山路天酬法話ブログ

曼珠沙華(まんじゅしゃげ)

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挿花

令和元年9月27日

 

昨日で秋のお彼岸が明けました。

今年は暑さのせいなのか、曼珠沙華まんじゅしゃげ(彼岸花)の開花が遅れたように思います。本県日高市には有名な巾着田きんちゃくだがあり、年間30万人が訪れる観光地ですが、入場料を徴収ちょうしゅうしたのは彼岸直前だったと聞きました。あさか大師の周辺でもほとんど目につかず、車を走らせて、やっと群生地を見つけました(写真)。地主さんから少し頂きましたので、いま、何の花器にせばよいかを思案しています。

私の郷里では、10年ほど前まで土葬どそう(遺体をひつぎのままめる葬法)が続いていました。したがって、その土盛りがくずれぬよう、またモグラやネズミに荒らされぬよう、埋葬すれば曼珠沙華の球根を植えました。だから、曼珠沙華といえば、「死人花」「幽霊花」「親殺し」などという不吉な呼称があったのです。ましてや、花材になることもなく、茶室などではもっとも嫌われた禁花きんかでした。

ところが近年では、各地の群生地に人気が集まり、禁花などと思っている人は誰もいません。花店でも販売されているはずです。私は5年ほど前に巾着田を訪れましたが、駐車場に入るだけでも2時間を要し、入場者は外国人でいっぱいでした。花の色も、本来の赤はもちろん、ピンクや白も目につきました。

現代人はほとんど知りませんが、昔はこの花の球根が飢饉ききんの折の救荒食きゅうこうしょくだったのです。球根にはアルカロイドの毒性がありますが、すりおろして粉末にすれば食用が可能でした。どれほどの人命を救ったかははかり知れません。漢方では〈石蒜せきさん〉といい、尿毒や水腫の妙薬として用いられました。

曼珠沙華は永く不運な歴史をたどりましたが、ここにいたってスターになったのです。栽培といっても何ら手間いらずで、強靭きょうじんに繁殖するこの花が、世界中の人々から愛されることを私は願っています。

結婚しない女性

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夫婦

令和元年9月26日

 

男性もそうなのですが、今どきは結婚しない女性が多いのに驚きます。

私はかなりの世話好きなので、これまでも、ずいぶん女性に結婚をすすめて来ました。つまり、これはと思う男性を引き合わせようとして来ました。ところが、残念ながら、うまくいった例はかなり少なかったとしか言わざるを得ません。

たいていは、「いいです」と言うのです。いいですならオーケーなのかと思いきや、実はお断りの「けっこうです」の方なのです。私が「どうして?」と聞くと、「めんどうくさい」といいます。友人が結婚して、夫や子育てに苦労している姿を知っているからなのでしょうか。それならば、給料を貯めて好きなグルメや旅行を楽しみたいのでしょう。

では、本当に結婚への願望がないのかいえば、そんなことはありません。心の底では強く結婚を望んでいるのです。しかし、求める相手は〝理想の男性〟なのです。求めることが多いため、男性との出会いがあっても、自分のことは見えないのです。だから、理想は尽きません。

そんな時、私は「理想の男性なんていませんよ」と答えて来ました。仮に現われたように見えても、三ケ月もつき合えば、必ずボロが出ます。見ず知らずのアカの他人が、どうして理想の男性になれるでしょうか。せいぜい〝好み〟が合えばいい方です。結婚はどのような理由を超えても、結局は〈縁〉なのです。どんな出会いをしても、どんな恋愛をしても、縁がなければそれまでです。その縁の中で、うまくいっても、ダメであっても、私たちは人生の修行をするのです。それによって、一人の男性と出会った意味を知るのです。そして、それを知った時、本当の夫婦になれるのです。

結婚はめんどうくさいことでも、理想の男性を見つけることでもありません。運命の流れを受け入れ、その縁を受け入れることなのです。その縁に出会ったならば、人生の修行をすべきだと思います。そして、一人の男性と出会った意味を知るべきだと思います。

得度式

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密教私塾

令和元年9月25日

 

一昨日、秋彼岸法要、および秋彼岸水子供養会を挙行きょこうしました。そして、その後に得度式とくどしき(仏門に入る儀式)があり、四名の方がかいを受け、出家しゅっけ(僧侶になること)をされました(写真で胸に白い奉書ほうしょしている方々)。ただ、この方々は社会人として仕事をしておられますので、剃刀ていとう(カミソリ)は当てましたが、髪はほんの一部を切り落とすにとどめました。

私の〈密教私塾〉での得度式は初めてのことで、私も四名の方々もいささか緊張きんちょうしました。四名の方々はそれぞれ立派な法名ほうみょう(僧侶としての名前)をいただき、修行の第一歩を踏み出したわけです。これから休日には私のもとに参り、加行けぎょう(真言宗僧侶の基本修行)に入ります。学ぶことはたくさんありますが、とても熱心な方々ばかりで、私も教えがいがあります。

写真をご覧いただくとわかるのですが、出家をされた当時は、法衣ころも袈裟けさも何となくぎこちなく映ります。誰でも、始めは同じです。ところが、これから礼拝らいはいや読経をくり返して行くうちに、いかにも僧侶らしくなっていきます。物腰ものごしも立ちいも、みごとにサマになります。このことは、以前にもお話をしました。しだいに貫禄がついていく様子を見るのも、私の楽しみになるはずです。

続・お願いごとが叶う

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祈願

令和元年9月23日

 

神さまや仏さまが喜ぶことをして、世の中の人が喜ぶことをすれば、願いごとは必ずかないます。ただ、さらに注意せねばならないことがあります。

まず一つは、願いごとが叶うとは、間接的に叶うことが多いということです。いつもお話をしていますが、たとえばお金を手に入れることとは、子供が親からお小遣こづかいをもらうこととはまったく違うのです。ほとんどは、人や物を通じて間接的に現れるからです。つまり、何かの〈縁〉を通じて現れるということです。

病気平癒のお願いごとをした場合、ウソのように直接に治ることもありますが、多くは何らかの〝情報〟という縁によって現れます。どこの病院やお医者さんがいいとか、こういう治療法があるとか、いい薬を知らされるとか、それによって病気が好転するのです。それは友人との会話で知るかも知れませんし、テレビ番組の中で知るかもしれません。あるいは、立ち寄った書店で手にした本や電車内の広告で知るかも知れません。

だから情報という縁が、いつ、どこで、何によって現れるか、それをキャッチするアンテナを張っておく必要があるのです。つまり、足もとに現れていながら、まったく気づかずにいる人が多ということなのです。このことを知らず、ただ黙って待っていても、お願いごとは叶いません。

もう一つは、持って生まれた力量や寿命はやむを得ないということです。明日からスグに総理大臣になること出来ませんし、千年も万年も生きることは出来ません。特に病気に関しては、高齢になるほどむずかしくなります。〈生老病死しょうろうびょうし〉は人の宿命で、人はいずれは病を得て死を迎えます。その宿命まで変えることは出来ません。

でも、一心にお願いごとをなし、それを神さまや仏さまが喜び、世の中の人が喜ぶことをするなら、必ず何らかの〝お知らせ〟はあります。そのことは信じてください。このことも、お願いごとに関する、大事な心得なのです。

お願いごとが叶う

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祈願

令和元年9月22日

 

私たちは一心に祈れば、お願いごとがかなうと思いがちです。しかし、ここにもまた意外な落とし穴がありますので、そのことをお話しましょう。

皆様がお願いごとをする時、たとえばお護摩札には〈病気平癒〉や〈商売繁昌〉と書かれます。しかし、これを念ずる時、「病気の私を早く治してください」とか「貧乏な私をお金持ちにしてください」といった言葉を用いてはなりません。なぜなら、このような言葉には、「私はもともと病気なのです」とか、「私はどうせ貧乏なのです」という意味が含まれているからです。

では、どのような言葉で祈ればいいのかと申しますと、「早く元気になって、世の中に役立たせてください」とか、「世の中に役立つものを与えて、世の中の人が喜ぶように私を使ってください」とすればいいのです。この違いがわかりますでしょうか。

お話をちょっと変えますが、お護摩のお導師が何をしているのかといいますと、ひたすら〝供養〟をしているのです。供養をするとは、つまり神さまや仏さまが喜ぶことをしているのです。神さまや仏さまが喜ぶことをすれば、お願いごとはおのずから叶うからです。なぜなら、神さまや仏さまが喜ぶことをすれば、神さまや仏さまはこの世の人や何かの縁を通じて、望むものを与えてくださるからです。だから、お護摩でお願いごとをする時は、このことがわかっているお導師を選ばねばなりません。実は、多くのお導師は作法はしているものの、肝心なこの真理がわかっていないのです。

お願いごとが叶うとは、一万円札が天からパラパラと降って来ることではありません。神さまや仏さまが喜ぶ言葉で祈り、また喜ぶ行いをすれば、この世の人も喜ぶのです。そうすれば、お願いごとは人や何かの縁を通じて必ず叶います。お願いごとをする時は、どうかこの真理を忘れないでください。

ケンカをして仲良しに

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人間

令和元年9月21日

 

ラグビーの〈ワールドカップ2019日本大会〉が開幕しました。私はラグビーはルールすら知りませんが、昨日は開幕の対ロシアの試合を、途中からテレビで観戦しました。

あれはまさに、ボールを使った格闘技です。もっと下世話げせわに言えば、一種の〝ケンカ〟です。試合中は互いに激突して、取っ組み合いの寸前でした。でも私は、ラグビーがなぜ「紳士しんしのスポーツ」と呼ばれるのか、その理由がわかりました。

人間は互いに本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出さねば本当の仲良しにはなれません。ラグビーはそれをスタジアムで証明するスポーツなのです。そして、選手どうしも観客どうしも熱狂して戦い、怒り、叫び、そして仲良くビールを飲んでいます。これは、人間が紳士になれる根底をついているからです。

はるかな記憶ですが、私がもの心のついた頃、農村の子供たちはよく徒党を組んでケンカをしました。川の両岸や土手に集まっては一列に並んで向かい合いました。そして、双方の大将が前に出て名のりをあげ、取っ組み合いをしました。まるでヤクザ映画の子供版です。私などは後ろの方で、指をくわえてそれを見ていたものです。

ところがケンカが終ると、互いが健闘をたたえ合い、得がたい仲良しになるものでした。たかが子供どうしのことですが、今思い出せば、あれこそはラグビーが紳士のスポーツであることと通ずるものがあるように思います。

このような例はスポーツはもちろんのこと、政治家どうし、経営者どうし、科学者どうしでも同じです。人間が本音をさらけ出し、力の限界をさらけ出してケンカをした時、不思議な友情が生まれます。この事実は、私たちが何らかのケンカに巻き込まれた時、必ず役立つはずです。

笑顔の効能

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健康

令和元年9月21日

 

昨日、日本女子バレーボール選手の笑顔についてお話をしました。その時、パソコンを打ちながら、同時に浮かんで来たことがありました。

それは、私がいろいろなご相談を寄せられた時、何を基準にその方の見通しを立てるかというと、その方にどれだけの笑顔があるかということなのです。バレーボール選手のことを考えながら、まったく別のことを考えている自分を、妙な気分で見ていたものでした。

たとえば初対面で出会った時でも、「この人は大丈夫!」と思えるのは、私の言うことによくうなずき、笑顔で向かい合える方なのです。逆に「この人は困ったな」と思うのは、何を言ってもうなずくこともなく、まったく笑顔のない人なのです。もっとも、このような方はご縁が続くこともなく、たいていは一度きりで終わります。

だから、笑顔を絶やさぬ方に出会うと、私もまたホッとします。「笑うかどには福来る」や「笑いは百薬ひゃくやくの長」とは、経験的な智恵で伝えられたのでしょう。しかし、最近では科学的な研究が進み、笑う前と後でのデータ分析が進みました。

一つの例として、がん細胞を破壊するとされるNK細胞と笑いとの関係があります。笑う前と後の血液を分析すると、笑った後では、明らかにNK細胞が増えているのです。また、関節リュウマチ患者の痛みと笑いの関係においても、大いに笑った後では、確実にリウマチ指標の数値が減少しています。

うれしいことではありませんか。笑顔は気力を呼び戻し、病をいやし、開運へと導くのです。しかも、時間もかからず、お金もいらず、場所も問わずに人生を変えるのです。私たちも笑顔の効能を忘れず、声を出して大いに笑いましょう。

日本選手の笑顔

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令和元年9月19日

 

私は現在、ほとんどテレビすら見ない生活をしています。それでも、たまには息抜きに画面をのぞくと、奇妙に欲しいと思っていた情報が入るものです。番組そのものよりも、そのことを意識しているからかも知れません。

先ほど、ちょっとリモコンを押しましたら、日本と中国の女子バレーボールが放映されていました。最後の頃でしたが、15分ほど観戦しました。相手はさすがに世界ランク一位だけあって、三セットをストレートで敗れました。余計なことでしょうが、私はバレーボールはきわめて不公平なスポーツだと思っています。なぜなら、小柄こがらな日本選手がどうガンバっても、見上げるようなデカ女(失礼!)に勝てるはずがありません。相手は日本の10倍も人口がいるのです。国中をさがせば、いくらでも人材がいます。だから、私は小柄でも公平にプレイができるスポーツに期待を寄せています。

ところが、日本選手たちはどんなに点数を取られても、ミスをしても、常に笑顔を忘れず、何度もタッチをして肌を寄せ合い、最後まであきらめませんでした。立派だと思いました。あの状況の中で、あれだけの笑顔を保つのは、よほどの精神的強靭きょうじんさが必要です。並みの特訓ではできません。おそらく、歯をくいしばって笑顔を見せる練習をくり返すのでしょう。

うれしい時に笑顔を見せることは誰にでもできます。しかし、くやしい時、つらい時、悲しい時に笑顔を見せられる人は、きわめてまれです。試合には敗れましたが、私はリモコンを切る前に、日本選手たちに大きな拍手を送りました。そして、このような番組を放映してくれテレビにも感謝をしました。

虚空蔵

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真言密教

令和元年9月18日

 

この自然界、この宇宙には、実は無限の宝や無限のお金をたくわえるくらがあるのです。真言密教では、これを〈虚空蔵こくうぞう〉といいます。

私たちが何かを欲しいと思った時、それにあたいする何かを世の中に与えた時、私たちはその虚空蔵から運ばれて、望むものを手に入れることが出来るのです。すなわち、一億円をかせげる人とは、一億円に値する何かを世の中に与えた人なのです。スーパースターは、だから一度に何億円も稼ぐことが出来るのです。しかも彼らは、お金のために生きているのではなく、世の中を喜ばせるために生きているのです。このことが、わかりますでしょうか。

皆様のまわりを見てください。多くの友人に囲まれ、多くの物に恵まれ、多くのお金を手に入れている人は、それに値する何かを世の中に与えているはずです。人を喜ばせ、人のために役立ち、人に必要なものを与えているはずです。逆に、友人にも物にもお金にも困っている人は、常に他人の悪口を言い、不平不満をこぼし、世の中に与えるものが少ないはずです。

さらに申し上げれば、皆様が失物うせもの盗難とうなんにあったり、詐欺さぎにあったりして何かを失った時は、それは失ったのではなく、虚空蔵に〝返した〟ということなのです。その理由は、もちろん様々さまざまです。それを失う何かの原因があったからなのです。そして、その原因をつぐなう行為をなした時、失ったものは必ず返って来ます。

だから、世の中に与えずして手に入れたものは、逆に必ず失うことになります。宝くじやギャンブルは人生の楽しみです。しかし、宝くじやギャンブルで手に入れたお金はいずれあわのように消え失せ、手に入れた以前よりかえって貧しい生活を送ることになるのです。そのような例は、ネットで検索すればいくらでも出ています。宝くじやギャンブルでお金を手に入れたら、すぐにでも虚空蔵に返すことです。つまり、ユニセフや赤十字、被災地に寄進をすることです。

私は若い頃に、一時は赤貧せきひんの生活を経験しました。それでも、この真理を知っていたために救われました。人生で最も大切な真理です。

地水火風空

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真言密教

令和元年9月17日

 

今日も二名の方に伝授をしました。その中で、人間の体こそは自然界そのもの、宇宙そのものであるというお話をしました。そのことを、皆様にもお伝えしましょう。

まず、私たちの頭は丸くて頂上が少し盛り上がった形をしています。お大師さまの頭はその典型で、これは天空を示し、宝珠ほうじゅの形を象徴しょうちょうするのです。天空を見あげてみてください。全体が丸くて、しかも無限のかなたに遠のくはずです。あさか大師はほぼ360度に視界が開けていますので、そのことがよくわかります。ちなみに申し上げますが、キューピーちゃんの頭は、その形を少し大げさにしたということです。

次に顔は、額からアゴにかけては半円です。これは風の形を示します。風は大きく回転しながら半円を描いて進むのであって、台風も竜巻もその例外ではありません。

次に、首から肩にかけては三角形です。これは火を示します。火は上に向かって細くなりますから、全体が三角形になるのです。お護摩を修する時、お導師が最初に三角形の炎をイメージするのもこのためです。

次に、お腹はおへそを中心に丸い形をしていて、水を示します。お腹は飲んだものや食べたもので、水分が多いのです。つまり、水玉の丸い形でこれを象徴するのです。カルピスの水玉模様を見れば、誰でも水を連想するはずです。

そして最後に、両足を座禅のように組んで座ると、横長な四角形になり、大地を示します。私たちが両足を大地に着けて生きているのも、実はこの意味なのです。

以上を両足から順に示せば〈すいふうくう〉となり、真言密教ではこれを〈五大ごだい〉といいます。私たちの体が自然界そのもの、宇宙そのものの縮図であるという意味です。だから、「人間のこの体にこそ仏が宿るのだ」とするのが、お大師さまの教えです。私たちの体は、それほどに尊いことを知らねばなりません。

山路天酬密教私塾

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