山路天酬法話ブログ
音読のすすめ
令和2年3月3日
齋藤孝著の『声に出して読みたい日本語』(①~⑤草思社刊)は私の愛読書です。愛読書といっても、本書は音読して暗誦するためのテキストであり、私もまた〝声に出して〟これを読んでいます。
今や暗誦文化は絶滅の危機にありますが、あえて一石を投じた本書は称賛に価すると思います(写真)。

昔の寺子屋では、子供たちが『論語』や漢詩や和歌を大きな声で音読し、暗誦しました。それは生涯忘れることのない言葉の財産となりました。昔の人が辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、ひとえにこの暗誦文化のおかげなのです。
以前、ある大学の国語入試試験に川端康成著『伊豆の踊子』の冒頭が出題されました。〈つづら折り〉〈雨脚〉〈朴歯の高下駄〉といった言葉を、例語の中から選びなさいというものでした。それを受験した高校生が私のところに来て、「あんなのわからない」というのです。私はこの冒頭を高校生の時に暗誦していましたから、その場で声に出して聞かせました。その高校生はキョトンとしていましたが、私が特に頭がよいわけでも記憶力がすぐれているわけでもないのです。ただ、音読をくり返して暗誦していたに過ぎません。
声に出して音読をすることは、耳を通じて脳を刺激し、情緒を高揚させ、記憶力を高めます。なぜなら言葉は〈言霊〉であり、魂が宿るからです。そして言霊は〈事霊〉であり、現実をも動かす力があるのです。そして何より、日本は「言霊の幸はふ国」(『万葉集』巻五)でもあるのです。
お大師さまは「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く」(『般若心経秘鍵』第五)とおっしゃいました。真言の意味を学問的に知らずとも、心を集中してお唱えすることにより、その功徳が生まれます。『般若心経』をお唱えする人はその意味を知らずとも、その言霊によって現実を動かし、願いごとが叶い、経典の真意を〝知る〟ことができるのです。
経典ばかりではありません。名文や詩歌は声に出して音読し、暗誦することが肝要です。格別な才能などいりません。くり返し声に出す、これだけなのです。
続・祈願は叶うのです
令和2年3月1日
何度もお話しますが、願いごとが叶うとは、瞬時にして難病が治ることではありません。また、一夜にして億万長者になることでもありません。
しかし私が「必ず叶います」という意味は、身辺をよく観察すれば、何かが起こっているということなのです。何かの変化が起こっているということなのです。それも間接的に訪れることが多いはずです。それに気づくことです。奇跡ばかりを望んでいては、決して〝奇跡〟は訪れません。
朝の目覚めの時、まったく忘れていた人のことを思い出したなら、電話やメールをするか手紙を出してみてください。その日、最初に会う人に注目してください。そして、何かをお話してみてください。たまには、いつもと違うテレビやラジオ番組を視聴してみてください。ウォーキングやジョギングをするなら、異なるコースを選んでみてください。時には、書店に入ってみてください。電車やバスの車内広告をみてください。友人や知人との会話に耳を傾けてみてください。ヒントやアドバイスは、こうしたところからやって来るのです。そして、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえて来るのです。
病気のことなら、名医や治療法が見つかるかも知れません。商売のことなら、思わぬ活路を見い出すかも知れません。また意外な人脈や方法が、皆様の願いを叶えるかも知れません。つまり祈願の結果は誰かを通じて、また何かを通じて、いつの間にかやって来るということなのです。このことを常に念頭に入れておくことです。
もちろん、私自身も同じことを心がけています。だから、いつもワクワクしながらお大師さまからのご返事を待っています。皆様、アンテナを張ることを忘れてはなりません。
祈願は叶うのです
令和2年3月1日
毎日、皆様から護摩木(添え護摩)をおあずかりして、お護摩の祈願を続けています。直接お参りして護摩木を書いていく方もおりますが、遠方の方は郵便やFАXでお送りくださいます。
今日は遠方の方の申し込みが多く、お二人の方にお手伝いをいただきました。
ところで、「祈願は本当に叶うのですか」という、素朴な疑問を投げかける方もいらっしゃいます。そんな時、私はたいてい、「必ず叶います。ただし願ったとおりではなかった場合は、それがお大師さまからのご返事です」とお答えしています。そのことについて、お話をいたしましょう。
真言密教は〈即身成仏〉の教えです。すなわち、「この身に即して仏の無限の功徳をいただく」という意味です。この〝即して〟が大切なところで、私たちのこの肉体にこそ仏は宿り、仏の功徳が満ちるということなのです。それは、肉体こそは宇宙の縮図、自然界そのものだということで、これについては以前にもお話をしました。
だから、正しい心で真剣に祈願をすれば、必ず叶います。ただし、願ったとおりではなかった場合、あるいは何の結果もなかったように見える場合もあります。皆様が十分に徳を積んで努力をなし、仏がお喜びになれば、願ったとおりに叶うのです。ところがそれに反する場合、ここにはいくつかの理由があります。一つには間違った願いであった場合、二つには不相応な願いであった場合、三つにはその願いが時期尚早であった場合、四つには願いが叶うと不幸な結果を呼ぶ場合、五つには結果をいただきながら何も気づかないでいる場合、などでしょう。謙虚に反省するなら、これらのことは思い当たるはずです。また、結果は思わぬ形で訪れることにも注意することです。何の結果もないということは絶対にありません。
祈願が叶うとは、空から一万円札が落ちて来ることではないのです。子供が親から小遣いをもらうことでもないのです。宝くじで一億円を手にすれば、かえって不幸になるかも知れません。名誉が欲しいからといって、本当に務まるでしょうか。徳も能力もあれば、因果にしたがって叶うのです。しかし、その因果を超えて仏の教育があり、励ましがあり、時にはお叱りがあるのです。これが即身成仏であり、お大師さまからのご返事なのです。皆様、功徳は必ず平等にいただいていることを忘れてはなりません。
新型コロナウィルス
令和2年2月28日
猛威を振るっている新型コロナウィルスを九星気学でみると、どのような解釈になるでしょうか。
令和二年は七赤金星の年で、東に五黄土星(五黄殺)が入りますから、西が暗剣殺となります。また五黄土星はウィルスの象意でもあり、しかも姫金神と歳刑神という凶神がついています。今年は当然、二月四日の立春より始まりますので、二月の月盤をみますと五黄土星は西南に入って月破(凶神)がついています。また三月に入ると年盤と同じく東に五黄土星が入り、しかも西には暗剣殺と月破が共にがつきます。
暗剣殺はつまり「暗闇の剣」という意味です。また新型コロナウィルスが発生したされる中国の武漢からみて、日本は東の五黄殺に位置し、凶神までついています。そして、西の武漢はさっそく暗剣殺の危難にさらされました。ここから何がわかるでしょうか。
二月に入って年盤の影響が始まると、武漢から東に位置する日本は五黄土星(ウィルス)の被害を受け始まりました。しかも二月月盤での五黄土星に月破がつき、急速な勢いで国内に感染しました。しかも月末にかけて勢いが増したのは、三月月盤が年盤と同じで東の日本が五黄殺、西の武漢が暗剣殺、加えて月破までが共につくからです。したがって、この猛威は三月中は続くはずです。
四月に入ると五黄土星にも、西の武漢にも東の日本にも凶神がつきません。しかも東には四緑木星が入り、〈整う〉の象意があります。四月に入れば、この猛威も落ち着いて来るはずです。
今年の一月に簡単な社会的予測をブログに書きました。その時、何か中国から圧力がかかるだろうほどには考えていました。しかし、ここまで世界的危難にさらされるとは思いませんでした。でも予測したところで、この猛威は防ぎようがありません。毎日のお護摩で、一日も早い終息を祈っています。
思い出の料理人
令和2年2月27日
越後の良寛さまは、嫌いなものが三つあるとして、「歌よみの歌、料理人の料理、書家の書」をあげています。これは要するに、技術ばかりが目立ったプロのものより、素人が持つ素朴な境地のすばらしさを讃えたもので、独特の人生観を述べたものです。もちろん、プロの技術をまったく否定しているとも思えません。
たしかに、良寛さまの歌や書は、歌人や書家ものとは違った格別な味があります。特に書は、本場の中国書道史には類例のない素人くさいものです。しかし、書家にはないその味わいは、日本書道史に異彩を放っています。私も長岡市島崎の木村邸(良寛さま終焉の地)でその真筆に触れ、打ち震えるような感動を覚えた経験があります。
このような思案や経験を重ねたせいなのか、私は家庭的な料理が好きで、今ではほとんど外食すらしません。自分が作ったもので、まずまず満足しています。
しかし、そんな私にも忘れられない料理人がおり、思い出してはその味を追想しています。その料理人とは京都大徳寺門前の紫野和久傳にいた中村茂雄氏のことで、まだ若い方ではありましたが、彼の典座料理(精進料理)は廉価でありながらまさに絶品でした。自ら山野を歩いては食材を求め、その盛りつけも簡素を極めました。京都の懐石料理は花や紅葉を添え、美しく飾ります。しかし、中村氏は厳選した食器にだだ料理そのものを盛るばかりで、つまり野球にたとえるなら常に直球勝負でした。京都の水と昆布との相性の良さも、私は中村氏の料理から知りました。
その中村氏が昨年七月、突然の病気で帰らぬ人となったことを奥様より知らされました。二年前、高台寺に自分のお店を持ち、これからという時であったことが悔やまれてなりません。寺で回向を重ね、冥福をお祈りしています。私にとって、唯一の「思い出の料理人」でした。
愛欲という煩悩
令和2年2月25日
今日は真言宗僧侶お二人の方が見え、〈愛染明王法〉という行法の伝授をしました。愛染明王は不動明王(お不動さま)とならんで、真言密教を代表する明王(仏が煩悩を怒る姿)です。すなわち、人がもつ煩悩の一つである愛欲をも、そのまま悟りへと導く誓願をもった仏さまが愛染明王なのです。
当然ながら、人には煩悩があり、その煩悩を絶つことはできません。特に男女の愛欲に関しては、今さら私がお話するまでもなく、きわめてやっかいな煩悩といえましょう。財欲や名誉欲と共に、生きているかぎり消え失せぬ煩悩が愛欲なのです。
しかし、お話を日常的な次元で述べるなら、男性なら女性にモテたい、女性なら男性にモテたいという欲望なくして、人は何の努力もしません。その結果、進歩もありません。たとえば、高齢になっても元気で生き生きとしている方は、常に異性を意識しています。そして、何らかの〝努力〟をしているはずです。明るい配色の洋服を着こなし、若いトレーナーを選んでスポーツクラブに通い、おっかけをしてステージを巡り、カルチャーセンターで知性を磨き、旅行を楽しんで景観にふれ、ウォーキングやカラオケを日課のようにしています。そして、食事や睡眠に配慮して健康を維持し、男女を問わず明るく美しく、生きることの意味を考えています。これらは、まったく愛欲という煩悩なくして果たせるはずがないのです。
煩悩はその使い方で、善にも悪にもなるのです。真言密教の教えを申し上げるなら、煩悩に使われれば煩悩のままですが、上手に使えば悟りになるのです。煩悩に使われれば凡夫でも、上手に使えば仏なのです。だから「煩悩即菩提」というのです。煩悩なくして人生はありません。生きがいもありません。やっかいな愛欲も、その煩悩なのです。
愛染明王のお話のはずが、とんでもなく脱線してしまいした。でも、「そのとおり!」と思いませんか。そうでしょう。
ホ・ジュンの名言
令和2年2月23日
韓国歴史ドラマの名作に『ホ・ジュン(宮廷医官への道)』があり、大変に感動しつつ視聴した記憶があります。
彼は妾の子という不遇の身分でこの世に生まれ、あらゆる災難や辛苦、差別や偏見を受けながら、ついに朝鮮第一の名医となりました。そして、晩年には朝鮮初の漢方医書『東医宝鑑』を完成させました。この『東医宝鑑』は、今では世界遺産としても知られています。
私はこの『東医宝鑑』をいつかは読んでみようと思いつつも、かなり高価でもあり、いまだに果たせないでいるのが残念です。ただ、このドラマの中でホ・ジュンが語る名言があり、私は夢中でメモをとりました。たぶん、この『東医宝鑑』の文中に記載されているのでしょう。
最近、何年も前のそのメモが見つかりましたので、皆様にご紹介しましょう。
「人の頭が丸いのは天に似て、足が四角いのは地に似る。天に四季があるように、人には四股(両手足)がある。天に五行(木・火・土・金・水)があるように、人には五臓(心・肝・脾・肺・腎)がある。天に六極(疾・憂・貧・悪・弱)があるように、人には六腑(大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱)がある」
人の足が四角いというのは、座禅のように足を組んだ時、大地のように四角い形になるという意味です。上記の表現はつまり、人の体がすなわち宇宙の縮図であるという意味で、まさに真言密教の思想と瞑想世界を表わしているといっても過言ではありません。あさか大師は360度視界が開けますので、境内の中ほどで足を組んで座ると、頭を拡大すれば天となり、足を拡大すれば大地となることがわかります。そして五臓六腑そのものも、この自然界の動きに等しいことがわかります。
私はこのメモを大事にして、後進の指導に役立てたいと考えています。さっそくパソコンに入力し、いつでもプリントができるよう準備をしました。
積ん読の効用
令和2年2月22日
読書にもいろいろなパターンがあります。〈黙読〉や〈音読〉はもちろん、何度もくり返し読む〈複読〉、よく味わって読む〈味読〉、心から感銘して読む〈心読〉などがあります。
昔の寺子屋では、子供たちがとにかく声を出して音読(素読)をくり返しました。声に出すことで、脳を刺激し、記憶しやすいからです。大人になって辞書もパソコンもなく文章を書き得たのは、記憶した語彙が豊富であったからです。声に出して読むということは、記憶力を大きく高めることに間違いはありません。
こうして考えると、僧侶が長い経典を毎日くり返し読誦し、いつの間にか暗誦してしまうのも当然のことです。しかも深い腹式呼吸によって大きな声を出しつつ、仏に融合する感情移入が加わりますから、健康のためにも最適です。「声出し健康法」を代表するものでしょう。もちろん謡曲や詩吟、声楽や朗読もこれに類するものです。
さて、まじめなお話をした後で恐縮なのですが、私はいわゆる〈積ん読〉にもすばらしい効用があると思っています。買ってきた本を読みもしないで積んで置くばかりの様子を指して、皮肉に〈積ん読〉と呼びますが、実はなかなかのものです。
〈積ん読〉はほとんど本を横に積み上げ、タイトルも読みにくい状態のはずです。しかし、書棚を眺めながら「これは何の本であったか」と思って首を傾けた瞬間、そこで不思議なインスピレーションが湧くことを見のがしてはなりません。そこから忘れていた記憶や情報を思い出し、新しいアイデアが生まれるからです。
だから皆様、〈積ん読〉を決して恥じることはありません。私がこうして長く『法話ブログ』を続けられるのも、意外に〈積ん読〉の効用なのかも知れません。いや、きっとそうですよ。
蕎麦を楽しむ
令和2年2月21日
今日は寺に集まった方々と、蕎麦を食べました。
私の郷里(栃木県の農村)ではワサビがありません。そこで、きのこ汁やけんちん汁で食べたものでした。いま私たちが食べている蕎麦は、江戸時代には「蕎麦切り」と呼ばれ、異説もありますが木曽の本山宿が発祥地とされています。友人の寺が本山宿に近く、案内していただいたことがあります。つまり、それまでの蕎麦は「蕎麦がき」で食べていたのです。また、僧侶が山に入る時、蕎麦粉を持参して、それを水で溶いて常食していました。
私は子供の頃からの味なので、いつもキノコ汁で食べています。料理は職人くささがなく、素人風であることが大切です。プロの味は、時おり外食で楽しむ方がよいでしょう。今日も私が素人風に作りました。
ところで、食事は噛む音や食器の音を立てないのがマナーでありながら、蕎麦ばかりはズルズルッと音を立ててよいことになっています。皆様はこの理由がわかりますでしょうか。
実は、蕎麦の醍醐味は香りと喉ごしにあるからなのです。まず、最初はつゆを付けずにゆっくりと香りを楽しんで食べます。それから、三分の一ほどをつゆに付けて、ズルズルッと一気に喉ごしを味わいます。蕎麦はうどんほど太くはなく、中華めんのようにちぢれてもいません。だから、音を立てて素早く口に入れないと、つゆの味が台なしになるのです。また、素早く口に入れることで空気も口の中に入り、それが鼻にぬける時に蕎麦の香りが味わえるという理由もあります。
さて、今日は出来あがった蕎麦を写真に撮り、このブログを書く予定でした。ところが、何と、あまりのおいしさに、写真のことなどすっかり忘れて〝一気に〟食べてしまいました。写真のことを思い出したのは、すでに全部を平らげた後のことでした(写真)。

ご覧のとおり、もはやキノコ汁すら残っていません。この食卓のまわりに、私の蕎麦にありついた大食漢たちが笑っています。大変に、大変に失礼しました。次回は、私の蕎麦をしっかりと写真に撮りますからね。ゴメンナサイ。
花梅
令和2年2月17日
春らしくなって、梅が一気に開きました。
奈良時代の花見といえば桜ではなく、実は白梅だったのです。また平安時代には紅梅が渡来し、菅原道真公は特にこれを好みました。しかも、自分の住居を「紅梅殿」と称したほどです。天神社の境内に梅を植えるのは、この理由からです。また『枕草子』にも、「木の花は濃きも薄きも紅梅」と記載があります。
今日は花梅(ハナウメ)の小枝をいただき、さっそく床の間に挿しました。一種だけですが、ほかの花はこのさい不要でしょう。本堂に三千世界の香りが漂いました(写真)。

貝原益軒は『養生訓』の中で、人生の楽しみを次のように語っています。
「ひとり家にいて静かに日を送り、古書を読み、古人の詩歌を吟じ、香を焚き、名筆を写し、月や花を眺め、草木を愛し、四季の景色と戯れ、微酔ほどに酒を呑み、庭で育てた野菜を煮て、集まった仲間と楽しく食べれは、多いに気を養うことができる。これは貧しい人であっても出来ることであり、裕福でありながらこのような楽しみを知らない人より、はるかにすばらしいことである」(筆者訳)。
もはや、何もお話することはありません。うらやましいかぎりでありますが、私にも届かぬ楽しみではなさそうです。そして、人生の楽しみはこれに尽きるのでありましょう。皆様、いかが。
(明日から出張のため、2~3日ブログを休みます)

