山路天酬法話ブログ
盂蘭盆会法要
令和2年7月5日
あさか大師では昨日と本日、午前11時半にいつものお護摩を、午後1時には早くも盂蘭盆会法要を修しました。新型コロナウイルスの感染者数が再び上昇し、参詣を断念した方々もいらっしゃいますが、まずは集まった皆様と共に精霊回向の法要を修しました。そして、お施餓鬼の説明をして(写真)、全員でその作法も修しました。

得度をなさった僧侶の方々も声明に慣れ、お稽古の成果がよく出ていました。努力が実ってすばらしいと思い、よかったと思いました。ただ、私の法要に対する考えは、参詣者の方々との一体感を重んじることです。立派な声明や『理趣経』の読誦も大切ですが、「在家勤行式」を活用して、僧侶と参詣者が共に読経することが肝要ではないでしょうか。参詣者の方々は、皆様とても熱心なので、太鼓の響きに合わせて光明真言が堂内に遍満します。その唱和は「おみごと」としか言いようがありません。
今月はまた三名の方が得度を受けますので、法衣の着用を指導したり、その打合せをしました。また、加行(教師になるための修行)の伝授もしました。すべてが終わった後は、さすがに疲れました。今日はこれで失礼させていただきましょう。
「霊障」とは何か
令和2年7月2日
先の大戦では、多くの青年が「特攻隊」として飛行場や空母から離陸し、その若い命を散らしました。
では、その特攻の青年たちは何と叫んで敵艦に突撃したのでしょう。「天皇陛下万歳!」と叫んだでしょうか。多くの皆様が、そのように思っていらっしゃるはずです。しかし、実際は違うのです。では何と叫んで、人生の最後を遂げたのでしょうか。私はよく父から聞かされました。「お母さーん!」と叫んだはずだ、と。そして、その胸のポケットには、多分に母親の写真を忍ばせていたはずだ、と。
私の兄は二十七歳の短命に終わりました。亡くなった後にその遺品を整理していましたら、財布の中に、何と母親の小さな遺影が入っていました。私たち兄弟の母もまた三十三歳と短命でした(私が僧侶になろうと決心した理由の一つです)。生前は母の仏壇に線香ひとつお供えしたことのない兄でしたが、私はこの事実に驚きを禁じ得ませんでした。
つまり男性というものは、常に母親を思うということです。母親を思い、母親から愛情を受けたいと、そう思って生きているのです。母親の乳を吸い、母親の「おふくろの味」で育ち、母親からやさしい言葉をかけてもらえることに無上の喜びを感じるからです。だから、母親との関係を悪くして育った場合、その男性には必ず問題が生じます。
これはなぜかというと、男性というものが多くは母方の血を引くからです。陰陽の牽引関係から、そうなるからです。私は長年にわたって人の相談に応じていますが、このことには確信があります。その男性の母方の、祖父母のいずれかに似るからです。だから、男性に何かの問題がある場合、「母系供養」が絶対に必要だということです。これは霊が〝たたる〟などという意味ではありません。いつもお話していますが、この世とあの世は同じものです。一対の鏡が写し合うように、一対の音叉が共鳴し合うように、同時にあるからです。つまり、私たちはこの世とあの世を共に生きているということです。「霊障」という言葉がありますが、あの世の苦しみがこの世の苦しみとなって、共に現れるということです。〝たたる〟のではなく、同じ苦しみを背負い、同じ苦しみを分かち合っているということです。
もう、余白がなくなりました。女性はもちろん、父親を思い、父方の血を引きます。特に父親との関係が結婚運に大きく関わることは、以前にも書きました。だから、女性は特に「父系供養」が大切だということです。おわかりですね。
母系供養の大切さ
令和2年7月1日
今日から七月に入り、東京近郊では早くもお盆です。スーパーでもお盆用品が並んでいます。お寺でも施餓鬼法要の準備に取りかかっています。近頃は主婦でもパートなどで留守が多く、いわゆる棚経(檀家の精霊棚で読経するおつとめ)もめっきり減って来ました。それでもお盆ともなれば、墓参をして先祖供養を心がける方は多いはずです。
ところで、私は毎日のお護摩でご祈祷もしますが、実は先祖供養にも力を入れています。朝一番にお大師さまの前で勤行をした後、必ず光明真言の土砂加持(砂粒を如意宝珠として供養する行法)を修しています。土砂加持を修することにより、ご祈祷の威力が一段と高まることを確信しているからです。
その先祖供養のことですが、一般にはどうしてもご自分の家だけに片寄りがちです。というより、ほとんどの方がそれを当然のごとくに考えています。男性はたいていは父方の姓を名乗っています。女性は結婚すれば、実家のことなど口出しすることもありません。そして出生のルーツなど問うこともありません。しかし、これはおかしなことです。私たちは父母両家から生まれて来たのです。戸籍上の問題ではありません。それが血の流れというものです。父方はもちろんですが、母方の供養をおろそかにしてはなりません。私はこれを称して「母系供養」と呼んでいます。
私はホームページでも説明(信仰と供養のイメージ図参照)しているとおり、人の生命を一本の樹木にたとえています。父母両家の根があって、私たちは生かされています。成長すれば枝が伸びて葉もつきます。根が強くて十分な水分や栄養があれば、つまり父母両家の供養が十分であれば、立派な実がなるのです。風通しをよくするために枝おろしをしたり、虫がつかぬよう薬剤を用いることも必要でしょうが、根本は地中の根(まさに根本!)にあるのです。
この樹木の図を示して説明すると、多くの方が共鳴して納得し、私の土砂加持に参加してくれます。ところが、肝心な僧侶の方は、こうしたお話にあまり興味を示しません。もちろん先代住職の回忌ともなれば、法要をいたしましょう。またお寺の庫裡(住居)には仏壇がありましょう。そして、仏飯や茶を供えましょう。しかし、どうでしょうか。奥様の実家やその母方のことなど、ほとんど関心を持ちません。「母系供養」の大切さを忘れています。
私は一般の方はもちろんですが、僧侶の方にこそ「母系供養」の大切さを理解していただきたいと願っています。そして、それが血の流れに根ざした本来の先祖供養であることを理解していただきたいと、切に願っています。
肝のすわった僧侶
令和2年6月30日
宮城県の松島は「日本三景」の一つに数えられる、天下の名勝です。そして、松島の古刹といえば瑞巌寺です。伊達政宗ゆかりの寺としても有名ですが、幾多の変遷を経て、江戸時代に雲居禅師によって興隆しました。この雲居禅師、松島の中の〈雄島〉と呼ばれる小島の岩窟がよほど気に入ったのか、毎日ここで座禅をして、深夜に寺に帰るのが日課になっていました。瑞巌寺からさほどに遠い距離ではありませんでしたが、老杉や古松がうっそうとして昼でも薄暗い道です。村の人々は気味悪がって、めったに通ることもありませんでした。
さて、村の若い者が集まれば、いたずら心と遊び心は常のこと。いったい、この禅師がどのくらい度胸がすわっているのか、試そうじゃないかということになりました。つまり、何とかして驚かせてやろうということになったのです。
禅師が雄島から帰る時刻はわかっていましたから、おのおの、それぞれの部処について待ち受けることとなりました。墓場の影に隠れる者、木に登ってうかがう者、うずくまって待ち受ける者、それぞれです。それぞれの所で、禅師が近づいたら、仰天させてやろうと若者たちは得意げでした。
夜はしんしんと更けわたり、一面は妖気につつまれる頃となりました。そろそろ、禅師が帰る時刻です。すると、かなたよりゲタの音を運ばせながら、禅師が静かに近づいて来ました。若者たちは息をのんで、これを待ち構えました。
ある松の下に差しかかったその時、樹の上から禅師の頭をグッとつかんだ〝もの〟がありました。禅師は身じろぎもせず、ただ立ち止まって動きません。つかんだ方も、息を殺して動きません。ウンともスンとも言わず、静寂の時間が続きました。つかんだ方は決まりが悪くなりました。気がぬけてしまったのです。仕方なしに、つかんでいたその手をそっと離しました。手が離れると、禅師は何ごともなかったかのように、また歩き出して寺に帰りました。
その翌日、若者たちは何くわぬ顔つきで禅師のもとを訪ねました。そして談たけなわの頃、あの森では妖怪が出るなどと、知らんふりをして話題に出しました。そこで禅師は、こう語りました。
「うん、昨夜は松の木の下で頭をつかまれたよ。じっと立っていたら、だんだん五本の指先が暖かくなってな。妖怪ではないとわかった。人間の臭いじゃったよ。そういえば、お前さんたちのこの臭いと同じじゃったなあ」
若者たちはほうほうの体で逃げ去りました。肝のすわった僧侶とは、こういう方のことなのでしょう。さすがですね。
三遊亭圓朝の誕生秘話
令和2年6月29日
初代・三遊亭圓朝は、幕末から明治にかけて活躍した落語家です。落語中興の祖と呼ばれ、歴代名人の筆頭ともされています。特にお笑いの滑稽噺より人情噺の評価においては、古今独歩の地位にあるといえましょう。
もちろん、名人として世に知られるまでには、並々ならぬ辛苦があったことは申すまでもありません。まだ小圓太と名乗っていた修行時代、師匠の圓正の家では、お使いや掃除ばかりさせられていました。師匠が寄席に向かう場合も、当然お伴としてついて歩かねばなりません。電車もバスもありませんから、遠い道のりでも師匠の荷物を持って歩けば、疲れもするし、空腹にもなります。
ある冬の夜、師匠がめずらしく「蕎麦でも食っていくか」と言って、暖簾をくぐりました。小圓太は自分も一杯食べさせてもらえれば、冷え切った体も温まるだろうと喜びました。ところが席に着いたのは師匠だけで、しかも天ぷら蕎麦とお酒を一人前しか注文しません。そして、お酒を飲みながら天ぷら蕎麦をうまそうに食べてしまうと、さっさとお代を払って出て行きました。そして、後ろをふり向くと、「蕎麦が食いたかったら、早く真打(高座で一番の出演者)になれよ」と、それだけでした。
弟子入りして二年余りになっても、一度として噺の稽古をつけてくれません。とうとう我慢できずに、そのことを師匠に願い出ました。すると師匠は、「では寒いだろうが、明日は夜明けまでに来い」と言います。翌日、小圓太は眠気も寒さも忘れて、師匠の家に駆けつけました。ところが、言いつけられたのは庭掃除です。小圓太が池のところを箒ではいていると、師匠がいきなり氷の池に突き飛ばしました。氷を砕いて全身ずぶぬれです.それでも、凍える体で着がえを済ませて庭に出ると、師匠がスズメに米粒を撒いていました。一羽のスズメが食べ終わると、樹の枝にとまりました。また別の一羽が食べ終わると、一段上の枝にとまりました。師匠はそれを、ジーッと見つめています。そして、「もう、稽古は済んだぞ」と言うのです。小圓太は何のことやらわかりません。そして、師匠が言いました。
「高座で空腹の噺をする時は、あの蕎麦のことを思い出せ。眠い時や体が凍えた時の話をする時は、さっきのことを思い出せ。そうすれば、噺が真に迫る。このスズメを見ろ。下のスズメと上のスズメを見る時は、目線を移さねばならん。わしはそれを教えたんじゃ。だから稽古は済んだと言ったんじゃよ」
小圓太は初めて、師匠の厚い情けを知りました。こうまでして、弟子である自分を仕込んでくれている師匠の慈悲を知りました。名人・三遊亭圓朝の誕生秘話です。
続続・腎臓が寿命を決める
令和2年6月27日
何度もお話していますが、私たちは健康のために「これがいい、あれがいい」と言っては、いいものを取り入れることばかりに専念します。しかし、いいものを取り入れるためには、まず悪いものを取り除かねばなりません。悪いものを取り除いて、次にいいものを取り入れる、この順序が大切です。
では、悪いものを取り除くとは、何なのでしょうか。答えは明白です。つまり、よい排泄をするということなのです。いいお通じをして、いいおしっこをすることです。この単純な真理こそ、実は健康の秘訣だといえるのです。
よいお通じは、腸内環境で決まります。つまり、「腸内フローラ」と呼ばれる〝お花畑〟のように善玉菌・悪玉菌・日和見菌のバランスを整えれば、お通じはスムーズに排泄されるのです。スムーズに排泄されれば、栄養もスムーズに吸収されます。そして、おしっこは腎臓、広くは〈腎〉のはたらきで決まります。〈腎〉が弱ってはいいおしっこが作れません。特に腎臓は肝臓とのネットワークによって、悪いものを排泄してくれます。だから〈腎〉が弱っていては毒素がたまり、よい血液が作れず、体力が衰え、老化が進むのです。〈臍下丹田〉という言葉がありますが、生命力はここに集中し、それをつかさどるのが〈腎〉なのです。「腎臓が寿命を決める」とは、このことを指しているのです。
〈腎虚〉に対しては、根菜類を食べるとよいとお話をしました。実は根菜類は体を温めるはたらきがあります。一般に、太陽に向かって伸びる葉類の野菜は体を冷やし、逆に地面の中に伸びる根菜類は体を温めます。これも重要なことで、葉類のサラダを多食する人の体温が低いのはこのためです。〈腎〉は冷えに弱いことも知らねばなりません。下半身を温め、下半身の筋肉が強くなれば、〈腎〉の機能は格段に高まり、いろいろな症状が改善されるはずです。
最後に、私の大胆な仮説をお話しましょう。〈腎〉には「先天の精」が蓄えられ、これに「後天の精」が補充されます。「先天の精」とは父母から受け継いだ遺伝的な生命力です。では、父母から受け継いだとは、どういう意味でしょうか。私は〈腎〉は〝あの世〟とつながっていると考えています。私たちはもちろん〝この世〟に生きています。しかし、この世とあの世は同じものです。あの世は〝ここ〟にあるからです。あの世の〝うつし〟が現世、つまりこの世です。いや、生も死もなく、私たちはこの世とあの世を共に生きているのです。『般若心経』が説く「不生不滅」なのです。父母の父母、そのまた父母、つまり先祖の精を受けて生きているということです。先祖を大切にすることも〈腎〉の養生であるという事実が、いずれ明かになる日が来ることを私は信じています。
続・腎臓が寿命を決める
令和2年6月27日
漢方には「相似の理論」という考え方があります。つまり、同じ臓器や似たような形のものは、同じはたらきをするという意味です。そんなバカなと思うかも知れませんが、船は魚に似せて作り、飛行機は鳥に似せて作るではありませんか。だから、肝臓の悪い人はレバーを食べればいいし、目の悪い人は魚の目玉を食べればいいということになります。また、クルミは脳の形に似ていますから、頭の悪い人(失礼!)は少しずつ食べるとよいのです。
ところで、〈腎〉はみな下半身の位置にあることは言うまでもありません。樹木にたとえるなら、上半身は幹や枝にあたり、下半身は地中の根にあたります。だから、〈腎〉が弱った〈腎虚〉の症状には、地中の根のもの、つまりゴボウ・ニンジン・レンコン・ヤマイモ・ネギ・玉ネギなどの根菜類を多く食べることです。気づくと思いますが、みな強壮効果があるものばかりです。〈腎〉が精力であり、生命力なのです。
また、〈腎虚〉による老化現象の漢方薬として、よく「八味地黄丸」が用いられます。若返りの妙薬として知られていますが、その名のとおり八つの生薬で調合されています。ところが、その中の五つまでが、これまた植物の根なのです。すなわち、山薬(ヤマイモ)・地黄(アカヤジオウの根)・沢瀉(サジオモダカの根)・牡丹皮(ボタンの根皮)・附子(トリカブトの根から毒性を除去したもの)と、いかに植物の根を重んじるかが理解されましょう。ただし漢方薬に関しては、専門の医師や薬剤師に相談してください。自己判断で服用してはいけません。
次に〈腎虚〉が進むと、必ず下半身の筋肉が衰えることも知らねばなりません。腹筋が弱くなり、お尻が下がり、太ももが細くなるはずです。したがって、〈腎虚〉に対しては、何をおいても下半身を鍛えることが大切です。私は毎日、水平足踏み(太ももを床から水平になるまで上げる足踏み)を朝晩それぞれ3分ずつ実行しています。おしゃれな砂時計を用いていますが、予定を考えながらやっている内にアッという間に終ります。その後、腹筋足上げと腕立て伏せを20回ずつ課していますが、これは無理には勧めません。水平足踏みかスクワットがいいでしょう。一生自分の足で歩けることを保証します。
それから下半身を温めることも大切です。シャワーで済ませず、お風呂に入って、特に下半身をよく温めることです。腹巻も「かっこ悪い!」などと思わず、多いに活用しましょう。腰の腎臓の要所を使い捨てのカイロで温めたり、こぶしで叩いたり、指圧することを勧める治療師もいます。
くり返しますが、〈腎〉こそは生命力の根本です。そして、特に「腎臓が寿命を決める」のです。自分でできることを、少しずつ実行しましょう。実行すれば、必ず効果が出ます。生命力の根本は、人生そのものの根本です。
腎臓が寿命を決める
令和2年6月26日
皆様は〈腎臓〉というと、単なる泌尿器の一種、つまり「おしっこをつくる臓器」ぐらいに思っているでしょう。
ところが、これが大変な間違いなのです。特に2017年10月に放送された『NHKスペシャル〈シリーズ人体・神秘の巨大ネットワーク〉』は、「〝腎臓〟が寿命を決める」というタイトルでその重要性が強調されました。実は漢方(中医学)では、人体における生命力の根源を〈腎〉あるいは〈腎気〉と定義し、これを最も重要な臓器であると考えます。すなわち、〈腎〉には「先天の精」が蓄えられると共に、「後天の精」が補充されるという見方をします。「先天の精」とは父母から受け継いだ遺伝的な生命力のことで、「後天の精」とは誕生以来の食生活や生活習慣、つまり養生よって得られた生命力のことです。この二つの精が〈腎〉に貯蔵されるとするのです。
また貝原益軒の『養生訓』には、「腎は下部にあって五臓六腑の根本である。腎気が弱くなると、身体の根本が衰えていまう。ゆえに養生の道では腎気を保たなければならない」と力説されています。「五臓六腑の根本」と言っています。まさに「腎臓が寿命を決める」と言う表現も、決して誇張ではないことがわかりますでしょうか。
ただし、漢方での〈腎〉とは単に腎臓のみを指すのではありません。活力に関するホルモンを出す副腎、生殖器にかかわる男性の睾丸や精巣、女性の卵巣や子宮もすべて〈腎〉なのです。つまり〈腎〉と定義する全体のはたらきを、生命力そのものと見るのです。そして、この〈腎〉の衰えを「腎虚」といい、これを老化と見るのです。足腰が弱くなる、皮膚がカサカサになる、顔色や肌色が悪くなる、老眼や白内障になる、耳が遠くなる、そしてヤル気がなくなる、記憶力が衰えるなどの老化現象は、すべてこれ「腎虚」が原因であると漢方は主張します。
また、若い方でも「腎虚」の症状として、非常に疲れやすくなります。しかも、「腎虚」による腎臓病は現代医学ではほとんど治りません。したがって、医師はすぐ「そろそろ透析が必要ですね」と宣告します。しかし、週三回、一回に四、五時間を要する透析療法は、腎臓病患者にとって大きな負担になることは言うまでもありません。
実は私の父も腎臓病を患い、医師より透析を宣告されていました。しかし、私はこれぞと思う漢方薬を10年以上にわたって送り続け、透析をせずに父の天寿をまっとうさせることができました。明日はこのブログのレベルで、私が学んだ〈腎〉を養う方法をお伝えします。
九十五歳の脚本家
令和2年6月25日
昨夜、脚本家・橋田壽賀子さんの本を寝床で読みました。現在、九十五歳とのことですが、いやはやそのパワーには驚きます。今後への励みとして、気になったところを書き出してみましょう。以下は、『ひとりがいちばん!』『私の人生に老後はない』などから、勝手にダイジェストしました。
「朝起きたら、まず梅干しを二個、おなかに入れます。これは三六五日欠かすことのない私の習慣で、海外旅行にも必ず梅干しを持って行くほどです。それからプールに行く前におなかいっぱい食べてしまうと動けなくなるので、〈カスピ海ヨーグルト〉を食べるようにしています。思いのほかおいしく、すっかり気に入ってしまいました」
「私の日課のひとつは、毎朝プールで600メートルを泳ぐことです。水の中に入ったときの解放感は本当に気持ちのいいもので、水に体をゆだねていると、手足が自然に動き出してしまいます。思いきり手足を伸ばしたときの解放感はたまらないもので、私の場合、泳ぐというよりも全身を伸ばしにいく、といった方が適切かも知れません」
「とにかくよく食べるのはキャベツとじゃがいも。毎日食べても飽きないほどです。それから気をつけているのは、赤、黄、緑の野菜をまんべんなく食べることです。お肉も毎日いただきます。ステーキなら120グラム。一日1600キロカロリーを超えないようにというのが主治医からのアドバイスです」
「仕事を続けるには、何よりも元気な体でいることが大切。健康器具もいろいろそろえています。お菓子をやめるとストレスになってしまうので、テレビを見るときはバランスボールに座ってカロリーを消費します。エアロバイクをこいだり、エアポールに足を上げたり下げたり、自分流エクササイズもよくします。また、電話で話をするときは青竹踏みをします」
「ひとりが寂しいなどと誰が決めたのでしょう。夫は亡くなり、確かに私はひとりになりました。ひとりを楽しむには体も使いますし頭も使います。ということは健康維持やボケ防止にもなるのです」
「夕方になるとさくら(愛犬)といっしょに散歩に出ます。家の近所を三、四十分歩くのですが、上り下りの激しい道ばかりで、家に帰ってくるころには汗びっしょり。けっこういい運動になります」
「多忙さを言い訳にして尻込みするのは私らしくありません。行くと言ったら、誰がなんと言おうと、出かけてしまうのが私流です。仕事は帰って来てから必死でがんばれば何とかなる」
最後に、実りある豊かな日々を送る秘訣として、①健康 ②金銭的基盤 ③人間関係 ④生きがいになる仕事(ボランティアや趣味)と、そして⑤好奇心をあげています。好奇心ですか。なるほど、そうですよね。そのとおりです。
プラスの波動とマイナスの波動
令和2年6月24日
アメリカの心臓病専門の病院による、こんな実験報告があります。
入院している心臓病の患者400人を、無差別で200人ずつに分けました。そして、一方の患者の名前をすべて書き出し、一人一人のために病気平癒の祈りを教会にお願いしました。また、この人たちに対しては、「皆様のために、教会で毎日祈っていますよ」ということだけを伝えました。もう一方の患者に対しては、何もせず、何も伝えませんでした。
そして、10ヶ月がたちました。教会で毎日祈ってもらった200人の患者はその間、一度も発作をおこしませんでした。しかも、この人たちは経過がどんどんよくなっていたというのです。しかし、もう一方の200人の患者は、12人が発作をおこし、その中で8人が死亡しました。そして、経過が悪くなった人が60パーセントにも達しました。
この実験は明らかなデータのもとに、一般公表されています。いったい、この違いは何なのでしょうか。
つまり、「祈りは力である」という一語に尽きるのです。その力とは〈波動〉といってもよいでしょう。心の想念は波動となって伝わります。時間にも空間にもかかわりなく、必ず伝わります。だから、よい波動の集まる人は体の代謝もよくなり、治癒力も増し、病気の回復が早まるのです。
このことは、人生そのものにおいても同じです。幸運は人とは、すなわちプラスの波動が集まる人です。多くの人から好かれ、感謝され、その想念が波動となって集まる人です。そのプラスの波動が幸運を呼ぶのです。だから私は、「好かれることは、人生で最も役立つ才能ですよ」と、いつもお話しています。それは、逆のことを考えれば誰にでもわかるはずです。人に好かれることもなく、感謝されることもなく、かえって恨みや憎しみを買っている人はマイナスの波動しか集まりません。こういう人がいくら名前を変え、方位を変え、開運グッズを求めても意味はありません。
そして、さらに大切なことは、人の幸運を祈れる人は自分もまた幸運に恵まれるという事実です。類はまた、その類を呼ぶからです。プラスの波動はプラスの波動を呼ぶからです。祈られる人は心の支えになり、自信にもなりますが、祈る人もまた同じです。この世は「もちつ、もたれつ」なのです。そして、「人を呪わば穴ふたつ」なのです。わかりますよね。

