無常としてのコロナウイルス

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社会

令和2年4月2日

 

この度のコロナウイルスのことを考える時、私は仏教の〈無常〉という教えを痛感せずにはいられません。

無常とは世の中は常ではないということ、常に移り変わるということ、いつ何がおこるかわからないということです。だから無常というと、一般には〝むなしい〟という響きがともないます。しかし、そうとばかりはいえません。変わるということは、生まれ変わるということ、生まれ変わるチャンスでもあるということなのです。

コロナウイルスは人類への警告です。増上慢ぞうじょうまん夜郎自大やろうじだいに走った人類への警告です。このような緊急事態は人類が始まって以来、一度として経験したことがありません。国や地域ごとにコレラやペストが流行はやっても、地球規模でのこのような感染に及んだ歴史はありません。それだけに、人類は未曽有みぞうの危機に直面しているのです。そしてこの危機に直面してこそ、謙虚に反省し、地球規模で生まれ変わる〝無常のチャンス〟を与えられているともいえるのです。

ただ、コロナウイルスはあまりにきびしく、相当な苦悩と犠牲と損害が強いられることは否めません。感染はますます広まりましょう。若いから、健康だから、体力があるからといった思い上がりも通じません。「自分だけは大丈夫だろう」といった、楽観も許されません。かくいう私とて、どうなるともかぎりません。

ただ一つだけいえることは、この無常という現実を受け入れ、苦しみに耐え、希望に向って努力を続けることが大切であるということでしょう。人は誰でも、苦しみに耐えたいなどと思うことはありません。平穏に過ごしたい。無事に暮らしたいと常に思っています。それでも、この世は思うようにはいかないものです。そして皮肉なことに、苦しみに耐えることが人を育てる根底でもあるのです。人生の楽しみは人を幸せにしますが、苦しみもまた人を幸せにするからです。

無常の教えは、生まれ変わるチャンスであることを私は信じています。人類は何を学び、何に向って進むのでしょうか。荒海あらうみの中にあって、今は陸もなく船も見えません。それでも、たどり着く小さな島があることを、私は信じています。失うこともあれば、得ることもあるのです。だから、無常なのです。

山路天酬密教私塾

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