山路天酬法話ブログ

来世への予習

カテゴリー
人生

令和2年2月4日

 

大正時代のことです。長崎市の名刹めいさつ曹洞宗そうとうしゅう皓臺寺こうだいじ霖玉仙ながあめぎょくせんという和尚がいらっしゃいました。

和尚は七十歳にいたって、英語の勉強を志しました。それを見た弟子たちが驚いたのも無理はありません。みな、あきれかえってしまいました。中にはずけずけと、「そんなお年では無理ですよ」と言う者までおりました。どうせ、すぐに挫折ざせつすると思ったのでしょう。ところが和尚は、

「よう知っておるよ。だがな、いま一つでも英単語を覚えておけば下地ができるはずだ。来世に生まれ変ってまた勉強する時に、きっと役に立つと思ってな」

と、答えました。

私はこのお話を、曹洞宗宗務本庁刊の著書で知りました。とてもよい逸話いつわだと、感動しました。「一生勉強」という言葉そのものです。無理をせずとも、来世への予習と考えれば、それもよいではありませんか。『言志四録げんししろく』(江戸時代の儒学者・佐藤一斎さとういっさいの著書)に記載される、「老いて学べば死してちず」のお手本のようなものです。

今日、認知症予防の〝脳トレ〟が流行はやっています。その種の単行本や雑誌の付録もたくさんあります。それらの効用についても、よくわかります。しかし大切なことは、何かを学ぼうとする前向きの意欲でありましょう。使わなければ衰えるのが人の体であり、人の脳です。でも、使おうとする意欲がなくては始まりません。

来世への予習をするほどの人なら、生れ変わることも楽しみになりましょう。私も多いに励まされました。

豆まきの文化

カテゴリー
文化

令和2年2月3日

 

今日は節分で、各地の社寺で豆まきが行われました。

豆が「めっする」から、あるいは「めっする」から、それが〝豆まき〟なのでしょう。また、豆(大豆)には豊富な栄養があり、健康食品としてもすぐれているからなのでしょう。特にった大豆は、火を通していますから人にも食べられます。できれば発酵して納豆にすればよいのですが、残念ながら豆まきには使えません。

幼い頃、父と二人だけで地元の神社で誰もいない中、豆まきをした記憶があります。父があまりに大きな声で「鬼は外!、福は内!」と叫ぶので、私ははずかしくなり、声も出せませんでした。それでも父が、「お前も声を出せ!」と言うので、何とか頼りない声を出しました。 

今日、人はこんなことをどう思っているのでしょうか。もちろん、豆まきをする人は今でもたくさんいます。コンビニやスーパーで節分の豆が売り出されれば、何となく気になります。中には「〇〇厄除よけ大師祈願」とまで、宣伝している商品まであります。有名寺院ではゲストのタレントさんの顔を見たくて、その豆まき行事に群参します。恵方巻えほうまきももちろん売れています。

これはこの国の文化なのです。また、この国に宿った民族の血なのです。そして、人というものの不変の願望なのです。

魔を滅するから「豆まき」だといえば、幼稚な語呂ごろあわせと笑うかも知れません。でも、人は誰でも魔を恐れ、少しでものがれたいと望んでいるのです。そうでなければ、厄よけの祈願にこんなに人が集まるはずがありません。魔(悪いもの)を除きたいという気持は、いつの世でも変わりません。

宗派を超えて

カテゴリー
真言密教

令和2年2月2日

 

今日も昨日と同じく、行く始めの回向行事をいたしました。九日(日)が「開運星祭かいうんほしまつ大護摩供おおごまく」の行事なので、集まった僧侶の方とその準備に入りました。左端に星祭り曼荼羅まんだらの一部が見えると思います(写真)。明日から前行ぜんぎょうに入り、七日後の当日に結願けちがんのお護摩をいてお札を祈念します。

この頃は真言宗のみならず、天台宗・浄土真宗・神官の方々などが集まって、とても楽しくなりました。各宗のニュースも聞けますので、私は居ながらにしていろいろな情報を得ていることになります。お大師さまの真言密教は、宗派などにとらわれることなく、どんな教えでも受け入れる順応性があります。

もちろん、教義をたどれば矛盾もありましょう。しかし、そんなことで争いを起こしているようでは、宗教界に平安はありません。社会に対しても、申し訳がたちません。今日、真言宗と天台宗が高野山で合同法要をしたり、ヨーロッパの聖堂で声明しょうみょう(経典や真言による声楽)の公演をしたりするのは、とても喜ばしいことです。

今後も宗派を超えて、いろいろな方々とお会いできることが、私のひそかな願いです。一つだけ悩んでいることは、真言密教は仏具代が高価であることです。得度とくどをして仏門に入り、次に加行けぎょうという修行を成満じょうまんした後には金属製の仏具が必要になります。特にお若い方は、その工面が大変です。いい情報がございましたら、お教えてください。

恵方巻の由来

カテゴリー
文化

令和2年2月1日

 

節分が近づいて、スーパーもコンビニも恵方巻えほうまきの販売合戦が盛んです。今日は月始めの回向行事がありましたので、終って恵方巻の由来についてお話をしました。関東にもすっかり定着し、皆様にも関心があるらしく、熱心に聞いていただきました(写真)。

今年の恵方(暦にある歳徳神としとくじんの位置)はかのえ(西南西)の方位です。江戸時代はその歳徳神の方位に向かって神棚や祭壇を設け、供物を献じて福徳を願いました。五穀豊穣や商売繁昌を、礼を尽くして祈念したわけです。当然ですが、この時点では歳徳神と恵方巻に、何の関連もありません。

ところが明治から大正に入り、大阪の花街では節分の芸遊びをしながら、太巻きを食べる習慣が生れました。大きな太巻きなら、鬼を退治をして厄もはらえそうに思ったのでしょう。しかし、この時点でもまだ恵方巻という名は生まれません。

今日の恵方巻は1998年、セブンイレブンによって販売が開始されました。発祥は大阪でも東京でもなく、広島でした。広島市内のセブンイレブン巡回アドバイザーだった野田静真のだしずま氏は加盟店のオーナー会議で、大阪では節分に太巻きを食べる習慣があることを聞いたのです。この野田氏こそは、コンビニでおでんやあおせち料理を販売するようになった仕掛人だそうで、強いひらめきを覚え、「仕掛けてみよう」と言い出しました。しかし、単なる太巻きではインパクトがありません。歳徳神の恵方に向かって、「まるまる一本を、声も出さず、一気に食べれば幸運が舞い込む」と意味づけしたのです。これが大当たり。今やコンビニやスーパーばかりではなく、デパートも寿司店も競争に明け暮れています。もはや単なる商品というより、文化とさえ呼べるレベルでしょう。

私は恵方巻そのものより、歳徳神という幸運の神さまを忘れないためにも、この文化を評価したいと思います。ちなみに、恵方巻は七種の具材を巻き上げますが、こらはもちろん、七福神に由来しています。何もかもウマくやりましたね。

墓前での甘酒接待

カテゴリー
仏教

令和2年1月31日

 

私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)にはめずらしい風習がありましたが、そのひとつをお話しましょう。

記憶はあいまいですが、あれは冬至の頃であったのか今頃であったのか、とにかく寒い時期に墓前での甘酒接待がありました。墓前といっても今のような霊園ではなく、昔の部落墓地でした。そこで大きな鉄なべで甘酒をつくり、道行く人に声をかけては甘酒をふるまっていました。道行く人も声をかけられると、ことわってはいけない礼儀があったような気がします。当時は自動車で通行する方など、ほとんどありません。徒歩や自転車の通行人が代わる代わる立ち寄り、その甘酒をいただいては去って行きました。

私はその甘酒が楽しみで、自分から進んで手伝いをしました。しかし、その意味を知ることもなく何十年も過ぎ去り、急に思い出したのもまた奇妙です。今は甘酒がブームらしく、スーパーにもたくさん並んでいます。それを見て連鎖反応があったのでしょう。

その由来を考えますと、どなたか、寺の住職でも提案したのかも知れません。要するに先祖に代って布施をなし、功徳を積むということなのです。何しろ寒い毎日で、温かい甘酒はありがたいものでした。昔はこんなことを通じて、仏教が民間に伝えられていたのです。しかも、何の不自然さもなく農村の風習になっていました。このようなお話はたくさんあるのですが、子供のころの記憶をたどると、なるほどと思うことがあって驚きます。民俗学という学問が生じるのも納得できます。

遠い日の記憶を思い出し、何やら楽しく、うれしい一日でした。さらに年齢を重ねれば、どんな記憶としてよみがえるのでしょうか。

屈辱をバネに

カテゴリー
仏教

令和2年1月30日

 

一昨日の塙保己一はなわほきのいちのお話には、さらに続きがあります。

ある雪の日、彼は平河天満宮ひらかわてんまんぐう(現・東京都千代田区)へ参詣しました。ところが参詣を終えての帰りぎわ、あいにくの雪のためか下駄げた鼻緒はなおが切れてしまいました。

境内に前川まえかわという版木商はんぎしょう(今の出版業社)があり、人声を感じた保己一は「ヒモをいただけませんか」と頼みました。盲目の彼を見て、からかってやりたかったのでしょう。店の者が無言でヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しあて、鼻緒を仕立てようとしました。もちろん盲目の彼が、うまく仕立てられるはずがありません。店の者たちは手をたたいて笑いました。彼はその屈辱くつじょくに耐えきれず、素足で店を飛び出しました。

ところが後年、幕府の推挙を得て『群書類聚ぐんしょるいじゅう』がいよいよ出版されるに及び、保己一は何とその前川を版元に選びました。何も知らない前川の主人がお礼を述べると、保己一は「私が今日あるは、数年前の雪の日に受けた屈辱のおかげです。むしろ私の方こそお礼を言いたいのです」と語りました。

天才とは、なるべくして天才になるのでしょう。屈辱の恨みを超えて相手を許し、むしろその屈辱を努力のバネにしたのです。誰しも、忘れがたい屈辱はあるものです。しかし、その恨みを報いるのに恨みをもってするなら、その恨みはいつになっても消えません。今度は相手が、さらなる恨みをいだくからです。保己一は仏典の教えを、深く体得たいとくしていたのです。

『のどごし〈生〉』を生かす

カテゴリー
仏教

令和2年1月29日

 

昨日、親しい不動産業の方が亡くなり、私が葬儀の導師をつとめました。八十三歳の天寿をまっとうしましたので、年齢にいはなかったと思いますが、人の一生には何かと未練みれん執着しゅうちゃくが残るものです。

私がちょっと驚いたのは、担当葬儀社の配慮でありました。いよいよ出棺しゅっかんの折、その葬儀社はあらかじめ葬主と話し合い、故人が生前に最も好きだった音楽CDを斎場さいじょうに流しておりました。昨日、故人のそれはフジコ・ヘミングのピアノ演奏で、その美しい曲に一同がいやされておりました。これは現代葬儀においては、格別に異例なことではありません。このようなセレモニーは、他社においても流用していると思います。

私が驚いたのは、司会者の次の放送でした。「これから個人が生前に最も好きだったお酒を、ご遺族の方に綿棒でもってお口に含ませていただきます」と言うのです。故人はどんなお酒よりもキリンビールの『のどごし〈生〉』が好きだったらしく、ご遺族が代わる代わるその綿棒をお口に含ませました。こんな経験は初めてのことで、私は驚きつつも、何やら喜ばしい気持ちになったのも意外でありました。

しかし、どうでありましょうか。仏教の本義からいえば、葬儀とお酒は互いに相容あいいれません。「不飲酒ふおんじゅ」は大切な訓戒であります。しかし、以前にもこの法話ブログに書きましたが、そこが神社や儒教じゅきょう、民間信仰と習合した独特の「日本教」なのです。神前にお酒や供物を献じてお祭りをなし、そのおさがりを仲よくいただくことが〝まつりごと〟なのです。つまり、飲食を共にすることで、人の気持ちが通じる〝政治〟となるのです。そして、その風習が仏教の中にも共存しているのです。

故人は生前に最も好きだった音楽を聴きつつ、最も好きだった『のどごし〈生〉』を奥様や子供たちからいただきました。もはや、この世の未練や執着から脱することは容易であったはずです。仏教の本義を離れて、立派な方便が生かされているようにも思えるのです。未練や執着を脱する方便として、『のどごし〈生〉』を生かしたのです。

『般若心経』百万巻読誦の功徳

カテゴリー
人物

令和2年1月28日

 

人は何もかも与えられることはありませんが、何もかも失うこともありません。

江戸時代の中期、とてつもない天才がいました。名を塙保己一はなわほきのいちといいます。今の埼玉県本庄市ほんじょうしに生れましたが、五歳で失明し、十二歳で母と死別しました。しかし、彼はずばぬけた記憶力を天から授かりました。読んでもらった日本の典籍を、ことごとく暗記することができたのです。彼は人が読んでくれる文字を、心底に写してこれを熟読したのでした

二十七歳の折、亀戸かめいど天満宮(現・東京都江東区)に参詣して一万日(二十七年)の間、毎日『般若心経』百巻を読誦どくじゅする誓願せいがんを立てました。つまり、一万日で百万巻読誦を目ざしたのです。これは大事をなすには、神仏のご加護なくしてありえないという信念からの決心だったのでしょう。しかも彼は、半ばの五十万巻に達するまでに、千冊の典籍を読んでもらい、百万巻終了の折には記憶したすべての典籍を出版しようとまで考えたのでした。

彼は『般若心経』十巻を読誦するたびに、紙のこよりを小箱に入れ、妻がそれを数えて記録しました。彼は一万日で百万巻はおろか、七十六歳で没するまでの四十三年間、毎日の読誦を一日として怠りませんでした。その四十三年間の読誦は、何と二百一万八千六百九十巻とまでいわれています。

そして彼は、記憶したすべての典籍を集成して、『群書類従ぐんしょるいじゅう』正編五百三十巻、続編千百五十巻という膨大ぼうだいな出版を完成させました。これは典籍の定本と伝本を比較校訂までも含めた、まさに前人未到の偉業でありました。今日でもなお、国学研究に大きな貢献をしています。

いったい、人が読んでくれる文字をここまで心底に写し、記憶できるものなのでしょうか。彼の超人的な努力はもちろんでありますが、私たちの常識を超越したその才能は『般若心経』読誦の功徳というよりほかはありません。人はすべてを失ったように見えても、天から与えられた何かがあるのです。このような偉人がいたことは、この国の誇りであります。

小食のすすめ

カテゴリー
食事

令和2年1月27日

 

健康のためには大食は禁物です。特に頭脳思考の仕事には、小食が大切です。そのことを昨日のブログに書きましたが、さらに学説を加えてお話しましょう。

まず、アメリカ・エール大学のトーマス・ホーバス博士はお腹がすいている時こそ、胃が分泌する飢餓きがホルモンのグレリンが脳の働きを促進すると発表しています。またスペインの養老院で、1800キロカロリーの食事を毎日与えたグループと、一日おきに断食させたグループを比べてみたところ、後者の方が圧倒的に長命であったと発表しました。

こうした事実は動物実験でも明らかです。同じアメリカ・ウィンスコンシン大学のリチャード・ワインドルック教授と国立老化研究所のフェリペ・シェラ博士らはアカゲザル76匹を、何と20年間にわたって食事カロリーの追跡調査をしました。その結果、低カロリー食を与えた群れは心臓疾患が少なく、脳も健康で糖尿病もなかったと発表しています。また、カリフォルニア大学のマーク・ヘラースタイン博士らは、ネズミの摂取カロリーを5パーセント減らすだけで、大幅に寿命が延びることも証明しました。カロリーを制限すると、細胞分裂が遅くなるので、がんの増殖ぞうしょくも抑えられるというのです。

皆様はこの逆説を、どのように解釈しますでしょうか。まさに、小食こそは寿命を延ばし、病気を予防し、頭脳を明晰めいせきにしてボケを防ぐのです。

さらに断食まですると、その効果はてきめんです。断食を取り入れた病院や健康施設で肌が若くなり、色つやもよくなり、難病を克服した例は数知れません。私も若い頃に八千枚護摩はっせんまいごま(断食を加えた荒行)に明け暮れましたので、その効果がよく理解できます。体が軽くなり、頭脳も感覚もえました。お寺の一階にいても、三階でどんな料理を作っているかさえわかりました。

どうか皆様、飽食の時代であればこそ、小食の効能を見直してください。もしかしたら、人が一生に食べる量は決まっているのかも知れません。その量を食べ尽くせば、もはや生きる寿命も尽きるのです。きっと、そうです。

思考と小食

カテゴリー
思考

令和2年1月26日

 

トーマス・エジソンが蓄音機を発明した時、彼は9昼夜222時間、不眠不休で実験をくり返しました。その間は水分以外、一切の食事もとらずに集中したとされています。9昼夜といえば、比叡山回峰行者ひえいざんかいほうぎょうじゃ十万枚護摩じゅうまんまいごま(7日間断食だんじき荒行あらぎょう)をも超える超人的な偉業です。

彼は、「頭脳は誰でも同じなのさ。考えて考えぬけば誰にでもできる」とも言い切っています。また、「どうしてそんなに考えられるのですか?」という問いには、「人は何時間も寝るでしょう。腹いっぱい食べるから寝るのです。寝なければ考えられるのです」と答えています。つまり、単に睡眠時間を少なくするのではなく、考えるためには小食が大切だと主張しています。事実、彼は日頃から小食で、黒パン・野菜・果物と、時どき魚を食べる程度であったと伝えられています。

私はこの逸話いつわが忘れられず、考える仕事をするためには大食は禁物だと自戒するようになりました。睡眠はもちろん大切ですが、問題は時間より質でしょう。食べ過ぎると胃腸に負担をかけるうえ、胃腸に血液を送るための心臓にも、消化酵素を供給するための肺にも、老廃物を解毒げどく排泄はいせつするための肝臓や腎臓など、あらゆる臓器に負担がかかります。そして、その負担を回復するためには、より長時間の睡眠が必要になります。だから、小食にすれば、短い睡眠でかえって健康を保つことができるのです。

皆様は、たくさん食べずにどうやって体力を維持するのかと思うでしょうが、それは固定観念なのです。昔の日本人の食事を考えてみてください。一汁一菜か二菜で、現代人にはとても及ばぬほどの体力を維持してよく働きました。現代人はやはり食べ過ぎなのです。あらゆる所にあらゆる食べものが、時間を問わず間食も夜食も、国を問わず世界中の料理まで用意されています。そして、食べ過ぎから健康を害しているのです。特に頭脳思考の多い仕事の方は、ぜひ小食を心がけて欲しいものです。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ