お不動さまが見える

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令和4年10月24日

 

お護摩を修していると、よくお不動さまや観音さま、あるいは龍神さまが見えたという方がいます。写真に撮っても、瞬間的にそのような形に映ることもあります(写真は龍神さま)。また滝修行でも、同じようなことを聞きます。これについて、私の考えを三つの角度からお話しましょう。

その一つは物理的な次元で、炎の濃淡や岩の凹凸などで、顔に見える場合です。私も子供の頃、天井てんじょうの木目が顔に見えて怖くなった経験がありますが、心理学ではこれを〈シミュラクタ現象〉といいます。林や森の樹木を写真に撮ると、よく顔が浮かんで見える場合も同じです。こうした現象があることを、まずは覚えておく必要はありましょう。

二つ目は、いわゆる精神的な信仰の次元で、たとえシミュラクタ現象であっても、それをお不動さまと尊ぶのは自由ですし、それを大事にすることはいっこうにかまいません。滝場では、よく岩の凹凸がお不動さまに見えることがあります。それは岩の凹凸を使って、お不動さまが姿を現したのだともいえるからです。阪神大震災の後、京都の東寺のある樹木の切り口にお不動さまの墨絵のようなお姿が現われ、私はお参りのたびに礼拝しています。ただ、これを一方的に押しつけてはいけません。あくまで、自分の信仰として尊ぶことです。上の写真を単なる偶然だとするならそれもよいし、龍神さまだとするなら、それは信仰として大切にすることです。

そして三つ目は、いわゆる霊的な次元です。私は心霊写真ではないかと持参して来た写真をかなり見て来ましたが、たいていは木の葉やかべの模様が顔のように見えるものでした。しかし、中には間違いのない心霊写真もありました。いるはずもない人の顔や手足が映っていたりすると、ぞっとしたものです。海や川で撮影されたものが多く、この場所やこの付近で亡くなった人だなと思ったものでした。お護摩や滝修行でも、見えないはずのものを見ることは確かにあります。しかし、見えないから信仰が足りない、修行が足りないということではありません。念のため。

ついでですが、寺の住職は「この写真を見てください」といって心霊写真(らしきもの)を見せられた場合、決して笑って済ませてはなりません。その方にとっては、夜も眠れないほど悩んでいる場合もあるからです。また、何ごとも科学的な視点だけで見るのも味気ない気がします。お不動さまのように見えるなら、それはそれで「大事にしてください」とお話してほしいと思います。皆様も気になる写真をお持ちでしたら、どうぞご持参ください。

山路天酬密教私塾

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