山路天酬法話ブログ
納棺師の仕事
令和元年8月14日
久しぶりに葬儀が入り、納棺師を依頼したというので、初めて立ち会いました。
私はお護摩ばかりは毎日修していますが、稀には葬儀の導師も務めています。二十代で僧侶になった頃は、「葬式坊主にはならんぞ!」などと意気込んでいましたが、今ではその非を深く恥じています。生死を説くのが仏教であるなら、葬儀こそは僧侶の大切な責務でありましょう。
当然ながら納棺師もまた、死者を大切に見送るための重要な仕事です。私が子供の頃は寺の住職が納棺作法をなし、今どきの葬儀社の仕事をすべて取り引きっていました。しかし、葬儀社の進行が主体の現代セレモニーにおいては、住職が納棺作法をすることはほとんどありません。それだけに、たとえ葬儀社の下請けであったとしても、納棺師の仕事は需要が高まることでしょう。
特に事故死によって遺体が破損している場合、遺族のショックをやわらげ、対面しやすいよう修復や化粧を施すことには重要な意味があります。すなわち、悲しみに寄り添いながら、おだやかな雰囲気を作るりだせるのも納棺師ならではの技術であるからです。
また病死や老衰死であったとしても、現代人は死者を〝明るく〟見送りたいという意向があります。昔は通夜や葬儀の席で、歯を向いて笑うなどという行為はタブー中のタブーでしたが、現代人は平気で笑います。遺影もタレントなみの仕上げができますし、骨壺も自分の好みで選ぶ時代です。このことは、死を明るい視点でとらえ、往生への心得を理解するうえでも、よい傾向であると私は思います。
修復や化粧によって美しく施された死者は、親類や会葬者に対しても礼を尽くせましょう。特定の資格はなく、社会的にも特殊な分野ですが、納棺師の仕事は大きな〈功徳〉を生むはずです。
毎日100枚のハガキを出した人
令和元年8月13日
私が上京した昭和40年代、官製ハガキは一枚10円でした。つまり、一ヶ月間にハガキを毎日一枚ずつ出しても300円です。
一人で東京に移り住んだ私は、右も左もわからず、どうしたものかと悩んだものでした。そこで毎日、日記のつもりで父にハガキを出すことから始めました。つまり、300円の最も有効な使い道はコレだと考えたからです。
たかがハガキ一枚とはいえ、父が保管をするだろうと思えば、うかつには書けません。それでも、見ず知らずの東京の様子を、少しずつ報告していきました。一ヶ月もするとだんだんに慣れ、わずかな時間で書き上げられるようになりました。
毎日のハガキは、出し始めて一年後のその日、「今日で最後にします」と記して終了しました。後年、私がまずまず筆まめになれたのは、この時の経験が役立ったように思います。そして、たった一枚のハガキの重みまでも知り得たように思います。電話の方が楽だとわかっていても、やはりハガキ一枚の意義は大きいはずです。貴重な経験をしたと今でも思ってます。
ところが、先年亡くなった作家でタレントの永六輔さんは、毎日100枚のハガキを出していたという事実を最近になって知りました。上には上があるものです。取材した方はもちろん、番組仲間、先輩、後輩、友人など、車内で喫茶店でホテルでと、 毎日、トータル2時間はかけていたというのです。もちろん、その文面は、「先ほどはありがとう」「お疲れさまでした」「またいつか、どこかで」といった簡単なものです。でも、これを毎日100枚を出し続けるということは、並みたいていの努力ではありません。
私は永六輔さんの著書は二冊ほどは読みましたが、格別なファンであったわけではありません。でも、この事実を知ってから、急に親しみがわきました。楽しそうに出演している影で、こんな努力があったというお話です。
馬子にもミスト
令和元年8月12日
猛暑をしのぐ工夫として、あちこちでミストが使われるようになりました。このようなアイデアは、現場の炎天下にさらされねば思いつかないことです。「何とかならんのか!」という状況の中でこそ、今までにない発想が生まれるのでしょう。
あさか大師の隣りに特別養護老人ホーム〈花水木の里〉があり、イングランド・ポニーの「はなちゃん」がいます。ホーム入居者の癒しを目的に飼育していますが、散歩の途中で境内へも入って来ることがあります。久しぶりに馬屋を訪ねましたら、軒下にミストが付けられていました(写真)。わかりにくいと思いますが、右上に細いホースが設置され、ここからミストシャワーが降りかかっています(写真には写りませんでした)。

はなちゃんは、これだけでもかなり涼しくなるのでしょう。思ったより元気で、私が持参したニンジンもアッという間に食べました。
いつもの講釈ですが、〝涼しさ〟とは暑さと寒さの中間ではありません。連日の猛暑の中、このミストにありついてこそ涼しさを感じるはずです。つまり、この猛暑がなければ、涼しさは感じ得ないのです。これすなわち、苦しみがなければ楽しみは味わい得ず、煩悩がなければ菩提には転じ得ぬという道理にほかなりません。馬子にもミスト、馬子にも説教。はなちゃん、わかりましたか?
自由はあるのか
令和元年8月11日
皆様は〈自由〉に憧れますでしょうか。
こんな会社は早くやめて自由になりたい、イヤなあいつから解放されて自由になりたい、お金にも時間にも困ることなく自由になりたい、と、こんなふうに思っていらっしゃるでしょうか。さっそく、うなずいていらっしゃる方のお顔が浮かぶようです。
残念ながら、この世に自由など、どこにもないのです。まず、この世に生まれて、生きていくことそのものが苦しみです。過酷な競争の中で闘わねばなりませんし、厄介な人ともつき合わねばなりません。次に、どんな人にも確実に老いがやって来ます。いくらコラーゲンやヒアルロン酸を塗っても顔のしわは増えますし、足腰も不自由になることは否めません。次に、誰でもいずれは病気になります。現代は病気に無縁な人ほど、気をつけねばなりません。健康を自慢していても、やがてはどこかを患います。そして、どんな人も、必ず死を迎えます。大事な家族とも別れねばなりません。そのほか、憎しみあう苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、求めても得られぬ苦しみ、この身に受けるあらゆる苦しみなど、これらを仏教では〈四苦八苦〉といいます。
生活するうえでの規制もあります。お腹がすいたら食事をとらねばなりませんし、一日が終われば睡眠をとらねばなりません。入浴もせねばなりませんし、トイレにも行かねばなりません。多忙な時ほど仕事が増え、出かけようとすれば電話が入ります。買い物をすれば並ばねばならず、車に乗れば渋滞に巻き込まれます。いったい自由など、どこにあるというのでしょうか。
だから、生きていくことは苦しいものだと、まずは受け入れることです。受け入れれば楽になりますし、別の世界が開かれます。不自由であればこそ人生を大事にします。そして、時間を大事にします。健康を大事にします。それだけ、人生を価値あるものにできるのです。苦しみを受け入れてこそ〈楽〉が味わえるように、不自由を受け入れてこそ〈自在〉に生きられるのです。自由ではなく、自在なのです。これこそ、観自在菩薩の自在なのです。
黒のタイトル
令和元年8月10日
松本清張の小説は、若い頃にほとんどを読みました。
実は、彼の小説には『黒の様式』『黒の本流』『黒皮の手帳』『黒地の絵』『黒い画集』『黒い福音』など、〈黒〉のつくタイトルが多いのです。また、小説以外でも『日本の黒い霧』があり、まるで黒の呪縛にかかったような印象すら受けます。このことを、皆様はどのように思いますでしょうか?
松本清張は明治42年(1909)12月21日、北九州市小倉の生まれで、本命は一白水星です。このことは、彼の人生や小説を理解するうえで、きわめて重要な意味があることをお話しましょう。
一白水星には思索・秘密・読書・執筆・色情・不倫・犯罪・暗黒・孤独などの意味がありますが、このような言葉の列記だけでも、あの分厚い眼鏡をかけてタバコをふかしている象徴的な写真が浮かぶようです。寛容な見方をしても、彼の小説は明るい家庭よりは夫婦の破綻、居酒屋での楽しい宴会よりは暗くて孤独なバーなのです。
ところで、一白水星には〈白〉と共に、反対の〈黒〉の象意があります。なぜかといいますと、〈水星〉の性を考えればすぐにわかります。水は高い所から低い所へと流れます。暗い穴の中へも自由に入れます。だから、穴の中の暗い黒の象意があるのです。
松本清張にとって、黒は人生のテーマといっても過言ではありません。そして、一白水星を代表する人物として、私はいつも彼を引き合いに出しています。久しぶりに『松本清張傑作短編集』でも読んでみましょうか。
房藤空木(ふさふじうつぎ)
令和元年8月9日
炎天が続く中、とても涼しげな花をいただきました。
和名をフサフジウツギ(房藤空木)といい、西洋ではブッドレアの名が付けられています。イギリスの植物学者で、牧師でもあったバドルにちなんだそうです。正面からは見えにくいと思いますが(写真)、藤の花のように長く、はじめはトラノオ(虎の尾)かと思ったほどでした。白花以外では紅・紅紫・濃紅紫などがあります。

私は花については何の技術もないので、ただ一輪ばかりをそのまま挿しました。それでも、花の本はかなり買い込みましたし、家元茶花の本もどれほど読んだかわかりません。しかし、生け花ばかりはどうしても馴染めず、やはり〝素人の花〟こそ性に合っているようです。
素人といえば旅館や料理店、また古美術店には大変に上手な方がいます。お客様をおもてなしするその配慮に心引かれ、私もそれを見習っています。大事なことは〝さりげなく〟挿すことで、技術ばかりが目立つと、嫌味たらしく感じます。
私がどうして生け花に馴染めないかというと、いかにも「どうだ!」とばかりに、見栄を張るからです。無理にも枝をねじ曲げ、息が出来ぬほど挿し込み、まるで上座から見下すような構えです。目立つための技術としか思えません。
かつて、宗門の新聞に連載した花の写真とエッセイは、半分は『邑庵花暦』(創樹社美術出版)と題して刊行しましたが、残りの半分がまだ眠ったままなのです。いつかは皆様の目に止まるよう、努力しましょう。はたして、花は野にあるように、挿せましたでしょうか。
1010回目のYES!
令和元年8月8日
赤い建物の前で白いスーツを着たおじいさんの人形を、駅前などで見かけます。皆様もご存知と思いますが、ケンタッキー・フライドチキンの創業者であるこのおじいさんをカーネル・サンダースといいます。私はフライドチキンを食べることはほとんどありませんが、彼について知っていることをお伝えします。
彼は1890年、アメリカのインディアナ州に生まれました。幼くして父を失い、工場で働く母を助けるために、6歳で料理を始めました。そして、7歳の時に焼いたパンを母から絶賛され、「おいしいもので人を幸せにしたい」と願うようになりました。
10歳の折、貧しい家計を補うために働きに出で以来、実に40種以上の職業を転々としました。ひと時は軍隊にも入りましたが、1年で除隊となり、波乱な青春を送りました。30代後半にガソリンスタンドを起業し、その一角に小さなレストランを開きました。料理の評判も良くまずまず繁昌しましたが、近くに新しいバイパスが出来たために車の通行が途絶え、倒産しました。すでに65歳でした。
多額の借金をかかえて途方に暮れていた彼は、秘伝のスパイスを使ったフライドチキンのレシピを売るため、たった一台の車で全米を走り回りました。ホテル代を節約して、車内で寝起きもしました。しかし、どれほどに各地を回っても、70歳近いおじいさんのレシピになど、誰も耳を貸しません。「NO!」と断れた数、1009回といわれています。しかし、彼の不屈の精神は、ついに1010回目にして「YES!」の契約を得たのでした。
そのフライドチキンはまたたく間に評判を呼び、73歳にして600店舗のフランチャイズビジネスを成功させました。その後は〈味の親善大姉〉として世界中を回り、90歳で他界しました。
このお話で私が忘れられないのは、1009回断られても、なお次の1010回目のドアに立ち向かうその勇気と情熱なのです。また、それくらいでなければ、あのような富豪にはなれないことも知りました。私などにはとても及ばぬ偉業ですが、脳裏の片隅でいつも輝いているエピソードです。
彼のモットーは、「できることはやれ!」「やるなら最善をつくせ!」でした。
ひらめきが起きる時
令和元年8月7日
突然に、いい方法やアイデアや浮かぶ時があります。いわゆるひらめきが起きる時です。
よく言い伝えられるお話としては、散歩の途中、お風呂の中、うたた寝の後などでしょうか。共通していることは、気持ちがリラックスしてということです。では、リラックスさえしていれば、いつでもひらめきが起きるのかといえば、そうはいきません。ひらめきが起きるには、また別の条件があると思うのです。
だいぶ以前のことですが、ある日の朝刊で、GYXYZ(ジザイズ)という会社の社長・横井恵子さんの記事を読みました。彼女はネーミングという新分野を開拓したユニークな経営者です。つまり、会社やブランド品の名前をつけることを仕事にしています。彼女が手がけた代表作は〈NTTドコモ〉〈au〉〈りそな銀行〉〈あいおい損保〉〈日興コーディアル証券〉などですが、その手腕は驚くばかりです。
「どんな時に名前がひらめきますか?」という記者の問いに対して、彼女は「私にはひらめきなんてありません。考えて考えて、しつこく、またしつこく作り上げていくのが私の流儀です」と答えています。私はこの答えが忘れられず、ひらめきに対するバイブルとさえ思っています。
私たちはひらめきというと、ただ、黙っていても降って湧いて来るようなイメージを持ちがちですが、そうではないのです。考えに考えを重ね、さらに時間をかけてそれを熟成させ、時には忘れ、また考えを重ねて尽き果てた時に、ひらめきが起きるのです。つまり、努力が尽き果てねば、人事を尽くし切らねば、ひらめきなど起きようはずがないのです。
「人事を尽くして」などと簡単に言いますが、本当に人事を尽くし切れば、待たずしても天命はやって来るのです。そのためには、努力に加えて〝運〟も必要です。そして、その運もまた努力が引き寄せるのです。待っているだけでは、ひらめきなど起きようはずがありません。
横井さんのお話に出会えたのは、私の生涯の宝です。今でもその切り抜きを、大切に保管しています。
仏壇の水になぜ泡が立つのか
令和元年8月6日
お盆が近いので、また霊的なお話をします。
皆様は仏壇にお供えしたコップの水に、泡が立った経験がありましょう。これを良い意味に解釈する人もおりますが、たいては悪い意味に受け取る人が多いはずです。私はこのことが大変に気になっておりました。はじめはコップの器内にヌメリがついて、それで泡が立つのではないかと考えました。しかし、コップを洗わずに使用しても泡を見ることがなく、この考えは違っていたようです。
この現象に対して、私は科学的な見解と信仰上の見解と、その両面から考えています。
科学的な見解を申し上げますと、水道の蛇口に至るまでの水圧と温度によって泡が立つようです。遠い所や高い所まで運ばれた水道水は高い圧力を必要とするため、空気の分子がたくさん水中に溶け込みます。また、水中の温度が低いほど多くこれに比例します。これをコップに移した場合、圧力が低く室温が高いために、再び気体となって器内に現れます。これが泡の正体です。
しかし、こうした科学的な見解だけでは、どこかに物足りなさを感じることは否めません。物理現象として理解はしても、「なぜそうなるのか?」という問いに対する答えにはならないからです。たとえば、「生命はなぜ生まれるのか」という疑問に対して、どのような科学的な見解も何ひとつ答えにはならないのと同じです。
私は科学的な必然性をふまえて、その偶然性に意味を見い出すべきではないかと考えています。水道の蛇口に至るまでの必然性をどのように説明しようと、その場所とその時間に汲まれたその水の偶然性を否定することはできません。仏壇のコップに泡が立った時は、〝何かのお知らせ〟ほどの解釈をしてもよいいのではないでしょうか。命日を忘れているかも知れませんし、お墓の草が伸びているかもしれません。よく考えてみることです。
霊的な妄信に走って、非常識にはなりませぬよう。常識に生きて、少しだけ〝超常識〟をわきまえましょう。
『光明真言法』の出版
令和元年8月5日
昨日の続きなのですが、このたび私は行法次第としての『光明真言法』を出版しました(写真)。表題も梵字も印図も自分で浄書し、人生の集大成とさえ考えているほどのものです。その趣旨は回向法要の次第として普及してほしいという願いと、後進の皆様への指導を目的としたものです。

真言密教で回向法要をする場合、一般には〈理趣三昧〉という行法を修し、大変に普及しています。ただ、僧侶の方々が立派な法衣をまとって声明や経典を唱えますが、参詣者はほとんど黙って聞いているだけの時間を過ごします。私はこのことが大変に不満で、法要とはご本尊と僧侶と参詣者が一体になるべきだと考えています。
どんな読経をするかはともかく、少なくとも僧侶と参詣者がいっしょにお唱えする時間を工夫すべきではないでしょうか。その点、光明真言法要は参詣者が唱える〈在家勤行式〉にも合わせて修することができますので、特に至便です。
また、この行法には〈土砂加持〉という、白色の砂(お土砂)を光明真言で祈念する作法が加わります。お土砂の一粒一粒が、如意宝珠となるよう祈念を込める作法とご理解ください。そのお土砂を参詣者が持ち帰って適所に蒔けば、葬儀や墓参に無限の功徳がありますし、そのほかにも、いろいろな用途に応じることができます。私は毎年、3月21日のお大師さまの日に、これをお配りしています。関心のある方は、ぜひお越しください。そして、光明真言のさらなる功徳を体験してください。不思議なことがおこりますよ。

