山路天酬法話ブログ

人生を楽しむ才能

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人生

令和2年5月10日

 

二十年ほど前、九十七歳で他界しましたが、河盛好蔵かわもりよしぞうさんというフランス文学者がおりました。モラリストの翻訳や自分の著作もたくさん残しましたが、何と九十五歳で文学博士の学位を得るという大器晩成たいきばんせいの学者でした。晩年は脳梗塞のうこうそくで倒れ、車イスの生活を送りましたが、それでも向上心を失わずに研究を続け、ついに学位を得たのでした。

私は河盛さんのエッセイをかなり読みましたが、特に「人生を楽しむ才能」という言葉には共鳴しました。人生を楽しむには、まさに才能が必要だと思っていたからです。皆様はどのように思うでしょうか。お金さえあれば人生を楽しめるではないかと、そのように思うでしょうか。でも、お金があっても苦しみの多い人はたくさんいます。いや、むしろそういう人のほうが多いかも知れません。お金があれば、かえってそのお金が苦しみになるからです。また、健康であっても人の悩みは尽きません。グルメであっても、ファッションのセンスがよくても、それだけで人生を楽しめるわけではありません。

河盛さんは人生の最後に、こんなことを言っています。

「救急車で運ばれ、それ以来ずっと療養しているのですが、左手と左足が麻痺まひして動かなくなってしまい、不自由しております。それでも幸いなことに、右手は動きますので、書くには不自由はありません。まだ恵まれております」

「私の今の最大の望みは、フランス語をもっと上手になりたいということです。私はフランス語を読み、翻訳することが仕事でしたが、フランス語にみがきをかけて、もっと自由に書けるようになりたいのです。日本の作家のものをフランス語に訳して、フランスの人たちにもっと知ってもらいたいというのが私の願いです」

「時々、車イスを押してもらって、近所を散歩するのも楽しみです。書きものをする時に、この書斎から見える風情をながめるのも好きです。マロニエがよく見えますが、気分がいいですね。何といってもマロニエはパリの街路樹がいろじゅですから、私の思い入れも深いのです」

右手が動くことに感謝し、勉学への希望を捨てず、ささやかな風情に感動する、この教養と品格が河盛さんの才能となって輝いたのです。そして、その才能が人生を最後まで支え、人生をまっとうさせたのです。何が幸福であるかを考える時、とても参考になります。ヒントにもなります。感謝と希望と感動と、これが人生を楽しむ才能なのです。

法の鉤と法の縄

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令和2年5月9日

 

私たちは自分の意志によって生きているように思いますが、自分の意志とは異なる別の力によって生きているように思うこともあります。また、努力はもちろん大切ですが、努力だけで何ごともなし得るわけではありません。〈運〉もあれば〈運命〉もあるのです。また、そこには〈えん〉という不思議な力がはたらくことも事実です。

お大師さまは三十一歳のおり、留学僧として肥前田浦ひぜんたうら(現在の長崎県平戸市田の浦)より出航した四隻よんせき遣唐使船けんとうしせんの内、第一船にて唐に向いました。また、第二船には天台宗祖師の最澄さま(伝教大師)が乗船していました。当時は羅針盤などなく、無事に到着することすらわからない、まさに命がけの渡航でした。渡航中は暴風雨に遭遇そうぐうし、三十四日間の漂流の後、現在の福建省赤岸鎮せきがんちんに漂着しました。出航した四隻の内、唐にたどり着いたのはお大師さまの第一船と、最澄さまの第二船だけで、ほかの二隻はついに消息を絶ちました。これを単なる偶然とするには、いささか思慮が浅いように私は思います。運命はまさに、歴史の偉人として二人の留学僧を選んだのです。

また、赤岸鎮から唐の都・長安ちょうあん(現在の西安)までの道のりも難行を極めました。ほぼ、日本列島を縦断するほどの距離です。そして、お大師さまは無事に長安に到着し、やがて生涯の師となる青龍寺しょうりゅうじ恵果かいか和尚に出会いました。恵果和尚は三千人ものお弟子の中でただ一人、お大師さまを正嫡しょうちゃく(正当な後継者)として選び、真言密教のすべてを授けました。そして、お大師さまとの出会いを待っていたかのごとく、やがて息を引き取りました。

唐は詩文も書道も盛んな文化国ですが、恵果和尚の碑文ひぶんは正嫡であるお大師さまが揮毫きごうしたのでした。その文章は『性霊集せいれいしゅう』(詩文集)に残されています。

「故郷をかえりみれば東の海のはるか東、たどり着いた道を思えばなんが中の難で、命すらあやういものであった。航路は大波が満々と続き、陸路は雲も山も数え切れぬほどであった。そして、この広い大唐で師に出会い、密教の法を継ぐことができたことは私の力でなしたことではない。また、日本に無事に帰れることも私の意志の及ぶところではない。師は私を法のかぎをもって引き寄せ、私を帰すのも法のなわをもって日本に引いてくださるのである。この不思議な縁を、何と感謝すべきであろうか」

私は運と運命について、また縁という不思議な力について考える時、いつもこの「法の鉤と法の縄」という言葉を思い出すのです。この運とこの運命が日本の歴史を変えたのです。そしてこの縁が日本の仏教を変えたのです。

加持祈祷の極意

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真言密教

令和2年5月7日

 

人は病気になるから健康を守れる、とお話をしました。このような逆発想をしていきますと、人生の多くのことがわかってきます。

たとえば、私たちは不幸と思うことがあるから幸福を願えるのです。幸福とは何かというなら、それは幸福を願わずにいられることです。また、失敗をするから謙虚になれるのです。うまくいっている時は、反省することも危険だと思うこともありません。また、くやしい思いをするから向上心がくのです。しかられたり、はじをかいたりしなければ、さらに努力しようとも思いません。だから、それを意識するしないにかかわらず、望む望まないにかかわらず、私たちは大きな〝ご加護〟の中で生きているのです。これが生命という尊いはたらきです。

ところで、私は毎日お護摩を修していますが、病気平癒びょうきへいゆのご祈願が必ず寄せられます。特に重症の方は、写真をおあずかりして護符に封じてもいます。その時、どういう気持でご祈願をしているかというと、生命の尊いはたらきを信じるという一点に尽きるのです。病気は医師が治すわけではありません。ましてや、私が治せるはずもありません。回復を助けるためのサポートはしますが、病気を治すのは病気そのものなのです。生命の尊いはたらき、つまり本人の自然治癒力しぜんちゆりょくなのです。

真言密教には〈病者加持法びょうじゃかじほう〉という、いわゆる病気平癒の祈願法があります。その極意は、お大師さまのご加護と本人の自然治癒力を信じることなのです。念力や超能力で病根を断つのではありません。病根は健康を守ろうとする尊いはたらきなのです。これを断っては治るものも治りません。私には念力も超能力もありませんので、ひたすらその尊いはたらきをお大師さまにお願いしています。その無心な気持ちがなければ病気平癒のご祈願などできません。そして、私が無心になればなるほど霊験が顕現けんげんします。

このことは病気のご祈願にかかわらず、あらゆる加持祈祷かじきとうの極意でもあるのです。念力や超能力は極度の集中力を要しますので、かなりの疲労を覚えるはずです。私の加持祈祷はお大師さまにお願いし、お大師さまのお力をいただくのですから、自分もまた元気になります。とてもありがたいことで、ご祈願が楽しくなります。

そして、人の体こそは宇宙の縮図、仏さまのうつわであることをますます確信しています。頭が丸いのは天空に等しく、足を組んで坐禅をすれば大地に等しいのです。自然界のあらゆる姿が、人の体にあるのです。私たちは信じる信じないにかかわらず、大きなご加護の中で生きているのです。生かされているのです。

病気になるから健康を守れる

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健康

令和2年5月6日

 

私は健康法についてはかなり勉強し、各地の道場に入門したり、いろいろなセミナーも受講しました。また整体やカイロプラクティックの免状も習得しました。

だからといって、健康診断の結果にいちいち一喜一憂いっきいちゆうしているわけではありません。なぜなら、健康の定義も人それぞれという事実を知っているからです。人は健康や健康法について、知れば知るほど神経質にも不安にもなるのです。もしかしたら、自分は間違っているのではないか、こちらの方が正しいのではないかと思うものなのです。

十人の医師や管理栄養士の本を読めば、十人の主張があります。そして、結局はあれもダメ、これもダメとなって、何が何だか分からなくなるはずです。なぜなら、正しい健康法は人によってそれぞれに異なるからです。糖質制限もジョギングも、万人に合うはずがありません。一つの食材やサプリメントで、万人が健康になるはずがありません。自分の健康法は、自分の体が一番よく知っているのです。自分にはこれが合うという方法を見つけ出す以外にはないのです。

私はなるべくテレビをないようにしています。必要もない番組に時間を費やすことなど、もったいないからです。ところが、まれにスイッチを入れると、画面はたいていグルメ番組か健康番組です。タレントさんの「うーん、おいしい!」を聴きながら、国民は何を思っているのでしょうか。また、どういう症状が現れればどんな病気だとか、検査の数値がいくつを超えると異常だとか、体脂肪を減らすには何を食べろとか、まるで知らなければ罪であるかのように強迫して来ます。

疲れやすくなったと思えば、誰でも気にはなるものです。そこで病院に行けば血圧を測り、血液検査を受けることとなります。その結果は高血圧と申告され、肝臓機能が悪いと診断されます。GОTやGPTが何を意味するのかもわからないのに、その数値に翻弄ほんろうされるのです。現代人は〈正常値〉を通じてしか、自分の健康を考えられなくなりました。

そもそも体に異常が生じるのは、その人の体に必要があるからです。異常が見つかるのも自然なことなのです。高齢になれば血管も硬くなります。肝臓も疲れます。数値だけを切り取って、すべて悪いことと決めつけるのもいかがなものでしょうか。人は病気になるから健康を守れるのです。体が何も教えてくれなければ、人生をまっとうすることなどできません。

もちろん、医師の忠告は聞きましょう。できることは実行しましょう。でも、病気になるのも生命の尊いはたらきなのです。もっと、自分の体を信じることです。もう一度お話をしますが、人は病気になるから健康を守れるのです。病気になりながら、一生懸命に自分の体を守っているのです。そうでしょう。

めったにないもの

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社会

令和2年5月5日

 

枕草子まくらのそうし』第七十二段に「ありがたきもの」、つまり「ることがかたいもの」「めったにないもの」として次のような例がげられています。

まず、「しゅうとにほめられる婿むこしゅうとめにほめられるよめ、毛のよくぬける銀の毛抜けぬき、主人の悪口を言わぬ使用人」と。舅と婿、姑と嫁の関係は、平安時代から変らないということです。舅は娘かわいさに、お婿さんに多くのことを求めます。また姑は、まるで息子がお嫁さんにうばわれたような感覚におちいるのは、今も昔も同じなのでしょう。最近では同じ家に同居しながら、姑と嫁がまったく口もきかないという例を耳にします。銀の毛抜きは当時の女性がまゆをぬいて、眉墨まゆずみで描くための必需品でした。優品は少なかったのでしょう。そして、使用人は影で主人の悪口を言いながら、人使いの荒さに耐えていたのです。ほどほどの悪口なら、許してあげましょう。

次に、「欠点のない人、評判がよくても世間から少しの非難も受けない人」と。この時代にインターネットがあれば、まず話題に欠くことはありません。ことにし暑い京都で束帯そくたい十二単衣じゅうにひとえなどを着用していたら、ねたみ心の一つも発散しなければやり切れなかったのでしょう。凡人の悲しさというものです。

次に、「同じ職場で礼儀を守っていても、最後まで本音を出さないこと」と。人の本音は必ずどこかに現れます。居酒屋で語ったほんの一言ひとことは、回り巡っていつかは相手に伝わるものです。「かべに耳あり、障子しょうじに目あり」なのです。そして「口は災いのもと」なのです。

次に、「本を写すのに、原本を墨でよごさぬこと」と。この時代にコピーがあれば、こんな気づかいは無用でした。私も白衣や法衣によく墨をつけるので、この気持がよくわかります。

最後に、「男女の間でも、女どうしでも、最後まで仲が良いこと」と。特に、女性どうしの仲のよさには用心せねばなりません。親しい仲と思って気を許すと、とんでもない間違いをしてしまいます。いつも連れ立っているから、よほど仲がよいなどとは決して思わぬことです。このことでは、私も何度も失敗をしました。

清少納言せいしょうなごんという彼方かなたの女性と、もしも茶飲み話でもしたならば、腹の底まで見透みすかされるに違いありません。人間に対しても自然対してもするどく、味わい深い観察眼には驚くばかりです。このような才女とは、本の中でさえつき合っていれば、互いに飽きることもありません。私の大切なガールフレンド(!)です。

四種類の人間 

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人間

令和2年5月2日

 

二十代の始め頃、ある先輩から世の中には四種類の人間がいると教えられました。長く記憶から遠のいていましたが、急に思い出したのも何かの縁なのでしょう。

その四種類の人間とは、「金持ちの金持ち」「金持ちの貧乏人」「貧乏人の金持ち」「貧乏人の貧乏人」とのことでした。そして、その先輩の説明によると、この四種類の人間とは次のような意味でした。

まず「金持ちの金持ち」とは、お金にも恵まれ、加えて徳をそなえた理想的な人です。こういう人は世の中が求めるものを提供し、世の中に尽くすことを喜べる人です。だから、お金にも恵まれますが、多くの人々から感謝され、尊敬されています。自分の財産を世の中のために進んで投げ出しますから、世の中から喜ばれる分、その財産がまたもどって来ます。つまり、望まずとも財産がますます増えていく人です。

次の「金持ちの貧乏人」とは、まずお金のことしか頭にない人です。いかにしたらもうかるか、それだけを考えて生きています。だから、人がそんをすれば自分がかると、そういう発想しかできません。きらわれようがうらまれようが、そんなことは気にしません。心を許せる友人もいませんし、世の中から喜ばれることもありません。一時的に大金を手にすることはあっても、いずれは必ず一文無しになる人です。

次の「貧乏人の金持ち」とは、たぶん世の中の大半の人が自分のことだと思う種類のはずです。つまり、お金はないけれども体は健康だし、まじめに働いているし、家庭もまずまずだし、平凡ではあっても幸せな人生だと思っている人です。友人もいるし、趣味もあって、楽しい時間も過ごしています。そして、できれば何か世の中の役に立つことをしたいと願ってもいます。つまり、心の豊かさを財産とする人です。

最後の「貧乏人の貧乏人」とは、文字どおりお金もなく、心も貧しい人です。借金も多く、家賃も滞納たいのうし、いつも催促さいそくや取り立てばかり受けています。それでいて平気で人をだまし、うそをつき、時にはおどし、詐欺さぎもはたらきます。警察のやっかいになったことも、二度三度ではありません。誰も信用しませんが、誰からも信用されません。つまり、世の中から必要とされない、もっとも不幸な人です。

なかなか説得力のある説として、当時の私にはかなりのインパクトがありました。その後の人生の中で、何度も「なるほど」と納得したものでした。皆様はどう思いますか。どの種類に入りますか。きっと「〇〇〇〇〇〇〇」でしょうね。

日本人の弱点

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社会

令和2年5月1日

 

日本人に弱点があるなら、それは何かと問われた場合、私は「ずかしがることでしょう」とお答えしています。

日本人は勤勉であり、清潔であり、思いやりを持った国民です。しかし自分を表現することとなると、残念ながらがいして積極的ではありません。それは、恥ずかしがる気持ちが根底にあるからです。そのことは外国人と比べれば、すぐにわかります。ご存知のように、多くの外国人は強烈に自分をアピールし、「イエス」か「ノー」もはっきりさせます。欧米はもちろん、アジア諸国の方々でさえ同じです。お隣りなのに、中国や韓国と方々ともかなりの差があります。

もちろん、恥ずかしがることにも美徳があると私は思います。謙遜けんそんで出しゃばらず、失敗をはじとすることによって、平穏な社会を保つことができるはずです。曖昧あいまいではあっても、その繊細せんさいな配慮が人間関係を円満に処理しているともいえましょう。これは日本人の文化であり、国民的な伝統として賞賛しょうさんすべき一面はあります。

しかし、恥ずかしがることがまったく意味をなさず、無能な人間とまで見なされる可能性も多分にあります。現代社会は自分でアピールをしなければ、何も進みません。他人から聞かれるまで黙っているようでは、認めてもらえません。政治でもビジネスでも、交渉力や説得力の強さが求められるのは当然です。日本人はこのことを、しっかりと自覚する必要があります。そして子供の時から、自分の意見をアピールする教育をすべきです。ただ「おもしろかった」「楽しかった」だけではなく、何が、どのように、どうしてかを主張する訓練をすべきです。

いつも思うのですが、テレビで外国の政治家がスピーチをしている姿を、そのまま映画の一場面として想像しても、何ら遜色そんしょくはありません。俳優さんにも女優さんにも見えてくるはずです。では、日本の政治家はどうなのでしょう。もちろん、上手な方もいます。しかし、いまだに下を向いて原稿の棒読みしている方も多いはずです。そして、どうしても言葉の間に、「あのー」「あのー」と連発します。これは日本語の構造上、何か原因があるのでしょうか。

真言密教の曼荼羅まんだらにはたくさんの諸仏しょぶつが描かれています。そして、それぞれに個性が豊かで表現力に満ちています。如来にょらいさまも、菩薩ぼさつさまも、明王みょうおうさまも、そして天部てんぶの神さまも、いろいろな持ち物で誓願せいがんを示し、光かがやき、微笑ほほえみ、歌い、踊り、音をかなでています。私たちに「このように生きなさい」と教えているからです。

阿闍梨の十三徳

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密教

令和2年4月29日

 

真言密教では「阿闍梨あじゃり十三徳じゅうさんとく」と呼ばれる徳目があります。阿闍梨とは、法を伝授する資格のある高僧をいいますが、私はその徳目がとても気になっています。まずはその十三徳を、やさしい言葉で列記してみましょう。

①菩提心がある。(菩提心とは悟りを求める心です。基本的な徳目として当然のことです) ②智慧ちえと慈悲がある。(慈悲の心が必要なのは当然ですが、慈悲には智慧の裏づけなくてはなりません) ③衆芸しゅげいに通じている。(教えを弘めるには、いろいろな手立てが必要です。そのための技術がなくてはなりません) ④瞑想によ真理を体得している。(本当の真理は頭脳思考からではなく、瞑想の体験から生まれるからです) ⑤密教以外の諸教にも精通している。(自宗の教義ばかりでなく、他宗にも明るくなくてはなりません) ⑥真言の奥義を理解している。(真言の深い意味に通じているということです) ⑦信徒の気持に寄り添うことができる。(高い所から接するのではなく、同じ視点に立つ必要があります) ⑧仏さまの救いを心から信じている。(教義だけではなく、体験的な信念が必要です) ⑨曼荼羅まんだらを描いて灌頂かんじょうを修すことができる。(画才がなくてはならないということです。灌頂とは聖水をそそいで、仏さまとの縁を結ぶことです) ⑩面相めんそうが柔和である。(仏さまのように、やさしい容貌ようぼうでなくてはならないということです) ⑪決断力がある。(小さなことに迷わず、腹がすわっているいるということです) ⑫仏さまと一体であるという信念がある。(信仰からき出た、深い決意のことです) ⑬仏道のために身命しんみょうしまない。(教えのためには、勇猛に進むことができるということです)

私が特に気になっているのは、③の「衆芸に通じ」、⑨の「曼荼羅を描いて」、⑩の「面相が柔和」いった徳目です。

いったい衆芸とは何でしょう。もちろん、ゴルフやマージャンに強いという意味ではありません(笑)。真言密教には神秘的な儀礼がたくさんあります。その作法や意味を習得せねばなりませんし、絵画や音楽も学ばねばなりません。また、諸事に技術的な器用さが求められます。これが衆芸でしょう。曼荼羅を描くには画才も必要です。日常の言葉ではなく、異次元世界の形や色、音や旋律の中に入るのですから、阿闍梨になるのは大変です。

⑩の面相についても、特記したいと思います。僧侶の法器ほうきはその顔に現れるからです。仏さまにしっかりと使えていれば、仏さまのような顔になるからです。見た目が大事といいますが、本当ですよ。

男子厨房に入るべし

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家庭

令和2年4月28日

 

若い男性が結婚を望んでいる場合、私は「料理の上手な女性を選ぶことです」とお話をしています。その前提として、食べ物の好みが合うという条件も必要でしょうが、一生向い合って食事をするのです。料理の下手な女性(失礼!)と結婚したら、もはや生涯の不覚とあきらめねばなりません。そして料理の上手な女性なら、家事も子育ても上手であることは間違いありません。このことは、私が保証いたします。

また、もう少し年長の男性には、スポーツやカラオケもいいけれども、「料理を習うことです」とお話をしています。中年の方や定年以後の方であっても、それは同じです。その理由は、いわゆる〈老老介護ろうろうかいご〉がますます増加するからです。つまり、65歳以上の夫婦がいずれかを介護する場合、65歳以上の子供が親を介護する場合、介護する側が男性であった場合に食事の問題が必ず出ます。その食事をいったい、誰が作るのでしょうか。

毎日、コンビニの弁当というわけにもいきません。宅配の低カロリー惣菜そうざいでも飽きるでしょう。その時、目玉焼きひとつ作れないようでは困るのです。ところが驚くなかれ、世の男性にはリンゴの皮をむいたこともなければ、インスタントラーメンすら作ったことがないという奇妙な人種(!)がいます。妻が夫を介護する場合や、娘が親を介護する場合はまだよいのです。食事のすべてを妻に任せてきた夫には、この自覚がありません。

簡単な料理なら、ネットを開けばいくらでも出ています。書籍もたくさんあります。まず、ご飯の炊き方と味噌汁の作り方から始めて、ゆで方や焼き方も覚えましょう。介護にはおかゆの作り方も大切です。興味があるなら、料理教室へ通うのもよいでしょう。時代はまさに、「男子厨房ちゅうぼうに入るべし」と緊急事態宣言を発しているのです。

私はいま、外食はほとんどせず、料理はすべて自分で作っています。これが実におもしろく、また脳トレにもなるのですから、一石二鳥、いや一石三鳥です。買い物をしながら、本日の食材選定、作り方の手順、余った場合の保存、明日の料理との関連、調味料の在庫、食器やお酒との相性、食事中に聴く音楽など、脳は一気にフル回転です。

毎日、読経や真言を唱えて声を出し、印を結んで指先を刺激し、諸仏を観じて瞑想めいそうを楽しみ、こういて心をいやし、花をしてこれをで、読書も怠らず、原稿を推敲すいこうし、加えて料理を作っているのですから、ボケるひまなどありません。いかが?

永遠の中の独り

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人間

令和2年4月27日

 

時おり、同姓同名という人に出会います。直接に自分のことではなくても、「私の知人にも、同じ名前の方がいますよ」などと会話のネタになったりします。そこで、同姓同名の人はもしや同じような運命をたどるかというと、もちろんそんなことはありせん。生まれた家も両親も、先祖も違うのですから当然のことです。人がどんな運命をたどるかについて考える場合、どんな両親であるか、どんな祖父母や祖々父母であったかは重要なことです。私はこれを「タテの線」と呼んでいます。

それから、同じ生年月日という方々がいます。こちらはいくらか似たよう傾向はありますが、もちろん別々の運命をたどります。少し専門的なことですが、たとえば午前6時という時間を考えた場合、これはあくまで兵庫県明石市(東経135度の天文気象台)での時間です。地球は1時間で15度を回ります。つまり一度で4分かかりますので、これを時差で計算すると、根室は6時42分、東京は6時19分、大阪は6時2分、那覇は5時31分となり、北海道と沖縄では70分もの差があります。つまり同じ生年月日で、仮に同じ生れ時間でも、その時間は異なるということになるのです。この生まれた年月日時を、私は「ヨコの線」と呼んでいます。(厳密にはさらに季節による日の出と日没の差にも配慮しますが、ここでは触れません)

このタテとヨコの線が交差した点(まさに「点と線」)が、私たちの生まれた場所であり時間であり、私たちの先天運せんてんうん(先天的に持って生まれた運命)を大きく左右します。もちろん後天運こうてんうん(生き方によって変わる運命)も大切です。運命が後天的に変えられないとするなら、私たちは生まれてきた意味がありません。よく四柱推命しちゅうすいめいの研究者などで、先天運ばかりに専念する方がいますが、熟慮じゅくりょする必要があります。

当然のことですが、このタテとヨコの線がまったく同じという人は、この世には絶対にいません。同姓同名であってもタテの線が異なります。生まれた年月日時が同じでも、ヨコの線が異なります。そして、今年の今月の今日という日のこの時間もまた、二度と再び訪れることはありません。つまり、この永遠の時空の中で、自分という人間は二人としてと生まれることはなく、まさにただひとり、ここに存在しているということなのです。これは天にも地にも、驚くべき事実です。

唯我独尊ゆいがどくそん」というと自分勝手な人と解釈されますが、とんでもない間違いです。お釈迦しゃかさまがそんなことをおっしゃるはずがありません。悠久ゆうきゅうの流れの中で、「ただ、われひとりというとうとさ」と覚えましょう。自分という独りの人間は、それほどに尊いのです。私も、そして皆様も。

山路天酬密教私塾

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