山路天酬法話ブログ
青年の意気、熟年の智恵
令和2年12月15日
.私は今では、まったくと言っていいほど外食をせず、毎日の自炊が常となりました。いわば悠々自適、気ままな暮らしをしているということです。もちろん、以前は友人や知人とのつき合いも多く、なじみの店もいくつかありました。今でも、出入りしていたなつかしい店名や店内を思い出します。
私はカウンターに座るのが好きで、よく板前さんの調理を〝のぞき見〟していたものでした。特に寿司と天ぷらばかりは、その手さばきを観察し、揚げたてやにぎりたてを阿吽の呼吸で口にしたものです。せっかくカウンターに座りながら、仕事の問題に熱中していては、もったいないことです。
その天ぷらのことですが、何人かの分を揚げ終わると、油を足します。特に質問をしたわけではありませんが、その新古の比率にコツがあるように思いました。つまり、使い古した油にまったく新しい油を混ぜることにより、絶妙のバランスがあるらしいのです。これは、人生そのものを考えるヒントだと思いました。
まっさらで、世間をまったく知らないような青二才ばかりでは困ります。しかし、世間の諸悪に汚れ切っていても使えません。いわば、青年だけでは経験に乏しく、熟年だけでは新鮮さに欠けるといった道理にも通じるということです。何ごとにも、このバランスが大切です。いかがでしょうか、私はこのことをとても印象的に覚えています。
新しいものに挑戦する青年の意気はすばらしい、だからといって、熟年の智恵をおろそかにしてはなりません。このバランスを上手に使えれば、それこそ人生の達人です。それぞれに代わりは利きません。それぞれに貴重な存在です。青年と熟年と、その融合をはかることが大切です。
年寄りの智恵を青年が学び、青年の意気を年寄りが学べば、それこそ理想のバランスでしょう。会社も家庭も、営業も人事も、このバランスなのです。かつて、私は天ぷらの技を見ながら、そんなことを思ったものでした。しばらく行っていませんが、またあの技を見たいものです。汚れた油に新しい油を足す、人生はこの加減に極意があるのです。久しぶりに、あの店に行ってみたくなりました。
「三密」の正しい理解を
令和2年12月10日
2020年の新語・流行語の大賞に「三密」が選ばれました。
私は新型コロナウイルスの感染が始まって間もなく、この「三密」なる用語を聞くたびに困惑したものでした。なぜなら、「三密」こそは真言密教における、きわめて重要なキーワードであるからです。真言密教とはまさに、「三密」の教義とその実習にあると定義しても過言ではありません。
もちろん、真言密教の「三密」は、人が密にならない、密を避けるというコロナ対策とはまったく意味が異なります。簡単に説明をしますと、人の言動は体と言葉と心の三つの働きに集約され、それらを通じて祈りを捧げるということです。つまり、合掌をしたり特殊な印を結んで〈身密〉となし、口に真言を唱えて〈口密〉となし、心に浄土や仏を観想して〈意密〉となし、これを総じて「三密」の行法とするのです。
追悼の式典などで、よく「黙祷」をしますが、祈りは言葉に出した方がより直接に通達します。また、祈りに応じた印を結び、どのように観想するかの規範があれば、そのパワーも増大します。真言密教の祈りは、人の体も言葉も心も総動員した「三密」なればこそ叶うのです。コロナ禍で浮上した「三密」が同じ用語であったことは、まったくの偶然でした。このブログを読んでいただいた皆さんには、ぜひ正しい「三密」の意味を理解してほしいものです。
浄土真宗の教義に「他力本願」がありますが、まったく誤解されて通用していることは遺憾としか言いようがありません。宗門には迷惑なお話なのです。このような事実はほかにもたくさんありますが、これが世間というものなのでしょう。
体と言葉と心の中でも、特に注意を要するのは言葉です。だから「口は災いのもと」と言うのです。お大師さまがあえて〝真言密教〟を立宗された由縁もそこにあるのです。人はたった一言から成功もするし、失敗もするのです。ご用心を。
コロナ禍の総回向
令和2年12月7日
一昨日と昨日。今年最後の総回向法要を挙行しました。コロナ禍の中、マスクはもちろん、玄間での除菌はもちろん、加湿器で消毒液を噴霧し、充分な対策を取りました。二日間とも、よくお集りいただいたと思います。新春祈願のお申込みもいただきました。(写真は明後日)。

法話として、先祖供養の重要性を強調したことは言うまでもありません。私たちはタテには先祖から、ヨコには前世からの流れがあります。その因縁をもって私たちは生まれて来ました。したがって、先祖供養は自分の前世からの因縁を浄めることでもあります。お集りの皆さんは、このことをしっかりと自覚していらっしゃいます。読経も上手で、とても熱心です。
なお、法要の後、お弟子さんの伝法灌頂という儀式があり、一昨日は6名が、昨日は7名が入壇しました。入壇者は阿闍梨(密教の教師)として讃えられますが、その状況はここでは公開できません。秘儀を守らねばなりませんので、ご理解ください。ただ、13名の方が立派な阿闍梨になりましたことをお伝えいたします。
別れても好きな人
令和2年12月3日
12月に入って、お歳暮がたくさん届くようになりました。多くの方にお気遣いをいただき、とても感謝しています。中には、ご信徒としてすでに縁の切れた方、お名前すら忘れていた方からも届きます。「あれ?」とい思いつつも、私はこうした方を、「別れても好きな人」と呼んで笑っています。
祈願寺は一般の菩提寺(檀家さんの寺)と違って、ご信徒の離脱は避けられません。つまり、願いごとが叶ってしまえば、それでサヨナラという方もいるということです。祈願寺ではこれを「食い逃げ」などと言って、惜しみます。しかし、こうした方からお歳暮が届くことは、決して悪い気はしません。
人生に出会いがあれば、別れがあるのは当然です。しかし、別れた方がどのような気持ちでいるかは、きわめて重要ではないでしょうか。つまり、別れても好意を持っていてくれる方がいるということは、それだけ〝プラスの思い〟が集まるということなのです。プラスの気、プラスの波動が集まり、人生がより良いものになるからです。皆さんも幸運を望むなら、「別れても好きな人」をたくさん持つことです。私はそのように考え、皆さんの前でもお話をしています。
私たちは想念の中で生きています。つまり、眼には見えずとも、多くの人々の思いが電波のように飛び交う中で暮らしているということです。だから、プラスの思いが多い人ほど幸運を得るのは当然のことです。毎日のように出会う人には、気配りが効きましょう。しかし、別れてしまった人とは、どのように分かれたかの結果だけが残るのです。
だからこそ、「別れても好きな人」をたくさん持ちましょう。もちろん、あの世の人も含めてです。これぞ、人生の智恵、人生の秘訣です。伝授しておきますよ。
性悪的性善説
令和2年12月2日
私はかなりのお人好しなので、人のために出来ることは努力を惜しまずに生きて来ました。だから、だまされたり裏切られたりした経験も何度か味わいました。しかし、自分が人をだましたり裏切ったりするよりはいいだろうと、自分なりに納得したのです。それに、このような経験に縁のない人がいるだろうかと考え、それによってもまた納得したのです。
ところが、いつ頃からか人というものは悪いことをするもの、悪いことをせずには生きられないものという考えに傾いたことも事実でした。それは、人はみな〝いい人〟だと信じ込んでいると、自分以外の考えを想定する能力に欠けてしまうことがわかったからです。この二つの矛盾に、私は長く苦しみました。
「すべての人が泥棒だ」と思えば、そのように見えるのです。「すべての人がウソをつく」と思えば、そのように見えるのです。政治家も経営者も、医者も弁護士も、警察官も教員も、主婦も子供も、僧侶でさえそのように見えるのです。本当にそうなのです。ただし、そういう思いを続ける自分に苦しむことは覚悟せねばなりません。
この点を、仏教はどのようにとらえるのでしょうか。浄土真宗はキリスト教と同様、徹底した性悪説に立っています。人はみな業が深く、罪を犯し、そのままにしておくと堕落する。だから、信仰が必要だと考えるのです。
しかし、仏教は総じて自分の罪障に気づいて信仰に目覚めれば、本来の仏になれると説くのです。だから、「衆生本来仏なり」というのです。仏教は〈性悪的性善説〉であると、私は考えています。
人を信じてはなりません。しかし、人を慈しまねばなりません。これが信仰というものです。そうですよね、皆さん。
願いが叶う仕組み
令和2年11月29日
私は毎日、たくさんのご祈願を依頼されています。もちろん、自分の願いもありますので、そのことを念ずることもよくあります。だから、願いが叶う仕組みをよく知っています。
何度もお話をしますが、願いが叶うということは、叶うためのヒントやアイデアをいただくということが多いのです。別な言い方をすれば、間接的に叶うという意味です。これは、きわめて大切なことです。
たとえばお金が欲しいからといって、天から一万円札がパラパラと落ちて来るわけではありません。売り上げを伸ばしたいからといって、明日から千客万来というわけにはいきません。つまり、お金や売り上げに関するヒントやアイデアを授かるという意味なのです。ご祈願をしたら、それがどこから授かるかに注意を傾ける必要があります。友人との会話、テレビ番組、雑誌の記事、電車の広告、ヒントやアイデアは意外なところにあるからです。これは、どんな願いでも同じです。
あるいは、自分でひらめくこともあります。私の場合は考えに考えぬいた後、思ってもみない時に、ふと浮かぶことが多いようです。お風呂の中でもよく浮かびます。特に出版社の方とは、よく街の温泉に行きます。湯船の中で話し合っていると、不思議に頭脳が冴え、ひらめきが浮かぶのです。まさに、お風呂は〝浮かぶ〟ところです。
こういう仕組みを知らずに、今日叶うか、明日叶うかと望んだところで、成就は得られません。仏さまも神さまも、いつも試していらっしゃるからです。上手におつき合いをしましょう。
法衣を着たホスト
令和2年11月27日
私は半ば冗談に、しかし真剣に、自分の職業を「法衣を着たホストです」とお話をしています。
どうしてかと言いますと、私を信頼し、私を慕ってくださる方、つまり私を〝指名〟してくださる方がいなくなれば、私はご信徒(お客)を失うからです。ご信徒を失うということは、私の価値は消え失せ、お寺を経営していくことなどできなくなるからです。もちろん、生活していくこともできません。私はいつも、そんな気持ちで毎日を過ごしています。
これは、私が「職業とはすべてサービス業である」と思っているからでもあります。人はみな何かを提供しながら、つまり何かを与えながら生きています。労働力であれ、商品であれ、技術であれ、情報であれ、アイデアであれ、何かを与えることにより、収入を得て生活をしています。しかし、与えるということはまた〝売る〟という意味でもあるのです。売れなければ与えることはできません。
では、どうしたら売れるのでしょうか。そのためには人が望むもの、求めるもの、満足するものを与えねばなりません。しかし、それだけでは売れません。人が喜ぶプラスの何かを与えねばなりません。プラスの何かとは笑顔であり、親切であり、思いやりであり、つまりサービスなのです。サービスが悪くては、何も売れません。だから、職業とはすべてサービス業なのです。私はそう思っています。
人は望むものが得られるとしても、気に入らない人には近づきません。雰囲気の悪いお店には行きません。少しぐらい遠くても、気に入った人に、気に入ったお店を求めるからです。この世で最も役立つ才能は、人に好かれることです。そして、最後まで残るのは人柄です。皆さん、そう思いませんか。
私は毎日、このような気持ちで法衣を着てお護摩やご回向を修し、ホストを務めています。もちろん、クラブのホストばかりではなく、「主人」という意味も含めてのお話ですよ。
プロの条件
令和2年11月23日
あさか大師の本堂に入れば、誰でも心洗われるような気持になるという自信が、私にはあります。たとえば、皆さんが斎場や火葬場などに出向くと、その重い気を受けて体調を壊すことよくがあります。そのような場合でも、あさか大師にお越しいただくと、体がとても軽くなり、気持ちも晴れるとおっしゃってくださるからです。
その理由は簡単で、私が毎日お護摩を修し、お大師さまにお仕えしているからです。ただひたすら、毎日同じことをくり返しているからです。だから、私がいろいろなお寺に出向いた場合、ご本尊さまがどのくらい拝まれているか、住職がどのくらいお勤めをしているかが、すぐにわかります。これは真言密教のプロとして、当然のことです。そして、プロはどの分野でも、そのような能力や感性を身に着けています。
たとえば、プロのスポーツ選手も同じです。プロ野球の一流の右投手は、自分の左耳が見えるほどに視野が広いと言われます。本塁の打者を見ると同時に、一塁走者動きも同時に見えなくればならないからです。また、キャッチャーにいたっては、グランド上の味方の全選手の動きと、塁上の敵のランナーの動きを一瞬にして見渡すことができます。
一流のサッカー選手は、ボールを蹴りながら一瞬にグランド内を見渡し、敵味方の選手の動きを的確に把握し、パスをしたり、敵の背後に走り込んで、味方のパスを受けたりします。
一流の卓球選手は、相手のラケットの動き、腕の動き、肩の動き、目の動きなど、すべての動きを一瞬に見極めねばなりません。そうでないと、相手のフェイントを見破れず、あっさりと逆コースを抜かれることになるからです。
こうした能力や感性は、各選手が生まれながらに持っていたものではありません。一日も怠らぬ練習と長い実践経験から養われることです。だから、そのきびしい練習や実践に耐えられない選手はプロにはなれません。プロのスポーツ選手が一日も練習を怠らぬのなら、真言密教の僧侶が何を怠ってはならないのか、これは誰にでもわかることです。
侘びの極み
令和2年11月19日
紅葉の季節になると、いつも思い出す印象的なお話があります。それは茶道の宗匠・千利休がまだ若い頃、師匠の武野紹鴎のもとで修行をしていた頃のことです。
ある日、紹鴎が茶会の客を招くため、念入りな準備をしていました。茶席の道具を取りそろえ、内外を掃き清め、水を打ち、充分な掃除も済ませました。そこで紹鴎は一計を案じ、利休を試そうとしました。掃除はすべて済んでいたにもかかわらず、「露地の様子を点検しておきなさい」と命じました。
庭も露地も万全を尽くしたのですから、塵ひとつ落ちているはずがありません。しかし、そこが利休の非凡なところです。ある紅葉の下に行くと、その樹を何気なくゆすり動かしました。すると、色づいた紅葉がパラパラと露地に落ちました。美しい模様が点々と露地に描かれたのでした。利休は「お師匠さま、路地を点検しました。ご覧になってください」と言うや、紹鴎はその侘びの風情に驚きました。完璧に掃き清めた露地はもちろん美しいのですが、自然な落ち葉はさらにその風情を深めるからです。「この子はただ者ではない」と思ったのも、無理はありません。
利休は侘びの極みを心得ていたのです。つまり、最高の侘びとは美を極めて、さらにひとつ脱落したところにあるからです。つまり「不完全の美」にこそ、その境地があるということです。だからといって、作為的に手を加えても、侘びの極みにはなりません。そこを間違えてはなりません。
利休は後に、最高の宗匠となって、侘び茶を大成しました。さすがに紹鴎が見込んだだけの人物だったということです。ただ、私たちが同じことをしても〝不行き届き〟になるばかりです。マネをしてはいけませんよ。
先立ちの大掃除
令和2年11月16日
今年も残すところ、1ヶ月10日余りとなりました。昨日は午前11時半に金運護摩(写真)を、午後1時より回向法要を挙行しましたた。コロナ禍にあっても、皆さんがお時間を取ってご参拝くださいました。

また法要終了後は、年末に先立って大掃除をしました。お護摩を焚く本堂の悩みは何といってもススで汚れることです。お護摩は毎日修していますので、これはやむを得ません。お大師さまのまわり、本堂の柱や壁、回向殿の中(写真)も、僧侶の方々によってきれいにしていただきました。

いつも思うのですが、職場の基本は挨拶をすることと掃除をすることです。これがなされていないと、清らかな〈気〉が充満しません。浄らかでなければ開運のパワーも充満しません。いくら商売繁昌を願っても、叶いません。反対のことを考えればスグにわかります。互いに悪口を言ったり、ゴミが散乱している職場には、決して開運のパワーが充満しないからです。
お寺は毎日、同じことをくり返しますが、その基本は挨拶(勤行や修法)と掃除です。この繰り返しが、大きなパワーを呼ぶのです。大事な祈願が入ったからといって、急に頑張ってみても、それでは充分なパワーが躍動しません。私もこのことを自戒し、お弟子さんたちにもお話しています。

