2020/03の記事

新・資本論

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社会

令和2年3月18日

 

数日前、コンビニに寄りましたら『堀江貴文の新・資本論』(宝島社新書)という著書が目につき、購入しました。「知らないと一生搾取さくしゅされるお金の正体」というサブタイトルにも、興味をそそられたからです。またお金について、堀江氏がどのように考えているのかを知りたかったからです。

印象に残ったのは、お金とは信用だということ、紙幣しへいがすなわちお金と思うのは幻想だという点でした。たとえば、失礼ながら皆様の財布に一万円札があるでしょうか。ありましたらその一万円札を取り出し、じっと見つめてみてください。さて、それは本当に〝一万円〟でしょうか。また、どうしてそれを手にしているのでしょうか。

堀江氏はすなわち、それは「一万円という信用の数値化」だと言っています。つまり、社会が皆様の働き(信用)に対して、それを評価した数字だという意味です。人はお金を求めて追いかけますが、実はお金はその足あとで、結果として残されたものなのです。社会に対して何を与えたか(堀江氏はこれを投資と表現しています)、どんな人脈を得たか(同じくコミュニケーションと表現しています)、それらの総合評価が一万円なのです。投資といっても株式のことではありません。人の役に立つことをしたか、人に親切をほどこしたか、また自分が勉強するための出資をしたか、などです。私も皆様も、一人では生きていけません。必ず多くの方のお世話になるのです。それがコミニュケーションです。これらの総合評価が、すなわちお金だと主張しています。

人はお金があれば何とかなる、自分を助けてくれるのはお金しかないと思っています。そして、それを追いかけます。しかし、お金は結果なのだということがわかっていません。つまり、社会にどれだけの投資やコミュニケーションを持ち、どれだけの信用があるかがお金の正体だというのが堀江氏の考えなのです。

この考え方からすると、自分という正体も見えてきます。人は何となく「自分は自分じゃないか」と思っていますが、生きてきた過去の投資・コミュニケーション、そして信用のすべてが自分であるともいえましょう。過去とは生まれる以前からの自分も含めてです。仏教では「無始むし以来の」自分と表現します。その総合評価が自分の能力であり、自分の徳であり、自分の財産なのです。一万円札を求めるより、一万円の足あとを残すことが肝要なのなのです。堀江氏の主張は、きわめて仏教的なものだと私は思いました。

何によって栄え、何によって衰えるか

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社会

令和2年3月17日

 

私が長年お世話になり、親しくご厚誼こうぎをいただいたアルミ管工業会社の社長さんが他界しました。その社長さんは一代でその会社を立ち上げ、驚くほど広い工場を持つまでに発展させました。

大変に気さくな人柄でしたが、一方では学ぶことにも熱心でした。読書量も多く、経営セミナーへの参加も怠りませんでした。また、私の法話集なども真剣に読んでいただき、毎年の新春大護摩には、必ず会社名でお申込みをいただいて来ました。

私は何度も会社を訪ね、経営指針や人生観など、お話を伺ったものです。注目したことはその社長さんが私と外出する時、そして外出から戻った時は、事務所内の社員20人近くが全員で起立し、見送りと出迎えをしたことです。また工場内を案内していただいた折には、作業中でも社員が社長さんに一礼し、社長さんもねぎらいの言葉をかけていたものでした。社内の雰囲気ふんいきが大変に明るく、社員の皆様が楽しんで仕事をしているようにさえ感じました。

いったい家も会社も何によって栄え、何によっておとろえるのでしょうか。お大師さまは「豊かになることも衰えることも、人によるのである。人がいかに道にかなっているかによるのである」とおっしゃいました。道に叶っているとはじんに叶い、れいに叶い、こころざしに叶っているということ、つまり道徳に叶っているということです。挨拶や清掃ががしっかりとできているということ、思いやりや意欲があるということでしょう。

「競争社会に何が道徳だ」と言う方がいますが、では、その方は十分に栄えているでしょうか。人に嫌われれば、結局はうまくいきません。一時的には栄えても、いずれは必ず衰え、いずれは滅びるのです。私は最近、ジョージタウン大学准教授、クリスティーン・ポラス女史の『「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である』(東洋経済新報社)を大変に興味深く読みました。彼女は「礼節の科学」によるビジネス講演をアメリカ各地で開催し、大変な人気です。つまり礼節のある人がなぜ栄えるのかを、さまざまな角度から力説しています。競争社会も、結局は人なのです。礼節なのです。

続続・日本人の食事

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食事

令和2年3月15日

 

現代の日本人はペットボトルを持ち歩き、常に冷たい水やお茶を飲んでいます。会議や集会に出れば、テーブルにはさらに別のペットボトルが置かれています。そして、医者も栄養士も「水分をとりなさい」と言います。一日二リットルが理想だというのです。朝に目覚めれば冷たい水をまず一杯、夜の就寝前にまた一杯、夜中にトイレに起きれば不足したその水分をまた一杯です。本当に必要な水分であるのかは、多いに疑問です。

ペットボトルがそこに〝ある〟から飲むのです。あるいは、せっかく買ったのにもったいないから飲むのです。昔の日本人なら、夏でも急須きゅうすてた温かいお茶を、梅干しなどと共にいただきました。だから、水分がしっかりと細胞内に吸収され、熱中症になどなりませんでした。

また、夏野菜や南方の果物といった体を冷やす食品が、一年中食卓にのぼります。しかも、夏になればクーラーを使いますから、体はますます冷えていきます。これではいくら水分をとっても細胞には吸収されません。漢方でいう〈水毒〉の症状です。水分信仰にはこんな落とし穴があることを知らねばなりません。

もう一つ気になるのが減塩信仰です。いまスーパーに行けば、減塩味噌みそと減塩醤油しょうゆのオンパレードです。まるで「塩分が日本人を滅ぼす」と言わんばかりです。それでいながら、高血圧の人口はいっこうに減りません。これはいったい、どうしてなのでしょうか。

そもそも病状というのは、たった一つの要因で語られるものではないのです。年齢・体質・遺伝・運動・食事・ストレスなどが、さまざまに関わることは当然のことです。むしろ、わずか数グラムの塩分を減らすためのストレスの方が高血圧を呼んでいるのかも知れません。それに、いま販売されている醤油のほとんどは、脱脂加工大豆(油をしぼった残りカス)から作られています。醤油本来の酵素が働きませんから、ますます高血圧を呼ぶことになります。

塩は大切なミネラルです。問題なのは人工的に合成された食塩(塩化ナトリュウム)であって、海水を天日干てんひぼしにした自然塩ならさほど気にする必要はありません。それに、体温を上げるのも塩のはたらきです。体を冷やす食事や水分と食塩の相互関係が、日本人の体温を下げています。特に若い女性には35度代、まれには34度代までいます。これでは赤ちゃんを産めません。妊娠しない女性が多いのも当然のことです。

昔の僧侶は真冬でも素足で過ごしました。自然な発酵食品や塩をしっかりとっていたからです。これからは、体温を上げる医学や栄養学が重要視されるべきなのです。

続・日本人の食事

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食事

令和2年3月11日

 

私が小学校に入った頃でしたでしょうか、日本中に妙な風評が立ちました。

それは、「ご飯を食べるとバカになるから、パンを食べなさい」というものでした。同時に、「『味の素』をとると頭がよくなる」というものまでありました。思い出す年代の方もいらっしゃるのではないでしょうか。現代からすればとんだお笑いぐさですが、当時の日本人は大まじめで受け取りました。本当に信じていたのです。

それからしばらくして、今度は「タンパク質が足りないよ!」というテレビCMが一世を風靡ふうびしました。たしか、クレージーキャッツの谷啓たにけいさんの出演だったと記憶しています。それがやがて「肉を食べなければ体力がつかない」という信仰まで生み出しました。

これらの社会現象には、戦争に敗れた日本がアメリカから大量の小麦粉(パン)や石油(『味の素』は当時、石油から作られていました)、また肉類(タンパク質)を輸入しなけらばならなかった政治的な背景がありました。そして、肉の信仰を決定的にしたのが昭和39年の東京オリンピックでした。体の小さい日本人は、筋肉モリモリの外国人に対して大きなコンプレックスをいだいたからです。特にお家芸の柔道では、そびえるような巨体のヘーシンク選手(オランダ)に敗れたことが、国民に大きなショックを与えました。

では、改めて考えてみましょう。ご飯を食べると本当にバカになるでしょうか。『味の素』で本当に頭がよくなるでしょうか。肉を食べなければ体力がつかないというのなら、昔の日本人が一汁一菜でも重労働に耐え得たのはなぜでしょうか。馬は草やニンジンばかり食べていても、あれだけの〝馬力〟があります。パンダは竹や笹ばかり食べていても、あれだけの脂肪を温存しています。そして体の小さい日本人が、今なお世界一の長寿国です。体力とは何をもって尺度とするか、それはさまざまであることを知るべきです。オリンピック競技に勝つことばかりが体力ではないのです。腸の長い日本人には、外国人とは違った和食が合うことはいうまでもありません。

現代の日本人に、特に若い方に一汁一菜の生活はできません。それでもご飯を食べるとバカになるとも、『味の素』で頭がよくなるとも思っていません。だから「肉を食べなければ体力がつかない」という信仰からも、そろそろ脱却すべきなのです。たまに食べる、少しは食べるくらいが、ちょうどよいのではないでしょうか。日本人はやはり、動物性タンパク質は魚介類を中心にすべきだと思うのです。

昔から僧侶は長命だといわれますが、ご飯と共に味噌・納豆・豆腐などの植物性タンパク質で健康を維持してきたのです。もちろん、漬物つけものなどの発酵食品も重んじました。そして腹から声を出して読経し、仏教について思索しさくを重ね、托鉢たくはつ巡礼じゅんれいでよく歩くことにその秘密があったのです。このお話はさらに続けます。

日本人の食事

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食事

令和2年3月10日

 

二十代の頃、玄米菜食(マクロビオテック)に熱心な友人がおり、彼らの集会や専門のレストランなどにも同行しました。また各地の断食だんじき道場や健康道場にも入門し、経験を重ねました。最近では糖質制限食や低糖質食(ローカーボ)なども、自分で体験してみました。そのほか、食事や健康法に関する著作はかなり読みましたから、この分野については相当に詳しい方だと思っています。

食事についていま考えていることは、あまり片寄ってはいけないということ、その土地でとれた季節のものを中心に楽しくいただくということ、そして日本人はやはり伝統の和食を中心にすべきだという点です。実は玄米菜食にこだわっている人は、顔ツヤのよくない人が多いのです。それはあれもダメこれもダメと、食事に対する偏見へんけんがあまりにも強いからです。食事は楽しく、時間をかけていただくことが大切です。よくみなさいといっても、玄米を口に入れるやはしを置き、全員が無言で、ひたすら百回を噛み続ける様子は異常としかいいようがありません。

よく地中海料理を食べている人たちが長命なのは、オリーブオイルによるものだといいます。しかし私は、赤ワイン(リスベラトロール)や新鮮な魚介類(DHA・EPA)によるところが大きいと思いますし、楽しくおしゃべりをしながら何時間もかけて楽しむところにその理由があると考えています。昔の日本では食事中に話をすると、親からしかられました。禅寺ぜんでら雲水うんすい(修行僧)ならともかく、これは日本人のしきたりとしては、めずらしく悪い一面が出ていたからです。

しかし、伝統の和食は理想の食事だと思います。日本人はやはりご飯をしっかりと食べるべきなのです。きつい肉体労働をするとわかりますが、パンやめん類といった小麦粉食では力が出ません。極端な糖質制限食も脂肪は落ちますが、疲れやすくなって力が出ません。日本人にとってご飯による糖質は、最も大切な栄養素だと思います。「仏飯ぶっぱん」ともいい、「舎利しゃり」ともいうでしょう。つまり、ご飯は仏さまそのものなのです。

また昔の日本人はヨーグルトを知らずとも、味噌みそ醤油しょうゆ梅干うめぼし漬物つけもの納豆なっとうといった発酵食品(植物性乳酸菌)によって腸内環境を調えていたのです。日本人は魚介類を加えた和食を中心に、たまには肉類を加えるほどがよいのではないでしょうか。このお話は明日も続けます。

大相撲放送への提言

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文化

令和2年3月8日

 

今日は月初めの総回向があり、また加行けぎょう(入門の修行)の伝授や得度式とくどしき(仏門に入る儀式)の打合せなど、忙しい一日でした。夕方五時半頃にたまたまテレビをかけましたら、大相撲おおずもう春場所の初日中継を放送していました。まさに前代未聞の無観客場所です。新型コロナウイルスによるやむを得ぬ処置とはいえ、異様な館内であったことはいなめません。

ところで、私は時おり思うのですが、相撲すもうこそは日本の国技です。ところがその相撲について、国民はファンとする関取せきとりや力士のこと以外、ほとんど何も知りません。いや、その関取と力士の違いすら知りません。ただ、何となく放送されているからそれを見ていると、そんなものではないでしょうか。

たとえば「立行司たてぎょうじの木村庄之助・式守伊之助」といいますが、その立行司という意味について、アナウンサーも解説者も何も説明しません。ほかの行司とどのように地位や装束しょうぞくが違うのか、もっと国民に知らせるべきなのです。

行司といえば、よく「よ~い、はっけよい」と鼓舞こぶしますが、あの「はっけよい」とは発揮揚々はっきようようのことで、「もっと気を発せよ」「発揮用意」のことであることを、国民は知っているでしょうか。また結びの一番では、たいていは観客の声援で行司の声が聞き取れません。ところが、このれがなかなかの口上こうじょうです。

番数ばんかずも取り進みましたるところ、かたや白鵬、白鵬。こなた鶴竜、鶴竜。この相撲すもう一番にて本日の打ち止め~(千秋楽せんしゅうらくにござります~)」

日本語としてもすばらしい音調ですが、これを知っている人はおそらく国民の1パーセントもいません。

そのほか、相撲界の裏方である呼出よびだし床山とこやま(髪結い)・ちゃんこ番、番付の書体である根岸流、太鼓(寄せ太鼓・ね太鼓)、相撲甚句すもうじんくのことなど、放送中に少しでも解説や字幕で知らせれば、国民はもっともっと相撲に興味がわくはずです。また若い女性や外国人にも、さらに人気が高まるのではないでしょうか。

文化はわかりやすく、親しめることで残るのです。また伝統という概念がいねんも、その時代に融合ゆうごうした新鮮さがなければなりません。私が職業とする仏教やお寺も同じことです。古きものこそ新しき革袋かわぶくろが必要となるのです。

疫病と般若心経

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真言密教

令和2年3月7日

 

このたびの新型コロナウイルスによる肺炎感染の疫病えきびょうは、地球をあげての危機となりました。実はお大師さま四十五歳の折、大変な疫病が流行しました。そのことは著作『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』十一段の上表文じょうひょうのもんに記載しておられます。大略をやさしい現代文にしてみましょう。

弘仁こうにん九年(818)の春、天下に大変な疫病が流行はやった。そこで嵯峨天皇さがてんのうは自ら金泥きんでいを筆先にめ、紺色こんしの紙を押さえて『般若心経』一巻を書写された。私はおそばにあって『般若心経』の功徳を講義していたが、絶命したと思われた人が蘇生そせいし、夜なのにまるで日中のようなまばゆい光までも出現した。(中略)昔、私はまさにお釈迦さまの霊鷲山りょうじゅせんでの説法の席にいて、この経の深い意味を聞いたのであるが、今こそこれを解き明かしたのである」

嵯峨天皇のこの写経は「勅封ちょくふう般若心経」と呼ばれ、現在も京都嵯峨・大覚寺だいかくじ〈心経殿〉に奉安され、60年に一度だけ寺院関係者に開封されています。弘仁九年は戊戌ぼじゅつ(つちのえいぬ)の干支かんしでしたので、その干支が60年に一度巡って来るからです。最近では平成三十年が戊戌に当たり、しかも弘仁九年からちょうど1200年目ということで、大覚寺では記念法要が奉修され、しかも一般公開までされました。

この上表文を鎌倉時代の日蓮聖人などは、根も葉もない「大妄語だいもうご」としていますが、嵯峨天皇の「勅封般若心経」が大覚寺にあることはまぎれもない事実です。そして弘仁九年の疫病にかぎらず、『般若心経』が数々の病魔を降伏ごうぶくさせてきたことも事実です。お釈迦さまより直接この経を聞いたとする結びの表現も、決して絵空えそらごととは思いません。お大師さまご一代の行状ぎょうじょうを見れば、このような超越的なお話は十分に考えられるからです。またお大師さまが、『般若心経』を特に重んじられた深義もここにあるからです。

いま地球をあげての感染危機に直面し、一人でも多くの方々が『般若心経』の読誦どくじゅ、あるいは写経に励まれますことを念じてやみません。私も毎日のお護摩では必ず『般若心経』を大太鼓の轟音ごうおんと共に読誦し、疫病の終息を祈念しております。

赤ちゃんは「オギャー」と泣くのか

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真言密教

令和2年3月5日

 

阿字あじの子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ちかえる 阿字のふるさと」というお大師さまの歌があります。すぐれた弟子であった智泉ちせん(お大師さまのおい)さまが、三十七歳の若さで世を去った折、その悲しみをいやすために作られたとされています。

阿字というのは真言密教の教主・大日如来のことで、いわば仏のふるさとを象徴しょうちょうします。よく位牌いはいの上に書かれている、あの梵字ぼんじのことです。つまり、人間は仏の子として仏の国から生まれ、やがてはまた仏の国へ帰る〝本来不生不滅ほんらいふしょうふめつのいのち〟であるいう意味です。死者は仏の国に帰るのですから、位牌に阿字が書かれるのは当然といえましょう。

ところで、阿字のふるさとを立ち出でて誕生した仏の子、つまり人としての赤ちゃんはどのような産声うぶごえを発するでしょうか。普通、赤ちゃんは「オギャー」と泣くといいますが、私はどうも違うのではないかという疑問を持っています。なぜなら、赤ちゃんは口を開けて泣くのです。口を開けたら「オ」にはなりません。私はたぶん「アギャー」と泣くのだと、若い頃から想像していました。しかし、赤ちゃんはまだはっきりとした発音ができません。だから、何となく「オギャー」と聞こえるのではないでしょうか。

私はこのことを確認すべく、出産経験のある多くの女性に質問して来ました。また、伝授の折には尼僧にそうさんにまで質問しました。しかし、明確な答えは得られませんでした。出産は女性にとって一生の難事であり、産声を正確に聞き取る余裕などないというのがその答えで、私の失態に終ったわけです。

しかし今は、ネットの動画で誰にでもその声を聞くことができます。間違いありません。赤ちゃんは大きく口を開けて、「アギャー」と泣くのです。つまり、「仏の国から今こそ生まれたぞ!」という宣言を、この阿字によって発しているのです。生きるということは声を発することです。声の大きい赤ちゃんは丈夫に育ちますし、元気な人はみな声が大きいはずです。つまり、存在とは振動であり、響きであり、声なのです。したがって、声が出なくなったその時、私たちはまた阿字のふるさとに帰るのです。

今日のブログは皆様にも、そして真言宗僧侶のすべての方々にも読んでいただきたいお話です。そして、お大師さまは本当に偉大なお方だと、改めて憶念おくねんしていただきたいお話です。

だますな、だまされるな!

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社会

令和2年3月4日

 

私の知っているあるお寺で、こんな詐欺被害さぎひがいがありました。

そのお寺はかなり看板を出していましたから、それぞれの地主や業者への支払いも多額でした。住職はもちろん、どの看板に対しても支払額や期日を把握はあくしていましたが、事件はその住職があいにく不在の時におこりました。看板業者らしい男がやって来て、「〇〇に立ててある看板の集金にまいりました」と言うのです。奥様は何の疑いもなく、高額な支払いを済ませ、領収書も受け取りました。しかし、それはまったくの詐欺業者で、領収書の社名も住所も電話番号も架空かくうのものでした。

帰って来た住職がほぞをかんだのは申すまでもありません。日頃から管理体制を整え、奥様によく説明しておくべきだったのです。しかし、さすがにこの住職はよくできた方で、責任は自分にあると反省し、この経験を深く戒めました。

現代社会は正直で誠実に生きるだけでは、通りません。これだけ〝振り込め詐欺〟が横行していながら、いっこうに減少しないのはどうしてなのでしょう。NHKの「ストップ詐欺被害『わたしはだまされない』」でも、いろいろな警告を発信しています。「キャッシュカードを渡さない」「合言葉を決める」「名義貸しに注意」などなど。それでも、人は〝だまされる〟のです。

私たちは人をだましてはいけないと思っていますし、人をだますことは悪いことだと思っています。しかし、人にだまされることが悪いことだとは思っていません。むしろ、だました人が一方的に悪いと思っています。ここに問題があるのです。私たちはだまされることも、だますことと同じように悪いことなのだという自覚が必要です。正直で誠実に生きると同時に、自分をだまそうとしている人が必ずいることを知らねばなりません。

生きていくためには、善に強くあると共に、悪にも強くあるべきなのです。観音さまのようにやさしく、お不動さまのようにきびしく、ということです。「だますな、だまされるな!」ですよ。

音読のすすめ

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文化

令和2年3月3日

 

齋藤孝著の『声に出して読みたい日本語』(①~⑤草思社刊)は私の愛読書です。愛読書といっても、本書は音読して暗誦あんじゅするためのテキストであり、私もまた〝声に出して〟これを読んでいます。

今や暗誦文化は絶滅の危機にありますが、あえて一石を投じた本書は称賛しょうさんに価すると思います(写真)。

昔の寺子屋では、子供たちが『論語』や漢詩や和歌を大きな声で音読し、暗誦しました。それは生涯忘れることのない言葉の財産となりました。昔の人が辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、ひとえにこの暗誦文化のおかげなのです。

以前、ある大学の国語入試試験に川端康成著『伊豆の踊子』の冒頭が出題されました。〈つづらり〉〈雨脚あまあし〉〈朴歯ほうば高下駄たかげた〉といった言葉を、例語の中から選びなさいというものでした。それを受験した高校生が私のところに来て、「あんなのわからない」というのです。私はこの冒頭を高校生の時に暗誦していましたから、その場で声に出して聞かせました。その高校生はキョトンとしていましたが、私が特に頭がよいわけでも記憶力がすぐれているわけでもないのです。ただ、音読をくり返して暗誦していたに過ぎません。

声に出して音読をすることは、耳を通じて脳を刺激し、情緒じょうちょ高揚こうようさせ、記憶力を高めます。なぜなら言葉は〈言霊ことだま〉であり、たましいが宿るからです。そして言霊は〈事霊ことだま〉であり、現実をも動かす力があるのです。そして何より、日本は「言霊ことだまさきはふ国」(『万葉集』巻五)でもあるのです。

お大師さまは「真言は不思議なり。観誦かんじゅすれば無明むみょうのぞく」(『般若心経秘鍵はんにゃしんぎょうひけん』第五)とおっしゃいました。真言の意味を学問的に知らずとも、心を集中してお唱えすることにより、その功徳が生まれます。『般若心経』をお唱えする人はその意味を知らずとも、その言霊によって現実を動かし、願いごとが叶い、経典きょうてんの真意を〝知る〟ことができるのです。

経典ばかりではありません。名文や詩歌は声に出して音読し、暗誦することが肝要です。格別な才能などいりません。くり返し声に出す、これだけなのです。

山路天酬密教私塾

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