2020/06の記事

下天の内をくらぶれば

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仏教

令和2年6月18日

 

私たちは数の単位として、「一・十・百・千・万・億・兆」までしか使いません。しかも〈億〉や〈兆〉にいたっては、まず普通の生活で用いることはほとんどありません。一流会社の経理や国家予算ならともかく、私たちの〝普通預金〟にはまるで「夢の世界」です。

ところが、その夢の世界がさらに続くことをご存知でしょうか。すなわち、数の単位を最後まで記しますと、「一・十・百・千・万・億・兆・けいがいじょじょうこうかんしょうさいごく恒河沙ごうかしゃ阿僧祇あそうぎ那由他なゆた不可思議ふかしぎ無量むりょう大数たいすう」となります。そして、この中で〈恒河沙〉以下は経典に出でいる仏教用語であることもお伝えしておきましょう。つまり、数の単位を考案した中国人は、こんなとてつもない数字を仏教から学んだということになります。

恒河沙ごうかしゃ〉とはガンジス河の砂の数ほどという意味、〈阿僧祇あそうぎ〉は数え切れないほどという意味、〈那由他なゆた〉はとてつもなく大きいという意味、〈不可思議ふかしぎ〉は考えてもわからない遠い境界という意味、〈無量むりょう〉は阿弥陀さまのようにはてしない境界という意味、最後の〈大数たいすう〉は〈無量〉のさらに上があるならばというほどの意味です。いやはや「夢のまた夢」で、仏教の壮大な世界観にため息が出るのではないでしょうか。

〈夢〉といえば、織田信長が好きであった『敦盛あつもり』の一節は「人間五十年、下天げてんの内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。ひとたびしょうを受け、滅せぬもののあるべきか」でした。信長は僧侶や寺院は弾圧しましたが、仏教のことはよく勉強しています。この時代は五十年も生きれば長命で、生まれてすぐに亡くなる人すら多かったのです。平均寿命は四十歳にも届かぬ三十代であったはずです。事実、信長は四十九歳で、あの本能寺で自決しました。

この〈下天げてん〉もまた仏教用語です。壮大な宇宙の中に〈天界〉があり、その天界の一番下という意味です。その下天に住む〈天人〉に比べても、人間の寿命などは一瞬に過ぎません。つまり人間にとっての五十年は、天人からすれば一瞬なのです。だから、夢だと言っています。これを逆に表現したのが浦島伝説です。若い浦島太郎は竜宮城で七日間を楽しみましたが、戻って来たら何百年も生きた老人になってしまいました。時間の尺度がまったく違うからです。

仏教は壮大な宇宙や無限の数字を示すことによって、人間が謙虚になることを教えているのです。こうした夢のような世界を示して、傲慢ごうまんにおちいらぬよう戒めているのです。いま、こんなお話をしている私自身すら、まるで夢をみているような気がします。

画僧月僊の偉業

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人物

令和2年6月16日

 

江戸時代の後期、伊勢山田の寂照寺じゃくしょうじ月僊げっせんという異端な画僧がいました。名古屋の味噌商の家に生まれ、七歳で浄土宗の僧侶となり、十歳で江戸の増上寺ぞうじょうじで修行をしました。そのかたわら、雪舟せっしゅう様式の画人・桜井雪館さくらいせっかんの門下となって絵も学びました。その後は京都の知恩院に住して、円山応挙まるやまおうきょにも師事しました。そして写実的表現も習得して、独自の画風を確立したのでした。残された絵を見ても、深い玄妙の境地に感銘を受けます。

三十四歳で荒廃こうはいした寂照寺を再興するため、その住職となりました。そして、ここからいろいろな逸話が生まれます。まず画料が高いことで、世の批判を浴びました。絵はすばらしいが、何といっても値段の話が先なので、人々は「乞食こじき月僊」などとまで呼ぶ有様でした。「この半切でしたら、二両でしょうな」「このような絹に人物を描くなら、三両です」といった具合で、絵の依頼はすべて値段で決まるのです。それでも絵の評価は高まる一方で、依頼者が絶えません。

時には遊女からの依頼さえありましたが、月僊は悪びれもなく法衣を着て遊郭ゆうかくに出向きました。遊女の白の腰巻に描いて欲しいとの希望には、「そうですな、一両二分でよろしゅうございますか」と言うや、さっさと持ち帰り、みごとな花鳥を描いて来てそれを遊女に差し出しました。遊女はまるで鳥にエサをくれるようなしぐさで画料を放り投げました。月僊はそれをていねいに拾い集め、何度も礼を言って立ち去りました。気品も威厳もない、まさに異端いたんな「乞食月僊」だったのです。

文化六年の正月、月僊は寂照寺で六十七歳の生涯を閉じました。ところが遺品を整理するや、おびただしい契約書や領収書、設計図や人足にんそく手間賃の控えが山のように出て来たのです。それらはみな、伊勢参宮道路の修理や橋の普請に関するものばかりで、人々が驚いたのも無理はありません。当時の伊勢では、道路も橋もひんぱんに修理されて参拝者に喜ばれましたが、みな奉行所の仕事と思っていたのです。それらはすべて、月僊の画料によって支払われていたのでした。

また死に臨んでの遺言では、窮民救済金として千五百両を奉行所に託しました。飢饉ききんに備えて永代的な計画まで立てていたのです。これらは後に、「月僊金」としてその利子が活用されました。人々は月僊の死後、その功徳に服したのでしす。もちろん寂照寺の本堂や山門などの復興も果たし、経典の購入も怠りませんでした。

まことに、偉業と讃えるほかはありません。そして、こうした偉業とは人知れぬ陰徳いんとくから生まれることも憶念されるのです。その高風は今なお、多くの人々から慕われています。月僊の作品は京都の妙法院、三重県立美術館、岡崎光昌寺、そして寂照寺にも保管されています。

「声相」という真実

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令和2年6月13日

 

先月、八千枚護摩のお話をしましたが、実はもう一つ、声帯をこわした経験も忘れることはできません。不動明王の真言を大きな声で十万遍も唱える荒行をしたのですから、当然といえば当然です。しかも、私はその荒行を50回もくり返したのです。丈夫だった声帯も限界を超えたのでしょう。しだいに声枯こえがれがひどくなり、二重音が同時に出るようになりました。音程も思うように取れませんでした。

はじめは気管支炎か喘息ぜんそくでも患ったのかと思い、病院の内科や呼吸器科で調べましたが何の異常のないというのです。のどによいという医薬品や民間薬もかなり試みました。しかし、いっこうに効果はありません。そんな中で父の葬儀を勤めましたが、ひどい声で読経したことを、今でも恥ずかしく思っています。

その後、友人にすすめられて高名な耳鼻咽喉科の先生に調べていただいた結果、大きな声帯ポリープが二ヶ所に発生していることが判明しました。そしてご紹介をいただき、手術を受けて事なきを得ました。しかし、今でも長時間の読経や講演をすると、声枯れがするのは逃れられません。冷たい飲み物もなるべくけるようにしています。歌手や声楽家、詩吟や謡曲の方々は冷たい飲み物を避けるのはもちろんですが、蒸しタオルを喉に巻いて就寝するとも聞いています。

その一方、私はそれまで以上に人間の声という機能に興味をいだき、肉声や電話の声、テレビやラジオの声を通じて、いろいろなイメージが広がるようになりました。つまり人相や手相と同様、声にも「声相」があるということなのです。声が大きい人は元気な証明だと、私はよくお話します。しかしまた、その声の中に心の本質が現れていることも事実です。初めての電話で顔は見えずとも、声によってその方の内面をのぞき込むような習慣さえついてしまいました。

別の角度から説明しましょう。たとえば外国映画をみる場合、俳優さんや女優さん本人の声の方がよりリアルであることは申すまでもありません。字幕を追うのが面倒だという方もおりますが、その声にこそ俳優さんや女優さんの魅力があるのです。ところが、吹き替え版ではどうでしょう。本人の声に慣れている場合、まったくイメージがこわれることがよくあります。声の本質とはこれなのです。声優さんを選ぶのも大変でしょうが、明らかな〝失敗〟はよくあることです。

ただ、私の好みでしょうが、『名探偵ポアロ』の熊倉一雄さんや『刑事コロンボ』の小池朝雄さんなどは例外です。彼らには主演の本人と同等の魅力、つまり本質があるからです。皆様もぜひ「声相」に興味をいだいてください。声は真実を現わします。仏さまの真実も、自然界の声に現われるのです。これもまた、お大師さまの教えなのです。

立ち向かう相手とは

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令和2年6月11日

 

ある師僧が、弟子の僧侶を連れて道を歩いていました。すると見るからに猛々たけだけしい黒犬が、その師僧のそばに近づいて来ました。ところがその黒犬は、見た目とは大違いで、なれなれしく、うれしそうにすり寄って行きました。尾を振り、首を垂れ、従順で、いかにも「いい人に出会った」という感じでした。

ところが、連れの弟子は何を勘違いしたのか、師僧にかみつきでもしたら大変とでも思ったのでしょう。急いでその黒犬に近づき、「シッ、シッー!」と追い払おうとしました。すると黒犬は弟子に向って振り向き、耳をさか立て、眼光するどく、威嚇いかくしてえまくりました。

突然の猛攻に、弟子の方もあわてました。すぐさま道端の石を拾って、「このヤロー!」とばかり、投げつけるふりをしたのです。犬も犬なら、弟子も弟子です。その黒犬は身の危険を察したのか、やがて退散してしまいました。さて、以下、こんな会話となりました。

「師僧、あの黒犬に何か食べ物でもやったのですか」

「どうしてかね」

「大そうなれなれしくて、いかにもうれしそうにすり寄っていましたけど」

「いや、わしは何もやらんよ」

「師僧にはなれなれしくて、うれしそうにすり寄ったのに、私にはどうしてあんなに吠えまくったのですか」

「わからんか。あれは、おまえが吠えた声なのじゃよ。わしには殺生せっしょう残忍ざんにん臭気しゅうきがないから寄って来るのじゃ。おまえにはその臭気があるから、こわがって吠えたのじゃよ」

「でも、私は石を投げつけるマネをしただけで、あの犬を殺そうとか痛い目に合わせようとしたわけではないのですが」

「今のお前がその気であっても、過去の生き方が殺生や残忍な臭気を放っているから、犬の嗅覚きゅうかくがそれを感知したのじゃよ。犬がおまえを吠えたのは、お前の心の写しなのじゃ。殺生や残忍な心をおまえ自身が怖がって吠えたのじゃ。わかるかな」

その弟子は、師僧の言葉に深く耳を傾けました。私たちが立ち向かう相手とは、私たち自身の姿でもあります。相手の姿は、鏡に写った私たち自身の姿なのです。

人生の旅は「欲の道づれ」

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人生

令和2年6月10日

 

井原西鶴いはらさいかく(江戸時代の俳人はいじん・作家)は人間を徹底して〝カネの亡者〟と見なし、『日本永代蔵にほんえいたいぐら』を著わしました。文中には「ただかねかねをためる世の中」「世にぜにほどおもしろき物はなし」「うてならぬ物はかねの世の中」「かねさえあれば何ごともなるぞかし」といった銭銀ぜにかね至上主義が列記され、読に終えれば茫然自失ぼうぜんじしつ、とてもとてもついてはいけません。「経済小説の先駆さきがけ」などとも言われますが、しかし一筋縄ではいかぬ手ごわいシロモノです。

この『日本永代蔵』の冒頭は、大阪市貝塚の水間寺みずまでら(水間観音)のお話から始まります。今でも多くの参詣者が訪れますが、古来より独特の形態を持つ寺院として護持されて来ました。日本のほとんどの寺院は江戸時代からの檀家だんか制度によって支えられていますが、それ以前は篤信者とくしんしゃや地元の共同体で運営されて来ました。水間寺は今でも六十歳になると地元の農家や公務員の方、事業家や職人の方が一定の修行を経て僧になるという、唯一無二の形態を保っています。

江戸時代のその頃、驚くことに、有力な寺院は金融業を兼ねて運営をしていました。水間寺もその例にもれません。西鶴はその様相を、「おりふしは春の山、二月初午はつうまの日、泉州(大阪)に立たせ給う水間寺の観音に、貴賤きせんの男女もうでける。これ信心にはあらず、欲の道づれ」と表現しています。水間寺では二月初午の日、一年後に倍額返済を条件に、参詣者に小銭を貸し付けていました。年利100パーセントですが、観音さまから借りるのですから返すのは当りまえで、保証人も担保も不要でした。そうなれば多くの人が、野山を越えて集まるのも当然です。

時に江戸から流れてきた素性不明の男に、銀1貫(2万5千円)を貸し与えたのは異例でした。翌年になっても翌翌年になっても返済には訪れません。水間寺でも、とんだ失敗とあきらめていました。ところが13年後のその日、借り金が倍々に積って何と8192貫(約2億円)を馬に背負わせてやって来たのでした。僧侶たちは驚き、「後世の語り草にしょう」ということで、都から宮大工を呼び、立派な宝塔を建立しました。その男、船問屋の網屋あみやといい、江戸では知らぬ者のないほどの大商人になっていたのでした。

それにしても「信心にはあらず、欲の道づれ」とは、水間寺にしてみれば迷惑な表現だったのでしょう。貸し付けは救済活動であるとして、当時からかなりの反論がありました。貸し付けを目当てにやって来ても、観音さまへの信心を失ったわけではありません。その貸し付けによって、多くの人々が救われたことも確かなはずです。

人は利益がなければ動きません。その利益によって衣食いしょくが足りる時、はじめて礼節を知るのです。利益が欲なら、むしろ欲によってこそ礼節を知るべきです。その欲に使われた人もいれば、欲を上手に使って立ち直った人もいたはずです。欲に使われれば煩悩ぼんのうですが、上手じょうずに使えば菩提ぼだいとなるのです。人生の旅そのものが「欲の道づれ」だと、私は思います。

続続・男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月9日

 

男性はあくまで社会的に生きています。すべてを捨てて、一人の女性のために生きるということはできません(少なくとも、そういう傾向があります)。一方の女性は家庭的(個人的)に生きています。自分を選んでくれた一人の男性のためには、すべてを捨てるのです。だから、女性は両手で恋をしますが、男性は〝片手で〟恋をするのです。

男性は社会的に関わらないと、生きてはいけません。働かなくても生活ができれば一時は喜びますが、いずれは不安におそわれます。だから、定年後の人生が心配なのです。少しでも〝肩書き〟が欲しいのです。一方の女性は働かなくても生活ができれば、何の不安もありませんし、これほどうれしいことはありません。

男性は個人的なつながりよりも、社会的なつながりによって満足します。社会の中で、自分の位置づけがあってこそ安心するのです。地位や名誉が欲しいのは、見栄のためだけではないのです。一方の女性は、誰かと個人的につながることで安心します。特に、自分を選んでくれた一人の男性とつながっていることで安心します。

男性はきれいな女性なら〝誰でも〟さわりたいという欲望があります。これが本音なのです。女性は逆にさわられたいという欲望がありますが、しかし好きな男性からでなければ満足しません。好きな男性からさわられれば気持がいいのですが、嫌いな男性からさわられると、まるで毛虫に触れたような嫌悪感をいだきます。その夜はお風呂でゴシゴシと体を洗い、何度も除菌します。このギャップがセクハラ問題の原因です。

男性はその思考の多くを、論理によって決定します。いつ、どこで、誰が、何をしたかを記憶します。だから、〝事実〟こそが真実なのです。一方の女性は、思考より感情を優先します。何が楽しかったか、何がイヤだったかでその記憶が決定されるのです。男性がとっくに忘れている十年前の〝ひとこと〟を、急に持ち出すのはそのためです。

男性はあくまで論理的に正しく、経済的に有利で、便利であることを中心に考えます。どういうお店で食事をしたいかといえば、近くて入りやすくて、安くておいしいと思うところを選びます。一方の女性はおいしさはもちろんですが、雰囲気を基準に選びます。接待の感じがいいか悪いかが大事なのです。できれば海が見えて夜景がきれいな、そんなお店を望むのです。そして、誰と行くかに最大の関心があるのです。

男性は悲しいことがあれば、時には泣くこともあります。それはあくまで、悲しいという目の前の現実に対して泣くのです。ところが女性が泣く時は、似たような悲しみや直接に関係のない過去の悲しみが次々と連結し、涙があふれ出るのです。女性が涙もろいのは、このためです。男性は悲しいから泣きますが、女性は泣くからさらに悲しくなるのです。

もう、このへんにしましょうか。いつもこのブログを読んでくださるすべての男性に、そして男性である私のブログを読んでくださるすべての女性に感謝いたします。

続・男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月8日

 

男性どうしが集まると、こんな会話をします。「まったく、女ってヤツはわからないよな」と。また女性どうしが集まると、こんな会話をします。「いったい男の人って、何を考えているのかしらね」と。そして、人類はこんな会話を何十年、何百年、もしかすると何千年も続けてきました。男性にとって女性という存在は、女性にとって男性という存在は永遠のなぞなのです。しかし謎であるがゆえに、男女の間には恋愛という「世にも不思議な物語」が生まれるのかも知れません。

当然のことですが、男性は女性になることはできませんから、女性特有の思考や感情を理解することは困難です。それは、女性にとっても同じです。もちろん、男性にも多少の女性的要素が、女性にも男性的要素はあります。そして例外があることも事実ですが、ここでは一般論としてお話をしましょう。

そもそも男性とは、〈願望〉で生きているのです。何をなすか、何をなしげたいかなのです。そして、感情よりも思考が先行し、できるだけ多くを獲得かくとくしたいという狩猟しゅりょう本能を持っています。だから、人生の願望をより多く達成し、より多くの女性をモノにしたいと思って生きています(そういう本能が根底にあるという意味なので、誤解なさいませんよう)。ところが、女性の方は〈期待〉で生きています。何を成すかより、何をしてもらえるかなのです。思考よりも感情が先行し、保守本能を持っています。何かをしてもらって、安心していたいのです。自分が得た安心を、守っていきたいのです。そして、ただ一人の男性から愛されることを願って生きています。自分を選んでくれた一人の男性に、生涯にわたって愛情を注いでほしいと願っています。このことが、まずは男女の根本的な違いです。いっしょに生活をすれば、その思考と感情の差に亀裂が生じるのも当然なのです。

ところが、では世の男性は自分が選んだ一人の女性に愛情がないのかといえば、もちろん、そんなことはありません。一生の伴侶として大切にしたいと願っていることも事実です。また女性の方は、自分を選んでくれた一人の男性以外に何の関心もないのかといえば、これまた、そんなことはないのです。ここが男女の間の矛盾であり、不可解でやっかいなところです。

私が考えた別の見解をご披露ひろうしましょう。それは、まず男性という生き物は多分に〈イヌ族〉であるということです。主人(社会)という絶対的な大義がなければ動きません。またその大義のために働くことに喜びを感じます。だから社会的に自立できなくなった時、男性はとたんに自信を失います。つまり、何かの意味を持って仕事をしていないと不安になるのです。だから、休日を返上してでも頑張がんばります。一方の女性は〈ネコ族〉です。ふとん(家庭)の上で、気持ちよく眠っていたいのです。大義だの仕事だの、どうでもよいことです。呼んでも、気分が乗らねば寄っても来ません。これは思考より感情が先行するからです。そして、自分に愛情を注いでくれる人にででもらったり、抱いてもらったりすることに喜びを感じます。「私と仕事とどっちが大事なの」という、女性の言いぶんはこうして生じるのです。このお話、まだ続けますか。

男と女はどこが違うのか

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人間

令和2年6月5日

 

私は自分が受けてきた教育の中で、最も不満に思っていることが一つあります。それはまた、特にこれからの学校教育の中で、ぜひ採用してほしいと思っていることでもあります。これさえ採用されれば、そして実際に授業として教育されれば、多くの問題が解決するのではないか、多くの犯罪すら減るのではないかと、そこまでも考えているのです。

では、その教育とは何であるかと申しますと、「男とは何か、女とは何か」という男女学のことなのです。つまりこの世に存在する男性と女性の違いを、子供の時からしっかりと教育すべきだということです。そうすれば多くの問題や犯罪は、相当に消え去るのではないかと、そのように考えているのです。

そもそもこの世の多くの問題や犯罪は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。それほどに、男性と女性は〝別の生きもの〟なのです。体や脳の構造はもちろん、思考も感情もまったく違います。ところが、これについて私たちは家庭ではもちろん、学校においても何ひとつ教育されずに何十年も生きているのです。男女の問題こそは、人生で最も大切な課題です。生きていくうえで、何よりも知らねばならないことなのです。しかし、私たちはそんなことも知らずに学校を卒業し、就職して結婚します。そして男女が同じ職場で共に働き、一つ屋根の下で共に暮らしています。問題や犯罪が生じるのは当りまえです。

かつて、『話を聞かない男、地図の読めない女』(平成12年・主婦の友社刊)という本がべストセラーになりました。同書はオーストラリアのアラン・ピーズとバーバラ・ビーズ夫婦による共著で、「男脳・女脳テスト」も付き、特に男女の脳の違いからするどい結論を引き出しました。ビーズ夫婦は、その序文でこう語っています。「この問題の根本原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。これは科学者、人類学者、社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らされてこなかった事実だ。というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり、『政治的に正しい』ことをめざす社会では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ」と。男女の違いを語ることは、民主主義や男女平等に反するという世論に一石を投じた、勇気ある意見です。

当時、私もこの本をきっかけに、男女の違いを語った書籍をいくつか読みました。その頃のメモ書きには、「りない男、反省しない女」「男の手のうち、女の胸のうち」「男の願望、女の期待」などと残っています。そして自分が男女の違いについて、いかに無知であったかも気づき始めました。男女は協力し合うことはできても、理解し合うことはなかなかできません。夫婦も、恋人どうしも、職場の男女も、みな同じなのです。くり返しますが、この世の多くの問題は、男女の違いについての無知に由来することは間違いありません。このお話はさらに続けますが、明日と明後日は忙しいので、ちょっと。

天与の恩恵

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人間

令和2年6月4日

 

最近の統計を調べますと、日本人の平均寿命は84・2歳で世界一にランクされています。もちろん、平均寿命と共に健康寿命も大切ですが、それにしても長命です。100歳以上もすでに7万人を突破したと聞きました。ただし男性の平均寿命は81・1歳、女性は87・1歳で6歳の差があります。20年前だと7歳の差がありました。いったい、この差はどこから来るのでしょうか。私はこのことが大変に気になり、素人しろうとなりの結論を出したいと書籍やネットで調べましたが、はっきりしたことはわかりませんでした。

女性は皮下脂肪が多いから、エネルギーを蓄えているといいます。山で遭難そうなんしても、女性の方が助かる確率が高いのは事実ですが、一概にはいえません。また男性は競争社会を生きるので、多くのストレスをため込んでいます。晩年にはすでに、その寿命まで損じているのかも知れません。しかし女性にも〝競争〟はありますから、決定的な理由にはなりません。

では男女の相違は何かといえば、生殖機能が異なるという一点に行き着きます。つまり、女性にはその生殖機能によって、毎月の〈生理〉があります。こうなると僧侶の私が出る幕ではありませんが、鼓舞こぶして調べた結論をお話しましょう。

まず若い世代の女性(五十代ほど)に比べて、高齢者(八十代以上)の方は初潮から閉経までの期間が短かったことがわかりました。若い世代の女性は、10代の前半から50歳前後までの約35年間を生理期間としますが、高齢者は10代半ばから40代半ばまでと、約30年間であったとされます。そうすると(これもマジメに調べましたが)、一回の生理が約6日、28日を周期とすると、年に13回、これを30年続けると〔6×13×30=2340〕です。これを一年365日で割ると〔2340÷365=6・41〕となり、何と平均寿命6年の差に一致(!)するのです。

女性はこの生理によって血液の老廃物を排泄はいせつし、男性よりも若々しい健康を保っているのではないでしょうか。女性が貧血になりやすいのは生理のせいでもありますが、それだけ血液の老廃物が少ないという証明でもあります。男性も女性の生理に負けぬよう配慮をせねば、平均寿命は追いつけないということになりましょう。しかし、男性でも血液の老廃物を排泄する方法はあります。その一つが献血で、これは人のためにもなります。男性は年に一度か二度の献血をするとよいのです。また瀉血しゃけつ療法(吸玉によって老廃物を取り除く施術)もあります。私も何度か後頭部の瀉血療法を受けました。レバーのような老廃物が出て、頭の中が「スカッとさわやか」になります。

気持ちのよい生活をするには、清掃や片づけが必要です。いらないものを捨てることです。私たちの体も同じです。女性はおつらいでしょうが、生理という天与の恩恵があるのです。長命であることも天与の恩恵です。男性はその分、別の努力をせねばならぬように作られています。「男はつらいよ」、いや、男もつらいのです。

白紙の観音さま

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仏教

令和2年6月3日

 

その昔、美濃みの(現・岐阜県)と尾張おわり(現・愛知県)の国境くにざかいに、一人のお婆さんが営む茶店がありました。年とともに視力が衰え、ほとんど盲目に近い状態でしたが、どうにか茶店だけは続けていたのでした。

そこにある若者がやって来て、白紙しろがみを一枚渡しました。それは文字も絵もない単なる白紙だったのですが、お婆さんには見えません。しかしその若者は、「お婆さん、この紙にはありがたい観音さまが描かれているんだよ。これを信心するとご利益があって、見えない眼も開くんだそうだ。だから、しっかり拝むといいよ」と言うのです。

お婆さんはさっそくこの白紙を壁にはり、香華こうげを供え、「南無観音なむかんのんさま」と宝号を唱えて拝みました。店に立ち寄る客は、「婆さん、あんた何を拝んでいるんだ。ただの白紙じゃないか。あんたには見えんだろうが、白紙には何にも描かれてなんかいないんだぜ」とバカにしました。お婆さんはこんなことを言われて時には迷いましたが、拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いないという信念を貫き、一心に念じました。

そして、半年ほどが過ぎました。何と、お婆さんの眼がかすかに見えるようになったのです。そして、拝んでいた白紙まで〝真っ白〟に見えてきました。確かに観音さまの絵などありません。しかし、お婆さんは考えました。「半年あまりも拝んできたこの白紙は、私にとってはただの白紙ではないんだ。眼には写らなくとも、きっと観音さまがおこもりになっているに違いない。これからもそのつもりで拝んでいこう」と。

やがてこの「白紙の観音さま」のうわさが広まり、いろいろな方がお参りするようになりました。時には僧侶の方までがわざわざ遠方からやって来て、読経をしていきました。もちろん、そうなれば茶店の方も繁昌し、お婆さんは二重のご利益をいただいたことになったのです。

皆様はこのお話をどのように考えますでしょうか。問題は「拝んでいるところに観音さまはいらっしゃるに違いない」というお婆さんの信念に尽きましょう。私はこのような霊験は十分にあり得ると思います。それが信仰だからです。世に知られた『観音経』には、「念彼観音力ねんぴかんのんりき」という聖句が何度もくり返されます。一般には「の観音の力を念ずれば」と訳されています。観音さまを念ずればあらゆる災難から逃れられると、多くの描写が列記されています。しかし、どうでしょう。「彼の観音」とあります。ただ漠然ばくぜんと観音さまを念ずるのではなく、どこにいようとも自分が信仰し、香華を供え、宝号を唱え、よくよく拝んでいる〝彼の観音〟でなければならないということです。安易に観音さまを念じても、奇跡は起こりません。

それにしても、お婆さんに白紙を渡した若者とは誰だったのでしょう。私はそれが誰であろうと、彼こそは観音さまのお使いだったと信じます。そして皆様のまわりにも、そういう方が必ずいるのです。意外にも、ごく近くにです。早くそれに気づかねばなりません。これもお大師さまの教えですよ。

山路天酬密教私塾

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