肝のすわった僧侶
令和2年6月30日
宮城県の松島は「日本三景」の一つに数えられる、天下の名勝です。そして、松島の古刹といえば瑞巌寺です。伊達政宗ゆかりの寺としても有名ですが、幾多の変遷を経て、江戸時代に雲居禅師によって興隆しました。この雲居禅師、松島の中の〈雄島〉と呼ばれる小島の岩窟がよほど気に入ったのか、毎日ここで座禅をして、深夜に寺に帰るのが日課になっていました。瑞巌寺からさほどに遠い距離ではありませんでしたが、老杉や古松がうっそうとして昼でも薄暗い道です。村の人々は気味悪がって、めったに通ることもありませんでした。
さて、村の若い者が集まれば、いたずら心と遊び心は常のこと。いったい、この禅師がどのくらい度胸がすわっているのか、試そうじゃないかということになりました。つまり、何とかして驚かせてやろうということになったのです。
禅師が雄島から帰る時刻はわかっていましたから、おのおの、それぞれの部処について待ち受けることとなりました。墓場の影に隠れる者、木に登ってうかがう者、うずくまって待ち受ける者、それぞれです。それぞれの所で、禅師が近づいたら、仰天させてやろうと若者たちは得意げでした。
夜はしんしんと更けわたり、一面は妖気につつまれる頃となりました。そろそろ、禅師が帰る時刻です。すると、かなたよりゲタの音を運ばせながら、禅師が静かに近づいて来ました。若者たちは息をのんで、これを待ち構えました。
ある松の下に差しかかったその時、樹の上から禅師の頭をグッとつかんだ〝もの〟がありました。禅師は身じろぎもせず、ただ立ち止まって動きません。つかんだ方も、息を殺して動きません。ウンともスンとも言わず、静寂の時間が続きました。つかんだ方は決まりが悪くなりました。気がぬけてしまったのです。仕方なしに、つかんでいたその手をそっと離しました。手が離れると、禅師は何ごともなかったかのように、また歩き出して寺に帰りました。
その翌日、若者たちは何くわぬ顔つきで禅師のもとを訪ねました。そして談たけなわの頃、あの森では妖怪が出るなどと、知らんふりをして話題に出しました。そこで禅師は、こう語りました。
「うん、昨夜は松の木の下で頭をつかまれたよ。じっと立っていたら、だんだん五本の指先が暖かくなってな。妖怪ではないとわかった。人間の臭いじゃったよ。そういえば、お前さんたちのこの臭いと同じじゃったなあ」
若者たちはほうほうの体で逃げ去りました。肝のすわった僧侶とは、こういう方のことなのでしょう。さすがですね。
三遊亭圓朝の誕生秘話
令和2年6月29日
初代・三遊亭圓朝は、幕末から明治にかけて活躍した落語家です。落語中興の祖と呼ばれ、歴代名人の筆頭ともされています。特にお笑いの滑稽噺より人情噺の評価においては、古今独歩の地位にあるといえましょう。
もちろん、名人として世に知られるまでには、並々ならぬ辛苦があったことは申すまでもありません。まだ小圓太と名乗っていた修行時代、師匠の圓正の家では、お使いや掃除ばかりさせられていました。師匠が寄席に向かう場合も、当然お伴としてついて歩かねばなりません。電車もバスもありませんから、遠い道のりでも師匠の荷物を持って歩けば、疲れもするし、空腹にもなります。
ある冬の夜、師匠がめずらしく「蕎麦でも食っていくか」と言って、暖簾をくぐりました。小圓太は自分も一杯食べさせてもらえれば、冷え切った体も温まるだろうと喜びました。ところが席に着いたのは師匠だけで、しかも天ぷら蕎麦とお酒を一人前しか注文しません。そして、お酒を飲みながら天ぷら蕎麦をうまそうに食べてしまうと、さっさとお代を払って出て行きました。そして、後ろをふり向くと、「蕎麦が食いたかったら、早く真打(高座で一番の出演者)になれよ」と、それだけでした。
弟子入りして二年余りになっても、一度として噺の稽古をつけてくれません。とうとう我慢できずに、そのことを師匠に願い出ました。すると師匠は、「では寒いだろうが、明日は夜明けまでに来い」と言います。翌日、小圓太は眠気も寒さも忘れて、師匠の家に駆けつけました。ところが、言いつけられたのは庭掃除です。小圓太が池のところを箒ではいていると、師匠がいきなり氷の池に突き飛ばしました。氷を砕いて全身ずぶぬれです.それでも、凍える体で着がえを済ませて庭に出ると、師匠がスズメに米粒を撒いていました。一羽のスズメが食べ終わると、樹の枝にとまりました。また別の一羽が食べ終わると、一段上の枝にとまりました。師匠はそれを、ジーッと見つめています。そして、「もう、稽古は済んだぞ」と言うのです。小圓太は何のことやらわかりません。そして、師匠が言いました。
「高座で空腹の噺をする時は、あの蕎麦のことを思い出せ。眠い時や体が凍えた時の話をする時は、さっきのことを思い出せ。そうすれば、噺が真に迫る。このスズメを見ろ。下のスズメと上のスズメを見る時は、目線を移さねばならん。わしはそれを教えたんじゃ。だから稽古は済んだと言ったんじゃよ」
小圓太は初めて、師匠の厚い情けを知りました。こうまでして、弟子である自分を仕込んでくれている師匠の慈悲を知りました。名人・三遊亭圓朝の誕生秘話です。
続続・腎臓が寿命を決める
令和2年6月27日
何度もお話していますが、私たちは健康のために「これがいい、あれがいい」と言っては、いいものを取り入れることばかりに専念します。しかし、いいものを取り入れるためには、まず悪いものを取り除かねばなりません。悪いものを取り除いて、次にいいものを取り入れる、この順序が大切です。
では、悪いものを取り除くとは、何なのでしょうか。答えは明白です。つまり、よい排泄をするということなのです。いいお通じをして、いいおしっこをすることです。この単純な真理こそ、実は健康の秘訣だといえるのです。
よいお通じは、腸内環境で決まります。つまり、「腸内フローラ」と呼ばれる〝お花畑〟のように善玉菌・悪玉菌・日和見菌のバランスを整えれば、お通じはスムーズに排泄されるのです。スムーズに排泄されれば、栄養もスムーズに吸収されます。そして、おしっこは腎臓、広くは〈腎〉のはたらきで決まります。〈腎〉が弱ってはいいおしっこが作れません。特に腎臓は肝臓とのネットワークによって、悪いものを排泄してくれます。だから〈腎〉が弱っていては毒素がたまり、よい血液が作れず、体力が衰え、老化が進むのです。〈臍下丹田〉という言葉がありますが、生命力はここに集中し、それをつかさどるのが〈腎〉なのです。「腎臓が寿命を決める」とは、このことを指しているのです。
〈腎虚〉に対しては、根菜類を食べるとよいとお話をしました。実は根菜類は体を温めるはたらきがあります。一般に、太陽に向かって伸びる葉類の野菜は体を冷やし、逆に地面の中に伸びる根菜類は体を温めます。これも重要なことで、葉類のサラダを多食する人の体温が低いのはこのためです。〈腎〉は冷えに弱いことも知らねばなりません。下半身を温め、下半身の筋肉が強くなれば、〈腎〉の機能は格段に高まり、いろいろな症状が改善されるはずです。
最後に、私の大胆な仮説をお話しましょう。〈腎〉には「先天の精」が蓄えられ、これに「後天の精」が補充されます。「先天の精」とは父母から受け継いだ遺伝的な生命力です。では、父母から受け継いだとは、どういう意味でしょうか。私は〈腎〉は〝あの世〟とつながっていると考えています。私たちはもちろん〝この世〟に生きています。しかし、この世とあの世は同じものです。あの世は〝ここ〟にあるからです。あの世の〝うつし〟が現世、つまりこの世です。いや、生も死もなく、私たちはこの世とあの世を共に生きているのです。『般若心経』が説く「不生不滅」なのです。父母の父母、そのまた父母、つまり先祖の精を受けて生きているということです。先祖を大切にすることも〈腎〉の養生であるという事実が、いずれ明かになる日が来ることを私は信じています。
続・腎臓が寿命を決める
令和2年6月27日
漢方には「相似の理論」という考え方があります。つまり、同じ臓器や似たような形のものは、同じはたらきをするという意味です。そんなバカなと思うかも知れませんが、船は魚に似せて作り、飛行機は鳥に似せて作るではありませんか。だから、肝臓の悪い人はレバーを食べればいいし、目の悪い人は魚の目玉を食べればいいということになります。また、クルミは脳の形に似ていますから、頭の悪い人(失礼!)は少しずつ食べるとよいのです。
ところで、〈腎〉はみな下半身の位置にあることは言うまでもありません。樹木にたとえるなら、上半身は幹や枝にあたり、下半身は地中の根にあたります。だから、〈腎〉が弱った〈腎虚〉の症状には、地中の根のもの、つまりゴボウ・ニンジン・レンコン・ヤマイモ・ネギ・玉ネギなどの根菜類を多く食べることです。気づくと思いますが、みな強壮効果があるものばかりです。〈腎〉が精力であり、生命力なのです。
また、〈腎虚〉による老化現象の漢方薬として、よく「八味地黄丸」が用いられます。若返りの妙薬として知られていますが、その名のとおり八つの生薬で調合されています。ところが、その中の五つまでが、これまた植物の根なのです。すなわち、山薬(ヤマイモ)・地黄(アカヤジオウの根)・沢瀉(サジオモダカの根)・牡丹皮(ボタンの根皮)・附子(トリカブトの根から毒性を除去したもの)と、いかに植物の根を重んじるかが理解されましょう。ただし漢方薬に関しては、専門の医師や薬剤師に相談してください。自己判断で服用してはいけません。
次に〈腎虚〉が進むと、必ず下半身の筋肉が衰えることも知らねばなりません。腹筋が弱くなり、お尻が下がり、太ももが細くなるはずです。したがって、〈腎虚〉に対しては、何をおいても下半身を鍛えることが大切です。私は毎日、水平足踏み(太ももを床から水平になるまで上げる足踏み)を朝晩それぞれ3分ずつ実行しています。おしゃれな砂時計を用いていますが、予定を考えながらやっている内にアッという間に終ります。その後、腹筋足上げと腕立て伏せを20回ずつ課していますが、これは無理には勧めません。水平足踏みかスクワットがいいでしょう。一生自分の足で歩けることを保証します。
それから下半身を温めることも大切です。シャワーで済ませず、お風呂に入って、特に下半身をよく温めることです。腹巻も「かっこ悪い!」などと思わず、多いに活用しましょう。腰の腎臓の要所を使い捨てのカイロで温めたり、こぶしで叩いたり、指圧することを勧める治療師もいます。
くり返しますが、〈腎〉こそは生命力の根本です。そして、特に「腎臓が寿命を決める」のです。自分でできることを、少しずつ実行しましょう。実行すれば、必ず効果が出ます。生命力の根本は、人生そのものの根本です。
腎臓が寿命を決める
令和2年6月26日
皆様は〈腎臓〉というと、単なる泌尿器の一種、つまり「おしっこをつくる臓器」ぐらいに思っているでしょう。
ところが、これが大変な間違いなのです。特に2017年10月に放送された『NHKスペシャル〈シリーズ人体・神秘の巨大ネットワーク〉』は、「〝腎臓〟が寿命を決める」というタイトルでその重要性が強調されました。実は漢方(中医学)では、人体における生命力の根源を〈腎〉あるいは〈腎気〉と定義し、これを最も重要な臓器であると考えます。すなわち、〈腎〉には「先天の精」が蓄えられると共に、「後天の精」が補充されるという見方をします。「先天の精」とは父母から受け継いだ遺伝的な生命力のことで、「後天の精」とは誕生以来の食生活や生活習慣、つまり養生よって得られた生命力のことです。この二つの精が〈腎〉に貯蔵されるとするのです。
また貝原益軒の『養生訓』には、「腎は下部にあって五臓六腑の根本である。腎気が弱くなると、身体の根本が衰えていまう。ゆえに養生の道では腎気を保たなければならない」と力説されています。「五臓六腑の根本」と言っています。まさに「腎臓が寿命を決める」と言う表現も、決して誇張ではないことがわかりますでしょうか。
ただし、漢方での〈腎〉とは単に腎臓のみを指すのではありません。活力に関するホルモンを出す副腎、生殖器にかかわる男性の睾丸や精巣、女性の卵巣や子宮もすべて〈腎〉なのです。つまり〈腎〉と定義する全体のはたらきを、生命力そのものと見るのです。そして、この〈腎〉の衰えを「腎虚」といい、これを老化と見るのです。足腰が弱くなる、皮膚がカサカサになる、顔色や肌色が悪くなる、老眼や白内障になる、耳が遠くなる、そしてヤル気がなくなる、記憶力が衰えるなどの老化現象は、すべてこれ「腎虚」が原因であると漢方は主張します。
また、若い方でも「腎虚」の症状として、非常に疲れやすくなります。しかも、「腎虚」による腎臓病は現代医学ではほとんど治りません。したがって、医師はすぐ「そろそろ透析が必要ですね」と宣告します。しかし、週三回、一回に四、五時間を要する透析療法は、腎臓病患者にとって大きな負担になることは言うまでもありません。
実は私の父も腎臓病を患い、医師より透析を宣告されていました。しかし、私はこれぞと思う漢方薬を10年以上にわたって送り続け、透析をせずに父の天寿をまっとうさせることができました。明日はこのブログのレベルで、私が学んだ〈腎〉を養う方法をお伝えします。
九十五歳の脚本家
令和2年6月25日
昨夜、脚本家・橋田壽賀子さんの本を寝床で読みました。現在、九十五歳とのことですが、いやはやそのパワーには驚きます。今後への励みとして、気になったところを書き出してみましょう。以下は、『ひとりがいちばん!』『私の人生に老後はない』などから、勝手にダイジェストしました。
「朝起きたら、まず梅干しを二個、おなかに入れます。これは三六五日欠かすことのない私の習慣で、海外旅行にも必ず梅干しを持って行くほどです。それからプールに行く前におなかいっぱい食べてしまうと動けなくなるので、〈カスピ海ヨーグルト〉を食べるようにしています。思いのほかおいしく、すっかり気に入ってしまいました」
「私の日課のひとつは、毎朝プールで600メートルを泳ぐことです。水の中に入ったときの解放感は本当に気持ちのいいもので、水に体をゆだねていると、手足が自然に動き出してしまいます。思いきり手足を伸ばしたときの解放感はたまらないもので、私の場合、泳ぐというよりも全身を伸ばしにいく、といった方が適切かも知れません」
「とにかくよく食べるのはキャベツとじゃがいも。毎日食べても飽きないほどです。それから気をつけているのは、赤、黄、緑の野菜をまんべんなく食べることです。お肉も毎日いただきます。ステーキなら120グラム。一日1600キロカロリーを超えないようにというのが主治医からのアドバイスです」
「仕事を続けるには、何よりも元気な体でいることが大切。健康器具もいろいろそろえています。お菓子をやめるとストレスになってしまうので、テレビを見るときはバランスボールに座ってカロリーを消費します。エアロバイクをこいだり、エアポールに足を上げたり下げたり、自分流エクササイズもよくします。また、電話で話をするときは青竹踏みをします」
「ひとりが寂しいなどと誰が決めたのでしょう。夫は亡くなり、確かに私はひとりになりました。ひとりを楽しむには体も使いますし頭も使います。ということは健康維持やボケ防止にもなるのです」
「夕方になるとさくら(愛犬)といっしょに散歩に出ます。家の近所を三、四十分歩くのですが、上り下りの激しい道ばかりで、家に帰ってくるころには汗びっしょり。けっこういい運動になります」
「多忙さを言い訳にして尻込みするのは私らしくありません。行くと言ったら、誰がなんと言おうと、出かけてしまうのが私流です。仕事は帰って来てから必死でがんばれば何とかなる」
最後に、実りある豊かな日々を送る秘訣として、①健康 ②金銭的基盤 ③人間関係 ④生きがいになる仕事(ボランティアや趣味)と、そして⑤好奇心をあげています。好奇心ですか。なるほど、そうですよね。そのとおりです。
プラスの波動とマイナスの波動
令和2年6月24日
アメリカの心臓病専門の病院による、こんな実験報告があります。
入院している心臓病の患者400人を、無差別で200人ずつに分けました。そして、一方の患者の名前をすべて書き出し、一人一人のために病気平癒の祈りを教会にお願いしました。また、この人たちに対しては、「皆様のために、教会で毎日祈っていますよ」ということだけを伝えました。もう一方の患者に対しては、何もせず、何も伝えませんでした。
そして、10ヶ月がたちました。教会で毎日祈ってもらった200人の患者はその間、一度も発作をおこしませんでした。しかも、この人たちは経過がどんどんよくなっていたというのです。しかし、もう一方の200人の患者は、12人が発作をおこし、その中で8人が死亡しました。そして、経過が悪くなった人が60パーセントにも達しました。
この実験は明らかなデータのもとに、一般公表されています。いったい、この違いは何なのでしょうか。
つまり、「祈りは力である」という一語に尽きるのです。その力とは〈波動〉といってもよいでしょう。心の想念は波動となって伝わります。時間にも空間にもかかわりなく、必ず伝わります。だから、よい波動の集まる人は体の代謝もよくなり、治癒力も増し、病気の回復が早まるのです。
このことは、人生そのものにおいても同じです。幸運は人とは、すなわちプラスの波動が集まる人です。多くの人から好かれ、感謝され、その想念が波動となって集まる人です。そのプラスの波動が幸運を呼ぶのです。だから私は、「好かれることは、人生で最も役立つ才能ですよ」と、いつもお話しています。それは、逆のことを考えれば誰にでもわかるはずです。人に好かれることもなく、感謝されることもなく、かえって恨みや憎しみを買っている人はマイナスの波動しか集まりません。こういう人がいくら名前を変え、方位を変え、開運グッズを求めても意味はありません。
そして、さらに大切なことは、人の幸運を祈れる人は自分もまた幸運に恵まれるという事実です。類はまた、その類を呼ぶからです。プラスの波動はプラスの波動を呼ぶからです。祈られる人は心の支えになり、自信にもなりますが、祈る人もまた同じです。この世は「もちつ、もたれつ」なのです。そして、「人を呪わば穴ふたつ」なのです。わかりますよね。
厄よけの五節句
令和2年6月23日
そろそろ〈七夕〉の準備をしている保育園や幼稚園も多いことでしょう。七夕は〈五節句〉の一つで、暦のうえでの重要な意味があるのです。
「怠け者の節句はたらき」ということわざがあります。普段怠けている者にかぎって、節句の時など世間の人が休む時に、忙しいふりをするという意味です。あるいは逆に、普段怠けていると、世間の人が休む時に休めなくなるという戒めにも受け取れます。つまり節句は本来、季節の節目として仕事を休む日であったのです。なぜなら、この日は奇数(陽数)どうしが重なり、陰に転ずるために〈厄よけ〉をする必要があったからです。
数にはもちろん奇数と偶数があります。十進法(0から9までに位をつける数の表記)での奇数が〈陽〉で、偶数が〈陰〉です。ですから単数で月日を示せば、一月七日(七日正月・七草)・三月三日(桃の節句・ひな祭り)・五月五日(端午の節句・子供の日)・七月七日(七夕・星祭り)・九月九日(菊の節句・重陽)となり、これが五節句です。一月一日は元旦なので、一月七日を〈七日正月〉と定めました。これらの日はすべて奇数(陽)が重なり、陰に転じて災いをまねくと恐れられたのです。したがって、現在では国民的なお祝いの意味で過しますが、本来は厄よけをして災いを祓う日だったのです。
一月七日の〈七草粥〉は平安時代、病気にならぬよう嵯峨天皇に薬膳を献上したことから始まりました。三月三日の〈桃の節句〉は桃の木に魔よけの意味があるからです。〈ひな人形〉も、本来は紙で作った人形に名前を書いて川に流しました。つまり、禊だったのです。五月五日の端午は〈五月病〉への厄よけです。季節の変わり目で病気になりやすいため、清めの菖蒲湯に入り、菖蒲酒を飲み、菖蒲枕で眠りました。また、男の子の髪には菖蒲をまいて成長を祈りました。七月七日の七夕は織姫と彦星の伝説から、二人が会ってと疫病が流行らぬよう祈願をしたのです。これが転じて、天の川に願いごとをするようになりました。九月九日の重陽は、最大の陽数である九が重なるため、菊の花で邪気を祓ったのです。菊の花が香る中、月をながめながら菊酒を飲む〈菊花の宴〉は天武天皇の飛鳥時代から行われていました。
ただし、これらの五節句は、正しくは旧暦(約一ヶ月遅れ)でのお話です。現代(つまり新暦)の三月三日に桃の花は咲きません。花屋さんで売っている桃の花は温室で栽培されたものです。また現代の七月七日ではまだ梅雨も明けず、天の川など見えません。しかし、こうした千古の伝統が受け継がれることは、この国の文化です。新しい祝日を増やすなら、どうして伝統ある五節句を加えないのでしょうか。私は以前から、このことが大変に不満でした。
ひび割れた水瓶
令和2年6月22日
その昔、インドに水汲みを仕事にしている男がいました。男は不思議にも、人の言葉を話す二つの大きな水瓶を主人から与えられていました。この二つの水瓶に一本の竿を通して肩にかつぎ、高台にある主人の館から遠くの川まで降り、水を汲んでから再び主人の館まで運ぶことを命ぜられていたのです。水瓶はとても重く、主人の高台までの坂道は特に大変でした。坂道を上るため、男はその水瓶を左右にかついで登っていたのでした。
ある日のこと、いつものように長い時間をかけて水を運んだところ、左側の水瓶の水が半分に減っていました。よく見ると、その水瓶のにはひび割れが入り、そこから水が漏れていたのです。次の日も、また次の日も、どんなに急いでも、左側の水瓶は半分に減ってしまいました。それでも、右側の水瓶は漏れることがなく、何とか必要な水を汲むことができました。そんな毎日が続いたある日、とうとう左側の水瓶が人の言葉で語りかけて来ました。
「あなたが毎日、一生懸命に水を運んでくれているのに、私の体にひび割れが入っているから水が漏れてしまいます。こんなに苦労して運んでくれているのに、水が半分に減ってしまいます。これからもこうして迷惑をかけるくらいなら、私なんか捨てられてしまった方がいいのです。どうか捨ててください」
「いいんだよ、そんなことは心配しないで。君がいなければ水は半分も汲めないじゃないか。こうして水が汲めるのも君のおかげだよ。そのうち、きっといいことがあるからね」
それから二年がたちました。男は毎日、相変わらず二つの水瓶を使って水汲みをしていました。右側の水瓶は得意でしたが、ひび割れの入った左側の水瓶はいいたたまれません。働いても報われないのは、役立たずな自分のせいだから、もう捨ててくださいと何度も頼むのでした。男は毎日登っている、いつもの坂道を指さして言いました。
「見てごらん、みごとな花が咲いているじゃないか。どちら側の道に咲いているかわかるかい。君が通る左側の道に、私が花の種をまいておいたんだ。ここは雨の少ない土地だから、君が水を漏らさなければ花なんか咲くはずもない。そうだろう。この花は君が咲かせたんだよ。誰にだって、必ず取り柄があるんだ。立派に役目を果たしたじゃないか。ご主人様がこの美しい花の坂道を見て、君にとても感謝していたよ」
ひび割れた水瓶は、もう喜びで涙をこらえることができませんでました。役立たずと思っていた自分が初めて報われたのです。そして、自分の尊厳を知ったのです。このひび割れた水瓶こそは、実は私たち自身のことです。
「五重塔」の秘密
令和2年6月19日
大正12年の関東大震災(マグニチュード7・9)では、十万人以上の死者や行方不明者を出し、火災によって東京は一面の焼野が原となりました。その火災による死者だけでも、九万人を超えたとされています。この時、浅草寺(浅草観音)は幸いにもわずかな被害にとどまり、避難所としての機能を果たしました。右も左もわからぬ混乱の中で、五重塔ばかりはすっくと建ち残り、それを目標に人々が集まったからです。
また平成7年の阪神・淡路大震災(マグニチュード7・3)の折にも、ほんの一部を除いて、奈良や京都の五重塔(三重塔も含めて)も無事でした。日本最古である法隆寺の五重塔は奈良時代に建てられ、高さは31・5メートルです。日本最大の高さである東寺(お大師さまが住職をした京都の教王護国寺)の五重塔は江戸時代に再建されて、高さは54・8メートルもあります。木造建築でこれほどの高さで、あの震度の中でも倒れないなどという事実は、普通なら考えられません。いったい、五重塔がかくも地震に強い理由は何なのでしょうか。
その秘密は〈心柱〉にあります。つまり、五重塔の中心にあって、地上から一番上の相輪(九段の輪や宝珠などの装飾)までを貫く柱にあるのです。内部構造を見ると、この心柱は五重の階層と固定されてはいないのです。日光東照宮の五重塔にいたっては、何とこの心柱が宙に浮いています。四層目からつるしているだけなのです。では固定もしない心柱が、どうして地震から五重塔を守っているのでしょうか。
心柱は土台に乗せるか、宙づりです。では何が支えなのかというと、支えはないのです。つまり、五重の階層はそれぞれに積み重ねているだけだということになります。もちろん、下の階層は上からの重みに耐えねばなりません。そこで、それぞれの四隅には複雑な木組みを施し、のしかかる重みを分散させています。この積み重ねの構造により、下の階層が右に揺れると上の階層は左に揺れ、それぞれが互い違いに揺れて衝撃を吸収します。それでも、震度が強くれば塔の全体は共振して傾きます。そこで心柱が本領を発揮します。塔が右に傾くと、心柱は左に傾くいわゆる「やじろべい力学」が発生し、力が相殺して揺れに耐えられるのです。千年を超える木造建築が、現代まで残る理由がここにあります。
五重塔は仏さまを供養する象徴的な建築です。コンピューターもなく、微分積分の知識もない時代、深い信仰と自然への洞察がなければこんな智慧は生まれません。現代建築の耐震構造さえ、これをヒントにしているくらいです。五重塔は世界に誇る日本の英知です。そして、仏教の英知です。