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プロの条件

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令和2年11月23日

 

あさか大師の本堂に入れば、誰でも心洗われるような気持になるという自信が、私にはあります。たとえば、皆さんが斎場や火葬場などに出向くと、その重い気を受けて体調を壊すことよくがあります。そのような場合でも、あさか大師にお越しいただくと、体がとても軽くなり、気持ちも晴れるとおっしゃってくださるからです。

その理由は簡単で、私が毎日お護摩を修し、お大師さまにおつかえしているからです。ただひたすら、毎日同じことをくり返しているからです。だから、私がいろいろなお寺に出向いた場合、ご本尊さまがどのくらい拝まれているか、住職がどのくらいおつとめをしているかが、すぐにわかります。これは真言密教のプロとして、当然のことです。そして、プロはどの分野でも、そのような能力や感性を身に着けています。

たとえば、プロのスポーツ選手も同じです。プロ野球の一流の右投手は、自分の左耳が見えるほどに視野が広いと言われます。本塁の打者を見ると同時に、一塁走者動きも同時に見えなくればならないからです。また、キャッチャーにいたっては、グランド上の味方の全選手の動きと、塁上の敵のランナーの動きを一瞬にして見渡すことができます。

一流のサッカー選手は、ボールをりながら一瞬にグランド内を見渡し、敵味方の選手の動きを的確に把握はあくし、パスをしたり、敵の背後に走り込んで、味方のパスを受けたりします。

一流の卓球選手は、相手のラケットの動き、腕の動き、肩の動き、目の動きなど、すべての動きを一瞬に見極めねばなりません。そうでないと、相手のフェイントを見破れず、あっさりと逆コースを抜かれることになるからです。

こうした能力や感性は、各選手が生まれながらに持っていたものではありません。一日も怠らぬ練習と長い実践経験から養われることです。だから、そのきびしい練習や実践に耐えられない選手はプロにはなれません。プロのスポーツ選手が一日も練習を怠らぬのなら、真言密教の僧侶が何を怠ってはならないのか、これは誰にでもわかることです。

仏さまの三身

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令和2年11月2日

 

「仏さまはどこにいらっしゃるのですか」という、素朴な質問を受けることがあります。そこで、仏さまの〈三身さんじん〉についてお話をいたしましょう。

まず、仏さまは私たちの心の中にいらっしゃると考え、これを「法身ほっしんの仏さま」と呼びます。この法身の仏さまがいらっしゃらなければ、私たちはお参りをしたり、読経をしたりすることはありません。修行を志すこともありません。

そして、お寺にお参りをしたり、読経をしたりする以上、本堂には仏像や仏画がまつられていますので、これを「応身おうじんの仏さま」と呼びます。つまり、仏師によって彫られた仏像や、絵師によって描かれた仏画を入魂開眼にゅうこんかいげんすれば、これももちろん立派な仏さまなのです。決して、単なる美術品などと思ってはなりません。

皆様は奈良や京都に行って、〝仏さま〟を拝観したいと思うはずです。国立博物館で「〇〇寺名宝展」や「〇〇仏教美術展」が催されれば、何時間も並んで入場するはずです。そして、その高貴なお姿にうっとりとするはずです。仏像や仏画の絵葉書まで買うはずです。どうしてなのか、わかりますでしょうか。

これは皆様の心の中にいらっしゃる仏さまが、同じ仏さまを求めるからなのです。つまり、類が類を呼ぶのです。そうでなければ、わざわざ交通費を払って出かけるはずがありませんし、出かけるための時間を作るはずもありません。仏さまは私たちの心の中に、間違いなくいらっしゃるのです。また、心の中に仏さまがいらっしゃらなければ、仏師や絵師が仏さまをこの世に彫り出すことも、描き出すこともできません。

そして、この仏像や仏画を入魂開眼するためには、法界(曼荼羅世界)から「報身ほうじんの仏さま」をお呼びする必要があります。法界の曼荼羅世界とは、この自然界、あるいは宇宙のことです。この法身・応身・報身を仏さまの三身と呼びます。真言密教の行者が修法をする時は、心の中の本尊と、本堂の本尊と、法界の本尊の三身を冥合みょうごうさせ、この世に仏さまを顕現けんげんさせるのです。このお話、とても大事ですよ。

足止め祈願の霊験

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令和2年10月29日

 

私もときどき、家出人や行方不明者のご祈願依頼を受けることがあります。

この場合、真言密教の行者は〈足止め法〉というご祈願法を用います。つまり、これ以上は先へ進まぬよう、足を止めるという意味です。これを修しますと、たいていは2~3日から一ヶ月程度で家にもどって来たり、電話連絡があったり、消息が判明したりします。もちろん長い時間を要する場合もありますが、必ず何らかの結果が得られるものなのです。

今から五カ月前のことでした。岩手県の方より、弟さんが一ヶ月前に家出をして、連絡がないというご相談がありました。しかも、自殺をする可能性すらあるというのです。警察への捜査願いを出しても、いっこうに行方がわからないというお話でした。私はさっそく足止め祈願の霊符れいふを浄書して、お護摩でのご祈願に入りました。しかし、一ヶ月が過ぎ、二カ月が過ぎてもいっこうに行方はわかりませんでした。依頼者にも連絡をしましたが、何の音沙汰おとさたもないという返事だったのです。

私はこの家出人は、すでに亡くなっているだろうと判断しました。そうなると、あとは遺体が出るかどうかの問題です。そして、とうとう五か月が経過しました。つまり、家出をしてから六カ月です。私もしだいに不安と焦燥しょうそうを覚えました。こういう状況が続くと、自分の祈願法に自信を失いかけるからです。どうしてなのかと、わからなくなることも確かです。

ところが今から一週間ほど前、依頼者より突然の電話が入り、「先生、弟の遺体が見つかりました」という連絡が入りました。車に乗ったまま、海に突っ込んで自殺していたという報告です。遺体はすでに白骨化していましたが、車体番号から判明したのでした。それにしても奇妙です。私はどのようにして発見されたのかを問いました。聞けば、トテラポット工事の最中に発見されたというのです。まさに奇跡的な霊験です。

私の長い行者生活の中でも、忘れ得ないお話です。その弟さんもすでに火葬もされ、骨壺に納められました。この後は、ねんごろな回向を修して行きたいと考えています。合掌

お護摩の伝授②

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令和2年9月13日

 

今日は毎日のお護摩と昼休みをはさんで、午前も午後も不動護摩の伝授をしました。

真言密教の加行(入門の行法修行)は、お不動さま(不動明王)を本尊とする「五段護摩」です。つすなわち、第一火天段・第二部主ぶしゅ段・第三本尊段・第四諸尊しょそん段・第五世天せてん段の五部門に分けて修します。第一火天段はお護摩で最も大切な火天さま(大日如来の智慧の火)を、第二部主段では降三世ごうざんぜ明王さまを、第三本尊段では本尊のお不動さまを、第四諸尊段ではたくさんの仏菩薩さまを、最後の第五世天段では諸天の神さまを供養して、諸願の成就を祈ります。

もちろん、この五段護摩を習得するのは大変で、お弟子さんたちも真剣でした(写真)。しかも、ハイスピードで伝授をしましたので、かなり疲れたことでしょう。よく復習をしていただきたいと思います。

お護摩は大変にありがたい行法です。なぜなら、炎の勢いがそのまま祈りに感応するからです。この自然界はすいふうくうという五大によって構成されています。それぞれが私たちの心に感応しますが、もっとも強力なのが火の力だからです。心の様相がすぐに感応します。それだけに、修する行者は身を慎まねばなりません。

水害も台風の被害もありますが、日常の生活で最も注意すべきが火なのです。昔は「火の用心」ではなく、「火之要慎ひのようじん」と書きました。〝慎みを要する〟からです。それだけに、私たちは、身近にあっても火を粗末にしてはなりません。仏さまそのもの、神さまそのものだからです。現代人にはその心が薄れています。

私はお弟子さんたちがあさか大師に気軽に集まり、それぞれがお護摩を修して、ご自分はもとより、人々の祈願を成就してくださることを楽しみにしています。そして、その炎の力で社会を浄化してくださることを念じています。

私の大切な宝もの

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令和2年8月30日

 

今日は、私の大切な宝物をご披露ひろうしましょう。

とはいっても、豪邸や高級車ではなく、宝石や金塊でもありません。そのようなモノにはまるで縁がありませんし、何しろスーツひとつ所有しておりませんので、身を飾ることもありません。まるで隠遁者いんとんしゃそのものの生活なので、お大師さまに祈ることだけが私の財産です。それでも、この世に生きた痕跡こんせきとして、大切にしているモノがあることも事実です。

その一つが若い頃に使った護摩杓ごましゃく(お護摩の作法で油をそそぐ法具)で、三十代の折に明け暮れた八千枚護摩はっせんまいごま残骸ざんがいです(写真)。八千枚護摩とは真言密教の難行なんぎょうで、お不動さまの供養法を修して真言を十万遍お唱えし、その後に断食して八千本の護摩木を焼き尽くすという秘法です。一座に真言五千遍を唱えるだけでも五時間はかかります。護摩を加えて片づけをすると七時間近くかかりますから、一日三座では睡眠の時間もありません。私はこれを一回に七日間、一年に七回~十回を修して、五十回を成満しました。しかも、最初の三回までは七日間をすべて断食しましたから、真夏などは意識がもうろうとして護摩木を投ずることさえ困難でした。不思議な体験もしましたが、それ以上にお護摩に対する信念がつちかわれたことが最大の功徳となりました。

写真の撮り方が悪いのではありません。このとおり杓のが曲がっているのです。これはお護摩の高熱によって反ってしまったからです。私は先に二組の柄を燃やしてしまい、これが三組目で、かろうじて残りました。実はこの柄はかしの木で出来ています。想像はつくと思いますが、樫の木がこのように反るということは、並みの高熱ではあり得ません。いかに無謀むぼうな荒行に投じていたかが、わかりますでしょうか。おそらく真言密教の長い歴史の中でも、こんな痕跡こんせきを残した方はがさほどにいるとは思えません。この二本の杓こそは、私にとっては何よりの宝です。

それゆえ、私がこの世の人生を終えてひつぎに入る折には、この杓も一緒に入れていただこうと私案しています。そして、いざ火葬されるその時こそ、若い時のあの情熱をよみがえらせて、「六大無礙ろくだいむげ炬火こかを燃やして本来不生ほんらいふしょうたいを焼く」と観念をらし、もう一度この杓のお世話になろうと考えています。火葬の炎がお不動さまに変ずるよう、これからも大切に保管して磨きをかけておきましょう。

あれから、三十年近くがたちました。今の私は無謀な荒行より、お大師さまに楽しく接することに生きがいを感じています。何枚も皮がむけて、もともとの自分に帰ったような、そんな気持ちでいるのです。もちろん、人生に無駄なことなどありません。過ごした時間は、過ごしただけの価値があると、そう思っています。人はそのために生きているのです。たとえ、叶わぬことがあったとしてもです。皆様も同じですよ、きっと。

お護摩の伝授

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令和2年8月27日

 

昨日と今日、お二人のお弟子さんに「不動護摩ふどうごま」の伝授をしました。

真言密教の僧侶は「四度加行しどけぎょう」という修行を経て伝法灌頂でんぼうかんじょう(正しい継承者となる儀式)に入壇にゅうだんし、一人前の教師となります。四度加行は文字どおり四種の修行をしますが、その最後が不動護摩なのです。不動護摩とはいわゆる不動明王(お不動さま)をお呼びし、さまざまな供養をなし、浄炎をもって祈願をする修行のことです。ほかのお弟子さんもこれから続きますが、今回のお二人にはトップを切って受法していただきました。

不動護摩は正式に修すると約二時間はかかります。印や真言、また観想など、覚えることがたくさんあって大変です。お二人とも二日間びっちりで、だいぶ疲れたようでした。私たちはお大師さまのような天才ではないので、そこは辛抱しんぼうと努力が必要です。しかし、それだけに今後の成長が楽しみです。

ところで、お護摩を修するには護摩壇が必要です。私が毎日修している護摩壇は特別なもので、加行中のお弟子さんにはとてもとてもあつかいきれません。そこで、どのように伝授をするか困っていましたら、あるお弟子さん夫婦が手作りの立派な護摩壇をご寄進してくださいました(写真)。私が望んでいたとおり、解体が可能なのでとても助かります。本当にありがたいことです。色を塗って仕上げをしようかとも考えています。

私が望んだわけではないのに、このようにことが運ぶのは、やはりお大師さまのご加護だと思っています。それだけお大師さまは、私やお寺のことを考えてくださっていることに間違いはないと確信しています。それは、私がいつもお大師さまを思い、おそば近くで仕えているからです。何ごとでも同じです。思わなければ思われませんし、近づかなければ縁は結ばれません。縁が結ばれねば何の変化もありません。簡単な道理です。

そして、このようなご縁をくださったお弟子さん夫婦に、深く感謝しています。私はお弟子さんに教えを説き、法を伝えますが、私もまたお弟子さんに多くを教えられ、多くを与えられているのです。これが師弟の関係であって、師が高いところからものを言うだけでは、本来の修行にはなりません。世の〝高僧〟ほど、自戒をすべきです。いや、これはちょっと、よけいなお話になりそうです。このへんで。

続・香りについて

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令和2年5月26日

 

八千枚護摩はっせんまいごまにはさまざまな思い出があります。使用していた腕時計が、決まって15分進んでしまうのもその一つでした。「こんなはずはない」と思い、かなり無理をして高級品を買い求めましたが、結果は同じでした。しかしカシオのデジタル腕時計は、安物(!)でも進みませんでした。あれはどうしてであったのかと、今でも思います。

お話をもどしましょう。八千枚護摩中には何度か護摩木がいぶって、キナくささがただようことがありました。その時、思ってみない遠い記憶がよみがえるのでした。それは子供の頃に毎日、風呂を沸かしていた時のことでした。父のいいつけで、これが私の日課になっていたのです。現代のようなユニットバスなどありませんから、たきぎに点火し、竹吹きで風を送りながらマキをくべました。その時、キナくさいにおいが発生するのです。つまり、私はそのにおいを毎日嗅覚きゅうかくとどめていたのです。しかし年齢を重ねると共に、私の記憶からすっかり遠のいて行ったことは申すまでもありません。

ところが、八千枚護摩中に同じにおいに接するや、何十年もの時を超えてよみがえる嗅覚の不思議さには、驚きを禁じ得ませんでした。しかも風呂場の前にしゃがみこんで、その炎をじっと見つめていた幼い自分の姿まで、映像のように浮かぶのです。もちろん視覚も聴覚も、味覚も触覚も、五感のすべてが同じように作動しているのでしょう。一度見たものも、一度聞いたことも、一度触ったものも、みな記憶の底には残っているはずです。母親が作ってくれた〈おふくろの味〉も、味覚として残るのも当然です。しかし、嗅覚がこれほどまでに記憶と直結している事実は、意外というほかはありませんでした。八千枚護摩の思い出の中でも、格別な体験として忘れ得ません。

私たちは自宅の前に巨大なマンションが建って景観をそこなわれても、しかたがないとあきらめるはずです。線路や道路わきに住んで騒音に悩まされても、だんだんに慣れるはずです。注文した料理がまずくても、次は別の店に行こうと思って食べるはずです。購入した洋服の肌ざわりが悪くても、ガマンをして着用するはずです。しかし、悪臭の中で生活することはできません。つまり、嗅覚こそは五感の中でも特別な存在なのです。

現代は空気清浄機はもちろん、消臭剤や芳香剤が数限りなく売られています。それだけ、私たちはにおいに対して敏感なのです。また私たちの生活と嗅覚には、特に密接な関わりがあるのです。ついでですが、〈におい〉は悪いにおいで「くさい」とも読みますが、〈におい〉はよいにおいで香りのことです。お間違いなさいませんよう。

いま、若い女性の間でもお香が流行はやっています。ストレスをやわらげ、安眠へ誘う手立てとしてお香を愛用することは私も勧めています。昨日、香りはこの世とあの世の媒介ばいかいだとお話しました。そして毎日、幽玄なお香をお大師さまにお供えしています。その時、お大師さまの方からその香りをお届けくださっているようにも思えてきます。香りの感応道交です。

香りについて

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令和2年5月25日

 

私は二十代で真言密教の僧侶となり、三十代の10年間は八千枚護摩はっせんまいごまという難行なんぎょうに明け暮れました。これはお釈迦さまが、この世とあの世を八千回往復して悟りを開いたという説に基づくものです。一週間菜食さいじきして不動明王のご真言を十万遍唱え、さらに一昼夜断食だんじきして八千本の護摩木を焼き尽くしました。現在はこの八千枚護摩も各地で修されていますが、当時はこんな難行にいどむ行者は少なかったように思います。

私はこれを50回も成満しましたが、始めの頃はすべて断食して修したため、意識がもうろうとする中で不思議な現象も体験しました。修法中には「加持物かじもつ」と言って、白ゴマを炎に投ずる作法があります。その時、限りない無数の光輪につつまれるのです。その色がたとえようもない輝きを放ち、まるで夢のような心地であったことは忘れられません。私たちは普段は感ぜずとも、多くの異次元世界の中で生きていることを実感したものでした。

このような体験を重ねると、感覚がえわたることは間違いありません。特に嗅覚きゅうかくが発達するのです。当時の寺は三階建てで、一階が事務所やロビー、二階が本堂、三階が庫裡くり(居住所)でした。成満してすぐに境内を巡拝するのですが、その時は三階でどんな食事を作っているかさえ感じ取れるほどでした。「いま、味噌汁のダシをとっているな」ということがわかるのです。また自分が知らない土地で車に乗っていても、はるか手前で「この先にラーメン屋さんがありますね」などと言うと、そのとおりラーメン屋さんがありました。独特のにおいをいち早くキャッチしていたからです。歯が悪い人や胃が悪い人の、わずかなにおいもスグにキャッチしたものでした。

もっとも、私は今でも毎日お香をきますので、一般の方より嗅覚が発達するのは当りまえです。しかも伽羅きゃら沈香じんこうといった高価なお香を焚きますから、なおさらのことです。皆様も毎日このような香りに接していれば、嗅覚の発達はもちろん、顔までがどことなく仏相を帯びてくるはずです。これは本当のことです。

どうしてこんなお話をしたのかと申しますと、香りこそは仏さまに近づく最も身近な手段であるからです。真言密教の僧侶が行法をするにも、最初に修するのはお焼香です。また、皆様が亡くなった方を回向するにも、お線香をそなえます。つまり、香りこそはこの世とあの世の媒介ばいかいなのです。

品格の優劣も香りです。「紳士の香りがただよう」とか「うさんくさい」などと言うでしょう。本物と偽物にせものの違いもまた香りです。「本物の香りをはなつ」とか「あやしいにおい」などと言うでしょう。あらゆる理屈を超えて、本質は香りに現れることを知らねばなりません。香りについてのお話はさらに続けましょう。

はじめに教えを説いた第一の仏

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令和2年5月15日

 

徒然草つれづれぐさ』の逸話いつわを、もう一つご紹介しましょう。これは最終段(第二四三段)からの引用です。

兼好法師けんこうほうし(作者)が八歳になった時、父親にたずねました。「仏とはどのようなものでしょうか」と。父親は「仏には人がなったのじゃよ」と答えました。幼い兼好はまた、「人はどのようにして仏になったのですか」と問いました。父親は「それは仏の教えによってなったのじゃ」と答えました。兼好はさらに、「その教えを説いた仏は何によって仏になったのですか」と問いました。父親は「そのまた先の仏の教えによって仏になったのじゃ」と答えました。兼好はなおも食い下がり、「そのはじめに教えを説いた第一の仏は、どういう仏だったのですか」と問いました。父親はとうとう、「そうじゃなあ、空から降ったのか、土の中から湧いたのじゃろうよ」と笑ってしまいました。そして、「息子に問いめられて、どうにも答えられんかったよ」と大勢に語っておもしろがったのでした。

八歳の子供がこんなことを父親に質問するのですから、さすがに兼好法師は秀才(もしくは天才!)です。私が八歳の頃はとてもとても、泥だらけになって遊んでいたぐらいの記憶しかありません。こんな質問など浮かぶ道理もありません。皆様はいかがですか。

さて、これもおもしろいお話です。歴史的にはお釈迦さまがはじめて仏になったわけですから、「人がなった」ということになります。そして、それはお釈迦さまが作り出した教えによってではなく、もともと存在していた真理を悟ったということですから、父親はそれを「仏の教えによって」と答えています。ところが私が注目するのは、最後の「はじめに教えを説いた第一の仏」なのです。強いて申し上げるなら、それが真言密教の大日如来ということになりましょう。歴史的には存在しない大日如来について説明する場合の、よいお手本になるからです。

兼好法師も出家者しゅっけしゃ(僧侶)ですから、この最終段は仏教のことでめくくりたかったのでしょう。また、八歳の息子がこんなことを聞いてきたのですから、父親としてはよほどうれしかったのでしょう。事実、大勢に語って喜んでいます。いささか自慢の気持があったかも知れません。そこに親子のおもしろさと深い味わいがあります。『論語』のような強い道徳性とは異なり、『徒然草』の魅力はここにあるのです。受験のための強制的な勉強としてではなく、社会人になってからこそ愛読してほしいのです。男の生きざまを教える人生の名著ですよ。無人島に一冊の本を持って行くとしたら、私はたぶん『徒然草』を選ぶでしょうね。

明恵上人の逸話

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令和2年5月14日

 

徒然草つれづれぐさ』(第一四四段)に、栂尾とがのう(京都)の明恵上人みょうえしょうにん逸話いつわが紹介されています。

上人が道を歩いていたら、ある男が川で馬を洗っていました。そして、その馬の足を洗うため、男は「足!足!」と声を出しました。それを聞いた上人は、「ああ、ありがたや。前世の功徳が実を結んで、『阿字あじ(足)阿字(足)』と唱えておる。どういうお方の馬であるか。あまりにも尊いことじゃ」とたずねました。

男は「これは府生ふしょう殿の馬です」と答えました。すると上人は「何と何と、これはめでたいことじゃ。阿字は本不生ほんぷしょうという意味で、まさに『府生(不生)』ではないか。うれしいご縁をいただいたものじゃ」と涙をぬぐったそうです。

ちょっと解説をしましょう。〈阿字あじ〉というのは真言密教の梵字ぼんじで、大日如来という最高の仏さまを示します。真言宗のお位牌いはいやお塔婆とうばには必ず書かれている梵字で、この梵字がなければ真言宗そのものが成り立ちません。それくらい大事な梵字なのです。そして、その〈阿字〉には〈本不生ほんぷしょう〉という深義があるのです。本不生とは「本来不生不滅ほんらいふしょうふめつ」を略した言葉で、私たちはもともと、生ずることも滅することもない永遠の生命であるということを教えているのです。阿字と本不生と、明恵上人はこの二つの言葉に同時に出会えたご縁に感激したのでした。なかなか〝おもしろい〟お話です。

皆様はどう思うでしょうか。「何だ、ただのこじつけじゃないか」と、そう思うでしょうか。もちろん、〈足〉と〈阿字〉はまったく別のものです。また、〈本不生〉という深義と〈府生〉という人物の間に、何のかかわりもありません。

でも、どうでしょうか。私たちもお護摩の炎を写真にったらお不動さまの姿が出ていたとか、ロウソクが蛇腹じゃばられて龍神さまが現れたとか言うことがあります。また、かべのシミが観音さまの姿に見えるということから、お賽銭さいせんを上げたりするものです。これも自然な心理であって、単なる〝こじつけ〟では済まされません。

明恵上人の逸話も、何か特別な意図があったのでしょう。弟子が同行していたのなら、修行の心得を教えたとも受け取れます。山の形や川の流れに、風の音や人の声に、もっと五感をはたらかせなさいという意味ではなかったかと思うのです。自然界はすべて仏さまの文字であり、仏さまの説法であるというのが、お大師さまの教えなのですから。

山路天酬密教私塾

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