道徳的センスと宗教的センス

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宗教

令和4年9月14日

 

私たちは子供の頃から、家庭でも学校でも、「人に迷惑をかけてはいけません」と教えられて来ました。そして、自分でも人に迷惑をかけてはいけない、迷惑をかけることは悪いことだと思って生きて来ました。これは大切なことで、社会ルールとして身につけねばなりません。特に子供たちには道徳教育として、しっかりと植えつけねばなりません。大人もまたこのことを自覚し、社会人として守らねばなりません。交差点の近くに車を駐車したり、電車の中で携帯電話の会話をしてはなりません。当然のことです。

もちろん、「私は誰にも迷惑なんてかけません」「いつも正しいことをしています」と言い張る人もいます。自分は迷惑をかけることなど何もしていないと言いたいのでしょう。これは日常の会話としては、何ら不自然さはありませんし、よく耳にすることです。

しかし、よくよく考えてみてください。私たちは本当に迷惑をかけずに生きていけるのでしょうか。皆様はどのように思われますでしょうか。

実は私たちは、人に迷惑をかけずには絶対に生きられないのです。まず、子供の頃にダダをこねたり、言いつけに背いて親に迷惑をかけています。衣類を汚したり、部屋を散らかしては迷惑をかけています。これは、大人になっても同じです。忘れ物をしませんか。約束の時間を守っていますか。イライラしてまわりの人を困らせていませんか。ささいな一言で相手を傷つけていませんか。

私などは、迷惑をかけずに一日として生きていくことはできません。食べるのが早いのでかされると言われては、迷惑をかけています。忘れ物はいつものことで、迷惑をかけています。蔵書を事務所に積み上げては迷惑をかけています。パソコンやスマホが苦手で、迷惑をかけています。

そして、最も重要なことは、自分では気づかないうちに、たくさんの迷惑をかけているという事実なのです。この事実は誰でも共通のことでありながら、その認識にはかなりのへだたりがあります。つまり、そのことを認識しているかどうかは、人としての大きな分かれ道になるのです。

私たちは迷惑をかけてはいけないという道徳的センスと、迷惑をかけずには生きられないという宗教的センスが共に必要です。道徳はしっかりと守らねばなりません。しかし、守れない自分がいるという矛盾にも気づかねばなりません。そして、すべての宗教はここから始まることも知らねばなりません。皆様は宗教的センスをお持ちでしょうか?

山路天酬密教私塾

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