山路天酬法話ブログ

パレートの法則

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社会

令和2年10月10日

 

「二・六・二の法則」は、さらに短縮して「八・二の法則」とも言えます。最初の二と六を合わせて、八になるからです。つまり、世の中は自分への投資などまったく無関心であるか、関心はあっても行動を起こさない人が八割で、積極的に自分への投資を心がけ、常にそれを実践している人はわずかに二割にすぎないということになります。

男性なら、仕事を終えて同僚と居酒屋でウサをはらすか、早く家に帰ってビールを飲みたいと思う人が圧倒的に多いということです。女性なら家事を済ませてパートに出るか、テレビのバラエティー番組を見ているうちに時間が過ぎ、夕食の準備に頭を悩ませている人がほとんどということです。一日の時間などすぐに過ぎ去り、とてもとても自分への投資どころではありません。こんな中から時間を捻出ねんしゅつして何かを続られる人となれば、二割は妥当な数字でしょう。

この「八・二の法則」は今から100年ほど前、イタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートによって発見され、「パレートの法則」とも呼ばれています。彼は自宅の庭園で収穫したエンドウ豆のうち、完全に実のつまったサヤは全体の二割程度であるという事実からヒントを得ました。そして、イタリア国土の八割は二割の人々によって所有されているという統計から、この比率が広く社会経済に適応することを発見したのでした。

この世の中は複雑で、もちろん多くの問題を抱えています。それらを解明することは困難に思えますが、実はパレートの「八・二の法則」によってそのほとんどを把握はあくすることができるのです。わかりやすい例をあげてみましょう。

・会社で問題となる八割は、二割の従業員によって引き起こされます。

・売り上げの八割は、すべての顧客の上位二割の人によって占められています。

・犯罪全体の八割は、その常習犯二割によって摘発されています。

・プロ野球でシーズン中に勝利した八割は、出場した二割の選手によってもたらされています。

・常に着用している服の八割は、所持する全体の二割とされています。

蕎麦そばの配合は、蕎麦粉が八割で小麦粉が二割の〈二八蕎麦〉が最も美味とされます。

・ビールと泡の比率は、ビールが八割で泡が二割が一番おいしいとされます。

社会をみる時、生活をみる時、人をみる時、きっと役立ちます。仏さまのようにまなこを開くことです。

二・六・二の法則

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人生

令和2年10月9日

 

一昨日、私は「投資もギャンブルも知りません」とお話をしました。まことにもってそのとおりなのですが、後になって「ちょっと、違うかな」とも考えました。

たしかに、私はギャンブルは一度もやったことがありません。若い頃、悪友に誘われて競馬場へ行ったことはありますが、レースに熱狂する人の数に圧倒されるばかりで、自分では何の興味もかなかったことを覚えています。もちろん、カジノのことなど、何もわかりません。株式も信託も知りません。ある先輩から、「株で儲けるためには、赤いおしっこが出るほど苦しまねばならないぞ」と聞かされ、最初からお手上げでした。

しかし、私は自分への〝投資〟をして来ました。自分への投資とは、つまり何かを学ぶためにお金をつかうということです。眠る時間もないほど苦学して大学へも行きましたが、授業として決められた課目を学ぶことに興味を失い、中退しました。その代わり、いろいろな学校に通い、いろいろな師を求めて学びました。各種のセミナーや個人レッスンも受けました。高いなと思っても、それを後悔したことはありません。

そして、何よりもお金を費やしたのは本の購入でした。私はスーツの一着すら所持していませんが、財産といえばこれまでに学んだ知識や技術と本ぐらいのものです。しかし、それが人生の智恵となり、宝となりました。よく「こんなに本を買わなくても、図書館を利用すればいいでしょう」と言われますが、この意見は間違っていると断言します。

なぜなら、本の中身は身銭みぜにを切らなければ、痛手を覚えなければ絶対に身につかないからです。食費をけずってでも購入するから、元手もとでをとろうと真剣になれるのです。もちろん調べものをする時に、私も図書館を利用することはありますが、資料としてコピーをとったり、メモをとるに過ぎません。それに図書館の本は赤線を引いたり、ページを折ったりすることもできません。図書館は便利でありがたいものですが、あくまでも公共財産であって、自分の血肉にはなりません。

私は一流大学を出ていながら、本をほとんど買わない人を知っています。そういう人はもちろん、住宅や愛車、旅行やファッションにお金を遣います。豊かな暮らしはけっこうなのですが、それ以上に何かを学ぼうという意欲がありません。そして、豊かな境遇から一挙に転落した人も知っています。人は向上しないかぎりちるのです。これは長い間この仕事をして来て、人の有為転変ういてんぺんを見て来て、つくづく思うことなのです。

「二・六・二の法則」をご存知でしょうか。この世の中は二・六・二の割合で人が生きているという意味です。最初の二割は人生をなかば断念し、自分への投資などまったく考えない人です。次の六割は自分に投資をして何かを学ぼうと思ってはいても、その行動を起こさない人です。皆様はいかがでしょう。残りの二割に入りますか、それとも〇〇〇〇ですか?

何を捨てて何を拾うか

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人生

令和2年10月7日

 

私はゴルフもマージャンもできません。カラオケもダンスも上手じょうずとはいえません。投資もギャンブルも知りません。

こういうことが得意なら楽しいだろうと思いますが、私の価値観の中ではあまり大きなものではありません。つまり、人生における優先順位が高くはないという意味です。私にとって僧侶の仕事は最優先であり、また生きがいを感じるものでもあります。もちろん仕事に疑問を持ったり、苦しいこともありますが、概してこの仕事を選んでよかったと思っています。たくさんの法友やご信徒に囲まれ、幸せな人生であるとも思っています。

人生は限られた時間と、限られた能力と、限られたうんの中でしか希望を叶えることができません。何もかも叶えることはできないということです。仕事をバリバリにこなし、家族の世話も充分に尽くし、社会にも貢献し、友人とのつき合いもマメで、学歴も教養も申し分がなく、趣味やグルメも楽しみ、世界中を旅行できればけっこうなことですが、そのすべてを叶えることはできません。少なくとも、同時に叶えることはできません。

すべてが叶わないのであれば、何を捨てて何を拾うかを考えねばなりません。人生は常に、何を捨てて何を拾うかの二者択一にしゃたくいつを迫られるからです。〝あれかこれか〟のどちらかを選ばねばならないということです。一日の仕事が始まれば、最初に何から片づけるかを考えねばなりません。そして、選ばねばなりません。一つの仕事を選ぶということは、もう一つを捨てるということです。人事でも結婚でも一人を選ぶということは、もう一人を捨てるということです。私たちは、こういう二者択一をくり返しながら、毎日を生きているのです。

捨てるという選択は、あきらめることでもあります。よく知られるようになりましたが、あきらめるとは〝明らかにみる〟ことです。明らかにみることが、すなわちあきらめることです。明らかにみれば、ものごとの良否がみえ、善悪がみえるからです。あきらめるは漢字で〈あきらめる〉と書きます。諦めるの〈たい〉とは仏教では悟りを意味します。煩悩ぼんのうとしての余分なもの、不要なものを捨てることが諦めること、つまり悟りであるということです。

だから、人生は多くのことを諦め、多くのことを捨てねばなりません。私も多くのことを捨てて諦めました。今の生活がその結果です。毎日、あさか大師にいますので、休むこともできません。行ってみたいところがあっても、それも叶いません。しかし、これによって多くを得て来たことも事実です。体も心も解放され、祈ることの喜びを知りました。これは捨てて諦めなければ、得ることはできません。そして、ついにすべてを捨てたものが、すべてを得るのです。お釈迦さまやお大師さまのようになるのです。いや、そうではないかと、ひそかに思うのです。

月始めの総回向

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あさか大師

令和2年10月4日

 

昨日と今日は月初めの総回向で、光明真言の法要を修しました。コロナの中、ちょっとさびしい集まりでしたが、皆様が意を決してお越しくださいました。また、僧侶の方は行法ぎょうぼうの伝授やお護摩の勉強にお集りいただきました(写真)

毎日、光明真言法こうみょうしんごんぼう土砂加持法どしゃかじほう)を修し、月に二度ほど行事を挙行していますが、いのちの根がご先祖にあることをいつもお話しています。また皆様、読経にとても熱心です。『般若心経』の意味を質問される方もいらっしゃいますが、私は「このお経全体が真言なのです」とお答えしています。つまり、意味を論じるよりも、読経そのものに大きなパワーがあるということです。あさか大師では太鼓も入りますので、さらにパワーが増します。

真言はまた〈振言しんごん〉でもあります。振動であり、波動であり、エネルギーなのです。お大師さまも『般若心経秘鍵ひけん』で、そのようにおっしゃっておられます。読経をすると体温が上昇し、代謝を向上し、ストレスを解消させます。体のためにも、心のためにも、魂のためにもなります。功徳を生み、自分のためにも、ご先祖のためにも、社会のためにもなるのです。こんなにいいことは、世の中にそうそうありません。

だから、お母さんのお腹にいる時から読経を聞いて産まれたお子さんは、素直に育ちます。小さい時からお寺で読経を聞いた子供さんが、非行に走ることはありません。大人が読経をすれば、老いても大きなやすらぎとなります。老いて読経をすれば、あの世(!)へっても役立ちます。もちろん写経も同じで、まったく、いいことづくしです。そして、それを教えてくれるお寺ほどいいところはありません。そう思いませんか、皆様。

中秋名月

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文化

令和2年10月1日

 

今夜は中秋名月で、これほどきれいな満月を観るのも久しぶりです。さっきから何度も庭に出て、満月にむかってグラスをかかげ、乾杯(ただしノンアルコール)をしました。あさか大師の桜並木から写真を撮りましたが、「こんなカメラで申し訳ありません」と謝ったくらいです(写真)。

現代人はもちろん、月にはウサギがいてもちをついているなどと思っている人はいません。ススキや団子だんごを供える方も少なくなったことでしょう。観測データも進んで、一般の方でもかなりの知識を持っています。月面は昼の正午の温度が110度、夜はマイナス170度です。昼にウサギがいても丸焼けになりますし、夜なら凍結とうけつして餅つきどころではありません。

ところが現代の幼稚園や保育園でも、月見の由来を子供さんたちにお話し、月見団子を作ってススキと共にお供えします。家に持ち帰れば、窓際まどぎわやベランダにお供えするかも知れません。日本人はそれほど、月見というものを大事にしているのです。平安時代は秋の収穫を感謝して里芋や豆類をお供えしましたが、それが月の形をした丸い団子になったのです。

いつも思うのですが、今日は旧暦の八月十五日で、つまり〝十五日の夜〟なのです。〈十五夜〉が十五日の夜にならない今の新暦は、どう考えも日本人の風習に合いません。〈新春〉とはいいながら、新暦の元旦では春のきざしもありません。七草だって生えません。三月三日といっても、新暦では桃の花など咲きません。今の桃の花は温室で育てられたものです。七月七日の七夕も、新暦ではまだ梅雨も明けません。だから、天の川など見えません。

日本人は旧暦によって、その文化を維持して来ました。真言密教で日の吉凶を調べる『宿曜経』も、旧暦を用います。旧暦の毎月一日から次の月が始まりますので、これを「月が立つ」という意味で〈月立つきたち〉と呼び、〈ついたち〉へと変じました。同じように終りの三十日を「月隠つきこもり」と呼び、〈つごもり〉へと変じました。美しい日本語です。

そして、明日の十六日の夜が〈十六夜いざよい〉です。今夜の満月に比べると、輪郭りんかくがゆるみ、はにかみ、ためらいがちに現われます。明後日の十七日の夜が〈立待月たちまちづき〉です。月がまるで躊躇ちゅうちょしていたかのように忽然こつぜんと現れる様子を、立ちながら待つのです。たった一つの月を、これほどいとおしむ国はありません。美しい日本語です。

腹七分目の幸せ

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人生

令和2年10月1日

 

「腹八分目」といいますが、なかな出来ることではありません。ご馳走を前にすれば、腹いっぱい食べたくなるのは人の常です。だから、満腹になるまで食べ尽くしてしまうはずです。そして、そのことは物ごとに対しても同じです。

人は望んだことを百パーセント満足させようとします。その傾向は、マジメな人ほど強く出ます。何でも完璧でないと満足せず、他人の失敗まで自分の責任であるかのように思い込み、その思いが極端に進むとうつ病におちいります。

いったい、この世の中はうまくいくことといかないことと、どちらが多いでしょうか。それはもちろん、うまくいかないことが多いと知らねばなりません。「三度目の正直」といいますが、三度ことをなして、三度目にうまくいけばかなりの成功率です。それは野球で三割バッターともなれば、一流選手であることを見てもわかるはずです。イチロー選手だって四割は打てません。つまり、十回挑戦して、三回成功すれば一流選手だという意味です。

私は若い頃に自己啓発や成功法則の勉強をしましたし、いろいろなセミナーにも参加しました。自律訓練法、プラス思考、マインドコントロールも学びました。それでも百パーセント成功することはありませんでした。今では成功への最善を尽しても、失敗したり最悪の状況に備えておいた方が、うまくいくということを確信しています。

成功をイメージすることは大切です。同時に、失敗を想定することはさらに大切なのです。そうでないと、いざ失敗した時に何の対応も出来ません。そして失敗とは、まさに成功しない方法を学ぶことであると知るべきです。失敗から何も学べないとしたならば、それこそ本当の失敗だと知るべきです。

私もかつては一種の完全主義者でした。望んだことを百パーセント叶えないと満足しませんでした。それによって神経をすり減らし、自分の無力を恥じたものでした。周囲の人に迷惑もかけました。しかし、ある時期から望んだことの七十パーセントが成功すれば上出来じょうできだと考えるようになり、とても楽になりました。これは始めから妥協するという意味ではありません。最善を尽して、その結果が七十パーセントなら、それで充分ということです。三割バッターどころか、七割バッターです。上出来ではありませんか。私はこれを「腹七分目の幸せ」と呼んで、自分への戒めにしています。

成功が続くようなことがあったら、あぶないと思うべきです。必ず慢心まんしんが生じます。慢心こそは自らを滅ぼすやいばなのです。そして「腹七分目の幸せ」を忘れぬことです。ちょうどいい腹かげんです。「満八分目」でもゼイタクですよ。

七転び八起き

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人生

令和2年9月29日

 

中学生の時、柔道の稽古中に「七転ななころ八起やおきき」とはおかしいじゃないかと演説をしたことがありました。理屈の多い子供であった私は、受け身(投げられ方)をやって説明しながら得意になっていたものでした。今となっては冷や汗ものですが、聞いていた仲間たちも「なるほど」と思ったようです。田舎者がのん気なことをして遊んでいたということです。

皆様もお気づきと思いますが、七回転んだら、七回しか起き上がれません。どうしてこれを「八起き」と言うのでしょうか。これについては、また妙な理屈を言う人がいるのです。たとえば最初に起きている状態から数えて「八起き」とする説。あるいは朝に起床した時を加えるとするとの説があります。では、前の晩に就寝した時をどうするのかとなりますが、これはもうやめておきましょう(笑)。

また、七回転んで七回起きて、次の八回目に転んでもまた起き上がる勇気を強調して「八起き」とする説があり、いくらか説得力があります。さらに「七転八しちてんばっとう」が変化して「八起き」になったという説もあります。正しいような気もします。

思うに、これは言葉の勢いと調子ではないかと私は考えています。「七転び七起き」では当りまえ過ぎます。また、これでは意味をなしません。前向きな生き方を言葉にするなら、やはり「七転び八起き」となり、語呂もいいからです。つまり、わざわざ理屈を重ねるほどのことではないということです。

「七転び八起き」はよく色紙やダルマに書かれて来ました。寿司屋さんの茶碗でも見かけましたが、今では何とも陳腐ちんぷさをぬぐえません。特に現代の若者たちが好む名言とは思えません。しかし、何度転んでも立ち上がる気骨は、いつの時代にも讃えられるべきもので、特に歴史上の偉人がそれを示しています。

偉人とは単に、生まれながらの才能や努力が花開いた結果ではないからです。偉人はみな患難辛苦かんなんしんくを何度も味わい、そしてそれを乗り越えたがゆえの結果であるからです。偉人は生死をさまようほどの大病たいびょうを経験します。二度と立ち上がれぬほどの貧困を経験します。あるいは大事故、戦争、投獄など、およそ人間としての〝どん底〟を経験して、そこからはい上がって行ったのです。だから偉人なのであって、これをなめ尽くさぬかぎり、偉人にはなれません。偉人ではない私たちは、せいぜいその伝記を読んで何かを汲み取れればよいのです。

偉人には患難辛苦を、あえてけぬところがあります。患難を背負い、辛苦に倒れ、何度でも立ち上がって行くからです。これを避ければ楽な人生であったかも知れません。しかし、それが許されぬところに偉人の運命があるのです。人生の栄冠は患難に耐え、辛苦を乗り越えねば手にすることは出来ません。私たちでさえ、それは同じです。ただ、その度量が違うということなのです。

花に語り、花が語る

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挿花

令和2年9月26日

 

お彼岸中のためか、いつもにも増して忙しい日が続きました。

身近な花でもしてみようと思っても、この夏の猛暑でかなり枯れました。それでも道端をよく見ると、たくさんの野の花があります。私が花に語りかけ、花がまた私に語りかけます。まるで「自分を選んでほしい」と、望んでいるかのようでした。とりあえず二種、そっとみました。どこででも見る花ですが、誰も注目しません。それでも、私には花屋さんの商品より美しいと感じました。

まず、キクイモ。いくらでも群生しますが、こうして挿すとなかなかのものです。もうすぐ開花期を終えますが、縁あってお寺に来ました。「立派だね」とめてあげたくらいです。

もう一つが野生のニラ。においも少ないので、トイレに飾りました。ただ挿しただけで、流儀も技術もありません。それでも古民家づくりのトイレにはぴったりです。そう思いませんか、皆様。

女性なら仕事や買い物のついでに、花屋さんをのぞくでしょう。気に入った花があれば買うでしょう。それは、女性が美しいものによって得られる気持のよさを買うからです。男性には、そういう感性がありません。男性はいつも社会的な価値観を追いかけながら生きているからです。それは男性が花を買って部屋に飾ることなど、きわめて少ないことからもわかります。男性が花に興味を持つとすれば、多くは人生の辛苦しんくを味わった後のことなのです。

ましてや名も知らない〝雑草〟に興味を持つ男性など、ほとんどいません。私がこのような花に興味を持つのは、実はお大師さまの教えを学んでいるからなのです。

お大師さまは人がただの雑草と思っていても、仏さまが見ればそれが薬草になるとおっしゃっています。あるいは刈り取られ、あるいは除草剤で消え失せる雑草も、薬になるほどなら挿花そうかにもなりましょう。私はそれを学んでいるに過ぎません。

皆様もいかがでしょう。道端のエノコログサ(猫じゃらし)でもよいのです。何かの空きびんにそっと挿してみてください。やがて霜が降りて枯草になっても、その美しさに見ほれるはずです。人生の宝も幸せも、智慧も悟りも、それはいつも足もとにあるからです。

秋分の日

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あさか大師

令和2年9月22日

 

今日は秋分の日で、恒例の秋彼岸会を挙行しました。

まず、午前11時半より、毎日のお護摩を修し、午後1時より秋彼岸会の法要となりました。コロナ禍の中、少しさびしい集まりのように思われましたが、それでも久しぶりにお見えになった方もおり、いっしょに読経をしました。僧侶の皆様も声明しょうみょう(お経や真言の節)に慣れ、すばらしい法楽ほうらくを披露してくださいました(写真)。法要後はみんなでオハギをいただき、楽しいひと時を過ごしました。

また、法要の後は水子供養会となり、食事も菓子も飲み物も供えて、あの世の〝子供たち〟を励ましました。水子さんたちは大人のように人生の喜怒哀楽や感情の曲折が少ないためか、素直に供養を受けてくれます。新たな生縁せいえんを授かり、私たちの未来をになっていただけることを願っています。

さらにその後は私が先達となり、11名にて滝修行に向いました。初めての方が多かったので、まず作法の説明をしました。そして本尊のお不動さまをお迎えし、けっかいし、気合を入れて滝の中に身を投じました。このような荒行あらぎょうを続けると、迫力のある声になることはよくわかっています。瞑想のような静かな修行もよいのですが、時には荒行を実践すると声がよく響き、呪力しゅりきが高まります(写真)。

また、このような荒行によって隠れた意識を共有し、強い団結力が生まれることも確かです。つまり強烈な異次元体験によって、不思議な友情や思いやりが生まれるということです。決して肉体をいためることを目的とする〝苦行くぎょう〟ではありません。心が澄んで晴れやかな気持ちになります。参加者の皆様は、また行きたいと思っていることでしょう。

食べるためか、生きるためか

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人生

令和2年9月20日

 

私が高校二年生の時です。そろそろ進路を決めねばならなくなった頃、父から「おまえは何をして食べて行くのだ」と問われました。将来の目標など定まらず、まだ世間を何ひとつ知らず、理屈ばかり多い年代でしたから、「食べるために生きるより、生きるために食べるんのだと思っている」と答えました。その答えが、父にはよほど青臭く感じたのでしょう。「そんなこと言っていたら、今に食べられなくなるぞ」と言い返されました。

さほどに裕福ではありませんでしたが、まずまず食べることに不自由を経験しなかった私は、食べていくという人生の基本的な意味すら理解していなかったのです。また、いくらか本を読んで、人生を考える習慣を覚えた頃でもありました。父は自分の息子が、よもやこんなことを言うとは思いもよらなかったのでしょう。以後、私にこのような問いかけをすることは二度とありませんでした。いうなれば、私と父との唯一の人生問答であったのです。

あれから五十年が過ぎ去りました。今ここで、改めて考えてみようと思います。人は食べるために生きるのでしょうか。それとも生きるために食べるのでしょうか。食べるために生きるとは、もちろん食べるために働くという意味です。それによって自分や家族を養うという意味です。コロナ禍で職を失い、職を求めている方なら、当然この答えを選ぶはずです。

一方、「人はパンのみにてくるにあらず(聖書)」という言葉があります。これは精神的な修養の大切さを教える聖句と思われがちですが、人は神の言葉によって養われるというのが本来の意味です。たぶん、父と問答した頃、私も生半可なまはんかな知識を持っていたのでしょう。しかし、一般的な意味として考えてみても、共感する方は多いはずです。ただ、食べるために働くのでは、何とも味気がありません。今の私でも、そう思うのです。

人が生きて生活し、自分や家族を養うためには食べていかねばなりません。食べるためには働かねばなりません。働いても、いつ職を失うとも限りません。まさに〈職〉こそが〈食〉なのです。だから、「衣食いしょく足りて礼節れいせつを知る」のです。人は食べるために生きねばなりませんが、食べるに足りた時こそ礼節を知ることが必要なはずです。

宗教はややもすると、精神的な教えに片寄る傾向があります。お大師さまはそのことをよくご存知でした。たから物も心も、豊かになることも悟りに達することも一つに考えられたのです。人は食べるために生きねばなりません。しかし、価値あるもののために生きることも同時に必要なのです。それが人生という旅路なのです。

山路天酬密教私塾

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