『のどごし〈生〉』を生かす

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仏教

令和2年1月29日

 

昨日、親しい不動産業の方が亡くなり、私が葬儀の導師をつとめました。八十三歳の天寿をまっとうしましたので、年齢にいはなかったと思いますが、人の一生には何かと未練みれん執着しゅうちゃくが残るものです。

私がちょっと驚いたのは、担当葬儀社の配慮でありました。いよいよ出棺しゅっかんの折、その葬儀社はあらかじめ葬主と話し合い、故人が生前に最も好きだった音楽CDを斎場さいじょうに流しておりました。昨日、故人のそれはフジコ・ヘミングのピアノ演奏で、その美しい曲に一同がいやされておりました。これは現代葬儀においては、格別に異例なことではありません。このようなセレモニーは、他社においても流用していると思います。

私が驚いたのは、司会者の次の放送でした。「これから個人が生前に最も好きだったお酒を、ご遺族の方に綿棒でもってお口に含ませていただきます」と言うのです。故人はどんなお酒よりもキリンビールの『のどごし〈生〉』が好きだったらしく、ご遺族が代わる代わるその綿棒をお口に含ませました。こんな経験は初めてのことで、私は驚きつつも、何やら喜ばしい気持ちになったのも意外でありました。

しかし、どうでありましょうか。仏教の本義からいえば、葬儀とお酒は互いに相容あいいれません。「不飲酒ふおんじゅ」は大切な訓戒であります。しかし、以前にもこの法話ブログに書きましたが、そこが神社や儒教じゅきょう、民間信仰と習合した独特の「日本教」なのです。神前にお酒や供物を献じてお祭りをなし、そのおさがりを仲よくいただくことが〝まつりごと〟なのです。つまり、飲食を共にすることで、人の気持ちが通じる〝政治〟となるのです。そして、その風習が仏教の中にも共存しているのです。

故人は生前に最も好きだった音楽を聴きつつ、最も好きだった『のどごし〈生〉』を奥様や子供たちからいただきました。もはや、この世の未練や執着から脱することは容易であったはずです。仏教の本義を離れて、立派な方便が生かされているようにも思えるのです。未練や執着を脱する方便として、『のどごし〈生〉』を生かしたのです。

山路天酬密教私塾

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