日本選手の笑顔
令和元年9月19日
私は現在、ほとんどテレビすら見ない生活をしています。それでも、たまには息抜きに画面をのぞくと、奇妙に欲しいと思っていた情報が入るものです。番組そのものよりも、そのことを意識しているからかも知れません。
先ほど、ちょっとリモコンを押しましたら、日本と中国の女子バレーボールが放映されていました。最後の頃でしたが、15分ほど観戦しました。相手はさすがに世界ランク一位だけあって、三セットをストレートで敗れました。余計なことでしょうが、私はバレーボールはきわめて不公平なスポーツだと思っています。なぜなら、小柄な日本選手がどうガンバっても、見上げるようなデカ女(失礼!)に勝てるはずがありません。相手は日本の10倍も人口がいるのです。国中を探せば、いくらでも人材がいます。だから、私は小柄でも公平にプレイができるスポーツに期待を寄せています。
ところが、日本選手たちはどんなに点数を取られても、ミスをしても、常に笑顔を忘れず、何度もタッチをして肌を寄せ合い、最後まであきらめませんでした。立派だと思いました。あの状況の中で、あれだけの笑顔を保つのは、よほどの精神的強靭さが必要です。並みの特訓ではできません。おそらく、歯をくいしばって笑顔を見せる練習をくり返すのでしょう。
うれしい時に笑顔を見せることは誰にでもできます。しかし、くやしい時、つらい時、悲しい時に笑顔を見せられる人は、きわめて稀です。試合には敗れましたが、私はリモコンを切る前に、日本選手たちに大きな拍手を送りました。そして、このような番組を放映してくれテレビにも感謝をしました。
虚空蔵
令和元年9月18日
この自然界、この宇宙には、実は無限の宝や無限のお金を貯える蔵があるのです。真言密教では、これを〈虚空蔵〉といいます。
私たちが何かを欲しいと思った時、それに値する何かを世の中に与えた時、私たちはその虚空蔵から運ばれて、望むものを手に入れることが出来るのです。すなわち、一億円を稼げる人とは、一億円に値する何かを世の中に与えた人なのです。スーパースターは、だから一度に何億円も稼ぐことが出来るのです。しかも彼らは、お金のために生きているのではなく、世の中を喜ばせるために生きているのです。このことが、わかりますでしょうか。
皆様のまわりを見てください。多くの友人に囲まれ、多くの物に恵まれ、多くのお金を手に入れている人は、それに値する何かを世の中に与えているはずです。人を喜ばせ、人のために役立ち、人に必要なものを与えているはずです。逆に、友人にも物にもお金にも困っている人は、常に他人の悪口を言い、不平不満をこぼし、世の中に与えるものが少ないはずです。
さらに申し上げれば、皆様が失物や盗難にあったり、詐欺にあったりして何かを失った時は、それは失ったのではなく、虚空蔵に〝返した〟ということなのです。その理由は、もちろん様々です。それを失う何かの原因があったからなのです。そして、その原因をつぐなう行為をなした時、失ったものは必ず返って来ます。
だから、世の中に与えずして手に入れたものは、逆に必ず失うことになります。宝くじやギャンブルは人生の楽しみです。しかし、宝くじやギャンブルで手に入れたお金はいずれ泡のように消え失せ、手に入れた以前よりかえって貧しい生活を送ることになるのです。そのような例は、ネットで検索すればいくらでも出ています。宝くじやギャンブルでお金を手に入れたら、すぐにでも虚空蔵に返すことです。つまり、ユニセフや赤十字、被災地に寄進をすることです。
私は若い頃に、一時は赤貧の生活を経験しました。それでも、この真理を知っていたために救われました。人生で最も大切な真理です。
地水火風空
令和元年9月17日
今日も二名の方に伝授をしました。その中で、人間の体こそは自然界そのもの、宇宙そのものであるというお話をしました。そのことを、皆様にもお伝えしましょう。
まず、私たちの頭は丸くて頂上が少し盛り上がった形をしています。お大師さまの頭はその典型で、これは天空を示し、宝珠の形を象徴するのです。天空を見あげてみてください。全体が丸くて、しかも無限のかなたに遠のくはずです。あさか大師はほぼ360度に視界が開けていますので、そのことがよくわかります。ちなみに申し上げますが、キューピーちゃんの頭は、その形を少し大げさにしたということです。
次に顔は、額からアゴにかけては半円です。これは風の形を示します。風は大きく回転しながら半円を描いて進むのであって、台風も竜巻もその例外ではありません。
次に、首から肩にかけては三角形です。これは火を示します。火は上に向かって細くなりますから、全体が三角形になるのです。お護摩を修する時、お導師が最初に三角形の炎をイメージするのもこのためです。
次に、お腹はお臍を中心に丸い形をしていて、水を示します。お腹は飲んだものや食べたもので、水分が多いのです。つまり、水玉の丸い形でこれを象徴するのです。カルピスの水玉模様を見れば、誰でも水を連想するはずです。
そして最後に、両足を座禅のように組んで座ると、横長な四角形になり、大地を示します。私たちが両足を大地に着けて生きているのも、実はこの意味なのです。
以上を両足から順に示せば〈地・水・火・風・空〉となり、真言密教ではこれを〈五大〉といいます。私たちの体が自然界そのもの、宇宙そのものの縮図であるという意味です。だから、「人間のこの体にこそ仏が宿るのだ」とするのが、お大師さまの教えです。私たちの体は、それほどに尊いことを知らねばなりません。
ブログを休みました
令和元年9月16日
二日間、ブログを休みました。
実は〈山路天酬密教私塾〉に、各地より僧尼の方々が参集したためです。遠方からは鹿児島・神戸・箕面より来訪され、加えて近在からの方も一挙に重なり、それぞれに伝授をしました。さらにお坊さんになりたいという得度志願の方が5名、それに昨日は金運護摩と回向法要(写真)の行事日でした。連日、朝方まで準備や片づけをしましたが、さすがにブログを書く元気もなく、体重も3キロほど痩せていました。
行事の間にブログのお話をしましたところ、皆様が予想以上に読んでくださっていることに驚きました。中には、〈お気に入り〉のファイルにまとめていらっしゃる方までおり、とてもうれしく思いました。
ブログは平均して、1時間ぐらいをかけて書いています。私はお伝えしたいことは山ほどありますので、法話のつもりでこれからも続けます。ただ、単なる仏教語や故事の解説では皆様の心に響きません。自分の体験や考えを加えて、わかりやすく書いていくつもりです。明日もまた伝授がありますので、今夜こそは早めに休みましょう。今日はこれで失礼します。
スマホの狂宴
令和元年9月13日
今や、スマホはなくてはならない生活の必需品です。私はきわめて基本的な操作しかできませんが、もちろん愛用しています。車を運転中でも、電話に出ねばならないことが多いからです。しかし、常に心がけていることは、スマホを使っても使われないということでしょうか。
電車に乗れば、ほとんどの乗客がスマホを操作しています。混雑で人にぶつかっても、歩きながらスマホを操作しています。自転車に乗った高校生が、平気でスマホの操作をしています。喫茶店やレストランでは、入りながらスマホ、料理が運ばれてもスマホ、トイレに立ってもスマホです。ラーメンを食べながら、牛丼を食べながら、回転ずしを食べながら、ここでもスマホです。
先日、待ち合わせで近くの駅に行きましたら、ある女子大生の方たちがスクールバスを待つ列を作っていました。30人近くでしたが、教科書や文庫本など読む姿など一人としてありません。全員が全員、すべてスマホです。おそらく、家族との食事中でもスマホなのでしょう。かつては、テレビが家族の会話を奪いましたが、現代はさらにスマホが拍車をかけています。
眼科の医院に行けばわかりますが、大人も子供も視力障害で大にぎわいです。それでも、待合室ではスマホを手放しませんん。親が注意すればいいのにと思えば、その親もまたスマホに夢中です。
笑われるかもしれませんが、これはどれほど寛大に見ても、明らかに異常です。依存症としかいいようがありません。私はこれを「スマホの狂宴」と名づけ、こういう〝宴会〟ばかりは遠慮しようと心がけています。スマホを上手に使って使われぬための、そういう名案はないのでしょうか。
老いて学べば死して朽ちず
令和元年9月12日
私の好きな言葉のひとつに、佐藤一斎の著作『言志四録』の中にある、「少くして学べば壮にして成すあり。壮にして学べば老いて衰えず、老いて学べば死して朽ちず」があります。意味はそのまま、若いうちに学べば中年になって必ず役立ち、中年のうちに学べば老いても衰えることがない。そして、さらに老いて学べば死んた後にもすたれることがないということでしょう。
佐藤一斎は江戸時代の儒学者ですが、この『言志四録』こそは名著中の名著です。幕末の吉田松陰・勝海舟・西郷隆盛らも多大な影響を受けました。特に西郷隆盛は生涯の指針としてこの著作を愛読しました。今は解説本もかなり出ていますので、ぜひお読みになってみてください。おそらく、これほどの名著が日本にもあったのかと驚くことでしょう。『論語』と比較しても、けっして劣るとは思いません。
さて、若いうちに学ぶことの大切さは言うまでもありませんが、問題は中年になって学ぶ意欲があるかどうかでしょう。学ぶとはもちろん、読書に限ったことではありません。本を読んでも人生がわかるとは言い切れないからです。しかし、本を読まねばわからないことがたくさんあることも事実です。そして何ごとにも、熱心な人は世の中からも本の中からも、謙虚に学んでいます。
不思議に思うのですが、大学や大学院を卒業していながら、ほとんどの人が蔵書を持ちません。かといって、常に図書館を利用しているとも思えません。きびしい受験競争を経験して卒業すると、もう本を読むことも少なくなるのでしょうか。
私はこの『言志四録』のおかげなのか、読書欲ばかりはいっこうに衰えず、若さの秘訣だとさえ思っています。事実、年のわりには若く見られます。脳トレもけっこうですが、文字を追って考える習慣はもっと大切です。しかも、「老いて学べば死して朽ちず」とあります。あの世へ往っても生きがいが続くのです。いいことずくめです。皆様も今日のこの言葉を記憶に留めてください。
守・破・離
令和元年9月10日
昨日、文章を書くことについてお話をしました。そのことで途中で思い出したのですが、若い頃にわずかながら心がけたことがあります。
それは、気に入った作家の文章を原稿用紙に写すことでした。その頃はもちろん、パソコンがありませんので、すべてが手書きです。活字となって出版された文章を、原稿用紙のマス目に書き入れることで作家のマネをしたわけです。なぜかというと、学ぶことは「まねぶ」ことだと、聞いていたからです。何でも試してみようという好奇心も手伝ったのでしょう。相当な無理をして、モンブランの万年筆まで買いました。これで缶入りのピースでも吸っていたら、とんだお笑いぐさです。
要するに、何かを学ぶということは、そのお手本のマネをするということなのです。これは文章にかぎらず、学ぶことすべてにいえることです。最初から自分の個性などと主張する人は、まずモノになりません。先生のなすことを忠実に守っていくことを〈守〉といい、これを何年も続けていくうちに、少しずつ自分の味が出てきます。この段階を〈破〉といいますが、ここまで到達するのも大変です。そして、いよいよ達人になると、先生から完全に離れます。この段階を〈離〉といいますが、よほどの人でなければ到達には及びません。この〈守・破・離〉の教えは、特に茶道や武道などで伝えられましたが、最近はビジネス用語にもなりました。まずは、お手本となる先輩のマネをするのが大事なのでしょう。
お話をもどしますが、私は坂口安吾・池波正太郎・松本清張などの文章をいくらか書き写しましたが、結局はモノにならず、途中で断念しました。それでも、一文字一文字を書き続けるうちに、作家の呼吸のようなものを感じ取ったでしょうか。まったく無駄であったはずはありません。しかし、せめて〈守・破・離〉の〈守〉ほどを続けていれば、と、今では思います。
〈守・破・離〉のプロセスは、かなり知られるようになりました。仕事にせよ趣味にせよ、最初に学ぶ時はとにかく徹底してマネることです。
こだわって、こだわらず
令和元年9月9日
文章を書くということは、実に困難なことです。
話すことは出来ても、書くとなると、これは別の次元なのでしょうか。かつて、「話のうまいヤツほど、書けないものだ」などと豪語していた友人がいましたが、まんざらウソでもなさそうです。考えていることを文章に表すとなると、相応のコツがありそうです。
アメリカの作家ヘンリー・ミラーは、「あなたが今、何を考えているか、その考えていることから書き始めなさい」と言いました。つまり、私たちはどう書こうとか、うまく書こうとかいう、そこに〝こだわり〟があるのです。こだわりは、いうなれば一種の迷いです。その迷いがあるかぎり、思うようには書けないという意味を指摘しているのでしょう。
それから、「何でもいいから思いつくままを書き連ねて、それを半分か三分の一に削れば立派な文章になる」という指導を受けたことがありました。似たようなことを、ショーン・コネリー主演の映画『小説家を見つけたら』で語っていたような気がします。タイプライターを無造作に打ちながら、秀才高校生に文章の書き方を教えていました。とても印象的な場面であったことを、今でも記憶しています。
要するに、文字を連ねて文章にする作業の難しさを、いかに平易にこなすかの秘訣なのです。文章をどう書こうとか、うまく書こうとかいう意識につつまれると、それがインスピレーションを妨げるのでしょう。かといって、こうした意識を持たねば上達は望めません。「こだわって、こだわらず」と、何ごともこれが奥義です。
私は特別な文章修行をしたわけではありませんが、このようなお話はどことなく気になります。こうしてブログを書いていても、思い出すことが多いのです。私がお世話になった宗門誌『六大新報』の故・今井幹雄先生も、「書いて書いて、書き尽くさねば、何もわからない」と、よく語っておられました。先生は石原慎太郎さんの『太陽の季節』と、芥川賞を競うほどの名文家でした。先生には及びませんが、お会いできたことを今でも感謝しています。
納豆キムチ
令和元年9月7日
日本と韓国の関係が悪化し、何とかならないものかと思うのは誰しものことです。
仏教伝来を始めとして、古墳・建築・土木・天文・陶芸・音楽・文学・習俗など、多くの文化を日本は朝鮮半島から学びました。そして、それを応用して独自の文化を築いてきたのが日本です。私は朝鮮民族の文化はすばらしいと思いますし、つとめて理解しようと努力もしました。韓国籍の友人もいますし、朝鮮半島の古美術も愛玩しています。ただ、隣国でありながら、異質の民族であることは確かなようです。それでも政治とは関わりなく、お互いに友好を維持しようとするイベントが多いことは、とてもよいことです。
そこで視点を食品に変え、日本を代表する納豆と、韓国を代表するキムチを合わせた、〈納豆キムチ〉についてお話をしましょう。納豆キムチは確かに、血液サラサラへのきわめて効果的な食品です。善玉菌を増やして腸内フローラを整え、血栓すら溶かす働きがあります。皆様の中にも召し上がっている方も多いことでしょう。
ただ、私の正直な意見を述べるなら、納豆キムチは日本と韓国の関係そのものです。つまり、納豆とキムチは、同類にして異質な気がするのです。私は栃木県の農村に生まれましたので、納豆は毎日食べながら育ちました。それだけに、こだわりがあるのです。あの独特の臭みと味は、キムチのそれとは残念ながら相性がいいとは思えません。
ところが、私が考案したキムチ入りの〈万能ドレッシング〉なら納豆によく会いますので、今日はソッとお教えしましょう。
まずタマネギの皮をむき、適当に切ってラップにをかけ、電子レンジで加熱します。その理由はテストステロンというホルモンのためですが、講釈は省きましょう。次に加熱したタマネギをミキサーに入れ、キムチを適量加えます。あとはオメガ3の油のほか、醤油麹・タマネギ皮の粉末・ショウガ・だし調味料などを足し、スイッチオンで出来あがりです。
これを納豆に入れて混ぜれば、おそらく最強のサラサラ食品になること、間違いありません。新しい納豆キムチの誕生です。しかも、サラダをはじめとして、多くの料理に万能です。これぞ、日韓友好の架け橋(!)なのです。皆様、どうぞお試しくださいますよう。
降りのエスカレーター
令和元年9月6日
二か月ほど前でありましたか、運転中にめずらしくラジオをつけました。何の番組であったのか、シンガーソングライターのさだまさしさんがゲストに呼ばれているらしく、司会者の質問に答ええているところでした。その司会者が言いました。
「さださんは天才だから、作詞も作曲も思いのままなんでしょう?」
ところが、さださんは意外なことを言うのです。
「とんでもない! 毎日毎日、降りのエスカレーターを下から駆け上がって、その速さに負けないよう、真ん中あたりで必死にもがいている心境ですよ。本当ですよ」
こういう言葉を聞くと、なるほど今日はこの言葉を聞くためにラジオをつけたんだな、とさえ思うのです。さださんにはたくさんのヒット曲がありますが、私たちは楽しんで聴いているばかりで、いったいどれほどの苦難を経てその歌が生まれたかを知りません。この司会者なども、名曲は泉のように湧いてくるほどに思っていたのでしょう。
降りのエスカレーターを、下からから駆け上がる心境と言うのです。なるほど、降りのエスカレーターを逆に駆け上がるのは、容易ではあありません。ちょとでも油断をしたら、たちまちそのまま、下に引き降ろされることでしょう。シンガーソングライターとしての不動の地位も、影ではこんな代償を払っていたのです。
たぶん私は、この日のさださんの言葉は、一生忘れないと思います。ほんの一端ですが、私にもその心境がわかるからです。さださんは歌い終われば息をつくヒマもなく、いつも降りのエスカレーターが待っているのでしょう。その試練に耐えられなければ、あのような名曲は生れないということなのです。