吉凶と幸不幸
令和元年9月30日
また、占いのお話です。
占いでは〈吉凶〉は出せますが、それが〈幸〉か〈不幸〉かは出せません。幸不幸はあくまで、本人の心しだいであるからです。だから、吉が必ずしも幸せであるとはいえず、凶が必ずしも不幸であるとはいえないのです。
たとえば、生まれつきの身障者を占いで鑑定すれば、凶となって出ます。だからといって、それが不幸であるとは一概にはいえません。普通の人のように体を動かせなくても、芸術的な感性があれば絵や音楽で活躍することができます。またスポーツが好きであれば、パラリンピックを目ざすことだってできるのです。だから占いで凶と出ても、幸せな人生を歩むことは充分に可能です。
そして、さらに申し上げれば、身障者として生まれたことが、かえって幸せへの条件であったともいえるのです。つまり、身障者という条件こそが人生の天命なのであり、それによって幸せを得るチャンスを授かったということなのです。これは占いではわからないことです。
このことは厄年についても、まったく同じです。厄年は占いでは凶であっても、むしろ開運へのチャンスなのです。厄年の時にしっかりと計画を立て、準備をなし、身辺の整理をして実力を養えば、盛運に入って一気に進めるのです。これを盛運に入ってから始めても、もう間に合いません。だから、私は厄年は〈役年〉であるといっています。厄年こそ〝役立つ年〟なのです。
占いは人生の指針にはなりますが、人生そのものを決めることはできません。幸せも不幸も、すべてはそれを想う心が決めるのです。
トイレそうじの功徳
令和元年9月29日
トイレそうじには大きな功徳があります。トイレは人が生活するうえで、もっとも不浄とされる場所だからです。しかし、人はトイレなくして生活することはできません。だから、トイレそうじには功徳に満ちあふれているのです。
社長さん自らがトイレそうじを実践し、それによって業績を伸ばした企業がたくさんあります。また、昔からトイレそうじをすると、シモの病気にならないとか、安産ができると伝えられています。その理由はもちろん、トイレの神さまに好かれるからです。トイレの神さまから、ご褒美をいただけるからです。
京都の山科に、明治37年、西田天香(通称・天香さん)によって発願された〈一灯圓〉があります。ここは懺悔の心で、トイレ等の清掃奉仕をすすめる団体です。天香さんは今なお多くの方々に慕われていますが、その中のひとりに㈱ダスキンの創業者・鈴木清一氏(昭和55年死去)がいます。
鈴木氏は天香さんを深く敬愛し、〈世の中のためにある会社〉を目ざしました。社員を「働きさん」と呼び、新人研修では家々を回り、飛び込みでトイレそうじをしています。新入社員ばかりではなく、今なお社長も役員も、率先して出かけています。そもそも「ダスキン」とは、ダスト(ほこり)と雑巾を二で割った呼称だそうで、社名にもその精神が受けつがれています。同社はミスタードーナツとも提携し、フランチャイズ事業を展開しましたが、創業者の根本精神を忘れずに発展してほしいものです。
自分が汚れても何かをキレイにすることは、仏教そのものの訓戒です。日本にこうした企業がたくさんあることは、とてもうれしいことです。
小心という大胆
令和元年9月28日
私は小心で、臆病な人間です。幼い頃はカメラを向けられただけでも、はずかしくて逃げ回っていました。まして、大勢の前で自分の意見を述べるなど、考えられないことでした。
ところが、そこが人間の不思議さなのです。そういう自分を素直に認めると、逆に大胆で豪放な人間に一変するからです。今では自分をアピールすることが大好きですし、どんなに大勢の前でも堂々と講演をすることができます。けっして、特別な訓練をしたわけではありません。
つまり、小心と大胆、臆病と豪放とは紙一重なのです。自分の弱さを知ったものほど、逆に強くなるからです。考えてみれば、人は誰でも気の小さい、気の弱い一面があるものです。ただ、そのことを自覚しているかどうかが問題なのです。だから、それを自覚しない人ほど、度胸があって気の強そうな態度を見せるのです。
「弱い犬ほどよく吠える」というでしょう。弱い犬は闘えば負けてしまうので、吠えまくって相手に逃げて欲しいからです。強い犬はいつ闘っても勝てるので、そんなことはしません。犬にたとえて申し訳ないのですが、本当に実力も自信もある人は、むやみに怒鳴るようなことはしません。
自分は気が小さい、気が弱いと悩むことがあるなら、まずは素直にそれを認めることです。すると、かえって居直れるはずです。強い自分は、そこから始まるのです。実力も自信もある人は、小心で臆病な自分を知っています。重箱のスミをつっつくように細かいことにこだわるのです。それでいて、いざとなれば驚くほど大胆な働きをします。人間は誰でも、〝小心という大胆〟の矛盾を背負って生きているものなのです。
曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
令和元年9月27日
昨日で秋のお彼岸が明けました。
今年は暑さのせいなのか、曼珠沙華(彼岸花)の開花が遅れたように思います。本県日高市には有名な巾着田があり、年間30万人が訪れる観光地ですが、入場料を徴収したのは彼岸直前だったと聞きました。あさか大師の周辺でもほとんど目につかず、車を走らせて、やっと群生地を見つけました(写真)。地主さんから少し頂きましたので、いま、何の花器に挿せばよいかを思案しています。
私の郷里では、10年ほど前まで土葬(遺体を棺のまま埋める葬法)が続いていました。したがって、その土盛りが崩れぬよう、またモグラやネズミに荒らされぬよう、埋葬すれば曼珠沙華の球根を植えました。だから、曼珠沙華といえば、「死人花」「幽霊花」「親殺し」などという不吉な呼称があったのです。ましてや、花材になることもなく、茶室などではもっとも嫌われた禁花でした。
ところが近年では、各地の群生地に人気が集まり、禁花などと思っている人は誰もいません。花店でも販売されているはずです。私は5年ほど前に巾着田を訪れましたが、駐車場に入るだけでも2時間を要し、入場者は外国人でいっぱいでした。花の色も、本来の赤はもちろん、ピンクや白も目につきました。
現代人はほとんど知りませんが、昔はこの花の球根が飢饉の折の救荒食だったのです。球根にはアルカロイドの毒性がありますが、すりおろして粉末にすれば食用が可能でした。どれほどの人命を救ったかははかり知れません。漢方では〈石蒜〉といい、尿毒や水腫の妙薬として用いられました。
曼珠沙華は永く不運な歴史をたどりましたが、ここにいたってスターになったのです。栽培といっても何ら手間いらずで、強靭に繁殖するこの花が、世界中の人々から愛されることを私は願っています。
結婚しない女性
令和元年9月26日
男性もそうなのですが、今どきは結婚しない女性が多いのに驚きます。
私はかなりの世話好きなので、これまでも、ずいぶん女性に結婚をすすめて来ました。つまり、これはと思う男性を引き合わせようとして来ました。ところが、残念ながら、うまくいった例はかなり少なかったとしか言わざるを得ません。
たいていは、「いいです」と言うのです。いいですならオーケーなのかと思いきや、実はお断りの「けっこうです」の方なのです。私が「どうして?」と聞くと、「めんどうくさい」といいます。友人が結婚して、夫や子育てに苦労している姿を知っているからなのでしょうか。それならば、給料を貯めて好きなグルメや旅行を楽しみたいのでしょう。
では、本当に結婚への願望がないのかいえば、そんなことはありません。心の底では強く結婚を望んでいるのです。しかし、求める相手は〝理想の男性〟なのです。求めることが多いため、男性との出会いがあっても、自分のことは見えないのです。だから、理想は尽きません。
そんな時、私は「理想の男性なんていませんよ」と答えて来ました。仮に現われたように見えても、三ケ月もつき合えば、必ずボロが出ます。見ず知らずのアカの他人が、どうして理想の男性になれるでしょうか。せいぜい〝好み〟が合えばいい方です。結婚はどのような理由を超えても、結局は〈縁〉なのです。どんな出会いをしても、どんな恋愛をしても、縁がなければそれまでです。その縁の中で、うまくいっても、ダメであっても、私たちは人生の修行をするのです。それによって、一人の男性と出会った意味を知るのです。そして、それを知った時、本当の夫婦になれるのです。
結婚はめんどうくさいことでも、理想の男性を見つけることでもありません。運命の流れを受け入れ、その縁を受け入れることなのです。その縁に出会ったならば、人生の修行をすべきだと思います。そして、一人の男性と出会った意味を知るべきだと思います。
得度式
令和元年9月25日
一昨日、秋彼岸法要、および秋彼岸水子供養会を挙行しました。そして、その後に得度式(仏門に入る儀式)があり、四名の方が戒を受け、出家(僧侶になること)をされました(写真で胸に白い奉書を挿している方々)。ただ、この方々は社会人として仕事をしておられますので、剃刀(カミソリ)は当てましたが、髪はほんの一部を切り落とすにとどめました。
私の〈密教私塾〉での得度式は初めてのことで、私も四名の方々もいささか緊張しました。四名の方々はそれぞれ立派な法名(僧侶としての名前)をいただき、修行の第一歩を踏み出したわけです。これから休日には私のもとに参り、加行(真言宗僧侶の基本修行)に入ります。学ぶことはたくさんありますが、とても熱心な方々ばかりで、私も教えがいがあります。
写真をご覧いただくとわかるのですが、出家をされた当時は、法衣も袈裟も何となくぎこちなく映ります。誰でも、始めは同じです。ところが、これから礼拝や読経をくり返して行くうちに、いかにも僧侶らしくなっていきます。物腰も立ち振る舞いも、みごとにサマになります。このことは、以前にもお話をしました。しだいに貫禄がついていく様子を見るのも、私の楽しみになるはずです。
続・お願いごとが叶う
令和元年9月23日
神さまや仏さまが喜ぶことをして、世の中の人が喜ぶことをすれば、願いごとは必ず叶います。ただ、さらに注意せねばならないことがあります。
まず一つは、願いごとが叶うとは、間接的に叶うことが多いということです。いつもお話をしていますが、たとえばお金を手に入れることとは、子供が親からお小遣いをもらうこととはまったく違うのです。ほとんどは、人や物を通じて間接的に現れるからです。つまり、何かの〈縁〉を通じて現れるということです。
病気平癒のお願いごとをした場合、ウソのように直接に治ることもありますが、多くは何らかの〝情報〟という縁によって現れます。どこの病院やお医者さんがいいとか、こういう治療法があるとか、いい薬を知らされるとか、それによって病気が好転するのです。それは友人との会話で知るかも知れませんし、テレビ番組の中で知るかもしれません。あるいは、立ち寄った書店で手にした本や電車内の広告で知るかも知れません。
だから情報という縁が、いつ、どこで、何によって現れるか、それをキャッチするアンテナを張っておく必要があるのです。つまり、足もとに現れていながら、まったく気づかずにいる人が多ということなのです。このことを知らず、ただ黙って待っていても、お願いごとは叶いません。
もう一つは、持って生まれた力量や寿命はやむを得ないということです。明日からスグに総理大臣になること出来ませんし、千年も万年も生きることは出来ません。特に病気に関しては、高齢になるほどむずかしくなります。〈生老病死〉は人の宿命で、人はいずれは病を得て死を迎えます。その宿命まで変えることは出来ません。
でも、一心にお願いごとをなし、それを神さまや仏さまが喜び、世の中の人が喜ぶことをするなら、必ず何らかの〝お知らせ〟はあります。そのことは信じてください。このことも、お願いごとに関する、大事な心得なのです。
お願いごとが叶う
令和元年9月22日
私たちは一心に祈れば、お願いごとが叶うと思いがちです。しかし、ここにもまた意外な落とし穴がありますので、そのことをお話しましょう。
皆様がお願いごとをする時、たとえばお護摩札には〈病気平癒〉や〈商売繁昌〉と書かれます。しかし、これを念ずる時、「病気の私を早く治してください」とか「貧乏な私をお金持ちにしてください」といった言葉を用いてはなりません。なぜなら、このような言葉には、「私はもともと病気なのです」とか、「私はどうせ貧乏なのです」という意味が含まれているからです。
では、どのような言葉で祈ればいいのかと申しますと、「早く元気になって、世の中に役立たせてください」とか、「世の中に役立つものを与えて、世の中の人が喜ぶように私を使ってください」とすればいいのです。この違いがわかりますでしょうか。
お話をちょっと変えますが、お護摩のお導師が何をしているのかといいますと、ひたすら〝供養〟をしているのです。供養をするとは、つまり神さまや仏さまが喜ぶことをしているのです。神さまや仏さまが喜ぶことをすれば、お願いごとはおのずから叶うからです。なぜなら、神さまや仏さまが喜ぶことをすれば、神さまや仏さまはこの世の人や何かの縁を通じて、望むものを与えてくださるからです。だから、お護摩でお願いごとをする時は、このことがわかっているお導師を選ばねばなりません。実は、多くのお導師は作法はしているものの、肝心なこの真理がわかっていないのです。
お願いごとが叶うとは、一万円札が天からパラパラと降って来ることではありません。神さまや仏さまが喜ぶ言葉で祈り、また喜ぶ行いをすれば、この世の人も喜ぶのです。そうすれば、お願いごとは人や何かの縁を通じて必ず叶います。お願いごとをする時は、どうかこの真理を忘れないでください。
ケンカをして仲良しに
令和元年9月21日
ラグビーの〈ワールドカップ2019日本大会〉が開幕しました。私はラグビーはルールすら知りませんが、昨日は開幕の対ロシアの試合を、途中からテレビで観戦しました。
あれはまさに、ボールを使った格闘技です。もっと下世話に言えば、一種の〝ケンカ〟です。試合中は互いに激突して、取っ組み合いの寸前でした。でも私は、ラグビーがなぜ「紳士のスポーツ」と呼ばれるのか、その理由がわかりました。
人間は互いに本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出さねば本当の仲良しにはなれません。ラグビーはそれをスタジアムで証明するスポーツなのです。そして、選手どうしも観客どうしも熱狂して戦い、怒り、叫び、そして仲良くビールを飲んでいます。これは、人間が紳士になれる根底をついているからです。
はるかな記憶ですが、私がもの心のついた頃、農村の子供たちはよく徒党を組んでケンカをしました。川の両岸や土手に集まっては一列に並んで向かい合いました。そして、双方の大将が前に出て名のりをあげ、取っ組み合いをしました。まるでヤクザ映画の子供版です。私などは後ろの方で、指をくわえてそれを見ていたものです。
ところがケンカが終ると、互いが健闘をたたえ合い、得がたい仲良しになるものでした。たかが子供どうしのことですが、今思い出せば、あれこそはラグビーが紳士のスポーツであることと通ずるものがあるように思います。
このような例はスポーツはもちろんのこと、政治家どうし、経営者どうし、科学者どうしでも同じです。人間が本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出してケンカをした時、不思議な友情が生まれます。この事実は、私たちが何らかのケンカに巻き込まれた時、必ず役立つはずです。
笑顔の効能
令和元年9月21日
昨日、日本女子バレーボール選手の笑顔についてお話をしました。その時、パソコンを打ちながら、同時に浮かんで来たことがありました。
それは、私がいろいろなご相談を寄せられた時、何を基準にその方の見通しを立てるかというと、その方にどれだけの笑顔があるかということなのです。バレーボール選手のことを考えながら、まったく別のことを考えている自分を、妙な気分で見ていたものでした。
たとえば初対面で出会った時でも、「この人は大丈夫!」と思えるのは、私の言うことによくうなずき、笑顔で向かい合える方なのです。逆に「この人は困ったな」と思うのは、何を言ってもうなずくこともなく、まったく笑顔のない人なのです。もっとも、このような方はご縁が続くこともなく、たいていは一度きりで終わります。
だから、笑顔を絶やさぬ方に出会うと、私もまたホッとします。「笑う門には福来る」や「笑いは百薬の長」とは、経験的な智恵で伝えられたのでしょう。しかし、最近では科学的な研究が進み、笑う前と後でのデータ分析が進みました。
一つの例として、がん細胞を破壊するとされるNK細胞と笑いとの関係があります。笑う前と後の血液を分析すると、笑った後では、明らかにNK細胞が増えているのです。また、関節リュウマチ患者の痛みと笑いの関係においても、大いに笑った後では、確実にリウマチ指標の数値が減少しています。
うれしいことではありませんか。笑顔は気力を呼び戻し、病を癒し、開運へと導くのです。しかも、時間もかからず、お金もいらず、場所も問わずに人生を変えるのです。私たちも笑顔の効能を忘れず、声を出して大いに笑いましょう。