山路天酬法話ブログ
「政」とは「祭りごと」
令和元年11月10日
今日は「祝賀御列の儀」のパレードで、日本中がわきました。
午前中より来客があり、午後は弟子の一人に伝授もしましたが、午後2時半に体が空きました。テレビでその祝賀パレードを拝見しましたが、まさに両陛下と国民が一体になった感じです。人間どうしが一体になるには、祭典や儀式が必要なのだと思いました。つまり、「政」とは「祭りごと」だということです。お祭りをすることが、政治の根本なのです。
全国各地にいろいろなお祭りがありますが、人はこれに参加するから一体になれるのです。秋に稲の収穫があれば、それを地元の神社にお供えしてお祭りをします。その後で、みんなで直会(食事)をします。だから仲よくなれるのです。言葉で「みんな仲よくしましょう」などといっても、たかが知れています。つまり、人間社会には祭典や儀式が、つまり宗教が必要だということなのです。
もちろん、「祝賀御列の儀」に宗教色はありません。しかし、行例を組んで進み、集まった人々と共に喜び合う祭典や儀式は宗教の真骨頂といえましょう。そして、それによって一体感が生まれ、よい政治ができるのです。両陛下も総理も官房長官も、今日は最もよい政治ができたのです。
それにしても、両陛下は沿道の国民に笑顔を絶やさず、4・6キロ、30分間の距離を、休むことなく手を振り続けられました。私たちには理解し得ないご苦労があったはずです。日本人のほとんどは皇室を大切に思っています。絶えることなく存続していってほしいものです。
久しぶりの上棟式
令和元年11月9日
このところ忙しさに拍車がかかり、なかなかブログが書けません。今夜も書いている内に、たぶん日付が変わってしまうでしょう。
今日は久しぶりの上棟式がありました(写真)。上棟式は棟や梁の組み立てが終って神さまに感謝し、建て主が棟梁や職人さんをねぎらう儀式です。

最近は地鎮祭も上棟式も依頼が少なく、とても残念です。皆様は苦労をして、やっとの思いで土地や家を〝買った〟と思うでしょうが、実は違うのです。確かに不動産会社や工務店に大金を支払います。人生で最も高価な買い物です。
でも、正確に申し上げるなら、土地や家は買うのではなく、その土地の神さまから〝借りる〟ということなのです。「しばらくここをお借りして居住させていただきます」という意味なのです。そして、借りる以上は挨拶をせねばなりません。だから、工事の前には地鎮祭を、工事途中には上棟式をするのは、当りまえのことなのです。古い棟梁なら、それがわかっています。建て主がやらなければ、自分たちだけで酒や塩を用いて、地鎮祭や上棟式をします。
しかし、特に建て売り住宅などは、売ることばかりが優先して、地鎮祭も上棟式も眼中にありません。注文住宅であっても、工務店が勧めなければ、建て主もわからいないまま着工し、やがて完成したその家に入居します。
その結果、どのようなことが起こるかは、ここで詳しくはお話しません。ただ、入居して以来、何となく体の不調を訴える方が多いことだけを申し上げておきましょう。そして、そのような方が、私のもとに相談にいらっしゃるという事実だけを申し上げておきましょう。
人生で最も高価な買い物といえでも、借り物なのです。いや、仏教はこの世の一切の所有が、借り物であることを説いています。自分の体も借り物、財産も借り物、地位も借り物です。借りた以上は、いつかは〝返す〟のが当たり前です。また、借りる前と借りた後には、挨拶をするのがこの世のルールです。
もう、おわかりでしょう。やはり、日付が変わってしまいました。このブログは、昨日のものです。
世界三大美人
令和元年11月6日
一昨日は現代女性のダイエット志向に、苦言を呈しました。その続きをお話します。
世界三大美人とされる、クレオパトラ・楊貴妃・小野小町を比較してみましょう。もちろん、古い歴史上の方ばかりですから、伝承される画像を絶対的に信用することはできません。しかし、まったくの根拠もなく伝えられたとも思えません。
クレオパトラは多くはかなり細身で描かれています。ナイルの泥で体を洗って、ダイエット効果があったのでしょうか。しかし、伝えられる楊貴妃と小野小町は、どうやら小太りです。私が若い頃に師事した書道の先生は、中国の歴史にかなり精通していましたが、「楊貴妃は小太りな女性だった」と、よく語っていました。
また、私は小野小町の歌仙(肖像画と詠んだ歌を書いた色紙)を三点ほど所持していますが、みな下ぶくれで小太りです。昔の男性が好んだ理想の女性は、少なくとも現代とはかなり違っていたように思います。現代女性は極端に痩せたモデルさんあたりを、理想の体形としているような気がします。
ついでにお話しますが、この世で最も美しいとされるミロのビーナスも、やや太めです。また、ビーナスによく似ているとされて話題になったイスクラ・ローレンスさんというモデルも、一般モデルの概念を破って、やや太めです。ウエストの幅を1とすると、肩幅は1・6、バストトップの距離が0・8、ヒップは1・4だそうで、女性下着メーカーはこぞってこの比率を研究しました。
自分は太っているとお思いの女性は、多いに自信をもってください。太めで健康な女性を好む男性は必ずいます。またビーナスも、楊貴妃も小野小町も小太りであったと覚えておきましょう。今日は仏教とは何の関係もなく終ります(笑)。
何でそんなに痩せたいんですか!
令和元年11月4日
綾小路きみまろさんが〈爆笑ライブ〉で言っています。「何でそんなに痩せたいんですか!」と、ね。
現代人の、特に女性のダイエット志向はあまりにも異常です。男性の私が見ても美しいスタイルの女性が、みな「痩せたい!」と言います。結婚している女性なら、なおさらです。妊娠中に無理なダイエットをしたために、出産した赤ちゃんの体重が足りない傾向にあります。2500g以下が多いようでは、困ったものです。
朝食をぬき、昼食はサラダだけと続ければ、ストレスのたまった夕食でドカ食いするのは当りまえです。体は何とかしてカロリーを維持しますから、太るのも、また当りまえです。それに、現代はカロリーばかりが多く、栄養失調をもたらす食事があまりに多過ぎます。
糖質制限にも問題があります。糖尿病患者さんのために考案された食事が、ダイエットに適応するはずがありません。また、縄文時代の狩猟生活で、肉や魚ばかりを食べていたとも思えません。特に日本人は、ご飯を食べてこそおいしいと思い、健康を維持してきたはずです。
私は以前、糖質制限をしたらどうなるかを、自分の体で実験したことがあります。たしかに脂肪が落ちて痩せました。同時に、筋肉まで落ちて力が入りませんでした。それは、ご祈祷で太鼓を打った時に感じました。いつものような、迫力ある轟音が出ないのです。自分にはご飯が必要なのだと、その時に気づきました。糖質制限をしていても、ほどほどのご飯は食べるべきです。
太っていても、魅力ある女性はたくさんいます。健康で生き生きと生活できる体形を維持してください。そして、丈夫な赤ちゃんが産める食事を心がけてください。
標準体重で健康度がわかるのか
令和元年11月3日
私は標準体重を信用しません。
なぜなら、筋トレをしたスポーツ選手などは、確実に肥満になってしまうからです。特に猛稽古とちゃんこ料理で作り上げたお相撲さんの筋肉まで、すべて肥満になってしまいます。また標準体重で肥満の人は、糖尿病や動脈硬化が発病するという説も、あまりに飛躍しています。人にはそれぞれの体質があるのですから、痩せている人もいれば太っている人もいるのは当然のことです。
一般に聞かされる【身長-100×0・9】、あるいはBMIの【体重×身長の2乗】では、内臓脂肪や皮下脂肪は検出できません。また脳の萎縮度や骨密度、また血管の弾力性も検出できません。
アメリカの医師・オスラ―博士の「人は血管とともに老いる」は名言中の名言です。健康度は内臓脂肪や皮下脂肪を含め、脳年齢・骨年齢・血管年齢等を総合的に判断すべきだと思います。健康診断での血液検査や内臓検査に加えて、こうした健康度が気軽に測定できることを望んでいます。
ところで、仏像や仏画を見ればわかりますが、ほとんどの仏さまが〝肥満〟です。インドの神さまも同じです。私の従兄弟に仏像を彫っているいわゆる仏師がいますが、彼はよく「仏さまは肉体労働者だ」と語っていました。
つまり、それほどに筋肉が発達しているということなのでしょう。これは痩せることばかりが力説される現代とは違った、何かがあるはずです。ダイエット流行の真っただ中にあっても、考えるべきことです。
暦と九星気学
令和元年11月2日
本日は月始めの〈総回向〉で、大勢の皆様がお参りされました。また、沖縄から僧侶の方がわざわざお見えになり、いっしょに読経をしてくださいました。
皆様には来年の暦をお配りし、簡単な説明をいたしました(写真)。わかりにくいかも知れませんが、中央でパネルを持ってお話しているのが私です。

私は『九星気学と加持祈祷』(青山社)という著作を刊行しましたが、その目的は特にお寺のご住職に、暦のこと(特に九星気学)を勉強してほしいからでした。
なぜなら、今日では一般の方でも、暗剣殺・五黄殺・表鬼門・裏鬼門・歳徳神といった言葉をよく知っています。また、厄年への関心から、自分の九星がどんな運勢にあるかもよく知っています。ところが、檀家の方がそのお話をしても、肝心のご住職が何のことだかわからないという現実ががよくあるのです。かといって、檀家の方に質問するわけにもいきません。
また、真言宗のお寺で〈星祭り〉の行事をしていても、その年の〈当年星〉がどうしてその配当になるのか、まったくわかっていません。せっかくの年中行事が、これでは片手落ちというものです。
僧侶は占い師ではありませんから、専門の易占学校に通わずとも、私の著作に書かれているほどの知識があれば充分です。ぜひ暦に関心を持ち、初歩的な九星気学を勉強していただきたいと思います。
私はこれまで、京都の仁和寺をはじめ、いくつかのお寺で九星気学の講習会をしました。ほとんど一日の日程でしたが、お聞きいただいた僧侶の方々が熱心に受講され、星祭りについても納得してしただけたことは、とてもうれしいことでした。今、九星気学の続編を執筆していますが、さらに幅広く学んでいただけることを望んでやみません。
蔵書について
令和元年10月31日
私は仕事上、かなりの蔵書を保管しています。仏教書はもちろん、専門の真言宗で著作活動をする事相書(真言密教の作法や秘儀の聖教)を始め、文学・哲学・歴史・美術・骨董・書道・占術・健康法から花や茶の湯にいたるまで、かなり広範です。小説やエッセーの類は寝室にあり、寝起きの折に読んでいます。ただ、政治経済や科学工学の分野には弱いので、ほとんどありません。
小説も一時はかなりの量になりましたので、大方は処分し、今は読みたいものを書店やネットで購入しています。最近は視力が衰えたせいか、昔の文庫本などは活字が小さすぎて困ります。ネットで古本を購入する時は、特に気をつけています。
私はほとんど図書館には行きません。返済期限があり、公共の本では、なぜか落ち着かないからです。また、愛書趣味はありませんので、赤線も自由に引けるからです。苦心して購入せずともよいものを、これは性分だからしかたがありません。
昨年の暮、あさか大師に移転してから決めていることが二つあります。これは、僧侶の方やご信徒さんにも宣言していることです。
一つは蔵書は絶対に貸し出ししないことです。差し上げることはあっても、貸し出しはおことわりしています。貸し出した蔵書は、なかなか戻らないからです。気前よく蔵書を貸して、どれほど臍をかんだかわかりません。気安く借りる人ほど、その蔵書の価値も、購入する時の経済的負担もわからないのでしょう。
もう一つは、蔵書には触らぬよう伝言し、本棚にもそのことを書き出したことです。実は、ことわりもなく自分の蔵書に触れられることは、あまりいい気持ちではありません。このことは、苦心して蔵書を購入した方なら、誰にでもわかるはずです。
私はまず、一日に一度として本を読まぬ日はありません。どこに行くにも、文庫本や新書本は持ち歩いています。それだけに本とのつき合い方にはこだわりがありまず。自分の分身のように思っているからです。
もう一つの真理
令和元年10月30日
何年前でしたか、渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)という本がベストセラーになりました。表題に引かれた私もさっそく購入して一読し、シスターらしいその敬虔な文章に感動しました。さらに、職場の対人関係で悩んでいる何人かの方にも、この本をプレゼントしました。
シスターの文章は、「人はどんな場所でも幸せを見つけることができる」という書き出しで始まっています。そして、最初の職場となった岡山・ノートルダム清心女子大学での体験として、「あいさつしてくれない」「ねぎらってくれない」「わかってくれない」の〝くれない族〟から、いかにして決別し得たかの体験が書かれていました。「置かれた場所」には、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的など、およそ人が同じ職場で働く以上、必ず生じるはずの苦悩がつづられていました。
さらに、その心構えとして、「不平をいう前に自分から動く」、「苦しいからこそ、自分から動く」、「迷うことができるのも、一つの恵み」といった宝石のような教訓にふれ、多くの読者を魅了しました。特にクリスチャンの方には『聖書』の現代版として、大きな希望を施したことと思います。
ところが最近、脳科学者の中野信子さんが『引き寄せる脳 遠ざける脳』(セブンプラス新書)の中で、シスターの考えに対してまったく対立する異論を発表しました。すなわち、「わたしたちは植物ではありません。置かれた場所でないところで咲いたっていいのではないでしょうか。わたしたちは自分の足でどこへでも歩いていけるのですから」と力説しています。つまり、逃げることもまた勇気であり、違うかたちの戦いだというのです。さすが、頭脳派らしい意見だと思いました。
今日のブログは、どちらが正しいというお話ではありません。人生にも、そして物ごとにも、必ず二面性があるということなのです。この道理をわきまえているか否かは、生きていくうえでの大きな課題です。正しいとか、正しくないとかの間に、もう一つの真理があることを知らねばなりません。
人間を救うもの
令和元年10月29日
「人間を救うものは何ですか?」と問われた場合、私は「教養でしょう」と答えることにしています。教養はもちろん学歴ではありません。知識でもありません。言い方を変えれば、〈智恵〉というほどの意味です。困難を乗り越えるためには、考える力、決心する力、信じる力など、たくさんの力が必要です。それらを統合して、もっとも一般的な言葉が教養であり、智慧であると思うのです。
そうすると、「お坊さんなのに仏教であるとか、宗教であるとか言わないのですか?」といった反問がありそうです。もちろん、私がお話する教養とは、仏教的教養や宗教的教養を含めての意味があることも申し上げねばなりません。
人間は決して一人では生きられません。どんな才能を持とうが、強い意志を持とうが、必ず他人の助けがなければ生きられません。つまり、自分の力の限界を知って謙虚にならねばなりません。素直に他人の協力を仰がねばなりません。これも教養の一つです。
次に、生きていくためには能力が大切であるけれども、その能力が受け入れられる信頼がなくてはなりません。世の中には仕事はできるけれども人気がないという人がいるものです。こういう人は自尊心が強いので、まわりから信頼されません。いつかは墓穴を掘り、自滅していきます。その、信頼される力を、私は〈徳〉と呼んでいます。徳もまた教養の一つです。
次に、お世話になったら感謝と御礼を、ご迷惑をかけたなら反省とお詫びをする、それもスグ(!)にする習慣が大切です。人間がトラブルをおこす原因は「挨拶がない」からです。つまり、挨拶こそは、人間社会の潤滑油なのです。この当たり前の挨拶を、どこまで身に着けているかも教養の一つです。
こうして考えていくと、発想はいくらでもふくらみ、自然に対する教養、社会に対する教養、健康に対する教養、芸術に対する教養、そして神仏に対する教養へと発展していきます。人間を救うものは教養であり、智恵なのです。
三年・十年・三十年
令和元年10月27日
何ごとでも三年は続けないと、モノになりません。「石の上にも三年」「茨の道も三年」というと、どうも求道的でしんどい気がしますが、それでも三年という意味の大切さをよく伝えています。それから、千日行とか千日回峰といった修行がありますが、これも三年に近い日数です。
要するに、三年という日数には人間心理の根底をついた何かがあるのでしょう。お稽古ごとをして、お免状をいただけるのも三年くらいです。一方で、「そろそろやめようかな」と思うのも三年です。偉そうに見えても、ボロが出るのも三年です。男女の出会いも、三年が山です。
逆に、この三年を乗り越えれば、次の段階ということになります。たとえば、お稽古ごとのお免状を三年でいただいて、さらに十年続ければ、まずは〝先生〟として教えることができましょう。だから、三年たってやめたいと思った時が勝負です。人生の財産にしたいと思うなら、そこを頑張ることです。十年続ければ、やめなくてよかったと思うはずです。
そして最後に、これを人生の宝物にしたいと思うなら、さらに三十年続けることです。三十年続けられれば、まず相当な域に達するはずです。私は仕事でも趣味でも、三十年続けた人のお話なら、真剣に聞きます。教科書やマニュアルでは学べない、極意のようなものを感じさせるからです。
現代はあまりにも情報過多で、次々に気移りをするものです。その情報の渦で、必要なものと不必要なものを選択するだけでも大変です。本当に必要なもの、自分にふさわしいものを、じっくりと考えねばなりません。
そして、努力をするにも、〝楽しい努力〟を目ざすことです。人生、楽しくなければ続きません。「重荷を負うて遠き道を行く」だけでは、身が持ちません。馬でも荷車でも、乗用車でも新幹線でも上手に使うことです。

