誰のおかげ、何のおかげ
令和2年3月30日
人の一生がどれだけ幸せであるかに口をはさむとすれば、私はどれだけ感謝ができるか、という一点に尽きると考えています。なぜなら、感謝ができる人ほどよく笑い、親切を心がけ、人にも好かれ、何かのおりには助けられ、要するに幸せな一生だといえるのではないでしょうか。また、このように断言するのは、逆のこと考えればわかるからです。
あまり幸せではないと思われる人は、まず感謝という気持がなく、それを言葉に出すこともありません。そして、自分の不運を必ず身辺の人や世の中のせいにします。自分がこの程度と思っても、それが誰のおかげ、何のおかげだということがまったくわかっていません。その不満こそ、不運の理由なのだと私は考えています。
もちろん、私も若い時からこのように考えていたわけではありません。幸運は自分の能力や努力の結果だと考えていたわけで、人生を正しく見ていたとは思えないからです。しかし、そんな気負いがあったからこそ、今になって感謝の大切さ、奥深さを感じるのかも知れません。
私は感謝すべきことが何ひとつない人など、この世に生きているとは思えません。誰のおかげ、何のおかげでここまで生きてきたかを思えば、必ず感謝の気持ちが湧くはずです。大胆に申し上げれば、感謝こそは最後まで残る心の真実、魂の躍動だと思うのです。
さらに申し上げれば、私ほどの年齢になれば、その人生が顔や姿に現れます。その年齢を超えて美しいと思える人は、その与えられた人生に対して感謝ができる人なのです。それは健康であるか病弱であるか、富裕であるか貧困であるか、学歴があるかないか、才能があるかないかとも無縁のことです。それはただ、その人の心にどれだけの感謝があるかで決まるのです。
感謝は人として、心の最高の姿です。感謝を心がけ、誰のおかげ、何のおかげと思える人にはお香のような薫りが漂います。もしや、三千世界の仏さまのようです。
神呪寺と如意尼
令和2年3月29日
昨日、西宮・神呪寺が桜紋であることをご紹介しました。そこで、この寺を開山した如意さまという尼僧についてお話をしたいと思います。
彼女は平安時代の始め、天の橋立にある籠神社(真井神社)の宮司・海部氏のもとに生れ、厳子と名づけられました。籠神社は元伊勢(伊勢神宮のふるさと)とまで呼ばれる由緒ある神社です。また海部氏は今なお直系がつづく日本最古の家系図(国宝)を保有しています。
十歳にして京都・六角堂に入り、如意輪観音を礼拝して真言を唱える日々を送っていました。まだ年端も行きませんでしたが、天性の気品に満ちた美しい女性であったと思われます。そして二十歳のおり、当時の皇太子であった淳和天皇に見初められ、第四妃として宮中に迎えられました。宮中では「真井御前」と呼ばれ、帝の寵愛を一身に集めました。しかし、後宮たちの激しい嫉妬に無常を感じ、二十六歳で二人の侍女と共に宮中を退出したのでした。それは西宮に甲山という仙境があり、寺院を建立するにふさわしい峰であるとの夢告があったからともされています。
天長五年十一月、妃はお大師さまを甲山に招き、如意輪観音の修法を依頼しました。また翌年五月には、役の行者を慕って女人禁制の大峰山にも登っています。いったい、どんな手立てを講じたかはわかりませんが、男まさりの一面もあったのでしょう。また、大峰山の人たちも驚いたに違いありません。
天長七年七月、妃はお大師さまによって傳法灌頂への入壇(阿闍梨になる儀式)が許されました。さらに、桜のご神木をもって如意輪観音像の奉彫も依頼しました。お大師さまは妃や侍女たちが真言を唱える中、妃の身長と尊容に合わせて完成させました。これが神呪寺の本尊・如意輪観音です。
天長八年十月、お大師さまを導師に神呪寺の落慶法要を挙行し、自身の法名を如意としました。また二人の侍女も尼僧となり、その法名は如円・如一と記録されています。昼夜を問わず念誦をくり返していたそうで、これが寺号・神呪寺の由来でありましょう。
承和二年三月二十日、すなわち、お大師さまがが入定されるまさに一日前、如意尼ははるかに高野山を礼拝しつつ、如意輪観音の真言を唱えながら静かに息を引き取りました。時に三十三歳でした。
如意尼こそはお大師さまの人生においてご母堂以外、深い絆で結ばれた唯一の女性です。私はかねてより籠神社と神呪寺に参りたいと念願していますが、未だに果していません。特に神呪寺で等身大のその尊容にお目にかかれることを、今から楽しみにしています。
そして最後に申し上げますが、今日のブログに特に心引かれた方は、お大師さまとも如意尼とも、籠神社とも神呪寺とも、また私とも特にご縁の深い方であると思います。そう、思いますよ。
桜大臣
令和2年3月28日
あさか大師となりの桜が本日、満開となりました(下写真)。ただ新型コロナウイルスの影響で、お花見に訪れる方は少ないようで、とても残念です。
私は毎日、このみごとな桜を〝独り占め〟しています。幕末の漢学者・頼山陽は自らの住居を「山紫水明処」と名づけ、京都・東山三十六峰を独り占めしました。そして、「われ関白なり!」と豪語してはばかりませんでした。私も特別に拝観を許された経験がありますが、当時はたしかに京都三十六の名山をすべて見渡せたことだろうと実感しました。私は関白までとは行きませんが、桜に囲まれるまま、「われ桜大臣なり!」ぐらいを語れるかも知れません。
日本人ほど桜を愛で、詩歌や物語に取り上げている民族はほかにありません。日本人は世界一桜好きの国民なのです。そして「花は桜木、人は武士」と、美しく散ることを潔しとした武士にもてはやされました。その紋も例外ではなく数百種を超えるとまでいわれています。ただ、実際の使用している例となると、意外に少ないことに驚きます。それは散ることを悪い意味で受け止め、家紋としては避けたからかも知れません。
私が知っている著名人では原 敬・山縣有朋・吉田茂・与謝野晶子・吉永小百合といった方々です。また、土俵の幕に染めぬかれているとおり、日本相撲協会も桜紋です。寺紋としては何といっても吉野の金峯山寺でしょう。また奈良・唐招提寺や西宮・神呪寺(お大師さまの弟子であった如意尼の開山)なども桜紋を使用しています。
私は潔く散ることには何の異存もなく、今日のような満開の桜を見ながらあの世へ往ければ、何の不足もありません。むしろ、それを楽しみにしているほどです。あさか大師を「香林寺」と号し、桜の寺紋を選んだのも、こうした願いがあってのことでした。
まだ、間に合います。このブログを読んだ方は、ぜひお花見にお越しになってください。改めてあさか大師の寺紋も載せておきます(下写真)。
レディー・ファースト
令和2年3月27日
皆様、決して笑わないでください。私は最近、レディー・ファーストを心がけているのです。
ある時、近所のスーパーに入ろうとしました。スーパーの出入口はもちろん、お客がすれ違うほどの広さは十分にあります。しかし中年の女性が一人、ちょうど外に出る直前だったので、私はとっさに身をよけて彼女に先を譲りました。すると、彼女は恐縮したように私にていねいな会釈を返してくれたのです。たしかに、こんなマナーを身に着けた男性は、日本にはほとんどいません。
しかし、このささやかな経験は、私の人生に大きな変化をもたらしました。その一日が、どれほど充実したことでしょう。まるで、大きな宝物でも手にしたような気分になったのです。
以来、私はスーパーはもちろん、コンビニでも郵便局でも、その出入口ではレディー・ファーストを心がけるようになりました。まず、たいていの女性は会釈を返してくれます。いつも思うのですが、〈出入口〉という言葉はまず〝出る〟ことを意味します。だから出る人を優先すべきであるのに、こんな常識すら通用していません。しかし私は、出入りのいずれであっても、レディー・ファーストはかなり身についてきました。私が特に、道徳的にすぐれているからではありません。それによって気持がよくなることを覚えたからです。
日本は武士道は発達しましたが、騎士道の心がけがまったくありません。特に男性にとって、レディー・ファーストは大の苦手です。それは男尊女卑の先入観はもちろん、相手の女性に対して自分より年上なのか、レディーなのか小娘(!)なのかを意識するからです。しかし欧米では、子供の頃から「女性を見たら誰であってもレディー・ファースト」と教え込まれます。つまり、無条件で優先するのがレディー・ファーストなのです。私はこの教えを自戒してからは、自然にレディー・ファーストが身についたような気がします。
しかもこのレディー・ファーストが身につくと、横断歩道に渡ろうとする人、車道を走る自転車の人に対しても、苦もなく譲れるようになりました。そして、人生の時間がゆるやかに流れ、せかされることさえ少なくなったように思えるのです。私の人生にとって、思いもかけない大きな収穫でした。とてもありがたいことです。
レディー・ファーストを実行したからといって、自分の負担に大差はありません。むしろ、得られる豊かさの方が多いはずです。小学校の授業にも、会社の研修にも取り入れてはいかがでしょうか。日本が大きく変わるはずです。そして武士道と騎士道が融合すれば、まさに鬼に金棒、世界最強の国になるでしょう。それこそ、本当の文化というものです。
勝つと思うな、負けまいと思え
令和2年3月26日
昭和39年のこと、美空ひばりさんが唄った『柔』という曲が大ヒットしました。発売からわずか半年で、シングル180万枚以上という記録的な売り上げだったそうです。ひばりさんはこの年の「第15回NHK紅白歌合戦」、そして翌年の「第16回NHK紅白歌合戦」では二度ともこの曲でトリをつとめ、しかも「第7回日本レコード大賞」にも輝きました。昭和39年はいわゆる「第18回東京オリンピック」が開催され、柔道が初めて正式種目に選ばれたという背景もありましたが、日本中に〝柔ブーム〟を巻き起こしたことも事実でした。
「勝つと思うな、思えば負けよ」という歌詞の冒頭を覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。しかし、この冒頭が吉田兼好の『徒然草』(鎌倉時代の随筆)に由来することをご存知の方は少ないはずです。その第百十段に、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり」という名言があります。これは双六の名人に勝つ手立てを聞いたところ、「勝とうと思って打ってはいけない。負けまいと思って打つべきである」と答えたという逸話を語ったものです。。
勝負ごとというものは、常に勝ち続けられるものではありません。また、勝ち過ぎた人は、必ずある時になると大負けしたり、負け続けるものです。途中まで優勢であっても、逆転負けということもあります。それに勝つことばかり意識する人は、負けると途端に気力が衰えてしまうものです。だから、負けまいという意識を持ち続けることが大切だと、この双六の名人は語っています。
かつて、西武ライオンズの森袛晶監督は九年間の就任中、八度のリーグ優勝と六度の日本一に導きました。監督は日本シリーズについて、「全勝するのではなく、三敗しても優勝はできると思って戦った」と語っています。つまり、負けない野球で最後に勝つことを意識していたのです。
勝つことにこだわることも大切ですが、最後に勝つことはさらに大切です。人生には負けることもあるのです。その時の気持の切り替えが大切なのであって、ここに極意があるのです。皆様、「勝つと思うな。負けまいと思え」と呪文のように唱えてみてください。逆転勝利への呪文ですよ。
福を招く「福助」
令和2年3月24日
僧侶は法要のおり、白足袋を着用します。私がよく購入するのは、皆様もよくご存知の「福助足袋」で、使いやすいストレッチタイプのものを愛用しています。この福助(株)について、私が知っていることをお話しましょう。
創業者の辻本福松は幕末の文久元年、幕府御用達・綿糸商の家に生れました。明治15年、大阪の堺市に自分の名前から一字をとった「丸福足袋装束問屋」を開きました。ところが明治32年、この商標につき和歌山の「丸福足袋坂口茂兵衛」から、「丸福の商標は自分の方が先に使用している」として訴訟されました。裁判は福松の完敗で、大変な裁判費用を支払わねばなりませんでした。一転して、家業の存続すらむずかしい状況に陥ります。
その翌年、福松の長男・豊三郎に子供が生まれました。豊三郎は祝いの伊勢神宮参拝に向かいましたが、その帰途、ある古道具店で福助人形が目に止まりました。福助人形は福を招き、願いを叶える縁起の良い人形として、江戸時代中期から庶民に親しまれていたものです。しかし豊三郎は、その「福助」の名と姿に天啓がひらめいたのでした。これこそ家業の商標にふさわしいとしてすぐに買い求め、急いで帰宅しました。
福松もこの福助人形をお伊勢さまのご加護として喜び、自ら筆をとってその姿を描き、商標登録を果たしました。これが「福助足袋」に印刷されている、あの絵の始まりなのです。以来、「福助足袋」は順調に業績を伸ばし、日本一の足袋メーカーとなりました。女性の皆様は、ストッキングでもおなじみだと思います。
福を招く「福助」は、新しい白足袋を着用するたびに目に入ります。この小さな絵が、創業者二代の危急を救ったのです。白足袋を踏んでも、「福助」は踏みません。
何とかなるのです
令和2年3月23日
もう一つ、『論語』のお話を紹介しましょう。
孔子が陳の国を訪れた時、戦乱のために食料が絶えてしまいました。お供の弟子たちも疲れ果て、また病んで立ち上がれない者まで続出しました。その時、子路が憤然として孔子に言い放ちました。
「いったい、君子でもこのように困りきることがあるのですか?」
さて、それに対する孔子の答えがいいのです。
「君子でもむろん困りきることはあるさ。でも、小人は困りきるとヤケをおこすではないか」
小人とは君子に対する〈凡人〉ほどの意味です。君子でも困りきることはある。しかし、小人のようにヤケをおこすことはない言っています。事実、陳の同盟国であった楚の昭王が援軍を出して孔子を迎え、やっと生命をまっとうしたのでした。
私は人としての器の大きさを考える時、いつもこの一説を思い出しています。平常の時は、誰でも冷静を保てましょう。しかし、この時の孔子のように窮地に陥った場合、たいていの人は冷静さを失います。その時に器が問われるのです。
私はどんな時でも「お大師さまが助けてくださる」という信念を、どこまで貫けるかはわかりません。でも「何とかなる」ぐらいの考えは持ち続けています。そして、本当に何とかなると思っている人は、本当に〝何とかなる〟のです。これは祈りのルールを知っている人には、容易に理解できるはずです。
しかし、ほとんどの人は不安や疑いによって、祈りのパワーが弱まってしまうことも事実です。要は体験を重ねて自分の考えとなり、さらに信念となり、祈りとなれば、何とかなるぐらいのことは十分に可能です。つまり、思考は現実化するということです。
そして、最後に申し上げましょう。今日のブログを読んでいただいた方は、きっと何とかなります。そうでなければ、私とのご縁もなかったはずです。このブログを読み、私とご縁のあった皆様は、私と同じように何とかなるのです。そうでなければ、このブログを読むことも、私とのご縁もなかったはずなのです。そうではありませんか、皆様。
本当の教養
令和2年3月23日
『論語』の中で、私がもっとも好きなお話をいたしましょう。
ある日、子路と顔渕がおそばにいた時、孔子が言いました。「おまえたちはどんな人間になりたいのだ」、と。
まず、子路が語ります。「馬車に乗り、立派な着物や毛皮に身をつつんでいて、それを友人に貸し与えても、少しも気にしないほどの寛容な人間になりたいものです」と。次に顔渕が語ります。「自分の行いを自慢せず、めんどうなことを人に任せないような人間になりたいものです」と。
そこで、「先生はどうなのですか」と、子路が問いました。孔子が答えます。
「そうだなあ。年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような、そんな人間かな」、と。
これは孔子が居間で、くつろいでいる時のこととされています。そばにいる弟子に、何気なく語ったことなのでしょう。堅いことはぬきにして、人間としての生き方を問うたのだと思います。
子路の答えは、少し空想的に片寄った感じがします。また、顔渕の方は道徳的にかたい感じがします。でも孔子の答えこそは、きわめて自然です。
私たちも自分を語る時、孔子のようにありたいものです。よけいな理屈などいりません。学識さえ無用です。孔子は深い学識がありましたが、誰にでもわかり、誰にでも納得できるような、やさしい答えを語りました。これが、本当の教養というものです。
私は教養ということを考える時、このお話を忘れ得ません。まさに、そのとおりです。至高の名言です。
「年寄りには安心され、友人には信頼され、子供にはなつかれるような」、そんな人間になりたいと思うのです。すばらしいでしょう、皆様。いかがですか。
春分の日
令和2年3月20日
昨夜からお大師さまの正御影供(お姿の御影を供養する法要)の準備にかかり、御影のお持物(水瓶・木履・念珠)を供えました。こうしたお持物は、今や高野山にすら残っていません。かつて、私が『弘法大師御影の秘密』(青山社)を執筆した時に発願し、作成していただいたものです(下写真手前)。
また、仙菓の礼奠として十種類の霊薬もお供えしました。これはお大師さまがご入定される前、五穀を断っていた折に召し上がっていたであろうと思われる物を、私なりに選んだものです(下写真奥の白い高坏)。お大師さまのご著書を読みますと、いかに漢方に通じていたかという事実に驚かされます。いったい、いつの間にあのような勉強をなさったのか、不思議でなりません。
このような準備のもと、本日の午前十一時半より正御影供の法要を迎えました。得度をした僧侶の皆様も、だいぶ声明(ご真言や経典の曲)に慣れていただいたようです。またお導師の私が祭文を唱え、全員での勤行も加えました(下写真)。
続いて午後一時からは、春彼岸法要、その後は春彼岸の水子供養も奉修しました。春彼岸法要では大勢の方々がお参りし、それだけに読経の勢いがありました(下写真)。そして法要の後、一年間の祈りを込めた光明真言の〈お土砂〉を授与しました。白い小さな砂粒ですが、この一粒一粒が如意宝珠と化現したものです。
そして水子供養の後は、二名の新発意(仏門に入る決意をした方で、白い奉書を胸にしています)の得度式を挙行しました。まだお袈裟の着用が、サマなっていないのはやむを得ません。無事に修行をまっとうしていただきたいと念じています(下写真)。
忙しい一日でした。今日は写真でお伝えした方がよいと考え、文章はこのへんで留めます。ご助法いただいた僧侶の皆様、お参りいただいたご信徒の皆様に感謝いたします。ありがとうございました。
功の成る日
令和2年3月19日
中国・北宋時代の文人である蘇洵(唐宋八大家の一人で、かの蘇東坡の父)が、「功の成るは、成るの日に成るにあらず」という名言を残しています。成功とは突然に現れるのではなく、その日までに積み重ねた努力の上に成り立っているという意味です。つまり志をいだき、志を貫き、その努力を重ねなければ、成功することはないということなのでしょう。
では、志とは何でしょうか。大きな志とはいえなくても、私たちは健康でありたい、習いごとを上達したい、この仕事を成功させたいほどの希望はありましょう。そうした希望も、志のひとつです。しかし、それを成し遂げるには努力が必要なことは申すまでもありません。何ごとでも、それに費やした日々の努力がなければ、成功することはないのです。
このことは、偉人を見ても同じです。私たちはとかく偉人の業績にばかりを注目しますが、それまでに費やした努力は並のものではありません。偉人はたいてい、不幸な子供時代を送っています。そして不運な青春時代を過ごしています。それでも、こうした人生の苦難をバネにしてこそ、大きな成功を手にしているのです。運命とは皮肉なもので、その偉人の人生にかえって苦難を与えているようにさえ思えることもあります。
たとえば、松下幸之助(現・パナソニックの創始者)は成功した理由を、「貧乏であったこと、病弱であったこと、学歴がなかったこと」としています。苦難を乗り越える智恵と力、前向きに取り込む勇気と情熱、協力してくれる家族や友人、そして何よりも、汲めども尽きない大きな志を見のがしてはなりません。歴史上の偉人はもちろん、戦後の日本を支えた五島慶太・堤康二郎・本田宗一郎・盛田昭夫・井深大なども、みな同じです。私たちはこうした偉人にはるか及ばずとも、小さな志を成し遂げるにはその努力が必要なのです。
「乗り越えられない苦難は与えられない」という言葉を、聞いたことがあります。皆様にも苦難がありましょう。しかしそれは、皆様が背負った人生の宿題なのです。宿題を果たさねば次には進めません。宿題はまた、天命とも呼ばれます。そのことを肝に銘じましょう。そして、勇気をもってそれを乗り越えましょう。乗り越えられない苦難は与えられないのだ、と。そして功の成るは、成るの日に成るにあらず、と。