見えない力を引き出すために
令和5年5月24日
昨日、お葬式に出仕しましたら、葬儀社の方がお焼香の仕方を説明していました。つまり、今の日本ではお焼香の仕方も知らない人が増えたということなのでしょう。
核家族化が進展した現代の日本は、仏壇も神棚もなく、高齢者がいない家が多いわけですから、当然といえば当然です。かつての日本の子供たちは、両親や祖父母が仏壇に合掌し、神棚に拍手を打つ姿を見ながら育ちました。つまり、近い先祖は仏壇に、遠い先祖は神棚に祀ってこれを大切にして来ました。これによって、言葉では教えずとも、親や先祖を大切にすることの大切さをおのずから自覚したのです。さらに、人生には自分の努力はもとより、〝見えない力〟が多分に働くことを自覚したのです。特に社会的な成功者ほど、この傾向は強いはずです。
では、その見えない力はどこから来るのでしょう。これを経営分野から主張した例として、窪寺伸浩氏の『なぜ、成功する人は神棚と仏壇を拝むのか』(あさ出版)があります(写真)。窪寺氏は「神棚マイスター」という肩書で活躍していますが、見えない力を引き出す手立てとして、仏壇や神棚の重要性を強調しています。
人は生きていく過程の中で、いくつかの〈儀式〉を経験します。入学式があり、成人式があり、入社式があり、結婚式があります。これを経験してこそ、その学校の児童(生徒・学生)になったことを、一人前の大人になったことを、その会社の社員になったことを、誰もが認める夫婦になったことを自覚するのです。言葉ではこの自覚は生まれません。「親を大事にしなさい」と言葉で教えても、その親が仏壇や神棚を拝む姿を見せなければ、その自覚は生まれません。昔ながらの日本のこの風習は、きわめて重要です。そして、この風習が日本を支えてきたのです。
お葬式が大切なことは、同じように重要です。親のお葬式もしないで、自分の子供に大切にしてもらうことなど、望めるべくもありません。老いて病気となり、やがて死を迎える姿を見せ、それを弔う姿を見せることです。そして、仏壇や神棚を拝む姿を見せることです。それがまた、見えない力を引き出せる手立てとなるなら、これほどよいことはありません。
仏壇も神棚も、決して高価なものを求める必要はありません。また、住宅スペースにも限りがあります。ほんのわずかでよいのです。神聖な場所を設け、これを拝む姿を子供たちに見せましょう。親や先祖を大切にすれば、自分も大切にされるのです。そして、社会からも大切にされ、見えない力を引き出せるのです。
道徳的センスと宗教的センス
令和4年9月14日
私たちは子供の頃から、家庭でも学校でも、「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて来ました。そして、自分でも人に迷惑をかけてはいけない、迷惑をかけることは悪いことだと思って生きて来ました。これは大切なことで、社会ルールとして身につけねばなりません。特に子供たちには道徳教育として、しっかりと植えつけねばなりません。大人もまたこのことを自覚し、社会人として守らねばなりません。交差点の近くに車を駐車したり、電車の中で携帯電話の会話をしてはなりません。当然のことです。
もちろん、「私は誰にも迷惑なんてかけません」「いつも正しいことをしています」と言い張る人もいます。自分は迷惑をかけることなど何もしていないと言いたいのでしょう。これは日常の会話としては、何ら不自然さはありませんし、よく耳にすることです。
しかし、よくよく考えてみてください。私たちは本当に迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか。皆様はどのように思われますでしょうか。
実は私たちは、人に迷惑をかけずには絶対に生きられないのです。まず、子供の頃にダダをこねたり、言いつけに背いて親に迷惑をかけています。衣類を汚したり、部屋を散らかしては迷惑をかけています。これは、大人になっても同じです。忘れ物をしませんか。約束の時間を守っていますか。イライラしてまわりの人を困らせていませんか。ささいな一言で相手を傷つけていませんか。
私などは、迷惑をかけずに一日として生きていくことはできません。食べるのが早いので急かされると言われては、迷惑をかけています。忘れ物はいつものことで、迷惑をかけています。蔵書を事務所に積み上げては迷惑をかけています。パソコンやスマホが苦手で、迷惑をかけています。
そして、最も重要なことは、自分では気づかないうちに、たくさんの迷惑をかけているという事実なのです。この事実は誰でも共通のことでありながら、その認識にはかなりの隔たりがあります。つまり、そのことを認識しているかどうかは、人としての大きな分かれ道になるのです。
私たちは迷惑をかけてはいけないという道徳的センスと、迷惑をかけずには生きられないという宗教的センスが共に必要です。道徳はしっかりと守らねばなりません。しかし、守れない自分がいるという矛盾にも気づかねばなりません。そして、すべての宗教はここから始まることも知らねばなりません。皆様は宗教的センスをお持ちでしょうか?
地鎮祭はなぜ必要か
令和3年5月23日
先日、ある木工会社社長さんの自宅を新築するため、地鎮祭を挙行しました。最近は地鎮祭の必要性を理解し、依頼される建主の方が少なくなったことは残念でなりません。それというのも、施工の工務店が家を建てることの本当の意味を理解し、それを説明することがないからです。何ごとも営利第一で、手間をかけるのが面倒なのでしょう。会社の発展や技術の向上には力を注ぐものの、昔からなぜ地鎮祭という儀式を行って来たのかを考えようともしません。
今でも本当の大工さんなら、必ず地鎮祭をすすめます。それでも建主が不要だと言い張るなら、自分たちだけででも簡単な〝おきよめ〟をするはずです。たぶん、お酒と塩ぐらいは用意して、充分にお祓いをしてから仕事に取りかかることでしょう。それが請け負った大工としての仕事の作法であるからです。
では、地鎮祭はなぜ必要なのでしょう。そもそも、人はよく土地や家を〝買った〟と言います。もちろん不動産の物件ですから、けっしてお安い買い物ではありません。おそらく、人生の中で最も高い買い物であったはずです。また、長いローンを組んで、何十年もかけて支払いを続けているという方も多いはずです。
しかし、買ったというその土地や家は、いったい誰のものでしょう。もちろん、法律上は買主のものに間違いはありません。しかし、その前にも持ち主がいました。そして、その前にも、またその前にも持ち主がいました。そうすると、その土地は本来、この地球が出来て以来のその土地の神さまのものということになるのです。土地を買い、家を建てると言いますが、実は神さまから〝預かる〟ということなのです。どんなに大金をつぎ込んでも、それはあくまで、預かりものに過ぎません。
だから、預かる以上は挨拶をするのが当たり前です。その挨拶が、つまり地鎮祭なのです。世の中には様々なトラブルがありますが、その原因は何かというと、それは挨拶をしないからなのです。お世話になったなら御礼を、ご迷惑をかけたならお詫びをすべきであるのに、その挨拶がなければトラブルになるのは当たりまえです。だから家を建ててそこに住む以上は、神さまに挨拶をすべきなのであり、それが地鎮祭なのです。
地鎮祭をせずに家を建てると、中古住宅であれば入居前の挨拶(お祓い)をしないと、かなりの確率でトラブルが生じます。私は長年の経験から、そのことを知っています。このブログを読んだ方は、このことを肝に銘じましょう。家を建てる前には必ず地鎮祭を、中古住宅に入るなら、その前に必ずお祓いをしましょう。これ、当然のことですよ。
人はどうしたら変わるのか
令和2年10月16日
あさか大師で得度(仏門に入る儀式)をして真言密教の教えを学び、修行をする方が増えてまいりました。
得度をして最初に何をするかと申しますと、〈礼拝加行〉という修行から始めます。これは〈五体投地〉といいまして、右ひざ・左ひざ・右ひじ・左ひじ・額の五か所を床に着ける礼拝を百八回くり返し、その後に経典や真言をお唱えする修行です。これを続けますと足腰が痛んだり、膝から血が出たりしますが、結願(終了)する頃にはいかにも僧侶らしく法衣も似合って来ます。また体つきも顔つきも変わって来ます。
どうしてかといいますと、ヨガ(真言密教では瑜伽といいます)よって体と心を同時に修行するからです。礼拝というヨガのポーズは、頭を下げることにより慢心を除くはたらきがあるからです。つまり、人間を変えるためには、体も心も同時に変えることが重要なのです。道徳と宗教は何が違うのかと申しますと、道徳は心の教えを説きますが、宗教は心の教えを説くと共に体を使って修行をするという点にあるのです。体と心は一つなのです。心を変えるためには体も変えねばなりません。
また、体と心の間には言葉があります。体のはたらきと心のはたらきを兼ねるのが言葉です。お経や真言をお唱えするのはそういう意味です。道徳の教えも大切ですが、尊前に礼拝し、お経や真言を唱え、仏さまのお顔にうっとりすれば、人は必ず変わります。さらに美しい仏具やお香のかおりに触れれば、もはや申し上げるまでもありません。
現代は「まわれ右!」すらできない子供たちがたくさんいます。授業に集中できない子供たちもたくさんいます。それは教育というものを、心の問題としてとらえ過ぎるからです。スポーツや山歩きをしてクタクタになれば、何かが変わるのです。声に出す訓練をくり返せば、何かが変わるのです。昔の人がお百度やお遍路、また滝修行や山岳修行を重んじたのはその意味です。授業の勉強も大切でしょうが、人間の育成にはクラブ活動が大切だと、私はいつも思っています。
「政」とは「祭りごと」
令和元年11月10日
今日は「祝賀御列の儀」のパレードで、日本中がわきました。
午前中より来客があり、午後は弟子の一人に伝授もしましたが、午後2時半に体が空きました。テレビでその祝賀パレードを拝見しましたが、まさに両陛下と国民が一体になった感じです。人間どうしが一体になるには、祭典や儀式が必要なのだと思いました。つまり、「政」とは「祭りごと」だということです。お祭りをすることが、政治の根本なのです。
全国各地にいろいろなお祭りがありますが、人はこれに参加するから一体になれるのです。秋に稲の収穫があれば、それを地元の神社にお供えしてお祭りをします。その後で、みんなで直会(食事)をします。だから仲よくなれるのです。言葉で「みんな仲よくしましょう」などといっても、たかが知れています。つまり、人間社会には祭典や儀式が、つまり宗教が必要だということなのです。
もちろん、「祝賀御列の儀」に宗教色はありません。しかし、行例を組んで進み、集まった人々と共に喜び合う祭典や儀式は宗教の真骨頂といえましょう。そして、それによって一体感が生まれ、よい政治ができるのです。両陛下も総理も官房長官も、今日は最もよい政治ができたのです。
それにしても、両陛下は沿道の国民に笑顔を絶やさず、4・6キロ、30分間の距離を、休むことなく手を振り続けられました。私たちには理解し得ないご苦労があったはずです。日本人のほとんどは皇室を大切に思っています。絶えることなく存続していってほしいものです。
日本の英知
令和元年8月18日
今日も炎暑の一日でした。それでも毎月第三日曜日の恒例行事に、皆様がお集りくださいました。小さなお孫様までもご参加いただき、いっしょに回向の読経をしました(写真)。
お子様やお孫様がこのような行事に参加すれば、教えずともご先祖を大事にするようになります。そして、両親がその両親を大事にする姿を見れば、ご自分が大人になった時、必ず両親を大事にします。お寺の行事はここがすばらしいのです。楽しく参加し、読経や太鼓の響きを記憶し、法話を聞いたりお菓子をいただいて過ごすうちに、自然に身につくものがあるからです。道徳は言葉で教育をしますが、宗教はその儀礼によって無理なく教育ができるのです。だから、人間社会には宗教が必要なのです。
日本人はよく〈無神論〉であるとか〈無宗教〉であるとか言いますが、外国人からすればおかしな人種です。また、それはとても恥ずかしいことです。この国は遠い先祖を神棚に、近い先祖を仏壇にお祀りして来ました。これは世界に誇れる日本の英知なのです。
お盆は過ぎましたが、どうかご先祖を大事にする姿を、お子様やお孫様に見せてください。そのためにも、ぜひお寺にお越しください。