墓前での甘酒接待
令和2年1月31日
私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)にはめずらしい風習がありましたが、そのひとつをお話しましょう。
記憶はあいまいですが、あれは冬至の頃であったのか今頃であったのか、とにかく寒い時期に墓前での甘酒接待がありました。墓前といっても今のような霊園ではなく、昔の部落墓地でした。そこで大きな鉄なべで甘酒をつくり、道行く人に声をかけては甘酒をふるまっていました。道行く人も声をかけられると、ことわってはいけない礼儀があったような気がします。当時は自動車で通行する方など、ほとんどありません。徒歩や自転車の通行人が代わる代わる立ち寄り、その甘酒をいただいては去って行きました。
私はその甘酒が楽しみで、自分から進んで手伝いをしました。しかし、その意味を知ることもなく何十年も過ぎ去り、急に思い出したのもまた奇妙です。今は甘酒がブームらしく、スーパーにもたくさん並んでいます。それを見て連鎖反応があったのでしょう。
その由来を考えますと、どなたか、寺の住職でも提案したのかも知れません。要するに先祖に代って布施をなし、功徳を積むということなのです。何しろ寒い毎日で、温かい甘酒はありがたいものでした。昔はこんなことを通じて、仏教が民間に伝えられていたのです。しかも、何の不自然さもなく農村の風習になっていました。このようなお話はたくさんあるのですが、子供のころの記憶をたどると、なるほどと思うことがあって驚きます。民俗学という学問が生じるのも納得できます。
遠い日の記憶を思い出し、何やら楽しく、うれしい一日でした。さらに年齢を重ねれば、どんな記憶として甦るのでしょうか。
屈辱をバネに
令和2年1月30日
一昨日の塙保己一のお話には、さらに続きがあります。
ある雪の日、彼は平河天満宮(現・東京都千代田区)へ参詣しました。ところが参詣を終えての帰りぎわ、あいにくの雪のためか下駄の鼻緒が切れてしまいました。
境内に前川という版木商(今の出版業社)があり、人声を感じた保己一は「ヒモをいただけませんか」と頼みました。盲目の彼を見て、からかってやりたかったのでしょう。店の者が無言でヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しあて、鼻緒を仕立てようとしました。もちろん盲目の彼が、うまく仕立てられるはずがありません。店の者たちは手をたたいて笑いました。彼はその屈辱に耐えきれず、素足で店を飛び出しました。
ところが後年、幕府の推挙を得て『群書類聚』がいよいよ出版されるに及び、保己一は何とその前川を版元に選びました。何も知らない前川の主人がお礼を述べると、保己一は「私が今日あるは、数年前の雪の日に受けた屈辱のおかげです。むしろ私の方こそお礼を言いたいのです」と語りました。
天才とは、なるべくして天才になるのでしょう。屈辱の恨みを超えて相手を許し、むしろその屈辱を努力のバネにしたのです。誰しも、忘れがたい屈辱はあるものです。しかし、その恨みを報いるのに恨みをもってするなら、その恨みはいつになっても消えません。今度は相手が、さらなる恨みをいだくからです。保己一は仏典の教えを、深く体得していたのです。
『のどごし〈生〉』を生かす
令和2年1月29日
昨日、親しい不動産業の方が亡くなり、私が葬儀の導師を勤めました。八十三歳の天寿をまっとうしましたので、年齢に悔いはなかったと思いますが、人の一生には何かと未練や執着が残るものです。
私がちょっと驚いたのは、担当葬儀社の配慮でありました。いよいよ出棺の折、その葬儀社はあらかじめ葬主と話し合い、故人が生前に最も好きだった音楽CDを斎場に流しておりました。昨日、故人のそれはフジコ・ヘミングのピアノ演奏で、その美しい曲に一同が癒されておりました。これは現代葬儀においては、格別に異例なことではありません。このようなセレモニーは、他社においても流用していると思います。
私が驚いたのは、司会者の次の放送でした。「これから個人が生前に最も好きだったお酒を、ご遺族の方に綿棒でもってお口に含ませていただきます」と言うのです。故人はどんなお酒よりもキリンビールの『のどごし〈生〉』が好きだったらしく、ご遺族が代わる代わるその綿棒をお口に含ませました。こんな経験は初めてのことで、私は驚きつつも、何やら喜ばしい気持ちになったのも意外でありました。
しかし、どうでありましょうか。仏教の本義からいえば、葬儀とお酒は互いに相容れません。「不飲酒」は大切な訓戒であります。しかし、以前にもこの法話ブログに書きましたが、そこが神社や儒教、民間信仰と習合した独特の「日本教」なのです。神前にお酒や供物を献じてお祭りをなし、そのおさがりを仲よくいただくことが〝まつりごと〟なのです。つまり、飲食を共にすることで、人の気持ちが通じる〝政治〟となるのです。そして、その風習が仏教の中にも共存しているのです。
故人は生前に最も好きだった音楽を聴きつつ、最も好きだった『のどごし〈生〉』を奥様や子供たちからいただきました。もはや、この世の未練や執着から脱することは容易であったはずです。仏教の本義を離れて、立派な方便が生かされているようにも思えるのです。未練や執着を脱する方便として、『のどごし〈生〉』を生かしたのです。
『般若心経』百万巻読誦の功徳
令和2年1月28日
人は何もかも与えられることはありませんが、何もかも失うこともありません。
江戸時代の中期、とてつもない天才がいました。名を塙保己一といいます。今の埼玉県本庄市に生れましたが、五歳で失明し、十二歳で母と死別しました。しかし、彼はずばぬけた記憶力を天から授かりました。読んでもらった日本の典籍を、ことごとく暗記することができたのです。彼は人が読んでくれる文字を、心底に写してこれを熟読したのでした。
二十七歳の折、亀戸天満宮(現・東京都江東区)に参詣して一万日(二十七年)の間、毎日『般若心経』百巻を読誦する誓願を立てました。つまり、一万日で百万巻読誦を目ざしたのです。これは大事をなすには、神仏のご加護なくしてありえないという信念からの決心だったのでしょう。しかも彼は、半ばの五十万巻に達するまでに、千冊の典籍を読んでもらい、百万巻終了の折には記憶したすべての典籍を出版しようとまで考えたのでした。
彼は『般若心経』十巻を読誦するたびに、紙のこよりを小箱に入れ、妻がそれを数えて記録しました。彼は一万日で百万巻はおろか、七十六歳で没するまでの四十三年間、毎日の読誦を一日として怠りませんでした。その四十三年間の読誦は、何と二百一万八千六百九十巻とまでいわれています。
そして彼は、記憶したすべての典籍を集成して、『群書類従』正編五百三十巻、続編千百五十巻という膨大な出版を完成させました。これは典籍の定本と伝本を比較校訂までも含めた、まさに前人未到の偉業でありました。今日でもなお、国学研究に大きな貢献をしています。
いったい、人が読んでくれる文字をここまで心底に写し、記憶できるものなのでしょうか。彼の超人的な努力はもちろんでありますが、私たちの常識を超越したその才能は『般若心経』読誦の功徳というよりほかはありません。人はすべてを失ったように見えても、天から与えられた何かがあるのです。このような偉人がいたことは、この国の誇りであります。
小食のすすめ
令和2年1月27日
健康のためには大食は禁物です。特に頭脳思考の仕事には、小食が大切です。そのことを昨日のブログに書きましたが、さらに学説を加えてお話しましょう。
まず、アメリカ・エール大学のトーマス・ホーバス博士はお腹がすいている時こそ、胃が分泌する飢餓ホルモンのグレリンが脳の働きを促進すると発表しています。またスペインの養老院で、1800キロカロリーの食事を毎日与えたグループと、一日おきに断食させたグループを比べてみたところ、後者の方が圧倒的に長命であったと発表しました。
こうした事実は動物実験でも明らかです。同じアメリカ・ウィンスコンシン大学のリチャード・ワインドルック教授と国立老化研究所のフェリペ・シェラ博士らはアカゲザル76匹を、何と20年間にわたって食事カロリーの追跡調査をしました。その結果、低カロリー食を与えた群れは心臓疾患が少なく、脳も健康で糖尿病もなかったと発表しています。また、カリフォルニア大学のマーク・ヘラースタイン博士らは、ネズミの摂取カロリーを5パーセント減らすだけで、大幅に寿命が延びることも証明しました。カロリーを制限すると、細胞分裂が遅くなるので、がんの増殖も抑えられるというのです。
皆様はこの逆説を、どのように解釈しますでしょうか。まさに、小食こそは寿命を延ばし、病気を予防し、頭脳を明晰にしてボケを防ぐのです。
さらに断食まですると、その効果はてきめんです。断食を取り入れた病院や健康施設で肌が若くなり、色つやもよくなり、難病を克服した例は数知れません。私も若い頃に八千枚護摩(断食を加えた荒行)に明け暮れましたので、その効果がよく理解できます。体が軽くなり、頭脳も感覚も冴えました。お寺の一階にいても、三階でどんな料理を作っているかさえわかりました。
どうか皆様、飽食の時代であればこそ、小食の効能を見直してください。もしかしたら、人が一生に食べる量は決まっているのかも知れません。その量を食べ尽くせば、もはや生きる寿命も尽きるのです。きっと、そうです。
思考と小食
令和2年1月26日
トーマス・エジソンが蓄音機を発明した時、彼は9昼夜222時間、不眠不休で実験をくり返しました。その間は水分以外、一切の食事もとらずに集中したとされています。9昼夜といえば、比叡山回峰行者の十万枚護摩(7日間断食の荒行)をも超える超人的な偉業です。
彼は、「頭脳は誰でも同じなのさ。考えて考えぬけば誰にでもできる」とも言い切っています。また、「どうしてそんなに考えられるのですか?」という問いには、「人は何時間も寝るでしょう。腹いっぱい食べるから寝るのです。寝なければ考えられるのです」と答えています。つまり、単に睡眠時間を少なくするのではなく、考えるためには小食が大切だと主張しています。事実、彼は日頃から小食で、黒パン・野菜・果物と、時どき魚を食べる程度であったと伝えられています。
私はこの逸話が忘れられず、考える仕事をするためには大食は禁物だと自戒するようになりました。睡眠はもちろん大切ですが、問題は時間より質でしょう。食べ過ぎると胃腸に負担をかけるうえ、胃腸に血液を送るための心臓にも、消化酵素を供給するための肺にも、老廃物を解毒・排泄するための肝臓や腎臓など、あらゆる臓器に負担がかかります。そして、その負担を回復するためには、より長時間の睡眠が必要になります。だから、小食にすれば、短い睡眠でかえって健康を保つことができるのです。
皆様は、たくさん食べずにどうやって体力を維持するのかと思うでしょうが、それは固定観念なのです。昔の日本人の食事を考えてみてください。一汁一菜か二菜で、現代人にはとても及ばぬほどの体力を維持してよく働きました。現代人はやはり食べ過ぎなのです。あらゆる所にあらゆる食べものが、時間を問わず間食も夜食も、国を問わず世界中の料理まで用意されています。そして、食べ過ぎから健康を害しているのです。特に頭脳思考の多い仕事の方は、ぜひ小食を心がけて欲しいものです。
心はどこにあるのか
令和2年1月25日
人間の心とは、いったいどこにあるのでしょう。
ものを考える脳と感情を示す心とが、まったく無関係とは思えません。だから、心は脳と共にあるような気がします。また一方、「自分の胸に聞いてみろ」などと言うように、心臓が位置する胸にあるようにも思われます。よく、心(気持)のことを♡(ハート)で表現するのはその意味でしょう。真言密教では〈心〉と表記して、常に「むね」と読んでいます。観想において、「心の上に月輪あり」などと読むのがその例です。
ところが、日本語には「腹が立つ」「腹を割る」「腹黒い」「腹をさぐる」「腹にいちもつ」などと、まるで腹が心であるような表現が多いのです。実は脳の中に存在しているはずのホルモンが、腸内にも存在していることが最新医学では証明されています。
睡眠や体内リズムを整えるメラトニン、幸せや癒しの気分を与えるセントニンをはじめ、喜びをもたらすドーパミン、悲しみをもたらすノルアドレナリン、怒りをもたらすアドレナリンなどが腸内にも存在し、「脳・腸管ペプチド」などと呼ばれています。このことは、ストレスが重なると便秘や下痢になり、腹をこわすと気分まで悪くなることでも明白です。腸が位置する腹をこそ「臍下丹田」と呼び、全身の〈気〉が集まる生命力であり、心そのもののようです。。
「腸内フローラ」という言葉が美しいお花畑を意味するように、私たちは腸内環境を整えてこそ、美しい心も健康も手に入れることができるのでしょう。これは私の考えですが、腸内環境がイキイキとしている人は、あまり腹を立てることも少ないのではないでしょうか。たぶん、正しいと思いますよ。
「百薬の長」か「百毒の長」か
令和2年1月23日
お酒は体にいいのか悪いのかと問うなら、答えは決まっています。適量ならば血流をよくして体を温める「百薬の長」ともなり、適量を越せば肝臓障害をもたらし、さらに度を越して依存症ともなれば「百毒の長」でありましょう。
いろいろな学説を調べますと、適量を守れば免疫力を高め、動脈硬化・脳卒中・糖尿病・アルツハイマー等の発生率を下げ、がん抑制効果すらあるといいます。
122歳の世界最高長寿者として知られるフランス人のジャンヌ・カルマンさんは毎日、赤ワインとチョコレートを欠かしませんでした(ポリフェノール効果)。彼女は85歳でフェンシングを始め、100歳でも自転車に乗っていました。また、120歳で日本最高長寿者とされた徳之島の泉重千代さんは毎日、黒糖焼酎を欠かしませんでした。彼の120歳長寿には疑問説もありますが、大のプロレスファンで、アントニオ猪木の親善訪問を受けた時は子供のように喜びました。
また、長寿者が多いことで知られるコーカサス地方(グルジア共和国)で100歳以上の人は、朝食から自家製の赤ワインを飲んでいるそうです。適量を守れば、まさに「百薬の長」なのでありましょう。
ところが、適量を超えても不思議な長寿者がいることにも驚きます。
横山大観は近代日本画壇の最高峰ですが、毎日、日本酒二升・タバコ100本を飲みつつ、90歳まで作画をしました。梅原龍三郎はルノアールの弟子として知られる洋画家ですが、4歳から飲酒し、98歳まで活躍しました。また、彫刻家の平櫛田中は「酒中有深味」の色紙を残し、100歳の折に30年分の彫刻材料を購入しました。130歳まで生きるつもりだったのでしょう。
こうして見ると、お酒もまんざらではありません。しかし、多くの人々の健康を損ね、社会的問題をおこしていることも事実です。お金や名誉と同様、善にもなれば悪ともなるのです。皆様も〝ほどほど〟にお楽しみください。
五戒か十善戒か
令和2年1月22日
『あさか大師勤行式』の「回向勤行」には十善戒が記載され、法要のたびに皆様とお唱えしています。
十善戒とは不殺生(生きものを殺さず)・不偸盗(ものを盗まず)・不邪淫(性生活を乱さず)・不妄語(うそを言わず)・不綺語(たわごとを言わず)・不悪口(悪口を言わず)・不両舌(二枚舌を使わず)・不慳貪(貪りをせず)・不瞋恚(怒らず)・不邪見(間違った考えに走らず)のことです。始めの三つが行いの戒め、次の四つが言葉の戒め、最後の三つが心の戒めです。したがって、人は言葉に対する心がけがいかに大切であるかという教えでもありましょう。
これに対して五戒という教えもあり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒を指します。葬儀において戒名を読み上げる前に、このいずれかを授けるわけですが、どちらがよいのか私はかなり悩みました。
問題なのは五戒の不飲酒なのです。なぜかと申しますと、葬儀で五戒を唱えても、その後のお斎には「おきよめ」と称してビールやお酒が出されます。故人ばかりに不飲酒を戒めておきながらお斎をするのも、いかがでありましょう。またお斎の折には、故人の位牌や遺影の前にビールやお酒をお供えする方さえいます。これは日本の仏教が堕落したという意味ではなく、神前にお酒を供えて、そのお酒で仲よく直会(会食)を開く風習がこの国の宗教を支えて来たからです。つまり、仏教とはいっても、神社やいろいろな民間信仰が習合して、独特の「日本教」となったからです。仏式葬儀に不飲酒が生かされないのは、このような理由からなのです。
『あさか大師勤行式』に十善戒を選んだ理由はここにあります。お酒は人類の歴史と共にありますが、「百薬の長」ともいい、また「気ちがい水」や「百毒の長」ともいいます。願わくは「百薬の長」として、心身の健康に役立ってほしいものです。
猛女とよばれた淑女
令和2年1月21日
一昨日、斎藤茂吉・茂太父子の厄よけ法をお話しました。そして、茂太の母親のことも、ちょっとだけ紹介しました。
この母親、つまり茂吉の妻がまたとんでもない女性で、「猛女」とまで呼ばれました。名を斎藤輝子といい、八十九歳で大往生を遂げるまで、まさに波乱万丈の人生を過ごしました。
彼女は明治二十八年、東京青山のローマ式大病院のお嬢様として生まれ、学習院女学部に通い、早くから女性雑誌のグラビアを飾りました。「王者の誇りをもった緋牡丹」がそのキャッチコピーであったようです。何ごとにも一流を好み、権威をもろともせず、常に前向きでマイペースでありました。関東大震災・青山大病院の全焼・東京大空襲さえも、気骨をもって無事に乗り越えました。
一方の茂吉は「神童」とまで呼ばれた秀才でしたが、山形の貧しい農家の生まれで、ウマが合うはずがありません。また、愛弟子・永井ふさ子との恋愛問題も重なり、二人は長らく別居生活が続きました。しかし彼女も、最後は郷里で寝たきりになった茂吉を献身的に介護し、寄り添う日々を過ごしました。
そして、茂吉の死後は海外渡航97回、訪れた国が108ケ国、その距離は地球36周分でありました。中でも七十九歳で南極、八十一歳でエベレスト、八十五歳でガラパゴスなどは驚嘆に尽きましょう。多いに〝元気〟をもらえるエピソードです。さらに興味のある方は、孫娘・斎藤由香さんの著書『猛女とよばれた淑女』(新潮文庫)をご覧ください。
一昨日、あえて斎藤輝子の名を出さなかったのは、ここで紹介したかったからです。皆様、このブログを読んで元気になりましょう。