2020/02の記事

陰膳のすすめ

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令和2年2月11日

 

陰膳かげぜん」という言葉をご存知でしょうか。本人がいなくても、本人がいつも座っている食卓に、本人の食器やはしでいつもどおり食事をえることです。

昔は旅に出た人の安全を祈って、よく行われました。昔の旅は危険な道中が多く、また盗賊とうぞく山賊さんぞくが出没しましたから、このようなことが行われていたのです。これを現在に応用するなら、たとえば年頃の息子さんや娘さんが家出をした場合に用いることができます。お母さんが陰膳かげぜんをすると、不思議に〝里ごころ〟をおこして、帰って来ることが多いのです。専門的なご祈祷法もありますが、私は何度かこの陰膳をすすめて、家出人を呼びもどせた経験があります。

また、家を離れた遠いところでの受験や試合、危険な仕事をする場合にもよいでしょう。家で落ち着かない気持ちで過ごすより、ご自分のためにもなるはずです。ぜひ、試みてください。

人は決して一人で生きているわけではありません。特に家族は精神的なきずなで結ばれています。子供に異変があれば、特に母親は胸騒むなさわぎがするなど、直観的に感じ取るものです。もちろん、その逆もあるのは当然です。

これは、家族は同じ遺伝子で連結しますが、同時に精神的にも連結するからです。子供が母体に宿れば、父親との遺伝子によって、身体と精神を共有するからともいえましょう。

本来、心(精神)には時間や空間のへだたりがありません。昔の人はたとえ遠く離れていても、心の思いが通じることを知っていたのです。

業の洗濯

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信仰

令和2年2月10日

 

人はよく、特定の信仰や何らかの道に入って、それから〝修行〟をするといいます。しかし、私はそうは思いません。信仰を持とうが持つまいが、あるいは信仰に反発する人さえも、等しく修行をしていると思うのです。もちろん政治も学問も、科学も芸術も、料理も趣味も、何一つとして修行でないものはありません。

なぜなら、どのような生き方をしようと、人は苦しみを背負うからです。では、その苦しみはどこから来るのでしょうか。仏教では、それを「ごう(または宿業しゅくごう)」と呼んでいます。ごうはあるいは前世ぜんせから、あるいは先祖から遺伝子のように引き継ぐのです。信じようと信じまいと、それは自由です。しかし、何らかのプロセスがなければ、人は平等に生まれるはずです。しかし、健康に差があり、貧富に差があり、能力に差があるのは、生まれる以前に何かがあったからではないでしょうか。

そして、ごうが苦しみとなって現れる時、それは〝ごう洗濯せんたく〟をしているのだと私は考えています。洗濯をすれば水は汚れますが、それは同時に清める姿でもあります。つまり、人は苦しみの中で業の洗濯をしつつ、業を清める修行をしていることになります。

問題は、その事実をどのように受け止めているかです。苦しみによってヤケをおこせば、つまり途中で洗濯をやめれば、修行の意味を失います。かえって業を深める結果にもなりかねません。また、その修行を成就するのにどのような形をとるかも、人それぞれです。信仰に求めるも、それを否定するも、他に求めるも自由です。しかし、どのような形をとるにしても、人は自分が背負った業の洗濯をする天命があると私は思っています。

開運星祭り

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あさか大師

令和2年2月9日

 

今日は年頭最後の行事として、「開運星祭り大護摩供」を修しました。ちょうど満月にあたり、ご祈祷には最高の日となりました。また、神戸・鹿児島・沖縄などの遠方からも僧侶の方々が集まり、ご信徒の皆様もたくさんお参りくださいました(写真)。

星祭りは厄よけ・災難よけと同様、直接に自分や家族のこととなりますので、大変に関心が高いようです。また、私が『当年星供秘要次第とうねんじょうくひようしだい本地金輪護摩付ほんぢきんりんごまつき)』(青山社)を刊行し、各地で伝授をして以来、星祭りを年中行事とするお寺さんも大変に増えました。万年歴を用いて節分・立春を確認したり、旧暦での誕生日から宿曜を選出することにも、慣れていただいたように思います。特に二月三日や四日生まれの方は、万年歴で正確な節分・立春を調べる必要があるからです。

現在の星祭り行事は、ほとんどが〈当年星供とうねんじょうく〉といいまして、その年に巡って来る当り星を祈願します。そして、星祭りにはお護摩がつきもです。しかし、経典を調べますと〈当年星供〉にはお護摩の次第がありません。このような場合は〈本地護摩ほんぢごま〉といいまして、当年星の本来のお姿である本地仏ほんぢぶつ金輪きんりんさま)のお護摩を修します。

私が残念に思うのは、星祭りといいながら、お不動さまのお護摩を修しているお寺さんが多いことです。これでは星祭りのお護摩にはなりませんので、ぜひ、正しい本地護摩を修していただきたいと念じております。

星祭りの後は、お二人の方に印可を授け、さすがにクタクタになりました。今夜は早めに休ませていただきましょう。

事はじめ

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仕事

令和2年2月9日

 

私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)では二月八日を「ことはじめ」といい、奇妙な風習がありました。この日は厄病神が村々を訪ね歩くとされ、家では竹ザオで目籠めかごを屋根上にげていました。目籠というのは(まなこ)の荒い竹籠たけかごのことで、これを「だいまなこ」と呼んでいました。厄病神は「一つ目小僧」であるとされ、それに対抗するためであったようです。

そして、この日の朝食には必ずそばがきを食べました。そばがきの粘着力には呪力があるとされていたからです。父は仕事に行く前に、私は学校へ行く前に、祖母が作ったそばがきを食べたものでした。

また、この日は針供養の日とされ、一切の針仕事を休んだものでした。一年使った針を豆腐とうふにさして川に流したり、神社に納めました。昔の和裁学校ではこの風習があったらしく、これで裁縫さいほうの上達を願ったようです。そして、ご馳走を持ちよって会食したとも聞きました。針に対する畏敬いけいの思いがあったのでしょう。

現代人はこんな風習を笑うでしょうか。もちろん、こんな風習は昔の語りぐさで、もの笑いかも知れません。しかし、自然に対し、また道具に対し、謙虚であったという一語につきましょう。そして、生きることは何かの世話になるものであるという、人としての理念があったのです。子供の頃の風習も、いま考えると、なるほどと思うものです。

品格について

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仏教

令和2年2月7日

 

かつて藤原正彦氏の『国家の品格』、坂東眞理子氏の『女性の品格』を始めとして、〈品格〉という言葉が流行しました。

品格とは何でありましょうか。もちろん、今日・明日から品格を身に着けようとしたところで、叶うことではありません。その人の教養・思考・経験・生活・行動など、そのすべてが融合ゆうごうして自然ににじみ出るのが品格でありましょう。

たとえば、そこに紙くずが落ちていたとして、それを気にもしないか、気にはするけれども何もしないか、すぐに拾ってくずかごに入れるか、そんなところにも現れましょう。仏教では「下座げざ精進しょうじん」といいまして、自分の立場や身分をいかに下げられるかを大事な修行としています。仏門に入る得度式とくどしきは、礼拝らいはいの連続です。仏に向かって両膝りょうひざ両肘りょうひじひたいゆかに着ける〈五体投地ごたいとうち〉をくり返します。つまり、高い品格は、自分を下げることから生じるという教えを実践するのです。下げることから心が清まり、魂が輝き、その品格が高まるのです。この逆説がわかりますでしょうか。

「実るほどこうべを垂れる稲穂いなほかな」というではありませんか。稲は実るほどにその穂を下げるものです。人もまた、その品格が高いほど謙虚にふるまうものです。逆に品格の疑わしい人ほど尊大で、増上慢ぞうじょうまんな態度をふるまうはずです。覚えはございませんか。

成長する会社の経営者は自らトイレ掃除そうじをしたり、社員と同じ立場で対話をするはずです。社員もまたそんな社長を信頼し、仕事に励み、その会社が成長していきます。戦後日本を動かした偉大な経営者の方々を見れば、それは十分に理解できましょう。女性の品格も、国家の品格も、すべては謙虚でなければ高まりません。

子供部屋の方位

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九星気学

令和2年2月6日

 

昨日の続きでありますが、子供部屋にも九星気学を生かすことができます。

まず、二度三度と声をかけても起きてこない朝寝坊あさねぼうの子供には、東枕になるよう工夫することです。東(震宮しんきゅう)は、朝日が昇る活動の方位です。一日の始まりとして東枕にすると、子供が(もちろん大人でも)意外に早く起きる事実を私は体験しています。

また、特に長男には家の中心から見て、東または東北の部屋を与えるとよいでしょう。東は長男の座所ですし、東北(艮宮ごんきゅう)は相続の象意しょういがあります。長男らしい活動や相続の〈〉を受けることによって、家庭内の人間関係もうまくいくことが多いのです。

次に女の子は、東南または西の部屋をおすすめします。東南(巽宮そんきゅう)は縁談の象意があり、西(兌宮だきゅう)は恋愛の象意があるからです。なかなか縁遠い女性が、北や東の部屋にいる例を私はたくさん知っています。ちょっただけ秘伝をお話しますが、結婚は特に東南が大切です。恋愛をしても、縁が熟して結ばれなければ意味がありません。だから、九星気学で結婚運を見る場合、西の兌宮よりも東南の巽宮を中心に判断します。また、巽宮を定位じょういとする四緑木星の位置で判断するのです。

このようなお話はたくさんありますが、これ以上はあさか大師にお越しください。私はほとんど寺にいますので、いくらでもお話しますよ。

北枕のすすめ

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九星気学

令和2年2月5日

 

眠れないという方に対して、私は北枕きたまくらをすすめています。

なぜなら、北は九星気学で〈暗闇くらやみ〉を意味し、眠りに適するからです。死者を北枕にするのも、同じことです。縁起が悪いと思うかも知れませんが、そんなことはありません。眠る時は明かりを消すでしょうから、とても理にかなっているのです。北枕を嫌うことこそ、まったくの迷信です。

私は睡眠時間が大変に短く、友人からよく「いったい、いつ寝ているんだ」と言われてきました。だいたい4時間ほどでしょうか。それは眠りの質が高いからで、これも北枕のおかげと思っています。

それから、眠れない方は心と体のバランスが悪いはずです。つまり、精神的にはクタクタになっても、体は意外に疲れていません。だから、ウォーキングや水泳などのスポーツをすると、よく眠れるようになります。

このことを考えますと、精神的な悩みに対しては身体的に対応した方がよいということがいえましょう。私はよく、山歩きをすすめています。歩くことで体は疲れますが、山林の緑や花の色、せせらぎの音や鳥の声でとてもいやされます。気持がリフレッシュして、活力がよみがえります。これも、その方にとってのよい方位があるので、また九星気学が活躍します。

私は占い師ではありませんが、いろいろなことに九星気学を生かしています。皆様もぜひ、北枕を試してみてください。よく眠れますよ。

来世への予習

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人生

令和2年2月4日

 

大正時代のことです。長崎市の名刹めいさつ曹洞宗そうとうしゅう皓臺寺こうだいじ霖玉仙ながあめぎょくせんという和尚がいらっしゃいました。

和尚は七十歳にいたって、英語の勉強を志しました。それを見た弟子たちが驚いたのも無理はありません。みな、あきれかえってしまいました。中にはずけずけと、「そんなお年では無理ですよ」と言う者までおりました。どうせ、すぐに挫折ざせつすると思ったのでしょう。ところが和尚は、

「よう知っておるよ。だがな、いま一つでも英単語を覚えておけば下地ができるはずだ。来世に生まれ変ってまた勉強する時に、きっと役に立つと思ってな」

と、答えました。

私はこのお話を、曹洞宗宗務本庁刊の著書で知りました。とてもよい逸話いつわだと、感動しました。「一生勉強」という言葉そのものです。無理をせずとも、来世への予習と考えれば、それもよいではありませんか。『言志四録げんししろく』(江戸時代の儒学者・佐藤一斎さとういっさいの著書)に記載される、「老いて学べば死してちず」のお手本のようなものです。

今日、認知症予防の〝脳トレ〟が流行はやっています。その種の単行本や雑誌の付録もたくさんあります。それらの効用についても、よくわかります。しかし大切なことは、何かを学ぼうとする前向きの意欲でありましょう。使わなければ衰えるのが人の体であり、人の脳です。でも、使おうとする意欲がなくては始まりません。

来世への予習をするほどの人なら、生れ変わることも楽しみになりましょう。私も多いに励まされました。

豆まきの文化

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文化

令和2年2月3日

 

今日は節分で、各地の社寺で豆まきが行われました。

豆が「めっする」から、あるいは「めっする」から、それが〝豆まき〟なのでしょう。また、豆(大豆)には豊富な栄養があり、健康食品としてもすぐれているからなのでしょう。特にった大豆は、火を通していますから人にも食べられます。できれば発酵して納豆にすればよいのですが、残念ながら豆まきには使えません。

幼い頃、父と二人だけで地元の神社で誰もいない中、豆まきをした記憶があります。父があまりに大きな声で「鬼は外!、福は内!」と叫ぶので、私ははずかしくなり、声も出せませんでした。それでも父が、「お前も声を出せ!」と言うので、何とか頼りない声を出しました。 

今日、人はこんなことをどう思っているのでしょうか。もちろん、豆まきをする人は今でもたくさんいます。コンビニやスーパーで節分の豆が売り出されれば、何となく気になります。中には「〇〇厄除よけ大師祈願」とまで、宣伝している商品まであります。有名寺院ではゲストのタレントさんの顔を見たくて、その豆まき行事に群参します。恵方巻えほうまきももちろん売れています。

これはこの国の文化なのです。また、この国に宿った民族の血なのです。そして、人というものの不変の願望なのです。

魔を滅するから「豆まき」だといえば、幼稚な語呂ごろあわせと笑うかも知れません。でも、人は誰でも魔を恐れ、少しでものがれたいと望んでいるのです。そうでなければ、厄よけの祈願にこんなに人が集まるはずがありません。魔(悪いもの)を除きたいという気持は、いつの世でも変わりません。

宗派を超えて

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真言密教

令和2年2月2日

 

今日も昨日と同じく、行く始めの回向行事をいたしました。九日(日)が「開運星祭かいうんほしまつ大護摩供おおごまく」の行事なので、集まった僧侶の方とその準備に入りました。左端に星祭り曼荼羅まんだらの一部が見えると思います(写真)。明日から前行ぜんぎょうに入り、七日後の当日に結願けちがんのお護摩をいてお札を祈念します。

この頃は真言宗のみならず、天台宗・浄土真宗・神官の方々などが集まって、とても楽しくなりました。各宗のニュースも聞けますので、私は居ながらにしていろいろな情報を得ていることになります。お大師さまの真言密教は、宗派などにとらわれることなく、どんな教えでも受け入れる順応性があります。

もちろん、教義をたどれば矛盾もありましょう。しかし、そんなことで争いを起こしているようでは、宗教界に平安はありません。社会に対しても、申し訳がたちません。今日、真言宗と天台宗が高野山で合同法要をしたり、ヨーロッパの聖堂で声明しょうみょう(経典や真言による声楽)の公演をしたりするのは、とても喜ばしいことです。

今後も宗派を超えて、いろいろな方々とお会いできることが、私のひそかな願いです。一つだけ悩んでいることは、真言密教は仏具代が高価であることです。得度とくどをして仏門に入り、次に加行けぎょうという修行を成満じょうまんした後には金属製の仏具が必要になります。特にお若い方は、その工面が大変です。いい情報がございましたら、お教えてください。

山路天酬密教私塾

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