山路天酬法話ブログ
お金の神さま
令和2年2月16日
本日は第三日曜日で、午前11半より金運宝珠護摩供を修しました。皆様、お金のこととなると特に熱心で、真剣でした。また、助法の読経にも力がこもっていたように思います(写真)。

お金のことで、私がいつもお話していることは、とにかくお金の神さまに好かれることに尽きましょう。お金の神さまに好かれるためには、お金を大切にすることです。だから、お金に感謝し、お金をていねいに扱うことです。お財布の中をカードやレシートでパンパンにして、それを尻ポケットに入れているようでは、お金が呼吸できません。また、お財布は常にきれいにして、お金が気持ちよく入っていられるよう心がけることです。私の場合はさらに、お金の神さまへの礼儀としてお香をも入れています。
そして、コンビニでもスーパーでも、お金を支払う時は心を込めて「行ってらっしゃい」と声をかけることです。お金はその言葉を喜んで受け止め、いつかまた返って来るからです。よく、折れたお札をまるで投げ捨てるように支払う人がいますが、お金の神さまから見捨てられた人です。そんな人がお金に恵まれことは、絶対にありません。
次に、お金が欲しいからといって、お金を追いかけてはなりません。お金は〝ついて来る〟ものだからです。どういうことかと申しますと、お金の神さまに好かれるということは、世の中の人々にも好かれるということだからです。世の中の人々が喜ぶことをすれば、お金は結果として後からついて来るのです。世の中の人々が喜ぶ商品や技術、情報やサービスを提供していれば、報酬はおのずから高まりましょう。
その証拠に、どうしたらお金が儲かるかと、そればかり考えている人は決してお金には恵まれません。また、他人が損をすれば自分が儲かると、そう考えている人は決してお金には恵まれません。たとえ一時的に儲かることがあっても、すぐにボロが出るからです。その視点で世の中を見れば、誰にでもわかることです。
僧侶の私がこんなお話をするのも、今時の風潮とご承知ください。昔の僧侶はよく、お金にさわることすら嫌ったものでした。でも、私のお金に対する考え方が間違っているとは思いません。そうではありませんか、皆様。
小事と大事
令和2年2月13日
小事をおろそかにしての大事はありません。
大事を成し遂げた成功者の伝記を読むと、そのことがよくわかります。下積みの時代からささいな仕事も大切にしてきた人たちだからです。ささいな仕事でも、それを大切にする人は世間からも信用されますし、そうでなければ大事をなすことなどでき得るはずがありません。
大事といえども、小さなことの積み重ねです。その小さなことをコツコツと築いていける人こそが、大事を成し遂げるのではないでしょうか。
逆に、ささいなことを軽んじると、とんでもない結果をも招きかねません。川の堤防も、アリの一穴から崩れるのです。大きな岩も、わずかな筋目から割れるのです。ささいなことだからと、それを軽んじてはなりません。
非行に走る子供も、最初から目立ったことはしません。外出時間が増えたり、髪を染め出したり、女の子なら口紅をさしたり、洋服が派手になったりと、わずかな兆しを見せるだけなのです。
それを親が注意しないでいると、子供はその親の甘さを敏感にキャッチします。そして、だんだんとエスカレートして、ついには親の手に負えなくなって行くのです。火事なって燃え広がらぬ内に、小さな火種をまずは消すことが大切です。
お話はもどりますが、小事こそは大事の分身です。雨だれが岩を打つように続ければ、やがて大きな成果を生むことは間違いありません。私も肝に銘じておきます。
続・陰膳のすすめ
令和2年2月12日
昨日、「陰膳」のお話をしました。そして、家族は精神的に連結しているから、陰膳によってこれを応用することができるとお話をしました。
実は、このお話をさらに続けるなら、家族は霊的にも連結しているともいえるのです。つまり、あの世の人とも連結しているという意味です。人はこの世の一生で終るのではなく、その人を思えば、それは〝生きている〟ことになるからです。
たとえば、ご主人か奥様のどちらかが他界されて、お子様が幼いのに片親となった場合、子育てはなかなかむずかしいものです。しかし、その片親が位牌に向かって合掌をしていれば、そのお子様が間違った育ち方をすることはありません。その後ろ姿を見て、「お父さん(お母さん)を大事にしているし、お父さん(お母さん)はいつもそばにいる」という思いをいだくからです。そして、その思いは必ずあの世とも連結するからです。何もむずかしいことではありません。
そして、あえて提案しますが、月に一度の命日には陰膳をすることが大切です。ご主人(奥様)が座っていた食卓に、好きだった食事を据えることです。お子様ははじめ、お客さんでも来るのかと思うでしょう。しかし、その理由を説明すれば、お子様はますますよい子に育ちます。これは、どんなご祈祷法にもまさる〈秘中の秘〉なのです。
片親でご苦労をされている皆様、どうかこの陰膳のすばらしさを、ぜひ体験してみてください。
陰膳のすすめ
令和2年2月11日
「陰膳」という言葉をご存知でしょうか。本人がいなくても、本人がいつも座っている食卓に、本人の食器や箸でいつもどおり食事を据えることです。
昔は旅に出た人の安全を祈って、よく行われました。昔の旅は危険な道中が多く、また盗賊や山賊が出没しましたから、このようなことが行われていたのです。これを現在に応用するなら、たとえば年頃の息子さんや娘さんが家出をした場合に用いることができます。お母さんが陰膳をすると、不思議に〝里ごころ〟をおこして、帰って来ることが多いのです。専門的なご祈祷法もありますが、私は何度かこの陰膳をすすめて、家出人を呼び戻せた経験があります。
また、家を離れた遠いところでの受験や試合、危険な仕事をする場合にもよいでしょう。家で落ち着かない気持ちで過ごすより、ご自分のためにもなるはずです。ぜひ、試みてください。
人は決して一人で生きているわけではありません。特に家族は精神的な絆で結ばれています。子供に異変があれば、特に母親は胸騒ぎがするなど、直観的に感じ取るものです。もちろん、その逆もあるのは当然です。
これは、家族は同じ遺伝子で連結しますが、同時に精神的にも連結するからです。子供が母体に宿れば、父親との遺伝子によって、身体と精神を共有するからともいえましょう。
本来、心(精神)には時間や空間の隔たりがありません。昔の人はたとえ遠く離れていても、心の思いが通じることを知っていたのです。
業の洗濯
令和2年2月10日
人はよく、特定の信仰や何らかの道に入って、それから〝修行〟をするといいます。しかし、私はそうは思いません。信仰を持とうが持つまいが、あるいは信仰に反発する人さえも、等しく修行をしていると思うのです。もちろん政治も学問も、科学も芸術も、料理も趣味も、何一つとして修行でないものはありません。
なぜなら、どのような生き方をしようと、人は苦しみを背負うからです。では、その苦しみはどこから来るのでしょうか。仏教では、それを「業(または宿業)」と呼んでいます。業はあるいは前世から、あるいは先祖から遺伝子のように引き継ぐのです。信じようと信じまいと、それは自由です。しかし、何らかのプロセスがなければ、人は平等に生まれるはずです。しかし、健康に差があり、貧富に差があり、能力に差があるのは、生まれる以前に何かがあったからではないでしょうか。
そして、業が苦しみとなって現れる時、それは〝業の洗濯〟をしているのだと私は考えています。洗濯をすれば水は汚れますが、それは同時に清める姿でもあります。つまり、人は苦しみの中で業の洗濯をしつつ、業を清める修行をしていることになります。
問題は、その事実をどのように受け止めているかです。苦しみによってヤケをおこせば、つまり途中で洗濯をやめれば、修行の意味を失います。かえって業を深める結果にもなりかねません。また、その修行を成就するのにどのような形をとるかも、人それぞれです。信仰に求めるも、それを否定するも、他に求めるも自由です。しかし、どのような形をとるにしても、人は自分が背負った業の洗濯をする天命があると私は思っています。
開運星祭り
令和2年2月9日
今日は年頭最後の行事として、「開運星祭り大護摩供」を修しました。ちょうど満月にあたり、ご祈祷には最高の日となりました。また、神戸・鹿児島・沖縄などの遠方からも僧侶の方々が集まり、ご信徒の皆様もたくさんお参りくださいました(写真)。

星祭りは厄よけ・災難よけと同様、直接に自分や家族のこととなりますので、大変に関心が高いようです。また、私が『当年星供秘要次第(本地金輪護摩付)』(青山社)を刊行し、各地で伝授をして以来、星祭りを年中行事とするお寺さんも大変に増えました。万年歴を用いて節分・立春を確認したり、旧暦での誕生日から宿曜を選出することにも、慣れていただいたように思います。特に二月三日や四日生まれの方は、万年歴で正確な節分・立春を調べる必要があるからです。
現在の星祭り行事は、ほとんどが〈当年星供〉といいまして、その年に巡って来る当り星を祈願します。そして、星祭りにはお護摩がつきもです。しかし、経典を調べますと〈当年星供〉にはお護摩の次第がありません。このような場合は〈本地護摩〉といいまして、当年星の本来のお姿である本地仏(金輪さま)のお護摩を修します。
私が残念に思うのは、星祭りといいながら、お不動さまのお護摩を修しているお寺さんが多いことです。これでは星祭りのお護摩にはなりませんので、ぜひ、正しい本地護摩を修していただきたいと念じております。
星祭りの後は、お二人の方に印可を授け、さすがにクタクタになりました。今夜は早めに休ませていただきましょう。
事はじめ
令和2年2月9日
私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)では二月八日を「事はじめ」といい、奇妙な風習がありました。この日は厄病神が村々を訪ね歩くとされ、家では竹ザオで目籠を屋根上に揚げていました。目籠というのは編み目(まなこ)の荒い竹籠のことで、これを「大まなこ」と呼んでいました。厄病神は「一つ目小僧」であるとされ、それに対抗するためであったようです。
そして、この日の朝食には必ずそばがきを食べました。そばがきの粘着力には呪力があるとされていたからです。父は仕事に行く前に、私は学校へ行く前に、祖母が作ったそばがきを食べたものでした。
また、この日は針供養の日とされ、一切の針仕事を休んだものでした。一年使った針を豆腐にさして川に流したり、神社に納めました。昔の和裁学校ではこの風習があったらしく、これで裁縫の上達を願ったようです。そして、ご馳走を持ちよって会食したとも聞きました。針に対する畏敬の思いがあったのでしょう。
現代人はこんな風習を笑うでしょうか。もちろん、こんな風習は昔の語りぐさで、もの笑いかも知れません。しかし、自然に対し、また道具に対し、謙虚であったという一語につきましょう。そして、生きることは何かの世話になるものであるという、人としての理念があったのです。子供の頃の風習も、いま考えると、なるほどと思うものです。
品格について
令和2年2月7日
かつて藤原正彦氏の『国家の品格』、坂東眞理子氏の『女性の品格』を始めとして、〈品格〉という言葉が流行しました。
品格とは何でありましょうか。もちろん、今日・明日から品格を身に着けようとしたところで、叶うことではありません。その人の教養・思考・経験・生活・行動など、そのすべてが融合して自然ににじみ出るのが品格でありましょう。
たとえば、そこに紙くずが落ちていたとして、それを気にもしないか、気にはするけれども何もしないか、すぐに拾ってくず籠に入れるか、そんなところにも現れましょう。仏教では「下座の精進」といいまして、自分の立場や身分をいかに下げられるかを大事な修行としています。仏門に入る得度式は、礼拝の連続です。仏に向かって両膝・両肘・額を床に着ける〈五体投地〉をくり返します。つまり、高い品格は、自分を下げることから生じるという教えを実践するのです。下げることから心が清まり、魂が輝き、その品格が高まるのです。この逆説がわかりますでしょうか。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というではありませんか。稲は実るほどにその穂を下げるものです。人もまた、その品格が高いほど謙虚にふるまうものです。逆に品格の疑わしい人ほど尊大で、増上慢な態度をふるまうはずです。覚えはございませんか。
成長する会社の経営者は自らトイレ掃除をしたり、社員と同じ立場で対話をするはずです。社員もまたそんな社長を信頼し、仕事に励み、その会社が成長していきます。戦後日本を動かした偉大な経営者の方々を見れば、それは十分に理解できましょう。女性の品格も、国家の品格も、すべては謙虚でなければ高まりません。
子供部屋の方位
令和2年2月6日
昨日の続きでありますが、子供部屋にも九星気学を生かすことができます。
まず、二度三度と声をかけても起きてこない朝寝坊の子供には、東枕になるよう工夫することです。東(震宮)は、朝日が昇る活動の方位です。一日の始まりとして東枕にすると、子供が(もちろん大人でも)意外に早く起きる事実を私は体験しています。
また、特に長男には家の中心から見て、東または東北の部屋を与えるとよいでしょう。東は長男の座所ですし、東北(艮宮)は相続の象意があります。長男らしい活動や相続の〈気〉を受けることによって、家庭内の人間関係もうまくいくことが多いのです。
次に女の子は、東南または西の部屋をおすすめします。東南(巽宮)は縁談の象意があり、西(兌宮)は恋愛の象意があるからです。なかなか縁遠い女性が、北や東の部屋にいる例を私はたくさん知っています。ちょっただけ秘伝をお話しますが、結婚は特に東南が大切です。恋愛をしても、縁が熟して結ばれなければ意味がありません。だから、九星気学で結婚運を見る場合、西の兌宮よりも東南の巽宮を中心に判断します。また、巽宮を定位とする四緑木星の位置で判断するのです。
このようなお話はたくさんありますが、これ以上はあさか大師にお越しください。私はほとんど寺にいますので、いくらでもお話しますよ。
北枕のすすめ
令和2年2月5日
眠れないという方に対して、私は北枕をすすめています。
なぜなら、北は九星気学で〈暗闇〉を意味し、眠りに適するからです。死者を北枕にするのも、同じことです。縁起が悪いと思うかも知れませんが、そんなことはありません。眠る時は明かりを消すでしょうから、とても理にかなっているのです。北枕を嫌うことこそ、まったくの迷信です。
私は睡眠時間が大変に短く、友人からよく「いったい、いつ寝ているんだ」と言われてきました。だいたい4時間ほどでしょうか。それは眠りの質が高いからで、これも北枕のおかげと思っています。
それから、眠れない方は心と体のバランスが悪いはずです。つまり、精神的にはクタクタになっても、体は意外に疲れていません。だから、ウォーキングや水泳などのスポーツをすると、よく眠れるようになります。
このことを考えますと、精神的な悩みに対しては身体的に対応した方がよいということがいえましょう。私はよく、山歩きをすすめています。歩くことで体は疲れますが、山林の緑や花の色、せせらぎの音や鳥の声でとても癒されます。気持がリフレッシュして、活力がよみがえります。これも、その方にとってのよい方位があるので、また九星気学が活躍します。
私は占い師ではありませんが、いろいろなことに九星気学を生かしています。皆様もぜひ、北枕を試してみてください。よく眠れますよ。

