は、ホームページ「お問い合わせ」よりお申し込みください(定価2000円)。
日想観のパワー
令和4年12月20日
人間は食事の栄養だけで生きているわけではありません。自分の精神生活、接する人や自然環境の〈気〉も大きく影響します。大勢の前でお話をすると疲れますし、住んでいる家の条件が悪いと体調もすぐれません。かつて家の建材で体調不良をおこした時代がありましたが、これも気のめぐりが悪くなるからでしょう。「気持ち」とは、自分の気がどのように保たれているかの目安なのです。
私がこのことを強く意識したのは、20代のはじめ、成田山で断食修行をした時でした。断食をしているわけですから当然お腹が空きます。たいていの男性は3日目ぐらいから体力がなくなり、どことなく力が入りません。女性は4日目ぐらいまではまったく平気で、元気に動きます。山で遭難しても、女性の方が助かる確率が高いのも同じ理由で、女性はさすがにエネルギーの蓄えが多いのでしょう。
ところが、不動堂の井戸で水行(水をかぶる)をすると、とたんに元気になります。石段を登っても、足早に登れました。これは水と身体の気が融合して、新たなパワーを引き出すためです。私は真夜中でも水行をするのが楽しくなったほどでした。自分の肉体レベルから、内的レベルを意識したのも、貴重な経験でした。
北陸や東北の大雪にもかかわらず、関東地方の今朝の日の出はみごとでした。あさか大師ではこの時期、ほぼ真正面から太陽が昇ります(写真)。
私は早朝、日の出を拝んで〈日想観〉をしています。これもまた太陽のパワーによって心身の活力が高まること、疑いようがありません。幸せと癒しのホルモンであるセントニンが増え、元気で壮快な一日を迎えることができます。日想観は真言密教の『十結』という聖教に出ており、いわゆる日天を拝む作法です。日天は天照皇大神であり、観世音菩薩であり、大日如来そのものです。これによって私は、毎日のように大日如来の灌頂を受けることができるのです。仏界から地上界への以心伝心を短時間で、しかも無料(!)で体験することができるのです。毎日毎日、当りまえに太陽が昇るとは、何とありがたいことでしょうか。この自然界のサイクルを生かさねば、もったいないことです。
新型コロナに加えて、インフルエンザやまた別のウイルスが加わって混合し、やっかいな感染が拡がっています。マスクや消毒はもちろん大切ですが、清潔な身心を保つことの大切さを感じます。皆様も早朝の太陽を拝んで、元気な毎日をお送りください。日の出が見えない方は、写真でもよいのです。出勤前に拝んでお出かけください。
(追記)雪国の皆様に対しましては、慎んでお見舞いを申し上げます。白亜の山頂からも太陽が照り輝いて、皆様が幸せでありますことをお祈りいたします。
納めの金運宝珠護摩
令和4年12月18日
本日は第三日曜日で、納めの金運宝珠護摩を修しました(写真)。年末のあわただしい中ではありましたが、皆様の熱意に後押しされて、私もまた熱意を込めました。以心伝心とはこのことでしょう。
お参りをされた方の感想ですが、金運宝珠護摩に参詣してから、「確かに融通が利くようになりました」という意見があります。また、「お金を追いかけなくとも、何とかなっていくような気がします」という意見もあります。いつもお話をしていることですが、お金は互いに利益を共有しないかぎり、融通しません。つまり、動きません。融通とは溶け合うことです。一方だけが得をして、一方が損をするようでは、溶け合わないからです。よく、人に損をさせる分だけ、自分は儲かると考えている人がいますが、とんでもない間違いです。一時的な利益はあっても、いずれは必ず墓穴を掘ります。
そして、お金はこれを追いかけている人には入って来ません。お金は後ろからついて来るもの、つまり人に利益を与えれば、自分にも利益としてのお金が後ろからついて来るということです。これこそが〝ご利益〟ではないでしょうか。だから、先に与えなければ与えられません。「与えよ、さらば与えられん」は古今の名言です。
あさか大師も四年目が過ぎ去ろうとしています。私には経営手腕などあるはずもありませんが、皆様のお役に立つことだけを念頭に、毎日のお護摩やご回向を修しています。来年の五周年記念として境内拡張事業を発願しましたが、ほぼ予定どおりに駐車場が〝与えられ〟ました(写真)。私が追いかけたわけではありません。毎日の結果が、このように運ばれただけなのです。「お大師さまのご利益です」と、お話をしています。
厄年を役年に変える
令和4年12月16日
あさか大師の境内に、令和5年の厄よけ・災難よけの早見表が立ちました(写真)。どなた様も境内に入るや、じっと見るのがこの一覧表です。先日は30分近くも、メモを取りながら立ち尽くした方もいましたから、よほど気になったのでしょう。この一覧表は、ホームページ「厄よけ・災難よけ」欄でも見ることができます。
私がなぜ〈厄除祈願〉に関心を持ったかといいますと、人は自分のことが一番気になるのだということを思い知らされたからです。この世で、人が最も大切にしているものは何でしょうか。それはもちろん、自分自身です。人は自分をこの世で最も大切にしつつ、自分に関心を注いでくれて、自分が認められることを願って生きています。そして自分の顔や名前を覚えてくれる人に近づき、自分の話を聞いてくれる人を好きになり、自分が望むものを与えてくれる人を大切にするのです。
たとえば、私が「お大師さまがこのようにおっしゃっていますよ」といっても、多くの人は興味を持ちません。しかし、「何と、あなたは今年が大厄ですよ」といえば、身を乗り出して聞き入るのです。昨日、占いのことを書きましたが、人が占いに興味をもつ理由もここにあります。つまり、自分のことだから関心を持つという、ただそれに尽きるのです。
だからといって、私は決して厄年をいたずらに煽り立てているわけではありません。お寺に関心をもっていただければ、それだけでもいいのですが、それが信仰への糸口となるからです。厄よけのお祓いを受けても、心がけが変わらねば意味がありません。また開運への道は、衰運期(厄年)の過ごし方で決まることも知らねばなりません。人生は万事、うまくいくように準備をするからうまくいくのです。厄年の時こそ健康に配慮し、身辺を整理し、必要な段取りを進めれば、それこそ〈役年〉、つまり役立つ年になるからです。だから、厄年こそは、開運へのチャンスなのです。
あさか大師では元旦から節分までの午前9時から午後4時まで、随時お護摩を修します。節分までを〈新春祈願大祭〉として休みなく続けます。ぜひ、お参りにお越しください。
ラーメンのような占い
令和4年12月15日
先日、「占いは人生の吉凶は判断できますが、幸不幸は判断できません」と書きました(12月6日)。たしかに、それはそうなのですが、占いに対しては、少し申し訳なかったという気がします。今日は多いにほめておきましょう。それというのも、私の『九星気学立命法』を読んで、近在の主婦の方が6名ほど集まり、「わかりやすく教えてほしい」と言い出したのです。今日はその一回目で、2時間ほどお話をして来ました(写真)。
私が九星気学を重んじるのは、それなりの理由があります。占いにはその人の先天運を鑑定する〈推命〉と、物ごとの吉凶判断を鑑定する〈卜占〉と、方位や家相等を鑑定する〈相法〉などがありますが、九星気学はそのすべてに応用できるからです。四柱推命や算命学は緻密な先天運を鑑定できますが、あくまで推命の分野にとどまります。易占は「あれかこれか」の判断に迷った時、その鑑定を乞うことはできますが、推命はできません。九星気学は方位学 として発展しただけに、方位を鑑定するにも適しています。つまり、単独にして応用が利く占いとして、九星気学は追従を許しません。しかも、親しみやすく、平易で学びやすいという点にも特長があります。
九星気学の源流は中国の〈奇門遁甲〉という方位学 にあります。その一部を借り受け、日本独自の発展を遂げました。外国で作られたものをさらに改良する技術は、日本人の得意とするところです。私はよく「九星気学はラーメンのような占いです」とお話をしています。皆様は驚くかも知れませんが、中国料理には本来、〈ラーメン〉というメニューはありません。よく似た麺料理に〈柳麺〉がありますが、やはり別のものです。ラーメンは麺にもスープにもトッピングにも、独自の工夫を加えて苦心を重ねました。今や本国の中国や韓国はもちろん、世界中で人気があります。そして同じようにして、奇門遁甲から九星気学が体系化されました。
私は九星気学を年運・月運や方位のレベルから引き上げ、「なるほど」と呼べる完成を目ざしています。そのためには、ラーメン屋さんの店先に行列ができるほどの努力が必要でしょう。毎日、毎日、寝ても覚めてもラーメンのことばかり考えているのですから。
死体は語る
令和4年12月14日
上野正彦氏のベストセラー著書『死体は語る』(文春文庫)は、法医学の専門医として、声なき死体のミステリーを解き明かしたものでした。偽装殺人、他殺を装った自殺、事故死に見せた心中など、もの言わぬ死体は人間の喜怒哀楽を語ってやみません。「事実は小説よりも奇なり」です。
たとえば、智恵遅れの幼女がハイハイしていて石油ストーブにぶつかり、沸騰したヤカンが背中に落ちて大火傷を負いました。母親は半狂乱でしたが、病院の手当てもむなしく、幼女は亡くなりました。普通なら当然、事故死と思うでしょう。しかし、そこが監察医の出番です。火傷の形が丸いということで疑問が生じました。偶然にヤカンが落ちたなら、その形は不定形となって散るはずです。やがて母親が自白し、智恵遅れのその子の前途を悲観し、過失を装って殺害したことが真相でした。まさに「死体は語る」です。
しかし、私は別の意味で死体が語ることを知っています。そのことをお話しましょう。
私は20代で僧侶となりましたが、その当時は「葬式坊主にはなりませんよ」と公言していました。真言密教は生きている人のために祈るものだと考えていたからです。しかし、やがてこれが間違いだったと気づきました。生死は一如、死者への祈りこそ、生きている人たちへの祈りであるからです。そこで葬儀について、真剣に研究しました。私の著書『真言宗・独行葬儀次第』(青山社刊・写真)は、今や日本中で使われています。
私が葬儀のお導師を勤める時、まず式場に着いたら結界(ガード)をなし、次にご遺体の顔をよく観察します。その表情の中に、その方の一生の縮図があるからです。仮に納棺師によって化粧が施されていても、どことなく悲しみや苦しみを漂わせている場合も少なくはありません。その表情を脳裏に留めて葬儀の作法に入ります。
そして葬儀が終って出棺の時、もう一度ご遺体の顔を見て、安らかな表情に変じているかを確認します。この瞬間こそ、葬儀におけるお導師の正念場です。つまり、遺体ではあっても死者はまだ〝生きている〟からです。仏教ではこれを〈中陰〉といい、この世とあの世の中間を意味します。ここでも、「死体は語る」ことがわかりますでしょうか。
ついでですが、お葬式はとても大切です。入籍だけをして夫婦になるより、結婚式(という儀式)を挙げれば、本当の夫婦になったという実感が湧くはずです。子供さんやお孫さんと別れの儀式もせずして、あの世へ旅立てるでしょうか。自分のために集まった人たちに見送られてこそ、人は安心して往けるのです。皆様もどうか、親のお葬式ばかりはなさってください。費用は少なくてもよいのです。死体はなおも語るのですから。